第一章

月の下で止まった時間

経験したことはないけれど、
『あれ』は底なし沼に落ちたときと似ているのかもしれないと思っていた。
視界は晴れず、言葉も話せず、手を差し伸ばしても誰にも届かない。

どこかへ、どこかへ
……急がなきゃ。

私が行かないといけないのに。
皆が待っているのに。
それなのにどうしても行けないのだ。

何もできない自分の焦燥の日々。

土の匂いと草の匂い。
人の足音を遠くに聞きながら、辺りを徘徊し続けた。

人々の言葉も理解できず、私は吠えることしかできなかった。



そんな日々が幾日も続いていたが、あるときそれは突然眩しい光と共に破られた。
まばゆい光が私に降り注いで、私は人間の姿に戻ったのだ。

そして、目の前には見たことのある二人がいた。

「ローレシア王子に…サマルトリア王子……?」

「まさか犬になっていたなんて!
 生きていて何よりです。良かった!」

犬?

何が起きているのか私にはまだ理解できなかったのだが、その一言で、ぼやけていた世界が急にはっきりしてきた。
犬になっていたことを、サマルトリア王子の言葉で知った。


そして次の一言にさらなる衝撃を受けた。

「ムーンブルクが……襲撃を受けたんです。」


……え?

何を言っているの?
襲撃?

ムーンブルク…って?
私の国の名前?そうよね?



