これまでに電子通訊に掲載されたエッセイ

※著者の所属機関名は掲載当時の情報です。ご注意ください。

学生の何気ない一言

齋藤貴志(麗澤大学)

普通話または台湾国語を生活言語の一部として使用している学生さんが、毎年数名、本学に入学してくれます。そのような学生さんの1人であるXさん(仮称)とのやりとりの中で「気づかされた」ことをお話したいと思います。会員のみなさまにとっては、ごくごく当たり前のことで、私の不勉強さを露呈してしまう内容ですので、気楽に読んでいただけたら幸いです。

5月のある日の授業終わり、教室から立ち去ろうとしたとき、今回の主人公であるXさんが私のところに来て、「先生の“歌儿”さ、“根儿”に聞こえるよ!」と言ってきました。Xさんと言葉を交わすのはこのときが初めてでしたし、内容と言うよりも、言い方にびっくりしてしまい、一瞬、思考回路がストップしました。

気を取り直し、Xさんに“歌儿”と“根儿”をそれぞれ発音してもらい、私も発音しましたが、何度やってもXさんには私の“歌儿”の音は“根儿”に聞こえるようでした。正直に白状しますと、私には、その時Xさんが発音する“歌儿”と“根儿”に違いがあることはわかりましたが、音声学的にどう違っているのかはわからず、自分で発音しわけようとすることができませんでした。

研究室にもどり、/e/と/en/の“儿化”について説明しているものはないかと書棚をあさると、手元にあるだけでも4冊みつかりました。日本人著者と中国人著者で若干説明が異なっていますが、まとめると、/e/[ɤ]と/en/[ən]が“儿化”すると、/er/[ɤr]、/enr/[ər]とそれぞれ“儿化”前の母音が維持されるのが一般的だが、北京語話者の中には一部、/er/を[ər]と発音し、/enr/[ər]と区別をつけない人もいるとのことでした。

Xさんの発言がどういうことなのか、これでようやくつながりました。つまり、私の[ɤ]の音は、儿化をすることにより、前寄りの[ə]になってしまったということでしょう。《现代汉语(增订本)》や《语音学教程》のように、北京語話者には一部、区別しなくなっているとの報告もありますが、普通話を教えている以上、やはりしっかり区別して発音できなくてはいけないところだと思います。

Xさん本人は、自分が聞こえたままを私に教えてくれただけで、もちろん音声学的にどうだとかは全く意識していなかったと思います。ただ、Xさんの この一言がなければ、私はおそらく気づかないままでした。

教授者である前に、「生涯、一学習者」であるということを改めて気づかせてくれた、とてもいい経験でした。

Xさんは、授業終わりによく質問にきてくれます。私は毎回どんな質問がくるのか楽しみにしています。

本文で取り上げた4冊の参考文献
【日本語文献】
遠藤光暁2006.『中国語のエッセンス』: 65頁。東京:白帝社。
平井勝利2012.『教師のための中国語音声学』: 90頁。東京:白帝社。
【中国語文献】
北京大学中文系现代汉语教研室编2012.《现代汉语(增订本)》: 99页-100页。北京:商务印书馆。
林焘、王理嘉编著1992.《语音学教程》: 172页。北京:北京大学出版社。

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「レアリアを通して学ぶ」ことで学んだこと

中西千香(立命館大学)

私は、2013年から科研費基礎研究(c)で、レアリアを通して学ぶ中国語について、グループで研究を行ってきた。2018年は第2期目の最終年度になる。その使命は、レアリアが持つ特徴を明らかにし、それを語学教育に援用する時の注意点を提言することである。その成果は、研究会の開催や論文集を作成して、同業者や学習者に報告してきた。

この場を借りて、この活動を通して、学んだことを記してみたい。

私自身のレアリアとの出会いは、今を遡ること十数年、2002年の北京語言大学留学中にスーパーのチラシ、ガムの包み紙、商品のパッケージを集めることから始まった。気付けば結構な年月が経っている。この期間、雑誌の記事、テレビやラジオでレアリアや自分の活動を紹介する機会にも恵まれた。そして、今も意欲を持って続けている。もちろん、レアリアから学び取れる中国語に関することは今もずっと新しい発見ばかりで、まだまだ続けられると思っている。まさに「継続は力なり」なのである。途中、ある人からゴミばかり集めていると言われたこともあったが、続けてきてよかったと思っている。

また、周りを見渡すと同じようなことに関心をもつ仲間がいた。レアリアという大きなくくりで一緒に活動ができると確信があったので、初めから科研費はグループでの申請を考えた。結果、それぞれの色を出せる飽きのこない活動をできている。研究者は時として、一匹狼になりがちである。そんな中、同じ志を持つ仲間に恵まれたことで、自分自身も高めることができたと思う。

レアリアの難しさ、その魅力というものを改めて考えてみると、①教科書には出てこないのに、生きて行く上で必要な事項が詰まっていること、②レアリア、つまり、文字としてあらわれた時に、どうしても書面語を回避することができない。もちろん、口語表現だけで構成されるものもあるが、中国語のレアリアを攻略する上で、書面語の学習は必須のものになる。筆者自身、書面語に強くないので、たとえば、最近も“如?后?冲水(お手洗いをすませたあとは流してください)”の“如”が動詞であることに反応ができなかった。ただ、レアリアに出てくる書面語表現はかなり決まったパターンで出てくるので、それを拾って、見せていけるだけでも学習者の助けになるのではないかと感じる。

最後に、形にすることの大切さについて話したい。昨年2月末に、計画通り、報告書である『中国語教育のためのレアリア読本』(非売品、配布版)を完成させ、関係者に配布することができた。今後まだまだバージョンアップできるが、ここで形にできたことは筆者としてもとても満足している。形にして、同業者、学習者からの忌憚のない意見をもらうということの重要性というものを強く感じた。

第二期最終年度もまた研究会を行う予定である。また新たなものを提示して、皆さんと議論できたらと思っている。

*『中国語教育のためのレアリア読本』は目下配布中です。まだ手にしていない方で必要な方はお気軽にご連絡ください。

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「ガラバゴスからの手紙」

荒川清秀(愛知大学)

日本の中国語文法研究者は、国内市場に恵まれているので、そこで満足して外へ出て行こうとしない、「ガラパゴス化」しているという声がある。ほとんど海外で発表して日本にいない文法研究者やつねに外で発表している文法研究者にはこれは当たらない批判だ。また、だれしも一度や二度は海外で発表したことがあるだろう。だから、これは他の分野、つまり音韻や方言、漢語史の分野に比べ相対的に外へ出て行くことが少ないという批判なのだろう。たしかに外国で発表すると、論文でしか知らなかった研究者たちと知り合え、議論を交わす喜びを感じることができる。

わたしもかつて復旦大学と華東師範大学で文法の連続報告をしたこともあるし、近代語の研究でドイツや中国、それに韓国で発表をしたこともある。しかし、それもだんだんおっくうになってきて、最近ではもっぱら国内でしか発表しない。といっても、近年海外からの中国研究者も日本を訪れる機会が増えたから、そんなときは国内でも中国語で発表したりする。だから、まったく中に閉じこもっているというわけでもない。

逆に国内に仲間が少ない分野は必然的に海外の同仁たちと連携せざるをえない。こういう人たちからすれば、文法研究者は怠惰だということになるのだろう。しかし、そういう人たちは逆に自分たちが「たこつぼ化」することを警戒しなくてはいけない。自分たちだけに通じる世界で話すだけで、中国語教育、一般の人への啓蒙や普及がおろそかになっていないだろうか。故倉石武四郎氏が晩年日中学院、故香坂順一氏が愚公会を立ち上げ、民間の中国語教育に奮闘したことを記憶している人はどれほどいるだろうか。音韻学についていえば、中国語を学べば必然的に日本漢字音と現代中国音の違いが気になる。この違いがなぜ生じたのか。こういう素朴な質問に答える本をだれか書いてほしい。

わたしは研究の最終目標は、どれだけの人に読んで(聞いて)もらえ、どれだけの人に影響を与えるかだと思う。日本の国内には膨大な中国語学習人口がある。研究の最終目標が人々に喜びと幸せをもたらすことであるとしたら、日本の文法研究者も決して批難される理由はない。

研究そのものについていえば、査読に通る論文を書くこと、科研に通るテーマを出せることはたしかに大事なことである。しかし、そのテーマはいつも自分の内心から発したものだろうか。科研に通りやすいテーマだけを選んでいるということはないだろうか。自分の研究はなんのためか、本当に心からそれをしたいと思っているのか、つねに自分に問いかける必要がある。

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「ここからという所でやめる話」

植屋高史(京都外国語大学)

これまで2年間ほど学会メルマガの編集を担当していたのだが、ウェブリソース委員会の中で役割の変更があり、編集を次の先生にバトンタッチすることになった。特に、これまでエッセイの執筆をお願いした先生方には大変お世話になりました。

さて、新年度である。昨年、少し体調をこわして、無理しないように無理しないように…と言っているうちにあと少しで3月が終わろうとしている。そろそろ授業の準備を本格的に進めなければいけない。

授業をしていて一番困るのは、何を話しても学生から何も反応がない時である。中国語に対する興味が薄らいでいるというのか、すっかり体温が冷えてしまっているのである。先生方は、そういう時にどう対処されているのだろうか。

「2年生以上対象の選択科目「総合中国語」の時間に『DVD中国鉄道大紀行』を見た。俳優の関口知宏が2007年,春と秋の2回に分けて,中国大陸の鉄道網を同じ路線を2度通らずに巡る,最長片道ルートの旅をしたときの映像だ。春の旅ではラサからゴールの西安まで主に南方の17,000kmを10週間かけて回る。このDVDは春の旅だけで全4巻,432分である。「総合中国語」は週2回のカリキュラムだったため,授業は15週で全30回あった。毎回始めに15分ぐらいずつ見ることにした。」

長い引用になってしまったが、当時、このエッセイの影響力は強く、私の知るだけでも数名の先生がそのDVDセットを購入した(メルマガ第64号によると、荒木典子先生もその一人らしい)。授業開始の15分間、あれこれとコメントをつけながら視聴。とても好評だった。ただ、それも数回のことで徐々にマンネリ化してしまった。完全に息抜きの時間と化し、居眠りする学生が出てきてしまった。竹越先生のエッセイにも「教室も中だるみの時期…」という記述もあるので、同じような状況が起こったのかもしれないが、私のクラスでは、思い切って途中で断念することにした。

ただ話はそこでは終わらない。後日、数人の女子学生が、私のところにやってきてDVDを借りていき、夏休みに「春の旅」と、なんとそれに続く「秋の旅」までをすべて視聴してしまったのである。番組のボリュームを知る人間からすれば、驚異的なことだ。聞けば「授業で突然観なくなったので、先が気になって…」とのこと。

そこから学んだ教訓は、授業で映像を使う場合は「いいところでやめておく」ということである。

私の場合は、いつも授業に行くときには『サンザシの樹の下で』という映画のDVDをカバンに入れている。これを、学期の半ば、中国語への興味が薄らいでいるな…と感じた時に使う。あくまでも大切なのは全編を見せないということだ。登場人物やあらすじを説明しながら、早送り早送り。重要なシーンをピックアップしながら観ていく。そして「いいところ」まで来たら、DVDを切る。あとは「続きはTSUTAYAで借りてみてください」と一言。早送りしながらなので、全部で2,30分だろうか。

映画が好きな学生は今でも多いので、この方法を使うとかなりの学生が続きを観てくれる。竹越先生のやり方のように全員でゴールする達成感は味わえないのだが、これはこれでよいのではないかな、と思っている。

さて、それなら『サンザシの樹の下で』の「いいところ」とはどこなのか…ということなのだが、それは二人が町外れの病院に出かけた帰り、自転車で二人乗りをしているところをお母さんに見つかるシーン。教室では悲鳴が上がることもあります。お試し下さい。

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「アーモンドの真実」

加納希美(愛知大学・非)

これは遡ること20年ほど前、天津の某“咖啡庁”での出来事である。“甜点”を求めて来店した中国語学習歴4ヶ月ほどの日本人留学生3人が、見慣れぬ簡体字の並ぶメニューを眺めていると、“杏仁”の2文字が目にとまる。そこで、白くてプルプルッとした中華スイーツでも連想したのだろうか、迷わず“这个”と指さし注文したのであった。しばらくして運ばれてきたのは期待通りのスイーツ(杏仁豆腐)、ではなく、山盛りのアーモンド、しかも3人前である。しばらく事態が呑み込めず、アーモンドの山を前に呆然とする3人。結局お目当ての“甜点”にはありつけず、その後は齧歯類のようにただひたすらアーモンド消費に専念する時間が続いたのであった。

いったいなぜ杏仁豆腐がアーモンドに化けて出ることになったのか。この問題に関連し、3択クイズを用意してみた。

製菓材料や酒のつまみとして親しまれているアーモンド、その正体は(1)落花生のような鞘(殻)をもつ豆の一種。(2)栗のように棘の殻に覆われた木の実の仲間。(3)梅の実の奥に潜むアレのようなもの。

正解はwebで!……「アーモンドの果実」をキーワードにして画像検索してみると、梅のような果肉に覆われた硬い種の、そのまた奥に鎮座するもの(すなわち「仁」のこと)こそが「アーモンド」の正体で、杏の仁と瓜ふたつのその姿を確認できるはずである。両者は香りも似ていることから、本来、杏仁豆腐には杏の仁の粉末(“杏仁霜”)を使うが、アーモンドエッセンスやパウダーで代用される場合も多いとのこと。このように似た者どうしのアーモンドと杏の仁は、中国語では区別されず、同じ“杏仁”の名で呼ばれているのだった。先の日本人留学生が遭遇した事件のような場合を除けば、両者を同じ語で指すことによる混乱は殆ど生じないようである。

日本では、アンズよりアーモンドの方が仁としての姿を頻繁に目にする。果肉としては、むしろアンズの方が、ジャムや酒などの加工された姿で親しまれている。(アーモンドに果肉があること自体、初めて知った時には筆者には意外に思われた。)このように、アンズとアーモンドが同時に仁の姿で登場する機会は殆どなく、アーモンドの仁がこっそりアンズの仁のふりをしていても発覚しにくいように思われる。杏仁豆腐の材料のようにパウダーやエッセンスとして加工された状態であればなおのことである。仮に中国でも同様の状況であれば、アーモンドの仁が、姿や香りがよく似ていて用途の限られるアンズの仁に成りすまして“杏仁”と呼ばれているとしても無理はない。ただ、“杏仁”に「アーモンド」と語釈を付している中日辞典でも、“杏”や“杏子”には「アーモンド」の語釈は見当たらないことから、いまのところ、アーモンドによる成りすましは仁の部分に留まっているようである。

なお、アーモンドと同じくナッツ類として扱われるカシューナッツ(“腰果”)であるが、もののついでにとその収穫前の姿を画像検索してみたところ、「ええぇっ!?」と思わず声をあげそうになった。アーモンドの時は「へええ!」だったが、カシューナッツは「ええぇっ!?」なのだ。見たことの無い方は、ぜひお手すきの際にご確認を。

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从日语的“立入禁止”谈起

雷桂林(樱美林大学)

斯坦福大学著名华人教授S先生来我校讲学,看到停车场前牌子上写的“関係者以外立入禁止”几个字感到好奇:难道是禁止站着走进去?

这个段子是听同事转述的,听起来像是个笑话但又感觉问的有些道理。其实我也经历过一个难懂的“禁止”。记得研究生毕业来樱美林大学上班那年,从主楼荣光馆去研究栋硕学会馆中间要穿过一扇门(现在改成自动门了),门玻璃上贴着几个大字:“強風時開放禁止”。是否该开门过去?我当时忧郁不决。可不打开这扇门也没有别的通道可走,于是硬着头皮忐忑不安地打开门走了过去。

从结果来看,“立入”中“立”和“入”的地位不同,“立入禁止”所禁止的是“入”而不是“立”。“開放禁止”也是如此,“開”本身没有问题,所禁止的是「開けっ放し」。问题是作为并列结构,为什么“立”会失去“站立”的本义而只表示强调?为什么在“開放禁止”中“開”语义被弱化?

后来读中川正之先生写的《漢語からみえる世界と世間》(岩波書店、2005)时,似乎让我找到了答案。我们知道,动词是句中最核心的成分,日语是动词在后的语言,OV这一核心在后的基本语序和修饰成分在前中心语在后的修饰结构高度一致,词汇层面也表现出核心在后的特点。因此,“立入”和“開放”中的核心成分是后面的“入”和“放”,前面的“立”和“開”是次要成分。木村英树老师在《中国語はじめの一歩》(ちくま新書、1996;ちくま学芸文庫、2017)中也分析指出,汉语具有英语一样的VO型基本语序,但修饰结构上却具有日语一类的核心在后的特征(如“刚摘的花朵”)。因此,汉语是一种介于英语和日语之间的折中语言。也许是因为汉语重心非前非后的缘故,汉语的并列结构表现出比日语更自由的特点:“大きさ”可说成“大小”,“長さ”可说成“长短”、“太さ”可说成“粗细”。“方圆百里”的“方圆”的用法,以及名词组合“婆婆妈妈”一类的用法,日语是难以用同样并列形式构词的。既然汉语并列词组无论在形上还是在义上,前后地位趋于平等,中国人看到“立入禁止”、“開放禁止”时误以为“立”、“開”也被禁止也就不难理解了。

不过,笔者以为,汉语重心与日语不一致,不等于汉语重心一定非前非后,汉语重心在前也是一种可能。汉语作为孤立语,其语序至关重要。汉语具有VO结构的基本语序,说其重心易前倾也是情理之中的。从双音节构词手段来看,表示汉语后方语义弱化的后缀形式发达。后缀和准后缀有“子”、“头”、“儿”、“者”、“家”、“师”、“员”、“度”、“学”等多个,前缀却寥寥无几(“阿”和“老”)。再从语音重心来看,双音节后面的字比前面的字更容易轻声轻读。“凉快”、“热闹”、“认识”、“知识”、“厉害”、“勇敢”等并列结构都是语音重心在前。曾经有学生问为什么“留学生”的“生”不是轻声,而“学生”的“生”就可以没有声调?笔者当时从经济原则出发,以“学生”使用频率高,频率越高越容易轻声化为由敷衍过去了,而如果学生进一步追问为什么轻声会选“生”而不是“学”的话,也许就可以从汉语容易重心前倾这一角度进行解释了。

汉语是否重心在前尚需进一步论证,但这种理解似乎可解释更多语言现象。为什么熊猫“香香”在发音上一定是后面的字轻声,为什么与猫相比,“香香”在长相上更像熊?也许都可以从汉语重心在前的角度得到合理解答。

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「補語」雑感

守屋宏則(明治大学)

中国語を学び始めて以来、今に至るも文成分の一つとされる「補語」である。「補語」とは何か。動詞の後にあって「宾语」でないものは「补语」であるという説明がある。これはいわゆる循環論法である。

おおむね“记住”の“住”は結果補語、“唱得很好”の“很好”は様態補語、“买不到/买不起”は可能補語、“忙得很”は程度補語、“去过一次”は“一次”が数量補語であるとされる。

意味的にはともかく、形式があまりにも異なる。

何冊かの文法解説書を見ると、分類、名称にいくつかの違いがある。《语法讲义》(朱德熙)は“状态补语”と呼び、いわゆる数量補語は“准宾语”とする。『中国語ステップ100』(榎本英雄)は複合動詞可能形不可能形と呼ぶ。“情态补语”という名称が用いられたのは《实用现代汉语语法》(刘月华等)が最初かと思う。そしてこの名称が「様態補語」と訳されたのかと思う。

手元の本では“补语”の名称が使われるようになったのは《语法修辞讲话》(丁声树)あたりかと思われる。かなり以前から・・・のような、わりあい最近のような。

閑話休題:以下は筆者の妄想である。目の前に普通に立っているソフトクリームがある。左90度回転し、こちら向きに90度回転すると、ソフトクリームが見える。さらに向こう向きに180度回転するとコーン先端が見える。 ソフトクリームの見え方が違う。

「動詞または形容詞の後に置かれて、動作・行為の結果状況ついて補足説明する成分」である。つまり動詞/形容詞が主要成分であって後に置かれる語・語句・節が「主」を補足説明する「補」であるということになる。生来臍曲がりゆえ「ホントかな?」と疑ってしまう。適切な喩えかどうかわからないが前述のソフトクリームのように、見方によってはその姿が変わる。

“没吃完”では“没”が否定しているのは“吃”ではなく“完”が否定されていると思う。“唱得不太好”のように様態補語が“不”で否定される。また可能補語とされる“买得起/买不起”はどの部分が補語なのか?さらに“忙得很”には“不”による否定がないのはなぜか。

動詞と結果補語は堅固に結びついているとされるが、一部は“找不到”のように分離する。動詞と結果補語の間に“得”“不”を挿入すると可能補語になるというが、本当に挿入されているのか。

“说汉语说得很流利。”の“得”が構造助詞であるなら、なぜ“shuōde hěn liúlì”のように“shuō”“de”が連写されるのか。“得de”が表す意味は何か。早期白話では“的”と書かれることもある。“买得到”の“得”に「得る」の意味があるか。“吃不得”はどのような補語であると説明するのか。妄想をめぐらすのはそれはそれで楽しい。

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特許翻訳における中国語の「以上」について

傅建良(関西学院大学)

先日、筆者が大阪にある某国際特許業務法人の依頼を受けて特許明細書の中国語訳を校正する際、「長さは1.5mm以上」の対訳をめぐって、翻訳担当者と議論をした。それを機に、本稿では特許明細書の日中翻訳における「以上」について、その文体に相応しくて、正確尚且つ簡潔な翻訳を提案しようとする。

日本語の「以上」はその基準となる数量を含むが、中国語の「以上」は曖昧なところがある。例えば、成績に関してよく言う「60分以上及格」では、明らかに合格基準となる60点を含むが、一方、「获得审查小组三分之二以上(含三分之二)成员同意」では、括弧内の補足「三分の二を含む」からも分かるように、基準となる三分の二を含まないようにも捉えられる。また、筆者が2017年10月25日に実施した「微信(Wechat)」によるミニアンケートの結果からも類似した曖昧性が確認できた。中国語の「以上」に対して、参加者8人(全員中国語母語話者)のうち、3人は基準を含む、3人は基準を含まない、2人は基準となる数量の大きさによる、と意見が大きく分かれた。

中国語の「以上」の曖昧さについて、通時的な視点からみると、筆者は概ね王明仁教授の見解に賛成する。王教授によると、古代中国語の「以上」は基準数値を含んでいたが、20世紀二三十年代から混乱が生じ始めて、現在のような状況に至っている。(詳細はhttp://news.sina.com.cn/c/2006-02-08/08228150008s.shtml を参照、Retrievedon Oct 30th,2017)この主張を支持する間接となる証拠として、一つ目は日本語の「以上」の用法であり、日本語の語彙は昔の中国語の語彙用法をそのまま継承していることがしばしばあると言われているからである。もう一つは、20世紀初頭から始まった中国の新文化運動を背景とし、西洋から来たロジックや数学等の影響を受け、例えば、数学の「大于等于」のように、より論理的尚且つ厳密になろうとしたのである。

法律や公文書における中国語の「以上」の用法を見てみよう。上記アンケート実験者の一人(公的機関に勤めている)によると、中国の現行法律や公文書では、「本数原則」が基本である。つまり、基準となる数量を含む原則は一般的である。例えば、『民法通则』第155条附則では、「以上」は本数を含むと明記され、『刑法』にも類似した本数原則が明記されている。

以上を踏まえて、特許明細書は専門性が強く正確性や簡潔性が強く求められる特殊文体であり、その翻訳は基準となる数量を含む本数原則を採用することを提案する。冒頭の「長さは1.5mm以上」を簡潔に「长度为1.5mm以上」と訳そう。なお、誤解等を避けるために、民法や刑法と同じように附則や注釈において、本数原則を明記すべきである。

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我可能学到了“假”中文

王牧(東京大学・院)

我现在还是一名大学院的学生,课余时间也去中文学校教教课。我大学时的专业和语言并没有关系,现在搞起中文的研究和教学,纯属是半路出家,颇有几分闹着玩的嫌疑。自知天资平庸、基础薄弱,各种剪不断理还乱的语言现象、语法规则总让我这“门外汉”抓耳挠腮、束手无策,无奈只得成日感叹中文之博大精深、“不讲道理”。而自从和中文专业结缘起,我便开始了对人生和自我的各种怀疑。每当在大学院的课堂上,听着来自五湖四海的同胞们陈述着各自对同一个例句的合法性千差万别的解读时;每当在中文学校备课,看到教科书里每天挂在嘴边的单词却被标注着与日常习惯的读音截然不同的发音时,我的心情,若套用现在网络上流行的语汇,便是我觉得自己可能学了二三十年的“假”中文。

屡屡“上当受骗”的委屈和不安不禁让我想到涉及语言特别是语言教学上所谓的“标准”和“规范”,到底该怎样定义?而对于丰富多样的语言事实,孰真孰假、孰对孰错,又该如何去评判?这样的发问本身也许太过于形而上了,凭我这么点儿可怜的见识,当然也无力给出什么答案。只是在每每遇到鲜活的“语言事实”与教科书上脱离实际的“语言规范”相冲突时,看着学生们一脸虔诚笃信着的教科书上的规范,在“不会好好儿说话”的道路上越走越远,想象着等他们真跟中国人聊上天儿以后,信仰崩塌,怀疑自己学到了“假”中文的惨烈画面,总是心有不忍。于是,在这样的时候,我总是会不顾职业操守地在给学生灌输“规范”的同时,也提一下更为一般中国人所接受的“不规范”的说法。

就在上个周末,我在某中文学校有一个入门班的课,课上出现了“一会儿”这个词,虽然我极力控制自己一定要读成单词表里标注的“规范读音”——“yí huìr”,可还是忍不住在跟学生做对话练习的时候几次说成了“yì huǐr”。虽然在字典、教学大纲中,“一会儿”的正确发音大都被标注为“yí huìr”,但我相信大多数的中国人平时说话时,是不会说“yí huìr”,而说“yì huǐr”的,没准儿听你满口“yí huìr”“yí huìr”的,某位善良热心的大妈还会来纠正你。也许我缺乏作为一个老师的基本常识,但我时常会想,对于这样已被广泛接受的“不规范”,却还用无人问津的“规范”去否定它作为语言事实的存在又有多大的意义?当一个所谓的“规范”失去了对大多数情况、大多数人的约束力,却依然作为“规范”或“标准”存在是不是有那么一点儿荒谬。

记得在中国考大学的时候,语文试卷的第一题就是专门考你在日常生活中经常会被读错的字和词的正确发音。即使大家都是说了十几年中文的母语者,在准备这一题时还是颇受打击的,不少人为自己的满口白字儿而深感焦虑。但如今想来,知道这些字的正确读音,除了在考试的时候多得了几分,或是能在亲朋好友面前显摆自己是一个“有文化人的人”,其实对于平日的语言交流似乎并没有太多积极的意义,这样的“正确”或“规范”在实际的语言运用中甚至是失效的。

统一的“标准”或“规范”对于千变万化的语言来说,似乎是一种理想化的存在。众所周知,中国各个地区方言的差异非常之大,这也使实际的语言运用呈现出更加复杂的情况。即便大家都认为自己说的是“标准”、“规范”的普通话,可言语间却还是很难抹去那份浓浓的乡情,反过来大家对于“标准”和“规范”的界定也就各有各的说法了。

当然我没有资格去质疑教学中应严谨遵循的“规范”,但也许我们可以对一些更加接近语言事实的“不合规范”或“不合标准”多一些宽容,特别对于并非想要从事语言专业研究的学习者来说,也许尽量减少他们心里诸如“可能学到了‘假’中文”这样的疑虑,会比一味地强调刻板的“规范”更有帮助。

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2017夏・上海点描

紅粉芳惠(大阪産業大学)

大阪産業大学では、孔子学院の提携校である上海外国語大学が毎年8月に主催する3週間の“夏令营”に参加している。今夏は大学生4人、産大附属高校の生徒4人、孔子学院の社会人受講生5人を引率して、2週間上海に滞在した。

上海は30数年前の2回生の夏、復旦大学への短期留学で初めて訪れた思い出の地である。以下に2017夏の上海についていくつか綴ってみることにする。

今年の“夏令营”には他にナポリ大学孔子学院(高校生)、ペルーカトリック大学孔子学院(大学生)の44人が参加し、レベル別に3クラスが開講された。どのクラスも30代前後の若い講師が担当し、授業を円滑に進めるためにキーセンテンスの例文をPPTで提示するなどしていた。初級1・2クラスでは説明が英語で行われたため、テキストの内容は難しくないのだが、英語が分からなくて、本学の学生は苦労していた。中級クラスは全て中国語で、学生の集中力を維持させるために立って音読させたり、ペアを頻繁に変えたり、伝言ゲーム形式で短文を暗記させるなどの工夫がされていた。最終課題として、数人のグループに分かれて、3週間の体験をPPTにまとめて、プレゼンをすることが課されたのだが、筆記テストではなく、発信型の課題で評価するというのが印象的だった。

「これはすごい!」と思ったのが、宿舎の1階に設置してあった人民元への自動両替機。両替は空港か、ホテルか、銀行で、書類を書いて、待たされてというのが定番だったが、この両替機はパスポートの写真面を指定の場所に置いて、外国紙幣を入れると、人民元と明細書があっという間に出てくる優れもので、本当に便利になったものだと感心。

今回も上海、蘇州在住の2人の友人と会ったのだが、宿舎までタクシーで迎えに来てくれて、虹口足球場近くのショッピングセンターでランチ、お茶、夕食とお喋りは尽きることがなかった。支払いはもちろん“支付宝”、帰りのタクシーも“滴滴出行”で呼ぶ。友人も言っていたが、“没有智能手机我们就活不下去了。”というのが、今の中国である。

スマホつながりでもう一つ。80年代、自転車と言えば、「鳳凰」と「永久」だったが、シェア自転車ビジネスが勃興し、8月札幌に上陸したMobike(オレンジ)、ofo(イエロー)など上海・杭州にはカラフルな自転車がたくさんあった。スマホで利用登録し、一定の保証料を払うだけ。利用したい時に車体のQRコードを読み込むとロックが解除され、好きな場所で乗り捨てられる。自転車のある場所を検索して、予約もできる。“上外”の先生も、駐在員も便利なのでよく利用しているとのことだった。