その瞬間。
頭の奥で何かが砕けた。

がんっと頭を殴られたようにショックだった。
でもそうだ、そうなのだ。

あの時、確かに私の城が、ムーンブルクが、お父さまが魔物たちに襲われて……
そして、お父さまが私を……犬に変えたのだ。

どうして私はこんな所でぼーっとしているのだ。大事なことなのに、忘れてしまっていたなんて。



「すぐにムーンブルクへ!
 父や民が助けを待っています!」



慌てて駆け出そうとする私の手を、
ずっと寡黙に見守っていたローレシア王子が捕まえた。
ぎゅっと握りしめられたその力は思いのほか強いものだった。

どうして邪魔をするのかと焦燥感でいっぱいだった私にローレシア王子は唇を噛みしめるようにして首を振った。
そしてサマルトリア王子が言いにくそうに口を開いた。

「ムーンブルクが襲われてから、もうかなりの時間が経っています。
 でも、生き残った人は……確認されていません。」

その襲撃をつい先ほどの事のように感じていたのが、実際はそこには絶望的な時が流れているようだった。

「そんな……」

私は全身の力が抜けたように、その場に座り込んだ。


そして、私はすべてを失ったのだと悟った。
立ち上がる力すらも、
もう失ってしまっていた。



+++



あれから私はしばらく宿のベッドで一人休んでいた。

落ち着いてくると、ここがムーンブルクからほど近い、懐かしいムーンペタの町であることが分かった。
それだけでも少しだけ混乱していた心を落ち着けることができた。

深い呼吸を一つするたびに、少しずつ頭が冴えてくるような気がする。


お父さま……


私を送り出してから、お父さまは一体どうなってしまったのだろう。
お父さまは世界一の魔法使いなのだ。
いかに病身で弱っていようとも、魔物に負けるはずがない。

ムーンブルクの兵たちも精鋭ぞろいだ。
城に襲い掛かってくるだなんて、飛んで火にいる夏の虫。

私などおらずとも、きっと魔物たちは今頃散り散りになって退散しているはず……。


なのだが、先ほどサマルトリア王子は何といったか。
生き残った人が確認されていない、などと。

ぽろぽろと涙が出てきた。

嘘だ嘘だ、信じられない。
あのムーンブルクが…、私の国が滅びたなんて。

【挿絵を見る】


ぐっと右手を握りしめる。
指先から淡い光が滲み、部屋の壁を赤く照らした。
魔法の力だ。私には魔法力がある。

でも、こんな力があっても何の役にも立てなかった。
私のムーンブルクを救えなかったではないか。

………

いや、違う。

そうだ私にはこの力がある。
ロトの血が流れているのだ。戦う理由が私にはあるのだ。


昔ご先祖様が魔王を倒した時のように、
今こそ私は立ち上がらなければならない。
ロトの血を引く私が、ここで膝をついてはいけない。

ムーンブルクの仇を討つのだ。
お父さまや、皆の仇を討たねば。

そう思うと、起き上がる力も失っていた私に力が湧いてきた。
きっと、お父さまやムーンブルクの民たちが今私を支えてくださっているのだ。

もう涙は止まっていた。
悲しみの代わりの何か強い感情が体の隅々にまで染み渡っていく気がした。
悲しんでいる場合ではない。

指先まで力が漲った。
気づけば、握りしめた拳に爪が食い込んでいた。
痛みすら、今はどうでもよかった。


ベッドから立ち上がると、ちょうどローレシア王子たちが様子を見に戻ってきた。
二人は心配そうに私の様子を伺おうとしている。
私は彼らに笑顔を浮かべて見せた。

「ありがとう。大分体の感覚が戻りました」
「良かった……。
 一晩休んだら、うちに帰りましょう。ローレシアもサマルトリアも全力で君を守りますからね。」

……?
うちに帰る?

ああ、彼らの国に、という事か。
一瞬混乱したが、すぐに理解した。彼らは自国に帰るのだな。
私を人間に戻してくれたこと、感謝せねばならない。だが、私が向かうべきはそこではない。

「それには及びません。
 私はハーゴンを討つ旅に行きます」

そうだ、私はこの使命のために生きながらえたのだ。

「お二人に助けてもらったことは感謝します。
 ですが、私はただ守ってもらうために生きながらえたのではないと考えます。
 王女として、皆の仇を討たねば。」

この言葉を彼らはどう感じたのであろうか。
彼らは少し驚いた表情で顔を見合わせた。

「そうですよね……
 いくら父さんたちが守りを固めていても、
 ハーゴンにずっと怯えて暮らすなんておかしいよね……!」

そういって、サマルトリア王子が頷いた。

まあ、それはそうであろう。
実際ハーゴンを止めない限り、
同じ悲劇が繰り返される可能性があるのは間違いない。

「ぼくたちも一緒に行く。
 この世界に平和を取り戻さないと。
 皆が笑って過ごせる日々を。」

サマルトリア王子のその言葉が少しひっかかった。

そうか、一緒に……行く……。
彼らも同じ血筋のロトの子孫であったはずだ。

「ありがとう。心強いです。」

私は頷いて応じた。
剣が使える者、魔法が使える者が傍にいて一人ではないというのは、
戦力として助かるに違いない。実際旅路も戦いもきっと有利になる。

ムーンブルクの仇を討つ。お父さまの無念を晴らすのだ。
全てを失った私は、これからはこの使命に生きるのだ。

そう心に決めた私に、クッキーが少し照れたように頭をかいた。

「あ、そういえば、まだちゃんと名乗ってなかったですね」

言われてみれば、確かにそうだった。
ずっと「ローレシア王子」「サマルトリア王子」と呼び合っていただけで、
名前らしい名前を交わしていなかったことに、今更気がついた。
遠縁の王子たちなので、名前は知ってはいるのだが、改めて私たちは自己紹介をした。

「私はムーンブルクのプリンです」
「ぼくはサマルトリアのクッキー。こっちはローレシアのガレット。
 ……よろしくね、プリン王女」

ガレットは何も言わず、ただ小さく頷いた。
それが彼なりの挨拶なのだと、なんとなく分かった。

「ええ、よろしくお願いします」

きっとこれから長い旅になる。
私たちは旅の支度を整えることにした。



今夜はゆっくり宿で休んで
その後、一度ローレシアとサマルトリアに報告に行くのだ。
その前にムーンブルクの惨状を私もこの目で確認しなければならないと思った。
彼らにそう伝えると、少し心苦しそうに頷いて同行してくれることになった。

明日からの旅に向けて体を休めようと一晩このまま宿で休むことになった。


その日の夜は虫のリンリンとなく音だけが響くような静かな夜だった。
ガレットとクッキーの寝息すら聞こえない。

ふと、私は体を起こした。
ベッドを見てみると、本当に二人の姿が見えなかった。

ついさっきまでガレットが近くにいた気がしたんだけどな。


一緒に同行してくれると言ってたはずだが、
こんな時間にどこへ行ってしまったのだろうか?

宿の外へ行ってしまったのか?

私は夜のムーンペタの町で二人を探した。


町は不思議な静けさで建物の灯りが道を照らしてくれていた。
私はずっと城にいたから、町を一人で歩いたことすらなかった。
勿論こんな夜更けに出歩くなんて考えられなかった。

でも夜の町って案外明るくて、涼しい風が頬を撫でる感覚も心地よかった。


ふと空を見上げると、今日は満月のようだった。
だから、こんなに明るいのかもしれない。月の光が、石畳を昼間のように照らしている。

しばらく、その場に立ち止まって月を見上げていた。

満ちた月は、傷一つなく、綺麗だった。
あの夜も、きっとこうして綺麗だったのだろう。

城が燃えていても、民が逃げ惑っていても、私が犬になっても、お父さまが魔物にやられても……
月だけはいつも通りの顔をして、空に浮かんでいたのだろう。

そのことが、今はひどく残酷に思えた。
世界は何も変わっていないのに、私の世界だけが、あの夜で止まっている。

月を背に、戦いに戻ろうとする父の背中を見たのが、私の最後の記憶だ。



もう……あれから、ひと月近く経っているのだろう。
彼らが言ったことは、きっと本当なのだ。
襲われた人々を救うには、あまりにも絶望的な時間が流れている。


とぼとぼとあてもなく夜の町を歩く。
私だけが生き残ってしまった…。
そのどうしようもない現実と絶望を感じながら歩いていると、不意にクッキーたちの声が聞こえて私は顔をあげた。


何を話しているのだろうか?
物陰に隠れて様子を伺ってみることにした。

「……でも、彼女は違うじゃないですか。
 深い悲しみとか強い憎しみを心に秘めた旅ですよね……」

途中からで、今まで何を言われていたのか分からないが、どうやら彼らは私の事を話しているようだ。

「ぼくたちは王女様の仲間なんだって、わかってほしくて。」

仲間……?
仲間……とはなんだろうか。

「そもそもこの呼び方だと一緒に旅をする仲間って感じが出ないですよね?」

クッキーがそういうとガレットも一緒にうーんと首を傾げた。
クッキーが続けて言った

「でも、プリンちゃんとかいきなり呼んだら怒られちゃいますよね。」

「…!?」

思わず両手を口に当てて驚いてしまった。
男性にそんな呼び方をされるのは初めてだったのだ。

「さすがに、ちょっと図々しいってぼくでも思いますよ。」

クッキーはへへへっと笑いながら、ガレットも何かを言っているようだがここまで聞こえない。


「とにかく、少しでもプリン王女を笑わせてあげたいなって思っているので、
 少しでもぼくが空気読めなくて変なこと言ってたら注意してくださいね。」
「ああ。」

あ、今度はガレットの声も聞こえた。
よく喋るクッキーと比べてガレットは寡黙な人らしい。

二人はそんな意思を確認するために、こんなところに来たのだろうか。



仲間。



その言葉が、まだ耳の奥に残っていた。

彼らは、私を仲間だと思ってくれている。守るべき戦力としてではなく、笑わせてあげたい、支えてあげたい相手として。

その温度に触れた瞬間、なぜか喉の奥が詰まるような感覚があった。
嬉しい、というのとは、少し違う気がした。もっと居心地の悪い何かだった。



思い出したのは、あの宿での自分の思いだった。

一緒に行くと言ったクッキーに対して、自分はどう思ったか。
剣が使えるから。魔法が使えるから。
戦力になる、などと。

彼らは私を仲間だと思ってくれているのに、
私は、彼らのことを戦力としか思っていなかったのだ。


彼らの言葉の温度と、あまりに違いすぎた。
そう気づいた瞬間、頬がかっと熱くなった。

ロトの勇者のように、などと決意したくせに。かつてあの偉大なロトの勇者も、仲間たちと世界を救ったのだというのに。

でも、それ以上に重かったのは、彼らの優しさをそのまま受け取れない自分だった。

私は少しいたたまれなくなってその場を離れた。二人に気づかれないよう、足音を殺しながら。
きっと彼らも宿へと帰ってくるだろうから、それより早く宿に帰らないと。今の自分の顔を、誰にも見られたくなかった。