中国の民度はまだまだ低いと言われるが、痰を吐く人、ランニングの裾を巻くってお腹を出して歩いているおじさんを見かけなかった。上海ではホテル、レストランは禁煙だし、道路もきれいに掃除されている。30年も中国と付き合っていると、訪中するたびに民度の変化を実感する。駐在している先輩が、「中国の技術力はかなり上がってきたが、ソフト面で、日本はまだ暫くは中国で商売ができる」と言われたのが頭に残っている。

これから毎年夏は上海なので、定点観測できるのが楽しみである。

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深夜说“食堂”——从中国版《深夜食堂》说起

王振宇(中央学院大学)

中国版《深夜食堂》最近开始在北京卫视和浙江卫视播映。该片本是一部日本都市剧,改编于安倍夜郎的同名漫画,舞台是位于东京新宿后巷里的一家小小饮食店。这家店只在深夜营业,店员只有老板一人,该剧描述了老板和前来吃饭的形形色色客人之间的心灵交流。2011年在日本TBS电视台播出,不仅在日本国内获得了高收视率,而且作为“治愈系”作品也引起了中国年轻人的广泛关注和喜爱。原版的系列漫画也被翻译成中文,2014年由湖南文艺出版社出版,获得畅销。正因如此,2016年中台合作从漫画著者处取得改编权,由内地人气影星黄磊领衔主演,进行了中国版的拍摄制作。然而让人始料未及的是,2017年6月12日该片上映后,立刻“一石激起千层浪”,从点评网到微信,都遭到了接连不断的口诛笔伐。受到批判的原因主要是该片不顾中日差异,从菜单食材到台词对白,甚至连人物造型都大量照搬日本版,观众对此深感不满。另一方面,通过移植大量广告进行改编的手法也让网友们深感“雷人”。譬如,用“某某方便面”替代原著中的“お茶漬け”(茶泡饭)等等。

尽管该剧在改编上存在有失妥当的地方,但笔者个人对这种改编剧的出现和存在倒是比较赞许的。对日中两个版本之间的差异进行比较,无疑是件非常有趣且有意义的事情。甚至认为在汉语课上以点评中文版的方式,介绍中日文化差异也未尝不可。比方说,中文版中仿效原版,给客人上凉白开的情景就不符合中国实际情况。作为语言工作者,该片剧名中的“食堂”一词首先就引起了笔者些许的“违和感”。日语和汉语对“食堂”的定义其实略有不同。『デジタル大辞泉』中对日本“食堂”的定义有两个:①食事をするように設備された部屋。ダイニングルーム。②いろいろな料理を出して客に食事をさせる店。手軽に食事のできる店をいうことが多い。「大衆食堂」。翻译成汉语是:①有相关设备用于吃饭的房间。厨房。②为顾客供应饮食的店铺。多指能提供简单餐饮的店铺。“大众食堂”。

而《现代汉语词典》(第七版)对“食堂”一词的定义仅有一项:机关、团体中供应本单位成员吃饭的地方:吃食堂/到食堂吃饭。也就是说,中国的“食堂”主要是面向特定单位的内部人员。而在日本,面向社会上一般顾客的饮食店也可以称为“食堂”。其实如果比较《现代汉语词典》过去的几个版本,可以发现是中国的“食堂”词义发生了变化(缩小)。

1.1965年试用版:①供应一般人或一定机构中成员吃饭的地方。②经营,管理公共伙食的机构。
2.1983年第2版:①机关,团体中供应本单位成员吃饭的地方。②饭馆。
3.1996年第3版:机关,团体中供应本单位成员吃饭的地方。
4.2002年第4版(增补本):沿袭前版本。
5.2005年第5版:沿袭前版本。
6.2012年第6版:沿袭前版本并新增用例:吃食堂/到食堂吃饭。

也就是说,“食堂”的词义在第3版发生了较大变化,之前版本的“饭馆”义被删减了。“食堂”从可供一般人吃饭的地方变成了特定机关团体内部人员吃饭的地方。在这儿做个无意义的假设:如果中国版《深夜食堂》能获得大量的“赞”的话,丢失了的“饭馆”义兴许将来又会“失而复得”吧。语言是社会的镜子。“食堂”的词义缩小折射出中国社会的变化。对这一点,笔者深有感触。在家乡(中国湖南邵阳),八十年代之前有很多的国营餐厅都是以“某某食堂”命名,记忆中有“南北食堂”、“胜利食堂”、“回民食堂”等等。而在八十年代末九十年代初,国营餐厅进行了改制,国营“食堂”几乎都已消失,取而代之的是“某某大酒店”、“某某餐厅”等更为时髦的名称。只有“回民食堂”虽已为个体经营者所有,但还依旧保留着原来的名字。这家店顾名思义,本来是面向回族人的清真餐厅,但因为提供的粉面颇具特色,早已超越民族和人群,成为了整座小城人的“深夜食堂”。笔者来日多年,每次回家乡都要去吃上一次。“食堂”的美味,特别是那经典的“大片牛肉粉”和“糖油粑粑”(当地称“糯米饼”为“粑粑”)着实让人越想越饿……(于6月15日深夜)

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ベトナム語と「単語家族」

清水政明(大阪大学)

中国語を専門としない私のような者が、ここに書かせて頂いてよいものかどうか迷いつつも、むしろこういうところでしかお話しできないことがあり、皆さんの貴重なお時間を拝借する次第である。

暗黙の了解のうちに「こういうことは若いときに研究してはいけない」という空気が漂うテーマの一つに「単語家族」があると思う。(いやそんなことはない!とお怒りになる先生とは是非とも個人的にお話させて頂きたい…)一方、ベトナム語の教育と研究を生業とする私などは、長く学べば学ぶほど、「音」と「意味」の関係ということが気になって仕方がない。そして、かつて読み耽った藤堂明保著『漢字語源辞典』(初めて購入した思い出の一冊目は今恐らく在ハノイ漢喃研究院院長室にあるはず)のような辞書を将来ベトナム語で編んでみたいと密かに夢見るベトナム語学徒は、恐らく私だけではないと思う。例えば、/kat7/(刃物で切る), /ŋat7/(言葉を遮る), /tat7/(電灯を消す), /sat7/(薄く切る), /cat8/(斧などで水平に叩き切る), /Ɣat8/(稲を刈る)等、/-at/を韻に持つ音節には「断ち切る」を含意する音節が多数見られ、/ŋan1/(区切る), /can6/(遮る), /Ɣan2/(一言一言区切って強く言う), /kan5/(噛む), /dan4/(一本の木や枝を短く切り分ける)等、/-an/を韻とする音節にも「切り分ける」を含意する音節が散見される。更には、/ŋan5/(短い), /van5/(短くまとまった)等、「切り分けた結果の有様」を示すともとれる音節の類がある。一方、例えば、/Ɣap8/(会う), /kap7/(脇に挟む), /cap7/(両手を合わせる), /Ɣap7/(箸でつまんで取る), /dap7/(覆う)等、/-ap/を韻とする音節には「対を成す2つのものを合わせる」という意味を含意するものが多く、/nap7/(蓋)のように、その際に使われるもの、/kap8/(対)のようにその結果できたものを指す音節もある。そして、/Ɂam4/(両手でしっかり抱きかかえる), /bam6/; /mam5/(口をぎゅっと噤む), /kam1/(黙って悶々と憤る), /nam5/(握りしめる), /ɲam5/(瞳を閉じる)等、/-am/を韻とする音節には「対をなす体の部分を合わせる」動作を含意する音節が散見される。これらの例は氷山の一角に過ぎず、共通の韻を持ち意味の似通った音節のグループを見出すことは、ベトナム語では極めて容易いことである。つまり、漢語の世界でKarlgrenや藤堂明保が「単語家族」(Word Family)と呼び、王力が「同源字」と呼んだ類の音節のグループをベトナム語でも想定できる可能性が高い。更に興味深いことに、漢語を対象とした『漢字語源辞典』を改めて紐解いてみると、例えば605頁に「タイプ{KAT/KAD/KAN} 基本義:ふたつに分ける、あいだ。」と見え、856頁には「タイプ{KAP/KAM} 基本義:ふたをして封じる、おおう。」と見える。ベトナム語の{C-an/C-at}の基本義を「切る」と考え、{C-am/C-ap}を「合わせる」と考えると、完全にとは言えないまでも、同じような音韻的特徴を有し、更に似通った意味を有するグループが漢語とベトナム語の両方に見えるとも言えそうである。さすがにグループ全体の基本義を共通にする例はそう多くはないが、ベトナム語に想定されるグループに漢字音が紛れ込む場合もしばしば見られる。例えば、/ʈʂoŋ5/(空の, 太鼓), /ʐoŋ4/(スカスカの), /Ɂoŋ5/(管), /hoŋ5/(空の), /xoŋ5/(空の)等、/-oŋ/には「空の, 中が空のもの」を含意する音節が散見され、そこに「空」の漢字音/xoŋ1/が違和感なく当てはまる。また、/-at/と母音の長さを異にするが、「割」の漢字音/kaːt7/と、上記{C-an/C-at}との関連性を考えたくなる。

ベトナム語版「単語家族」の可能性、そこに紛れ込む漢語の存在を「漢語からの早期の借用とそこからの派生」という単純な説明で片付けることができるのだろうか?などといったことが気になり始めてかれこれ30年、いまだに謎のままであるが、恩師T先生が授業中によく「この韻はこんなニュアンス」と仰っていた口調を、最近時々真似てみたりする。

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研究を始めた理由

山田大輔(北海道大学文学研究科専門研究員)

大学院に入学し、古代漢語の研究を始めたときから、今年で、はや九年になる。ここで、自己紹介を兼ねてというわけではないが、私がなぜ古代漢語に興味をもち、研究を始めたのかということを書き連ねていこうと思う。

きっかけは、大学を卒業してしばらくしてから読んだ一冊の漢文の本であった。角川書店から出ている「鑑賞中国の古典」というシリーズの一つの『中国小説選』である。ある日、図書館で何気なく手に取り、最初の一話、白行簡の「李娃伝」を読んだとき、衝撃を受けた。「漢文はかくも表現力があり、面白いものなのか」と。

それまで、漢文というものは、漢字の羅列で、内容も小難しい四角四面なものだと思っていた。しかし、文言小説を読んでそのイメージが一気に崩れた。さっそく借りて帰り、その日のうちに一冊すべて読み終えた。

その後、志怪小説や『世説新語』なども読むようになり、さらにはだんだん時代をさかのぼって、『史記』や『戦国策』も読むようになり、ついには、四角四面の代表格と思ってた『論語』や『孟子』までも読むようになった。

高校時代は漢文にまったく興味が持てず、今では好きな文章トップ3に入っている『史記』の「項羽本紀」でさえも面白いとは思えなかった。そんな自分が一転、時間を忘れて漢文の本を読むようになり、気づけば半日以上もじっくり読んでいたということもしばしばあった。

さて、しばらくすると、読んでいるうちに様々な疑問が湧くようになった。訓読文、訳文と原文を交互に読み比べながら読んでいたのだが、なぜそのような解釈になるのか、なぜそのような訳になるのか、と感じる箇所がたくさん出てきたのである。

日本で漢文の参考書の多くは、基本的な句法の解説を中心とするものである。そこで、中国の本にあたれば何かヒントがあるかもしれないと考えた。幸い地元の公立図書館には、中国の姉妹都市から寄贈された図書が多数所蔵されており、古代漢語の参考書や訳注本も何冊かあった。しかし、それまで中国語の勉強は一度もしたことがなかったので、漢字のおかげで何について書かれているのかの見当はついても、内容はさっぱり理解できなかった。ただ、『史記』などで見かけた文などが用例としてあがっているので、この箇所はおそらくこのようなことを言っているのではあるまいかと、一人で「蘭学事始」のようなことをしながら読んで(眺めて)いた。

このような時に福音となったのが『漢辞海』である。むさぼるように引いた辞書はこれが初めてである(引きまくって「韋編三絶」した第二版は今でも手元にある)。

その後、大学院に入学し、本格的に研究をするようになった。とくに博士課程において、言語の通時的な変化に興味をもつようになり、昔と違って今度は時代を下るようにして文献を読んでいる。

以上、長々と自分語りをしてしまって恐縮だが、漢文好きが高じて古代漢語の研究に入った人もいるということを知っていただければ幸いである。

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富山でのはじめての体験

福田翔(富山大学)

昨年12月初旬に、日本科学者会議(JSA)富山支部の市民公開例会で、「ことばを研究する:中国語の世界」というテーマで発表させて頂いた経験を報告したい。

日本科学者会議とは、科学の総合的発展を目指し、1965年に創立した組織であり、これまで様々な活動が行われてきた(詳しくはホームページhttp://www.jsa.gr.jp/)。この例会で発表させて頂くことになったのは、世話役をやっておられた先生と偶然お会いしたのがきっかけだった。私が富山に赴任して間もない頃、教員同士の食事会があり、その先生と偶然席が近く、いろいろな話をするうちに、近々研究会があるので、発表をしてくれないかということになった。どうやら、ここ最近は人の入れ替わりが少なく、同じようなメンバーが交替で発表をしているので、新しく来た人をちょうど探していたということだった。

JSA富山支部は、富山大学や富山県立大学などの教員から構成されており、先生方のご専門は文系・理系に渡り、様々である。また例会は、一般公開講座として広報するため、興味のある市民の方も聞きに来てくださるということだった。これは、他分野の先生方と学術的に交流することができ、また市民の方もいらっしゃるということで、自分自身の勉強にもなるとも思い、そのときは快く引き受けさせて頂いた。

準備をする上で、中国語が分からない人にも理解してもらえるようにすること、また他の分野の研究者の先生方にも興味を持ってもらえることを心掛けた。快く引き受けたものの、果たして発表が上手くいくのか、当日まで心配でたまらなかった。

当日は、20名くらいの方が聞きに来てくださった。これまでの例会の規模を考えると、決して少なくない人数だという。発表では、ピンインや声調の説明から中国語の文法構造までを簡単に説明したり、日本語との対照を通して様々な興味深い中国語の現象を取り上げたりした。さらに、中国語母語話者でない者がどのように中国語の研究を行うのかということについて、自身の研究などを例にして報告をさせて頂いた。

これまでの発表では、言語研究のようなテーマはあまりなかったようで、思いのほか興味を持って下さり、ひと安心した。フリートークの時間には、中国語の効果的な勉強の仕方や、他分野の視点から見た中国語および言語研究について、様々なご質問やご意見を頂いた。また、「中国語には『谷』と『沢』はあるのですか?」というご質問もあった。一瞬何のことだろうと思ったが、日本では方言によって「谷」と「沢」を同じような意味として使うことがある。また、地名では東日本では「○○沢」となることが多く、西日本では「○○谷」となることが多い、そしてその分布が言語研究のみならず民俗学などにも渡りしばしば問題となる。富山では「谷」と「沢」を似たような意味で使用したり、地名では主に「谷」が使われるが、一部混在する地域もあったりするということを教えて頂いた。そこで中国語を考えると、〈谷〉は〈两山或两块高地中间的狭长而有出口的地带(特别是当中有水道的)〉、〈泽〉は〈聚水的地方〉というように、地形によってかなりはっきりと使い分けられているように思われる(《现代汉语词典第6版》参照)。また、地名では、〈峪〉が使われることもあるな(〈沙石峪,峂峪〉)、など思いながら、会は無事に終了した。

他分野の先生方やその地域で生活をされている方々との学術的な交流には多くの刺激があり、とても素晴らしい経験をさせて頂いた。

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私の少年時代(中国語体験)

前田恭規(東京大学・院)

毎年四月になると中国語を学び始める学生に中国語を耳にした経験を尋ねてみる。が、あまり反応は得られない。まあ会ったばかりのおっさんに気安く話す人間などいないということだろう。自身の場合はどうだったか、今回それを書こうと思ったのだが、随分と冗長な文章になってしまった。賢明な学会員の皆様はメールをそっと閉じてほしい。

私の家はまとまった休みには母の実家に帰るのが常であった。父の実家は札幌にあり、家族で帰るには遠かったのだろう。その代わり、なぜか夏休みに私が一人で行かされることが多かった。ざっと二十年前のことだ。当時両親は共働きで、年の離れた兄姉は高校の部活があったから、日中家で一人ごろごろしている小学生を大使としたかったのかもしれない。

札幌には祖父母と伯父夫婦が住んでいた。初めて行ったのは小学四年生の時だったか、行ったはいいが、特にどこへ連れ出されることもなく、結局家で祖父と二人ごろごろする毎日が続いた。さすがに退屈し、伯父の営む喫茶店にもよく遊びに行っていた。

伯父は音楽バンドの練習スタジオを経営している。喫茶店はその受付のようなもので、店に来るのはスタジオを借りに来るバンドマンばかり。コーヒーを飲みに来る一見の客などいなかった。小学生が一人遊んでいても追い出されることもなかったのである。店の奥には大型のディスプレイとスピーカーが据えられ、遊びに行くと伯父は色々な音楽をかけてくれた。

一日の終わり、夕食を食べ終え祖父母が寝ると、私はまた喫茶店に戻り、今度は営業終了まで店の奥に座っていた。遅くまで頑張っていたのには理由がある、営業が終わると、伯父は店のディスプレイを使って常連客や友人と一緒に映画鑑賞を始めるのだ。小学生の私にとって、父に叩き起こされ連れて行かれる釣り以外、夜の外出などなかったから、夜も更けたころに白熱灯の下、皆で映画を見るのは日常と違う、大人の仲間入りをしたような気分であった。

その頃伯父達がよく見ていたのがカンフードラマだった。これが私の中国語との出会いだったように思う。さすがに話の筋は忘れたが、時々早送りになる雑な(ように見える)アクション、回っているだけの(ように見える)殺陣、そして妙に張りのある声、女優の甲高い声をおぼえている。「やっぱカンフーは広東語でないと」と伯父が愚痴っていたので共通語のドラマだったのだろう。薄暗い空間に現れた強く響く言葉はどこか愉快でわくわくさせるものだった。

それから幾年月、自分がこうも中国語と関わるとは思わなかった。別にこの体験から中国語を選んだのでもないが、当時を振り返えると、なかなか良い出会いをしたものだと感じる。いや、正確には今中国語と関わっているからこそ、この記憶が良いものに思えると言うべきか。今年学び始めた学生にもこうした言葉との出会いはあるのだろう。それを振り返ったときに良い出会いだったと感じられるようにできればと思う。

夏休みが終わって家に帰ると、不規則な生活が祟ったのか十キロほど太り、学校で「北海道デブ」というあだ名がつけられたのだが、これもまあいい思い出にしている。

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ボールを打ちたい欲求

前田真砂美(立命館アジア太平洋大学)

1年半前からテニススクールに通っている。運動不足解消とストレス発散が主な目的だが、球技は苦手ではないし、半年も続ければそれなりに打てるようになるだろうという見込みは、甘かった。思い通りに打てず、むしろフラストレーションを膨らませてコートを後にすることのほうが多かった。

レッスンには決まった順番があって、その日練習することをコーチがお手本とともに説明し、コーチからの球出しで何回か練習する。その後ペアに分かれて打ち合う。私はここで躓く。ラリーが2回途切れたら次のペアと交代するため、きちんと打ち返せないと相手はろくにボールに触れないまま終わってしまう。そうなるともう申し訳ないという思いが先に立つ。先ほどの練習で掴みかけた感覚も彼方に飛んで、とにかくラケットに当てることだけに必死になる。続く試合形式の実践練習は尚更で、要するに習ったことが定着する前に応用に進んでしまい、基本がわからなくなるのである。物覚えの悪さに情けなくなるが、同時に、コーチの球出しでの練習をひたすらやればもっと早く上達できるという確信もある。元来、ひとつのことを飽きるまでひたすらやり続けるのが好きだ。

人には向き不向き得手不得手があり、効果的な学び方も人それぞれだが、基礎練習を1コマずっとやらされるのを嫌がる人は多いだろう。普段の中国語の授業でもそれは変わらない。いま担当している授業は「聞く、話す」に重点を置いており、新しい文法事項や表現について簡単に説明したあとは、ロールプレイや会話練習に入る。みな楽しそうにやっているが、文法が間違っていても発音が正しくなくても、つながりさえすればなんとなくできたような気になってしまう。コーチからの球出しは安定して同じところに飛んでくるので習ったことの再現に注力できるが、学習者同士のペアの場合、返って来るボールは高さも速さも落下点もバラバラだ。複合的な処理が必要になる。既習事項だけでは対応できないこともある。首を捻りつつも、自分の番で流れを切るまいとしてその場しのぎに言葉を返す気持ちは、とてもよく分かる。

当初の目論見より随分遅れたが、近ごろようやくまともに打てるようになってきた。ラケットの軌道、足の運び、膝の屈伸、上半身の回転、それぞれが球ボールを押し出すための一連の動きとしてまとまってきたようで、わからないなりに続けていればそれなりに上達するものだと安堵している。わからないフラストレーションは力になる。中国語を履修したものの早々に諦めて他の言語に鞍替えする学生に、自信をもって継続学習を勧めたい。

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中国ビールと戦国“楚簡”

宮島和也(東京大学・院)

中国のビールは数あれど、私は「哈尔滨啤酒」が好きである。この哈尔滨啤酒を初めて飲んだ時、単純な私は哈尔滨啤酒と言うからにはきっとハルビンで作っているのだろうと考えた。ところがよくよくラベルを見てみると産地は武漢と記されており、当時の私は何か裏切られたような気がしたのだった。

私は出土資料を用いた上古中国語の研究を行っているのだが、出土資料の中でも現在最も注目されているのはいわゆる“楚簡”である。一般的には戦国時代の楚の領域から出土した(及びそう考えられる)竹簡を楚簡と呼んでいる(近年では1994年に上海博物館が購入した「上博楚簡」・2008年に清華大学が収蔵した「清華簡」など、盗掘され骨董市場に流れたものを買い戻した、科学的発掘を経ていないものも存在する)。

しかし一口に楚簡と言ってもなかなか厄介で、中には果たして楚簡と呼ぶのがふさわしいのだろうかと思ってしまうような“楚簡らしくない楚簡”もある。例えば郭店楚簡(1993年、湖北省荊門市出土)『語叢一』『語叢二』『語叢三』『唐虞之道』や上博楚簡『緇衣』といった文献には字形・文字遣いなどの面で斉系文字の特徴が見られることが馮勝君『郭店簡與上博簡對比研究』(綫装書局2007年)等によって明らかにされ、その説は現在広く受け入れられている。また清華簡の『良臣』『祝辞』と呼ばれる文献は晋系文字の特徴を持つことが指摘されている。

前者に関しては、あくまで書き手は楚人で、斉系文字で書かれていた底本の特徴が残されていると考えられている。しかし後者に関しては書写者が楚人ではないと考える研究者もいる(福田哲之『清華簡「良臣」・「祝辞」の書写者』、『中国研究集刊』62:52-73頁)。その妥当性に関する議論はさておくとして、確かに可能性としては他国で書写された竹簡が楚に持ち込まれ、それが何らかの理由で楚人の墓に副葬品として埋葬されるということも有り得るだろう。ちなみに、楚墓から越王の剣や呉王の戈が見つかった例も報告されている(馮氏前掲書250-1頁。もちろんそれ自体が価値を持つような剣や戈と、当時の日常の書写メディアである竹簡とでは事情は異なるだろう)。また楚に於いて、他国出身の書写者が何らかの理由によって出身地の書写習慣に従って書くという可能性もまた無くはない。竹簡の出土が相次いでいるとはいえ、当時の書写文化や書籍の流通についての現在の我々の知識は完全ではない。

このように、上述の哈尔滨啤酒の中身がその実“武汉啤酒”であるのと同様(?)に、楚簡という“ラベル”だけで中身を判断してしまうと問題が生じ得る。つまり楚簡に記された文字や言語が必ずしも典型的な“楚文字”“楚語”という訳ではなく、特に地域的特徴を問題にする場合には資料を慎重に扱う必要があると言える。

竹簡に記された内容は、いにしえの聖人君子に関するものであったりするが、私のような凡人はこうした楚簡を見るにつけ、初めて哈尔滨啤酒を飲んだ時のことを思い出すのである。

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朗読・暗誦指導の難しさ

阿部慎太郎(天理大学)

今年度から着任した天理大学では、中国語の学内スピーチコンテストを年2回開催しており、1回生は7月に朗読、12月に暗誦の部で出場する。今年度の朗読課題は“一粒种子”、暗誦課題は“美丽的公鸡”であった。本学では、漢語会話班という学生主体の中国語学習サークルがあり、週2回1、2回生を中心に昼休みを利用して発音練習を行っている。本活動はこれまで2回生が1回生を指導していたが、今年度からは留学生や我々教員も参加し、指導することになった。その甲斐あってか、1回生は入学時から大きく成長したのが見て取れ、12月の学内コンテストが非常に楽しみであった。

学内コンテストまで残り一週間となった日、漢語会話班に参加している一人の学生に課題文の“美丽的公鸡”を指導していた時のことである。その学生は、すでに課題文を全文スムーズに暗誦し、一語一語を「正確に発音できる」状態であった。そこで最後の仕上げとして、表現力を高めるべくジェスチャーをつけて練習することにし、まず学生に自分の思うように表現してみるよう指示した。すると、学生は“公鸡公鸡真美丽,大红冠子花外衣,油亮脖子金黄脚,要比漂亮我第一”というセリフに対して、“大红”で手を使って真っ赤なトサカを表現し、“冠子”で服を着て、“花外衣”では首元を左手で触り、“油亮脖子”で足首から太ももにかけて手で妖艶に撫でる動きをしたのである。(ちなみに、“金黄脚”の部分は言うまでもなく何の動きもなかった。)

言葉と動作のあまりのズレに思わず笑ってしまったが、学生の一つ一つの動作は間違っていないのに、ここまでズレるというのは妙である。そこで学生に確認したところ、やはりこの一文の日本語の意味はしっかりと理解していたが、詳しく聞いてみると、どの中国語がどの日本語に対応しているかということをあまり考えず、「発音の正確さ」と「暗誦すること」だけに意識を集中していたと言うのだ。こうした問題は、決してこの学生に限ったことではないだろう。

一般的にスピーチコンテストの朗読・暗誦部門は、「発音の正確さ」が評価の大きなポイントであり、暗誦の場合はそれに加えて「詰まらず暗誦すること」が入賞するための絶対条件となる。初級段階の学習者にとって、正確に発音し、さらに暗誦するということは相当な練習時間が必要である。限られた時間の中で入賞するためにはこの2点を優先し、内容理解が二の次になってしまうのは致し方ないのかもしれない。しかし、たとえどれほど発音が正確で、完璧に暗誦できたとしても、その課題文の中国語が自分のものになっていなければ、一体何のための暗誦なのか、何のための練習なのか……と自分の中での葛藤が続く。来年度の指導課題が一つ増えた。

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編集委員会委員長に選出されて

秋谷裕幸(愛媛大学)

私が『中国語学』編集委員となったのは、2014年11月大阪大学で開催された第64回全国大会のことである。そして『中国語学』262号、263号の編集作業に参加した。毎年一回何気なく受け取っていた『中国語学』が、実は膨大な編集作業によって維持されていることを身をもって知った。これまでの編集委員会のすべてのメンバーに対し、とりわけ歴代委員長に対し、敬意の念を懐かずにはいられなかった。

今年9月6日から10月5日まで北京大学に滞在し、その間、中関村図書大廈と王府井新華書店で大量の中国語学関連図書を購入することができた。総重量は40キロくらい。もちろん、それらすべてを通読できるわけもない。ただ何となく巻末の文献目録に目を通したりはした。そこでふと気づいたことがある。『中国語学』に掲載されている論文がどうも見当たらないのである。私が主に研究しているのは福建省の方言であって、購入した図書もそれに関連するものがほとんどである。他の研究領域、たとえば現代中国語文法などの領域では事情が異なるのかもしれない。それにしても総重量40キロくらいの図書の中に『中国語学』掲載論文が見当たらない、少なくとも頻繁には出現しない。これはかなり深刻な事態ではなかろうか。

『中国語学』に掲載される論文は選りすぐりのものばかりである。263号の投稿論文採択率は21%であった。にもかかわらず、それらの中国語学界における影響力は絶望的に小さい(少なくとも私が知っている範囲では)。理由は明らかであろう。雑誌入手の難しさと使用言語(日本語)に阻まれ、掲載論文が想定される読者に届いていないのである。

今年の全国大会は立命館アジア太平洋大学で開催された。そこで編集委員会のメンバーが半分入れ替わり、三年目委員の私が新委員長に選出された。他に適任者はおられたし、自分自身の事務能力の低さもよく自覚している。研究時間の確保も難しくなろう。にもかかわらず私が固辞しなかった理由はただ一つ。残された二年の任期で上述した状況を多少なりとも改善するには委員長になっておいたほうがよかろうと考えたからである。

『中国語学』は毎年三月から十月までの長期にわたる編集作業をへて出版される。毎年一回の出版、これは決してゴールではない、スタートなのである。掲載された論文が多くの研究者に読まれ、評価され、中国語学における様々な研究領域の進展に寄与する。これこそが『中国語学』の目的でなければならない、そう私は確信している。そのためにできることを、今後二年間編集委員会委員長として取り組んでいきたいと思う。

もちろん以上は私個人の所感にすぎない。今後広く会員の皆様方のご意見を伺いつつ議論を進めることができればと思っている。

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村長への道、風車の弥七

山田敦士(日本医療大学)

私は中国雲南省に暮らす少数民族の言語文化を調査研究しています。盆地部の街から山麓の村に通い、一日を村内で過ごすのが日課。調査は午前午後2時間ずつが限度です。それ以外の時間はあちらで家畜の世話をしたり、こちらで飼料用トウモロコシの皮をむいたり。鍬も鉈も満足に使えない頼りない手ですが、それなりに引く手あまたと感じます。農村の若者は仕事を求め、村を出ていってしまうからです。

ずいぶん昔の話になりますが、とある山地民の村に滞在していた時のことです。一緒に皮むき作業をしていた村長から唐突に縁談をもちかけられました。村長の家には娘が二人。長女は別の民族に嫁ぎ、街に出てしまいました。そこで次女と結婚し、この村に残ってほしいというのです。突然のことで頭がパニック。何も返せず黙ってニコニコしていると、さらに一言。
「お前は村を大切にしてくれる。そして勤勉だ。村長になってほしい」
もう言語調査どころではありませんでした。