駆け出しながら宿へと戻った私はベッドのシーツにもぐりこんだ。

クッキーの声が、まだ脳裏に残っている。

「皆が笑って過ごせる日々を取り戻したい」

どうしてそう思えるのかと考えたが、多分彼はロトの血を引く……勇者だからだ。

だから、そんな言葉が出てくるし、
だから、彼らは私を助けに来てくれたのだ。

同じロトの血を引くはずだが、私とは違う。
憎しみの感情のみで立ち上がって私は彼らを戦力としか見れなかった。
そんな私は本当に彼らと同じ仲間になれるのだろうか?


……まだ何もわからなかった。
戦ったことすら1度もないのに、私にはもうこの道しか残されていないのだ。
私はムーンブルクの王女なのだから。


もう一度祈るように両手を固く握りしめた。


窓の外では、あの夜と変わらない月が、静かに町を照らしていた。



布団の中で、私はしばらく目を閉じることができなかった。
私を仲間だと言ってくれた彼らに報いることがないかと考えた。
詫びるのもおかしい。彼らは責めるつもりなどないのだから。

ただ、何か形にしたかった。
優しすぎる彼らに、この私でも応えられるような、何かを。

そう考えているうちに、いつの間にか眠っていたらしい。


朝の光の中で、身支度を整えているクッキーとガレットの姿が見えた。ガレットは黙々と荷物を整理していて、クッキーは欠伸を噛み殺しなが ら水を飲んでいた。
昨日の緊張した空気は、もうどこにもないように見えた。


「あ、プリン王女、おはようございます」

 クッキーが、いつもの調子で声をかけてきた。何も知らないような、軽い声だった。

「おはようございます」

私は一度、深く息を吸った。


昨夜考えていたことを、今、言葉にするなら、これしかないと思った。
上手な言い方は、結局思いつかなかった。ただ、思いついたままを口にするしかなかった。
一歩でも彼らに歩み寄るために。

「あの……」

 二人が、こちらを見た。

「これから、旅を共にする仲ですから、私のことは……プリンちゃんとでも気軽に呼んでください」

言ってしまってから、何を言ってしまったのかと顔が熱くなった。
クッキーが、一瞬、目を丸くしたのも分かった。ガレットもだ。二人とも驚いた顔をしている。

急に恥ずかしくなって、私はその場から去ってしまった。
すると部屋から嬉しそうなクッキーの声が聞こえてきた。

「いいんだって!」

ガレットまで、「プリンちゃんか」と声に出して私の名を呼ぶ練習をし始めた。

思いがけない二人の嬉しそうな声を聞いた瞬間、
昨夜からずっと重たかった胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
こんなことで大丈夫だっただろうか。



感謝でも、謝罪でもない。彼らには多分何も伝わっていない。
ただ、自分から差し出せた、初めての小さな一歩だった。

それでも、何もしないよりは、ずっとましだと思った。


窓の外は、もうすっかり朝になっていた。
昨夜のあの月は、どこにも見えなかった。



あとがき

HD2D版のロトっ子で、サマムンを書いてみたいと思い、中編くらいの小説をやってみます。
相変わらずまだ全然サマムンってないですが。
プリンちゃん必死過ぎるし。頭いいから考えすぎる子かもしれない。

5話くらいで終わらせたいのですが、こんなペースで終わるのでしょうか…?頑張ろう。。

2026.07.07

更新の活力。楽しんで頂けましたら是非ポチを。→

(前の章) 第二章 ≫

第一章 emblem:月