盆地よりマシとはいえ、気温は35度を超えます。日差しも強く、のどが乾きます。暑さと渇きは思考を狂わせ、考えを短絡的にするようです。日本に帰っても就職先はない。きっと食べるに困る。ここには鶏も豚もいて、米も野菜もある。村長になれば、きっと食べるに困らない。そういえば、マグロよりドジョウのほうが好きだ。村長になれば、きっと長居できる。グリーンカードだって申請できる。辞書を作り、民族誌を書いたら、日本に戻る道が拓けるかもしれない。両親には何と説明しよう。信州(故郷)と似ているから、案外気に入ってくれるかもしれない。私は知らず知らずのうち、村長への道を歩き始めていました。

招待所に戻り、水シャワーを浴びました。
短波ラジオをもって屋上に上がり、NHKの国際放送にチャンネルを合わせます。満点の星空のもと、こうやって日本を恋しく思うんだろうなぁなどと格好つけた矢先、一本の訃報が飛び込んできました。
「風車の弥七(中谷一郎さん)が死去」
幼い頃からの『水戸黄門』ファンにとってはたまらなく悲しいニュースでした。
「シャンティエン、なぜ泣いている?」
タバコをふかしている宿屋のおやじと、この悲しみをどうやって共有したらよいでしょう。民族語で説明するにはあまりにも力が足りません。漢語にしても、「忍者」の対訳なんて知りません。「风车大哥」ってなんだか安っぽい。村長への道は険しいものだとようやく悟りました。

後日談。
そんなことがあって以来、なんとなく足が遠のいていました。そして一昨年、十数年ぶりにその村を訪問する機会を得ました。待っていたらどうしよう。仕事とはいえ、内心はドキドキです。村は換金作物の景気にわき、街並みもすっかり変わっていました。そしてその中心には私よりずっと現実的な、イケメン村長がいたのでした。

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香港(中文大学)所感

西村英希(神戸市外国語大学/香港中文大学(日本学術振興会 特別研究員PD))

前回の読み物の末尾で、2019年の「第10届国際古漢語語法研討会」は香港中文大学で行われる旨が触れられていた。筆者はいままさにその香港中文大学に客員研究員として10月から滞在させて頂いている。

いまや周知のことかもしれないが、香港の大学の授業は基本的に英語で行われており、質問などを普通話で行う雰囲気は全くと言っていいほどない。ここ香港中文大学は、香港で唯一、普通話での論文執筆が認められている大学であり、大陸(ここではあえて香港で通用するこの呼称で呼ぶことにする)の学生も多く、キャンパス内でも少なくない普通話が聞かれるが、それでも、授業中の使用言語は一貫して英語のみである。そのような環境に身を置いたことのなかった私にはその点も魅力的だった訳だが、実際にその環境に入ってみると、当初はそれまでの己の怠惰を恨み、その後は苦行のような日々を送っている。

例えば私は、言語学科の院生向けに開かれたSyntax & Semantics(教員:香港、教員の研究対象:粤語)や、生成文法をよく理解していなかったことで色々なコミュニケーションに問題をきたしたことに端を発し、普通話及び英語を対象とした生成文法の授業(教員:大陸)を受けている。受講者も香港ないしは大陸出身者だが、授業内の使用言語が英語であることは暗黙の了解である。これが香港でも他の大学となると、そもそも普通話での論文執筆が認められていない訳だから、その傾向は自然とさらに強まることと推察される。

英語に関連して、人づてにお聞きした話で甚だ恐縮だが、ある先生は、日本国内で使用言語を英語に限った研究会を行われていることをお聞きした。また長期休み中には、そのレベルを保つ為に英語圏での滞在も欠かされないというお話もお聞きした。恐れ多いことだが、第一線で活躍する研究者のそのような姿勢を耳にして、こんな自分にも奮い立たされるものがなかったといえば嘘になるだろう。

研究においても、日々の交流においても、外界とより良い交流を持つ上で、「共同語言」が多いに越したことはない。それは普通話で言う所の「共通の話題」であり、同時に文字通りの、実際に使用する言語そのものと理解することもできるだろう。前者は我々言語研究者にとっての対象言語、或いは言語学の各分野であり、後者は様々な対話を可能にしてくれる言語というツールとして、どちらも欠かせない存在である。

願わくば、その交流の門戸をできるだけ開いておける自分でありたいと、香港の地で強く思った次第である。

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「第9届国際古漢語語法研討会」参加記

戸内俊介(二松学舎大学)

これは筆者が参加した「第9届国際古漢語語法研討会(isacg-9)」に関する記録である。日本からの参加者は筆者含め2人と少数であったため、日本中国語学会に少しでも本学会の存在を宣伝できれば、と思い、執筆依頼を引き受けた。

2016年7月29日と30日の両日、「第9届国際古漢語語法研討会」がベルリンで開催された。会場校はフンボルト大学。かの有名な言語学者ヴィルヘルム・フォン・フンボルトが創設した大学であり、また19世紀には印欧語比較文法研究の主要な拠点でもあった。

本学会は古代中国語文法の国際学会で、1994年に第1回が開かれて以降、2~3年に一度、会場を変えつつ、定期的に行われており、今回で9回目となる。なお前回はソウル・成均館大学で2013年に開催された。内容は古代中国語に関する研究であれば、どの時代のものでも発表可能だが、今回は上古中国語が多かった。参加者は、ドイツを始め、中国、台湾、香港、アメリカ、フランス、日本などからおよそ70人程度。研究発表をするためには、事前に発表要旨を提出し、査読審査を経ねばならない。発表言語は中国語或いは英語である。

国際学会は、その時々の研究全体の趨勢を把握できる場である。今回は上古中国語の能格動詞(ergative verb)に関する研究が目を引いた。というのも魏培泉氏及び蒋紹愚氏がそれぞれ能格動詞をテーマに発表を行ったからである。とりわけ、古代中国語研究の大家である蒋紹愚氏が上古中国語に能格動詞を認める発表を行ったことが印象的であった。

上古中国語の動詞分類に能格動詞という視点を最初に取り入れたのは、John S Cikoski氏の一連の研究An outline sketch of sentence structure and word classes in classical Chinese―Three essays on classical Chinese grammar:Ⅰ(Computational Analysis of Asian & African Languages no.8, 1978)及びAn analysis of some idioms commonly called “passive” in classical Chinese―Three essays on classical Chinese grammar:Ⅲ(Computational Analyses of Asian & African Languages no.9, 1978)である。しかしその後、何莫邪(Christoph Harbsmeier)氏の批判を受け、長らく等閑視されてきた。ところが、大西克也氏が〈施受同辭芻議―《史記》中的「中性動詞」和「作格動詞」〉(高島謙一・蔣紹愚編《意義與形式—古代漢語語法論文集》,Lincom Europe,2004年)で、Cikoski説を支持して以降、上古中国語の動詞分類に能格動詞を取り入れるという考え方は徐々に受け入れられつつある。なお、筆者の発表も、能格動詞に関するもので、甲骨文の能格動詞について論じた上で、それに基づき否定詞「不」と「弗」の機能的差異を検証した。

次回の「国際古漢語語法研討会」は2019年に香港中文大学で開催される予定である。

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「香菜」

宮島琴美(首都大学東京・非)

8月初旬に実家に戻った時、ベランダのちょっとした父の自家菜園の中に、2、3センチほどの野菜を見つけた。その野菜に近づき、香りをかいてみたら、すぐ“香菜”だと分かった。この長さの“香菜”は、まだ食べ頃ではないが、以前に食べた記憶がある。

それはまだ中国で生活していた時、小学校3年生の夏の出来事だった。庭にある家庭菜園を世話している母の近くで遊んでいたら、母に“别玩儿了,把那片儿香菜薅薅”と言われた。私は言われた通り、2分足らずで“香菜”を全部綺麗に抜きとった。母に“薅完了”と報告すると、私が握っていた抜き取ったばっかりの“香菜”を見て、母の雷が落ちた。“谁让你薅香菜了?我让你薅那里边儿的草”と激怒した母に「你也没说薅那里的草呀!」と弁解したら、ビンタが飛んできそうになった。その日の夕飯がどんな献立だったのかは思い出せないが、抜き取ったばかりの2、3センチの“香菜”が食卓に出てきたのをはっきりと覚えている。

みなさんは“把那片儿香菜薅薅”と聞いて、どちらの意味で理解するでしょうか?ある時、家族で食事をしたときに、冬瓜スープにのせられた“香菜”を見て、母にビンタされそうになった「事件」を思い出し、その言葉の意味について聞いてみた。義理の姉も兄もみんな口を揃えて「“香菜”畑の中の“草”を抜く」と答えた。さらに、「下放」を経験した義理の兄には、「農家は、铲地/铲黄豆/铲玉米といった表現を使うが、もし君に「今天小赵去铲地/铲黄豆/铲玉米。」と指示したら、きっと地面を削り取るか、大豆やトウモロコシの株を全部削り取って、大惨事になるに違いない」とからかわれた。

よく考えると、“洗温泉、吃食堂”と同じように、“铲地/铲黄豆/铲玉米”の目的語は、意味的に「畑/大豆畑/トウモロコシ畑」といった「場所」を示し、いわゆる“铲地里/黄豆地里/玉米地里的草”という意味の文である。同様に、“把香菜薅薅”も“把香菜地里的草薅薅”という意味で解釈することができる。

やっと今になってその言葉の真相が分かり母に謝りたいが、果たして、私の思いが天国にいる母に届くでしょうか。

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もうすこしで見逃しそうになった話

植屋高史(京都外国語大学)

日本中国語学会メールマガジン第5号(2006年10月発行)で方言調査について書かせていただいた。そこでは調査地については書かなかったが、広西チワン族自治区で話されている六甲話を調査した際の話であった。今でも時間を見つけては現地に足を運んでいる。

その頃と比べると、調査環境は大きく変化した。まず、交通アクセスが格段に便利になった。当時は桂林からの高速道路が整備されていなかったので、バスで6時間近くかかった。しかし、今は高速道路どころか高鉄まで通ってしまい、桂林北駅から三江南駅まで乗車時間はなんと30分である。インフォマントとも微信を使えば日本にいながらにして、常時コミュニケーションがとれる。それだけ環境が改善されても、調査が遅々として進まないのは、これはもう調査者の怠慢というしかない。

語彙調査自体は調査表をつかって一通り調べ終えているのだが、自信を持てないところも多いので、分野毎に確認作業を行っている。昨年夏の調査では、主に親族名称について調べた。これまでに私が収集した親族名称を一つずつ発音して意味を確認していった。

その日、私が「配偶者の父親」にあたる語を読み上げると、インフォマントは「う〜ん」と首をひねったまま考え込んでしまった。約束していた調査時間を大幅に過ぎていたこともあって、その日の調査はそこで切り上げた。翌朝、インフォマントは部屋に入ってくるなり、「昨日の話だけども…、配偶者の母親の姓は何なの?」と聞いてきた。状況の把握ができずにいると、「義理のお母さんの姓がわからないと、義理のお父さんの名称もわからない」のだと言う。六甲話においては、自分と義理のお母さんが同姓ならば「父の姉妹」扱い、姓が異なるのならば「母方の姉妹」扱いとなる。また、その際、義理のお父さんはそれぞれ「父の姉妹の夫」「母の姉妹の夫」にあたる言い方になるのである。ちなみに、私が前日に読み上げた「義理のお父さん」は「母の姉妹の夫」に相当する語であった。もう少しで重要な語を見逃すところだった。

『三江県志』によれば、六甲人というのは宋の時代に、福建省汀州府から12の姓を名乗る人々が移り住んできたのだという。彼らがどこからやってきたか、ということの真偽は横に置いておくとして、実際、六甲人の姓は数がかなり限られている。当然、義理の母が同じ姓であるケースも多くなるのだろう。

三江に足を運ぶようになって、10年が経とうとしている。前回エッセイに書いた、六甲の裏山で、私の「ミカン」の発音を何度も直してくれた少女達のほとんどは結婚して母親になった。町で見かけた際に、「義理の両親」をどのように呼ぶか、尋ねてみたら、普通に「おとうさん」「おかあさん」でいいんじゃない?とのことだった。いけない。新感覚の六甲人が現れてきている。これはのんびり調査している場合ではなさそうだ。

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いものはなし

鈴木史己(京都大学・非)

京都大学中国語学中国文学研究室では、月に一回のペースで京大名誉教授の興膳宏先生にご指導いただいて読書会が開かれている。以前は古典の輪読形式であったが、現在は、未完であった吉川幸次郎『杜甫詩注』第六~十冊の遺稿が興膳先生の編集によって岩波書店から出版されるのにあわせ、そのお手伝いもかねて吉川先生の遺稿と興膳先生が補充されたものを整理・検討する形式で会が継続されている。

私はすっかり幽霊会員になってしまったが、そうなる前、杜甫が秦州から同谷へと移住する際によんだ「發秦州」(第八冊160-170頁所収)を検討した回のことである。「充腸多薯蕷、崖蜜亦易求。」という二句を、吉川先生は「腹をこなせるさつまいもも多ければ崖の蜂蜜もさがしやすく」(第八冊162頁)と訳し、「薯蕷」に「宋人の注にいろいろいうが、要するに芋。」(第八冊166頁)と注釈されていた。確かに「要するに芋」ではあるのだが、「薯蕷」は一般にヤムイモ系(ナガイモなど)を指す。総称として「イモ類」の意であるとはいえ、タロイモ系(サトイモなど)を指すことの多い「芋」をわざわざもちだすのはいかがなものか。そのうえ、「薯蕷」の訳に八世紀の中国に存在するはずのないサツマイモをあてるのはさすがにまずい。私がイモにちょっとうるさいことを知る他の参加者の期待(?)の眼差しを感じながら、会ではめったに発言しなかった私でもこれには口を開かざるをえない。「要するに芋」は念のため誤解を避けて「いも」または「イモ」とするのが無難であり、「薯蕷」を「さつまいも」と訳すのはあんまりだと申し上げた。

このような一見些末なことにこだわると好奇の目で見られることがあり、この時も他の参加者たちは笑いを禁じ得ない様子であったが、発言した当人は大まじめである。そういえば、ある学会でジャガイモが中国固有の植物であると主張した研究者がいたと聞いたことがある。しかし、その呼称の語形式が示す特徴は明らかに外来事物のそれであり、中国固有とは考えにくい。「要するに芋」、されどイモ。たとえどんなに些末なことであっても、やはり突きつめて研究する価値があると考えたい。

ちなみに、刊行された『杜甫詩注』第八冊を確認すると、残念ながら私の意見はいれられなかったようである。遺稿がほぼ完全にそろっていた箇所で、吉川先生独特の名調子を変更するのは忍びなかったのかもしれない。

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「やばい」について

大西博子(近畿大学)

最近よく「やばい」という言葉を耳にする。「出席しなければやばい」、「単位やばい」など、たいていは不都合な状況や危ない状態を表す形容詞として、あるいはそういった時に発せられる感嘆詞として、耳に入ってくる。

去年、あるクラスで中国語学習に燃えている学生がいた。彼は、1年次に週2コマ中国語を履修し、熱心に受講していたが、目立って優秀だという印象は、正直なかった。しかし、2年生になって、彼は変わった。前期は受験、後期は合格を目指す「検定中国語」という科目で、「6月実施の中国語検定試験で、4級に合格したら、学科創設以来の快挙につながる。合格者は、(大学受験生向けの)学部案内のパンフレットに載せてもいい」などと発破をかけたら、彼がこの言葉に奮い立ち(?)、見事合格してくれた。こちらとしては、全くの予想外(彼には失礼だが)だったので、とりあえず学部のホーム・ページに載せるということで納得してもらった。その合格の知らせをクラス内で発表したときの彼のセリフが印象的だ。クラスメートから、「○○(彼の名前)4級合格、やばいな」と言われた後、彼は真顔でこう答えた。「やばいです」。

「やばい」という言葉は、本来はマイナス評価を持つ語とされるが、学生たちの使う「やばい」には、プラス評価も含まれるので、解釈に迷うことが多い。先ほどのクラスメートの「やばい」は、褒め言葉だと解釈すると、彼自身のセリフも、プラス評価になるのか。ちなみにこのセリフを中国語で表現したらどうなるだろうか。中国からの留学生に尋ねると、クラスメートの「やばい」は“厉害”で表現できるが、彼自身の「やばい」は“我很厉害”とは言えない。どう訳したらいいかと首を捻られた。

しかし、ここでまた新たな疑問が湧いてきた。中国語の“厉害”は、学生時代、「ひどい」という意味で習ったが、今では「やばい」という意味で使うのか。5名の中国人留学生に“厉害”の日本語訳を聞いてみると、全員が「すごい」と訳すと答えてくれた。

「すごい」と聞けば、なぜだか良い意味合いを強く感じてしまうが、よくよく考えると、悪い意味合いにも取れる場合がある。例えば「あの先生はすごい」と言われると、褒められている気がするが、「あの授業はすごい」と言われると、貶されている気にもなる。

このように考えていくと、私たちの身の回りには「やばい」に限らず、「すごい」などプラス評価にもマイナス評価にも使える語があることに気付かされる。それも日本語に限らず、中国語にも“厉害”などのように、どちらの評価にも使える語があるなんて、言葉って本当に面白いと思う。なんだか、やばくなってきた。

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師説

金城ひろみ(琉球大学)

「“炒鱿鱼”の語源が分かりますか?」
10余年前、大学院の説明会で満面の笑みを浮かべ、我々学部学生に問いかける先生がいた。
「皆さん、大学院に進み、中国語学のどういうことを学びたいですか。」「中国語学の何を深めたいですか。」「研究とはどういうことだと思いますか。」、矢継ぎ早に質問を投げかけてくるが、それは決して我々を追い込むことはなく、むしろ、学部学生一人一人を尊重した、極めて謙虚な話しぶりであった。
“炒鱿鱼”、“开夜车”など、ある程度、中国語を学習すると暗記させられる基本的な慣用表現。それを例に挙げ、中国語を学ぶということ、さらには何か焦点を絞り、掘り下げ、研究していくということ、その真理への探究について熱っぽく語ってくださった。 当時は新出単語、慣用句はまず単純に暗記し、自分の中で少しずつ増えていく中国語知識をかみしめ、そのちっぽけな成就感に浸っていたような気がする。

そんな学部学生に優しい言葉で目を覚まさせてくれたのは、あの金丸邦三先生であり、それが私にとって、金丸先生との衝撃的な出会いでもあった。

学部時代は、中国語学が専門ではなかったため、金丸先生の講義を受講するチャンスはなく、「有名なお堅い研究者」というイメージでしかなかった。初対面の時に、まさか「柔らかい」表情でお話ししてくださるとは夢にも思わなかったのである。

当時、大東文化大学に外国語学研究科が設立して間もない頃で、中国語学研究の「大御所たち」のもとで学ぶことができ、私にとって実に幸せな時代だったと今でも感謝している。

新年度、大学の業務に追われるなか、ふとあの時の金丸先生の言葉を思い出した。学生たちに向けて、果たして何を伝えられているだろうか。金丸先生がおっしゃっていた研究心、教育心を育んでこれているだろうか。

“師者所以伝道授業解惑也。”

金丸先生が旅立たれて、この4月で1年になる。あの説明会で目をキラキラと輝かせていた金丸先生のように、研究においても、教育においても常に謙虚に前向きでいたい。冒頭の“炒鱿鱼”にはならぬよう、日夜研鑽したい。

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ラジオからの贈り物

楊 安娜(北海道大学・院)

四年前、友人の紹介で、ボランティアで札幌市の某ラジオ局の番組のDJを務めることになった。月一度、一回1時間の生放送の番組の中で、札幌の天気、北海道の観光イベンド、中国のニュース、中国の歌、中国語のワンポイント講座など地元の情報および中国に関する情報を発信している。

時おり中国とゆかりのある方、例えば、中国に留学経験のある社会人、大学で中国語教育に携わる大学講師、中国語の勉強を始めたばかりの在学生などをゲストとしてスタジオに招く。トークの話題はその都度違い、中国の飲食文化から社会事情、中国語勉強の失敗談、中国で出会った不思議なことまで様々である。しかしなぜか毎回決まって「食べ物」の話題で盛り上がり、時間の切り上げに一苦労するはめになる。

数多くのゲストの中で、その後も親交続いているのは田さんと田さんの奥さんである。田さんの奥さんは、戦後中国から帰国した日本人、いわゆる「中国帰国者」であり、田さんは純粋な中国人。番組中、二人はとても懐かしそうに昔のことを語ってくれた。二人の知り合いは50年ほど前、中国の「地方劇団」の先輩と後輩の関係だった。後に、二人は恋におち、結婚した。結婚当初、田さんは、奥さんが日本人孤児であることを周囲に隠しながらも、穏やかに暮らしていた。日中国交正常化の後、奥さんの希望もあり、田さんは子供とともに、日本にやって来た。日本での生活は慣れてきたものの、言葉の壁は大きく、いまだに不便を感じることがあるとか。番組のエンディングに、田さんは自慢の「京劇」を披露してくれた。プロの京劇役者ならではの迫力のある歌声だった。それから、オンエアしなかったが、ここ数年、日本政府からの帰国者支援金予算が大幅に減少したため、高齢の帰国者向けの企画やイベントが少なくなり、家に閉じこもる人もいると田さんから聞いた。いつか世間からの注目がなくなり、そして彼らの人生を大きく変えたあの歴史も忘れられるだろうと思うと、心が痛む。

もう一人、今でも忘れられないのはラジオネーム「南京虫」さんだった。性別不明、年齢不詳のリスナーの一人だった。番組中いつも熱心にメールを送ってくださったが、時々厄介な質問やコメントもしてきた。中国政府はなぜこんな政策をとるか、中国はこういうところがだめだとか、かなり危険な投球ばかりだった。私の中では、ひそかに「南京虫」さんを「要注意人物」と認識していた。しかし、ある日、突然番組に、「南京虫」さんからメールが来なくなった。気になって、番組のプロデューサーに聞いてみたら、「南京虫」さんは先日なくなられたと。生前最後にラジオ局あてに送ってきたファックスの中に、私たちの番組を毎回楽しみに聞いていた、ありがとうといった内容が綴られていたそうだ。それを聞いて、胸が熱くなり、思わず涙がこぼれた。

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“担架”は「けが人、病人を運ぶ器具」か?

植田均(熊本大学)

“担架”は、現代共通語では一般に名詞として「けが人、病人を運ぶ器具」を表す。《现代汉语词典》(第6版)に“(名)医院或军队中抬送病人、伤人的用具,用竹、木、金属等做架子,中间绷着帆布或绳子:一副担架”とあり、また、『東方中国語辞典』(2004年版)にも「(名)担架」とあるのみ。現代中国語ではいずれも名詞の用法しかない。

ただ、次の例はどうであろうか。《醒世姻緣傳》からの例。
(1)老吳婆子說:好奶奶,這還待怎麼。同奶奶要多少纔是夠,可也要命擔架呀。《醒世姻緣傳》(49.13a.8)([注]数字は左から章回数、葉数、aはオモテ、bはウラ、行数。また、ここで挙げる例文は全て影印本のままの表記で載せる。以下、同じ。)

《醒世姻緣傳》は明末清初成書と言われている。作者は、山東方言が多く見られ山東人だとは判明しているがそれ以上のことはまだ分からない。上記(1)の日本語訳を早速訳者左並旗男氏《醒世姻緣傳》で調べた結果、次のようにしている。

「とんでもないことで!それで十分でございます。それだって頂いて帰るのに担架でもいるほどでございますよ」([注]左並旗男訳『醒世姻緣傳』発行元兄弟舎は、全編にわたり日本語がよく練られており、素晴らしい水準であると筆者は大いに評価している。)この訳には明らかに名詞「担架」の語を用いている。

ところが、「(乳母に対する報酬の贈り物を)頂いて帰るのに担架がいる」というのは、どうしても引っかかる。普通は、贈り物に対してはロバやウマ等に大八車で引っ張らせて帰るからである。

(1)の“可也要命擔架呀。”の訳は、ひとまず擱き、“擔架”(“担架”の繁体字)は、《醒世姻緣傳》の他の章回ではどのように使用されているのであろうか。以下、(2)、(3)が見られる。
(2)但是天下的財帛也是不容易擔架的東西,往往的人家沒有他,倒也安穩。(94.6b.5)
この“擔架”は、動詞「世の中のカネを引き受け保持するのは容易ではない」を表し、名詞ではない。《漢語大詞典》(第6卷p.923)にはこの例の“擔架”を“承受”の意味だとする。さらに明らかに動詞の例を挙げよう。
(3)你得了這个,就是造化到了,那裏就擔架不起。(34.5b.9)
“那裏就擔架不起”は反語で「どうして幸せを享受できないことがあろうか」を表し、“擔架”は名詞ではない。晁瑞《<醒世姻缘传>方言词历史演变研究》(2014;307)ではこの“擔架”を“担当”(引き受ける、担当する)と解釈している。

ここで、最初の(1)の例“可也要命擔架呀。”に戻ろう。
“要命”は程度の高いことを表す「とんでもない」で、“擔架”は“承受”を表す動詞が妥当ではないだろうか。日本語では「享受する」では如何でしょうか。普通の日本語では「それじゃ、とんでもないありがたき幸せになってしまいます!」とでもなりましょうか。(左並訳は、日本語が的確で、我々にとって益するところ甚だ大である点は何ら変わらない)。

現代中国語では名詞「担架」の意味でしかない“擔架”(“担架”の繁体字)は、明末清初の《醒世姻緣傳》では動詞でしかなかったのである。いつから「担架」として使用されたのか、また、動詞の用法はどうなったのか、それは別の機会に。 我々日本人は、中国語の“担架”は同じ名詞の「担架」であると、同形異義語であるがゆえに想像してしまいがちである。(2016.1.5)

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「中国語SNSのブラックユーモア」

朱鳳(京都ノートルダム女子大学)

中国では「相声」、「小品」、「滑稽戏」など音声言語によるユーモア表現が大衆に親しまれているのはよく知られているが、近年WeChat(微信)などのSNSが普及するにつれ、文字言語によるユーモア表現も頻繁にインターネットに投稿され、瞬く間に中国のネット社会に拡散していく。

例えば、中国人にとって非常に身近な四字熟語をもじったこのような投稿がある。「国家教委对以下几个成语重新作出解释,现优先公布:【夫唱妇随】丈夫去歌厅,老婆尾随跟踪。【杯水车薪】形容每天上班办公室喝杯茶,月底可以拿到买一辆车的工资。【见异思迁】看见漂亮的异性就想搬到她那里去住 。【知书达礼】仅知道书本知识是不够的,还要学会送礼」。

名も知れない一般民衆が、日常生活や人間関係、社会問題などへの不満、批判を軽妙な語り口で書いているのが特徴である。「夫唱妇随」、「见异思迁」、「知书达礼」へのパロディは、急速に経済発展をとげている中国社会の負の一面を庶民の目線からシニカルに暴露し、読者の笑いを誘う。「杯水车薪」は公務員、官僚への不満をストレートにぶつけるのではなく、幾分の羨望をにじませながらも、ブラックユーモアふうに発散している。

一方、同じ言葉もじりの英語造語も中国語SNS空間をにぎわせている。「Shitizen (屁民)」、 「Chinsumer (在国外疯狂购物的中国人)」、 「Sexretary (女秘书)、 「Animale (男人天性)」などなどには思わず抱腹絶倒してしまう。「Sexretary (女秘书)」、「Animale (男人天性)」はまるで風刺漫画の一コマのようで、中国だけではなく、世界のどこでも存在している人間臭さがぷんぷんしている。「Shitizen 屁民」は一見罵る言葉に見えるが、真の「Citizen」に未だになりきれていない自分や一部の中国人への自虐にも聞こえるし、痛快な一喝にも聞こえる。2015年日本の流行語にもなった「爆買い」の英語版造語「Chinsumer (在国外疯狂购物的中国人)」などもまさに言い得て妙である。

中国語SNSに新しく流行している、時には自虐とも捉えられる中国人のブラックユーモアには、現実社会への鋭いつっこみやさまざまなメッセージがこめられている。読者にとって、呵々大笑のうちにしばしストレスを忘れさせてくれる、一服の清涼剤になると言えるだろう。

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「「新月」と“新月”(「しんげつ」と“xin1yue4”)」

鋤田智彦(早稲田大学・非)

私は大学で非常勤講師として初級中国語を教え何年かになります。最近の教科書のほとんどは新出単語に日本語訳がついていますが、今年あるクラスで使った教科書では、今となっては珍しい部類に入るでしょうか、課ごとに新出単語は提示されているものの、意味については学生自身で調べる形のものでした。新出単語の意味については予習をさせるという観点から、授業の初めに単語テストを行うようにしており、ある日の小テストで“月牙儿”という語を出しました。当然こちらとしては日本語の意味として「三日月」という答えが書かれると踏んでのことです。実際にそのように書いた学生が多くを占める中、一部の学生が「新月」と書き、この答えはどうかと聞いてきたので、私がそれではいけないと答えたところ、その学生はいやいや辞書に書いてあると不満気な様子を見せました。こちらとしても気になったので、確認をすると辞書には確かに「“新月”と同じ」というように記載されていました。おそらくその学生はそれを見て「新月」と答えたのでしょう。しかしこれはもちろん、“月牙儿”が中国語の“新月”と同じく、共に「三日月」を表す語であるということを示しているのであり、日本語の「新月」が一般的に旧暦一日の全く見えない月を指すのとは異なります(とはいえ、日本語の「新月」も「三日月」の意味で使われることはあるようですが)。中国の辞書でも日本語で言うところの「新月」同様に見えない月を表す語としての意味の記載はありますが、やはり第一に思い浮かぶのは三日月の方であるようで、そちらの意味を先に載せています。後日、他の日本人学生と中国人学生がそれぞれ数人ずついるクラスで、試しに黒板に「新月」とだけ書き、「ちょっとこれを書いてみて」と言ったところ、すぐに描き上げる中国人学生に対し、日本人学生は思案顔。そう、さっと書ける三日月に対し、日本人学生は見えない月をどう書こうか悩んでいる様子でした。その後日中それぞれの学生で見せ合い、お互い驚いた様子で納得し、それは予想通りの結果ではありましたが、改めて中国語と日本語、同じようで違う、だからこそ見落としがちで難しいことに改めて気付かされた出来事でした。

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「从“去”被译成“行ってくる”想起的」

王周明(大阪大学)

写这篇短文,是最近在汉语课上教到“我去看看”这个内容之后决定的。“我去看看”是一个在初级汉语学习阶段就可能接触到的十分普通的例子,如果要做语法说明,一般教科书上会介绍两点:连谓结构和动词的重叠用法。我自己也是这么教过来的。可是最近却注意到在不同的班上,这句话不止一次地被日本学生脱口译成了“ちょっと見てくる”,虽然他们中的大多数随后立马订正为中规中矩的“ちょっと行って見る/見に行く”。如此情形再三出现,终于触动了我这个日语门外汉的粗神经。

日本人临行出门前通常都会对家人说上一句“行ってきます”,中文译为“(我/我们)走/去了”。如果说话人有意将自己的最新动态与听话人分享来制造话题,也往往使用“してきた”,例如“昨夜映画を見てきた”,译成中文就是“昨晚去看了一部电影”。而在没有上下文的情况下,再将这两句中文译成日文,估计十有八九就变成 “行った”和“昨夜映画を見に行った”了。换句话说,汉语的动词“去”,本义上确实跟“来”相对,二者突出的都是[−往返]这一语义特征;但是在一定语境下变得可能兼容彼此,从而变[−往返]为[+往返];不过语义上的这种变化在句子形式上却无须体现出来。例如“可以进来吗?”这一问句,就是在说话人自动切换成听话人的角度来请求听话人许可的前提下成立的。

大多数时候,我们会使用“数词+趟”来突出某种动作行为具有往返特征,例如“他打算去一趟北京。”但是这种做法并不是绝对的。至少有以下两种例外。例如“那边有什么?我去看看。”这就是日本学生不自觉地译成“してくる”的一类,而这句话意味着说话人并非一去不复返,而是打算在看过之后就回来把看到的情况告诉听话人,所以来来去去也不打算费时太久(借助重叠用法或是与动量补语“一下”共现来表示)。这一类说法不能再加上“来”类趋向补语来表示有回程,“我去看看来/我去看来”都不能说。

再如“你喜欢吃什么?我去买。”这里的“我去买”也是译成“私は買ってくる”比译成“私は買いにいく”更为贴近说活人想表达的意思,即说话人是打算买到之后再把东西带回来给听话人的;只是整个过程究竟费时多久无法保证(因此无法借助重叠用法等来表示,“我去买买”不能说,“我去买一下”从上下文关系来看也似不妥)。正如“我去买”可以扩展成“我去买(来/回来)”,这一类说法可以再加上“来”类趋向补语来表示有回程。

最后想谈一下拿这篇观察尚嫌粗略、内容多属信笔、行文缺乏严谨的短文来献丑的动机。

今年日本中国语学会全国大会的演讲会上,杉村博文老师向杨凯荣老师提的一个问题让我印象深刻:为什么“(是)谁来的上海?”能说,省去了“上海”的“(是)谁来的?”却不能说?据我所知,迄今为止,大多数从事汉语教学研究的人们对“是……的。”句的一般理解是:可以用这一句型来强调与谓语动词所表述的过去已经发生的动作行为有关的时间、地点、方式、目的、原因和施事;宾语所表述的内容不在上述范围之内,所以“(是)谁来的上海?/(是)谁来上海的?”都可以说。然而把理论上无关紧要的原有宾语删去却造成了说法不成立。杉村老师这一句观察敏锐的为什么,估计问倒了在场的好一些人,杨老师当时的反应亦可为证:“以前我在大阪外大念书的时候,就常常被杉村老师问倒,今天还是这样。”

我也非常关心上述问题的答案,目前只是觉得问题很有可能出在动词“来”(暂且不论这个感觉对错与否)。因为稍微改头换面一下,“(是)谁去的?/(是)谁来了?”都可以说,偏偏就是“(是)谁来的?”不能说。直接的答案苦于没有能力深究,于是只好班门弄斧,另寻蹊径来比较“来/去”除了本义对立之外的异同点了。

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「民間中国語スクールにおける中国語ネイティブ教師の現状」

黄慧(東京外国語大学・院)

私は2005年から民間中国語スクールで中国語を教えています。現場では様々な問題を抱えているものの、これまで民間中国語スクールにおけるネイティブ教師の現状や抱えている問題などについてはほとんど言及されていません。しかし、都内には数多くの語学スクールがあり、そのアンケート結果によれば、ゼロからの学習者が約75%を占め、中・上級学習者が約20%、上級学習者は稀であることが分かりました。学習者は、ビジネス場面(趣味15%)での使用を目的とし、主にプライベートレッスンを行っていることが分かりました。以上から、中国語学習を支えているのは民間語学スクールであり、その役割がいかに重要であるかがわかります。民間語学スクールにおける教師の現状を調査すべく、アンケートを行いました。(パイロット調査として20人の教師)

まず、雇用形態はアルバイトとして契約している教師がほとんどです。教歴は6か月~10年以上と幅がありますが、小規模語学スクールの教師ほど教歴が短く、大手語学スクールほど教歴が長い傾向があります。年齢層は主に二分化され、大学・大学院生の教師群と主婦群が最も多いことが分かりました。「教えるための十分な知識を身につけているか」についての質問には、約80%の教師が「あまり自信がない」と答えています。これを踏まえ、「教師研修を受けたことがあるか」との質問から、一部大手語学スクール以外は、教師研修を行わないことが分かりました。小規模語学スクールでは、教師研修にまで時間やお金を割くことができないからではないかと思われます。

「説明できないなど困ったときにはどうするか」との質問には、「ほかの先生に教えてもらう」と回答した教師が約60%を占め、「自分で調べる」と回答した教師が約30%を占めています。このように教師の経験不足が目立っていますが、一方で学習者はより安い語学スクールを探し、小規模語学スクールにたどり着きます。知識と経験不足の教師に研修を受けさせ、語学の知識および適切な教授法などを身につけさせることがいかに重要になっていくのかが分かります。

「レッスン中に使用する主な言語」について質問したところ、90%の教師が「できるだけ中国語でレッスンするように」と指示されていることが分かりました。しかし、複数の教師から「直接法に少し抵抗がある」との回答があり、特に短期間で習得を目指す学習者に対しては媒介語を使うことが望ましいと考える教師が多いことも分かりました。学習者のニーズに合わせて、直接法と間接法をうまく使い分けることが今後の課題になっていくのではないかと思います。

「レッスンを行う際に最も気を付けていること」について質問したところ、本人への評価につながるためか、学生の反応を最も気にする教師が多かったです。それに比べ、ベテラン教師は気持ちに余裕があるため、学習項目の完成度に気を配っています。

最後に、「中国語教師として最も悩んでいることは何か」という質問に関しては、以下のような回答がありました。(1)学習者とのコミュニケーション、(2)学習者のやる気をどのようにキープしていけばいいのか、(3)反応が薄いため、少し不安がある、(4)問題にぶつかったときに教えてもらえる人がいない、(5)一人で教えている孤独感、(6)学校側と教師側の考え方の不一致がよくある、(7)学習者のレベルアップが感じられない、(8)宿題を出しても忙しいからとまったくしてこない、(9)授業以外にもかなり時間を使っているもののそれに見合う給料をもらっていない、(10)教授法や指導法、聴解、読解、中国文化の取り入れ方などが分からないなど。このようにたくさんの悩みを抱えながらも解決する方法が分からず、一人で悩んでいる教師がたくさんいます。そのため、教師への支援が重要な位置づけになってくるのではないかと考えます。教師側からも自由意見を述べる欄で、「教師養成講座をしっかり受け、正しい教え方や語学の知識を身につけたい」という意見が多数見られました。

今回は日本中国語学会のメールマガジンを執筆する機会をいただいたことがきっかけで、今まで気になっていることについて調べることができました。紙幅の関係上一部しか紹介できませんしたが、教師研修を受けていない教師が中国語を教える際には様々な問題や悩みを抱えている現状に触れました。しかし、多数の日本人学習者は、このような問題点を抱えながら悩んでいる教師に教わっているのも事実です。このような現状を改善するためには、どのような支援をしていくべきなのか、さらに考えていく必要があると思われます。今後大学や中国語関連機関などにおいても、民間教師のための教師養成講座の開設などを検討していく必要があるのではないかと考えられます。

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「媒介言語のことなど」

中西裕樹(同志社大学)

広東省東部の海豊県に居住するショオ族の言語(畲語Shēyǔ)の調査を細々と続けている。ショオ語は系統的にはミャオ・ヤオ語族ミャオ語派に属する一言語だが、言語構造は他のミャオ・ヤオ語と異なる部分も多い。客家語を主とする周囲の漢語方言との接触による変化がその要因の多くを占めると考えられている。他県市に居住する人も含めた総話者人口が約1,000-1,500人という危機言語でもある。

海豊県のショオ族はすべて客家語とのバイリンガルである。これに加えて、行動範囲・様式によっては、近隣の鵞埠鎮で話されている尖米語(閩粤客の混合方言と言われる)、海豊県の行政言語である海豊閩南語、広東省のlingua francaの広東語(粤語)および標準漢語(普通話)が使える人もいる。私のコンサルタントのLさんはこれらすべての言語・方言に通じており、同じひとつのことをいずれの言語・方言でも表現できる希有な人物である。

Lさんとの会話は出会ったときから現在に至るまで基本的に標準漢語で行われている。海豊ショオ族の話す標準漢語はわかりやすいものの、いわゆる「地方普通話」的な要素も見られる。Lさんだけの発音の特徴か同世代に広く見られる現象かどうかははっきりしないが(Lさんの子どもにはない特徴)、標準漢語の f- が hu- で出てくることがある。これは海豊閩南語の影響だろう。しかしながら日常生活で閩南語より使用頻度が高い客家語にも母語であるショオ語にもf-は存在するので(つまり f- は発音できる)、Lさんが海豊閩南語地域で教育を受けたことによるのかも知れない。f-よりもhu-にprestigeを感じているのだろうか。語彙で印象的なのは、世代を問わずよく使われる「不怕」という言い回しである。はじめて聞いた時は何のことかわからなかったが、しばらくして標準漢語の「没関係」や「没事(児)」に相当するものだということに気がついた。これは恐らく客家語の「唔驚」のcalqueだろう。広東語にも「唔使驚」という言い方があるから、この地域に広く分布している表現なのかも知れない。

以上は媒介言語そのものについての調査者とコンサルタントの理解の違いの例とも言えるが、言語調査では媒介言語と対象言語の間の指示対象のずれ(意味範囲の違い)も問題となる。北京語と南方漢語の間には文法も含めて、かなりの違いがあることが報告されている。ショオ語は南方で成立したことが確実な言語であり、上述のとおり南方漢語との接触により変容してきている。それならば、媒介言語を南方漢語にしてみたら、あるいは何かわかるのではないか。そこで昨年の文法調査ではマシューズ&イップ『広東語文法』(東方書店、2001年)を主として、広東語の例文を使ってみた(私の広東語は街ではまったく使い物にならないが、書いてあるものを発音することはなんとかできる)。

その結果、新たな発見がいくつかあった。例えば、標準漢語の「先」にあたる語はショオ語ではka6 tha2(または縮約されてka2)というが、これまでの調査では主語の後ろ述語の前という位置にしか出てこなかった。南方漢語でこれが文末に現れることは常識だから、文末に置けるかどうかも何度も質問してきた。それでも常に文末は不可という回答だったのだが、広東語を使った調査では「先」にあたる語が文末に出てきたのである。ただし、ka6 tha2ではなく標準漢語の「才」に相当するʦɔŋ1という形であった。広東語との関連で言うと、広東語の「先」は標準漢語の「先」と「才」の双方と意味的に重なる部分があるところが興味深い。ショオ語のこの現象が媒介言語の影響を受けて「出てきてしまった」ものであるかどうかは、今後の調査でさらに検証していく必要があるだろう。

このような経験をすると、やはり母語話者ないしは現地で使われている二つ以上の言語・方言に通じた人も調査をしてくれたらと思う。現在の現地の情況では前者については現れそうもない。後者を探しつつ自分の調査能力と語学力を高めるべく努めていくしかないだろう。ショオ語が危機言語であることを鑑みると、まさに時間との勝負である。

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「日本的“直接法”汉语课堂」

姚伟嘉(桜美林大学/同済大学)

三年前,我受中国国家汉办委派,来到日本樱美林大学孔子学院工作。一到孔院,就被告知,院方希望我在课堂上完全使用汉语,即用“直接法”授课。这对日语“苦手”的我来说,实在是个福音,但也禁不住担心——在中国,我确已习惯用汉语教学,可那是因为学生的母语各有不同,且沾了“主场”的光。而在非目的语国家的日本,面对清一色的日本学生,却坚决不用日语,能否得到良好的教学效果呢?“正因为他们在课堂外基本没有汉语环境,才必须在课堂上加大汉语的输入,培养他们对汉语语流的感觉。”一位经验丰富的前辈这么向我解释,我觉得很有道理,也就给自己打上气,开始了全新的课堂体验。

通过三年的体验,我发现“直接法”对“零起点”的年轻学生特别有效,学生的听说能力在短时间内就有了长足进步,发音也相当标准。但已有多年汉语学习经验的年长者一开始对这种教法都不太习惯。特别是在我列举大量配合情境的文例,希望学生自己归纳出某个虚词用法时,他们总嫌此举事倍功半。有学生在课后向我提过意见:“以前的老师都是直接告诉我们的。”“用日语解释不是更节约时间么?”不过他们很快发现:由自己根据语境归纳出来的东西记得更牢,不但容易用,而且不太会用错。这样,他们也就接受了“直接法”。而那些只是为了学分选修汉语的大学生,对“直接法”最为抵触。每周只有两次课,又不会花太多时间预习、复习的他们,自然很难听懂老师说的话。据我了解,日本不少大学都是安排一名日本老师和一名中国老师共同执教公共汉语课,由日本老师负责翻译课文、讲解语法,中国老师操练会话,纠正发音。既然最终的考试以笔试为主,那么学生自然忽视中国老师负责的这一部分,甚至在单调的练习中产生厌烦的情绪,继而对中国老师心存芥蒂。也就导致学生在大学里学了一整年汉语,却仍无法应对简单的日常会话。这无论对学生还是老师都是一种遗憾。针对这样的情况,我根据每次须操练的语法设计同他们生活、学习密切相关的话题,介绍他们感兴趣的“豆知识”,吊起他们“说”的欲望,激发自主学习的动能。日子长了,他们就感觉自己能听懂、能表达的东西越来越多,对汉语课的态度也发生了转变。

事实上,在日本的汉语“直接法”教学是有传统的。明治六年(1873)东京外国语学校汉语科开设之初,就聘用了中国人教师。明治时代的中国人汉语教师大多不懂日语,不得不直接用汉语解释说明。到大正以后,会日语的中国教师有所增加,如在东外大工作过三十多年的包象寅。杨明时在《照顾过我的先生》(《同学》第3号)里提到:“尽管(包)先生在日已数十年,但是上课还是完全不用日语。”柴垣芳太郎在《中国文库的设置》(《同学》第3号)一文中记录了他记忆犹新的第一节汉语课:“对着对中国语什么都不知道的学生,他(包象寅)没有说一句日语,五十分钟里,从头到尾,连黑板也没有使用,一直在说汉语。”这些材料,为我们还原了大半个世纪前一位中国教师有意识的“直接法”汉语课堂。正是从这样的课堂里,走出了许多精通汉语、深谙中国文化的人才。

今天的我,无意中步了先辈的后尘,他们的事迹亦给了我更多的信心。即使到第三年日语水平略有提高,我在课堂上仍坚持用汉语讲解,“逼”学生用汉语提问。我希望通过抑扬顿挫的讲授,能让学生领略原汁原味的汉语魅力。他们所学的不是恰似数学公式的语言模板,而是生动鲜活的文化。我想这大约就是“直接法”的意义所在。

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「70年代の中国の写真と戦前の中国語教育史に関する資料」

氷野善寛(関西大学アジア文化研究センター)

最近中国語に関連した貴重な資料をいただくことが多い。その中から今年いただいた2つの資料を紹介したい。1つは、1975年と1979年~1981年の中国を捉えた写真である。撮影者は本学会顧問の榎本英雄先生である。もう1つは今年3月に日本大学を退職された中国語教育史の研究者である鱒澤彰夫先生が収集された明治期から現代にいたる中国語教育に関わる原資料並びに関連資料のコレクションである。いずれの資料も私が所属する関西大学アジア文化研究センターで引き受けることになった。いただいた限りは秘匿することなく、何らかの方法で公開しなければならないため、現在公開に向けて急ピッチで作業を進めているが、その資料について少し紹介したい。

まず榎本英雄先生の写真の撮影時期は2つの時期からなる。1つは1975年8月に中国語教育活動家訪中団のメンバーとして中国を訪問した際に撮影したものである。当時、日本から中国へは自由に渡航ができず、また文化大革命の最中の中国を撮影した非常に珍しい写真と言えよう。人民公社、人民服、人がほとんどいない万里の長城に故宮博物院、毛沢東の大きな肖像画がかかる北京の空港…と今では見ることができない風景がそこには広がっている。もう1つの時期はそれから数年がたった1979年~1981年に先生が上海・復旦大学研究留学されていた頃に各地を旅行し撮られた写真である。これらの写真はアルク『中国語ジャーナル』の「チャイナグラフィティ」というコーナーで使用されたり、初めてカラー写真が使われた教科書である『中国語を学びましょう』(1986年,朝日出版社)に掲載されたことがあるためその一部をご覧になられた方は多いと思う。これまでアルクの服部氏が少しずつディジタル化を進めておられたが、その作業を引き継ぐことになり、今年の5月に箱一杯に詰め込まれたポジフィルムやネガフィルム、プリントされた写真を受け取った。その後約1か月かけディジタル化や褪色復元作業を進め、現在最終段階として公開するためのウェブページの開発を進めている。ディジタル化された写真の数は約2000枚。いずれも私自身が生まれる前の中国の写真で、今の中国とは全く雰囲気が異なるが、どこかに懐かしさを感じさせられる写真ばかりである。

次に中国語教育に関係する資料の受け入れについては、2014年12月に鱒澤先生の研究室を訪問したことに起因する。その年の年度末に退職予定の先生の研究室には段ボールが所狭しと積まれており、まさに引越しの準備をされている最中であった。先生の研究室を訪れた目的は先生が長年かけて収集された中国語教材を拝見させていただくためであったが、その蔵書は想像以上の内容で、これまで神戸市外大に1冊しかないと考えられていた九江書會版の『官話指南』や某所に1冊しか無い商務印書館から刊行された英語の対訳版の『官話指南』、川崎近義氏の蔵書目録、明治後期から大正時期の北京官話を反映していると考えられる深澤進が著した未刊行の『北京官話全書』といったこれまで存在が知られていなかった資料から戦前の中国の写真、卒業アルバム、学校史、名簿といった中国語教育史に関わる多くの資料を見ることができた。これらの資料は教育史や教材研究をする上での周辺資料の重要性を示唆するものである。これらの資料について寄贈先を探しておられるということで、数日のうちに話が進み、アジア文化研究センターで重複する書籍を含めて一括受け入れさせていただくことになった。おそらく5000冊以上になると考えられるるが、現在整理中のためまだその総数は把握しきれていない。今回寄贈いただいた書籍は今年度中に寄贈書目録にまとめ公開する。また少量ではあるが唐話関連資料や満漢資料などもあるので必要に応じてディジタル化して公開する予定である。

いずれの資料の公開もアジア文化研究センターのウェブページを通じて行うので是非会員の皆様にご利用いただければと考える。

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未知との遭遇-「福井普通话」

永井崇弘(福井大学)

私の心のうちに二つの不思議が残っている。それは小学生のときに見たUFOと福井大学に赴任後の数年間に遭遇した福井弁なまりの中国語である。この二つは確かに出会ったようだけれども、今となっては少し記憶が薄れつつあり、あれは夢かまぼろしだったのではないかと自問するようなものとなってしまっている。今年も4月の新学期から、私は相変わらず体育教員と化して地声を張り上げているが、発音が終わり教科書の本文や文法事項にとりかかるこの頃にいつも確かに出会ったであろう福井弁なまりの中国語に対する新鮮な驚きだけがふとよみがえってくる。

私が中国語教員として福井大学に赴任したのは1998年の秋である。大阪から初めて福井に来てしばらくすると、中国語の発音が通常の間違え方とは違っていることに気づいた。それは私が関西で中国語を教えていたときに遭遇したものとは明らかに違っていたために強烈な印象を与えた。これこそ福井嶺北方言(福井弁)アクセントの中国語との遭遇であった。その時の驚きは1996年に上海へ留学していたときに、生まれて初めてスパゲッティを食べるという大学生に遭遇したものに匹敵するものであった。中国的スケールから言えば福井弁なまりの中国語も一種の「地方普通话」と言えるのかもしれない。福井大学では特に文系が福井市をはじめとする地元の福井県嶺北地方出身の学生が多くを占めている。その学生らが使う福井嶺北方言(福井弁)分布地区は、その一部に福井市や旧武生市といった無アクセント地区を抱えており、福井弁なまりの中国語とは、その無アクセントで中国語を発音したものである。私は当時、英語の同僚の教員にも聞いてまわり、複数の英語の教員も福井弁なまりの英語があるようなことを言っていたのを覚えている。

話は変わるが、福井大学の協定校のなかに韓国のプサンの大学がある。毎年その大学でサマースクールが開かれているが、福井嶺北地方出身の学生がサマースクールの朝鮮語講座に参加すると、そこで初めて習う言語にもかかわらず大抵の学生は筋が良いと言われる。それはまさに福井弁のおかげであろう。福井ではAMラジオでもときおり韓国の放送が入るが、朝鮮語を解さない人は福井弁の放送かと勘違いするほど、イントネーションが似通っている。この福井弁の無アクセントは韓国の共通語に通じ、福井弁なまりに朝鮮語を発音すると、それがちょうど韓国の共通語のものと重なるというわけである。

しかし、ここ数年は学生の中国語の発音が以前と比べ格段に良くなっているような気がする。それは私の教え方が良くなっているからだと言いたいところだが、残念ながらそうではない。最近の学生は要領が良いというか、模倣が上手いというか、飲み込みが早い。以前は発音に四苦八苦し必死さが見られたが、残念なことに今ではその必死さが表立って見られない。私の見えないところで必死になっていると思いたいが、そつなくこなしているように見える。苦労したほうが身につくと思う私は、もう古い人間なのかもしれない。しかしその飲み込みの良さで、発音の部分は近頃スムーズに終えることができている。これは2006年からのセンター試験の英語のリスニング導入のおかげなのか、方言の衰退によるものか、はたまたカラオケの普及なのかは分からない。後の研究を待ちたい。

ともかく、毎年この時期、私はこの福井弁なまりの中国語を話す学生を捜し求めている。次回、このまぼろしの「福井普通话」に出会ったら必ず記録をしたいと思っている。いつの日か方言が復権を遂げると「福井普通话」の言語資料が多く採取されて、その詳細が解明できるのかもしれない。さらに、「上海人怎样学说普通话」ならぬ「福井人怎样学说普通话」なる中国語の教科書を出す必要がでてくるのかもしれない。そうなれば、私のような地方国立大学の文系教員もささやかながら近頃話題の地方創生や地域貢献に直接寄与できるのだろうと思う。

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「中国プチ留学」

奥村佳代子(関西大学)

私が勤務する関西大学外国語学部では、約1年の留学が卒業のための必要条件となっており、中国語を専攻する学生は、北京の大学に留学する。教員が留学開始時と終了時に引率をするのだが、今年は私が新学期開始に合わせて、3月4日、関空から北京に飛んだ。この引率で心に残ったことがふたつある。

両会開催期間ということで少し心配していた交通規制に遭遇することもなく、3月の北京の「蓝天白云」にことさらに喜びつつ、まずは幸先の良いスタートを切ったとばかり、我々一行は意気揚々と出迎えのバスに乗り込み、最初の関門である入寮手続きへと向かった。

この留学プログラムが始まって今年で6年目になるが、受け入れ大学側の事情によって、毎年利用してきた寮に入ることができず、別の寮に入ることがプログラム直前に決まった。こういうことは起こりうることであり、個人的には、入れる寮があって良かったと思っていたのだが、受け入れ大学の担当者による「この寮の部屋は、新しく改装したばかりで、エレベーターを設置しただけでなく、中身も外観もすっかり新しくなりましたよ…(…因为是刚刚装修完毕,不仅安装了电梯,而且里外翻新,条件较之前改善很多)」という説明に、そういうことならむしろありがたいではないか、校舎からは多少遠いけれど、新しい部屋で快適な寮生活を送ることができるだろう、と学生たちと話していた。

それから一月半、改装したばかりの部屋は、床も棚も土や砂でなんとなくざらっとしている(3月の北京であれば、仕方ないかもしれないが)、壁にはよくわからない汚れがつき、鏡は濁っている。夜になると、電気はつかないわ、お湯は出ないわ、エレベーターも当然動かなかった。その状況を見て、中には涙目の学生もいる。

さっそく勤務先の中国人教員に、改装を終えたばかりと聞いていたので、皆ショックを受けている、話に聞いていたのと全然違うのですが、と相談したところ、返ってきたのは、「刚刚装修完毕」というのは、「まだ片付いていない」という意味です、という言葉だった。

「刚刚装修完毕」という言葉を聞いて、「改装したばかりできれい」だと思ったのは、私が勝手にそう受け止めただけだったというわけである。これは、大いに勉強になったというか、たしかに、と納得するしかなかった。

もうひとつは、銀行口座を開設する学生に付き添って、中国工商銀行に行った時のこと、ひとりのおじいさんに話しかけられた。子どものころ、近所に日本の工場があり、日本人従業員の子どもたちと一緒によく遊んだそうだ。その際に耳にした日本語を教えてほしい、という。記憶のなかの日本語を何度か言ってみてもらい、それは「まあだだよ」で、かくれんぼをして遊んでいたのですね、と言うと、懐かしそうに、日本人工場長が中国人の子どもに親切にしてくれた、と話してくれた。短い、その場かぎりの交流ではあったが、胸に温かいものが残った。

たとえ数日間ではあっても、生身の中国は、実際に行ってこそ味わえるものだ。今回は引率業務だったが、引率者として訪れることにより、学生時代とは異なる出会いや経験が待っていた。私はひところ外に出て行くことがなかったが、最近は機会を見つけては、プチ留学を実践している。

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ひとりひとりの「中国体験」

神谷智幸(東京大学・院)

私は中国で体験したエピソードを読んだり聞いたりすることが人一倍好きなのかもしれない。これまで本で読んだり先生から直接伺ったエピソードの中にはそらで覚えてしまった話がいくつもある。たとえば、X.L.先生は、ある時中国人の子どもに「シマウマ」という単語を知っているかと尋ねられたが答えられず大変恥ずかしい思いをしたことがあるそうだ。そもそもこの単語を使う機会があるのかと思っていたら、割合身近な「横断歩道」が“斑马线”だということを知り、ほろ苦い思い出とともに「シマウマ」と「横断歩道」という単語だけは絶対忘れないという。

私自身も2002年8月大学2年のときに男3人で行った初めての中国旅行で強烈な体験をした。なるべく安く、しかしできるだけ多くの土地を観光したいという理由から、到着は香港、出発は上海という変則的な航空券を取ったのが今思えば全ての事の発端だったのかもしれない。香港で何日か遊んだ後、寝台列車で大陸へと向かった。その後、ある事が原因で大陸に入る税関審査で一時勾留されるという事件を起こしてしまうのだが、結果的にはこの一件をきっかけに何人もの乗客から話しかけられることとなり、車内で知り合った中国人徐さんの家に泊めてもらうことになる。私たちは金華という地で途中下車し、1泊2日の歓待を受けた。まさに「人間万事塞翁が馬」である。

晩ご飯をご馳走になった際には、屋台のテーブルに焼きそばや炒め物など料理がたくさん並んだ。すべてきれいに平らげると、なぜか徐さんはすぐに料理を買い足しに行く。好意を無駄にせぬようベルトを緩めて必死で食べきる、するとまた慌てて料理を買いに行く、幾度か同じやりとりを繰り返した後、食べ残してしまい申し訳ないと箸を置くと、徐さんはようやくほっと安心した表情になった。いつのまにか後に授業で習う「(客に)ご馳走する」という点における日中の文化の違いを身をもって体験していたのであった。つぎの日の朝、徐さんは良い香りを放つ“白兰花”の飾りを買ってきてそれぞれの首に掛けてくれ、駅まで見送りに来てくれた。

また新年度が始まった。教室にはもしかしたら私と同じように「中国体験」のエピソードに目がない学生がいるかもしれない。それに「中国体験」とは結局、たとえ同じ出来事であっても受け止める個々の人間の視点や興味が異なっている以上、ひとりひとり異なる唯一無二の「体験」であると言っても良いだろう。ぜひそのひとりひとりの貴重な「中国体験」を学生(と私)に聞かせていただければと思う。

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「危機方言の記述」

張盛開(静岡大学)

私は昔から方言に興味があり、大学の卒業論文では平江方言の概説を書いた。その際、文献を通して、平江県に客家語があることを知った。2004年3月に私の客家語探しの旅は始まった。

地元の事情に詳しい親戚から思村郷百福洞に客家人が住んでいることを知り、思村郷役所を訪ねると、塘坊村の李固定氏が事情に詳しいということであった。四時間かけて塘坊村にたどり着き、李氏を訪ね当て話を伺うと、なんと李氏自身が客家人であった。そこで私は人生初客家語を調査した。帰る直前、李氏の伯母何意英氏が来訪し、「次回来たら、客家民謡を教えてあげる」と約束してくれた。

塘坊村に居住している客家人は、客家語と地元の方言すなわち平江県思村方言のバイリンガルである。平江県思村方言は、私の話す三陽方言と同じく平江城関方言の下位方言である。ゆえに、私たちの会話はすべて平江城関方言である。

最初の調査は興味が原動力だったとも言える。その後、調査に行かなくてはと思いながらも主要研究対象ではないため、客家語の調査には手を付けられない状況で過ごす。10年を経て2013年、私はやっと塘坊村を再訪する機会を持つ。一時間で塘坊村に到着し、何意英氏の息子李献章氏に出会った。母親から、かつて私が調査を行なったことを聞かされていたとのことで、当方の用件をすぐに理解してくれた。そこで何意英氏はすでに10年前に他界したことを聞かされた。あいにくその日、従兄の李固定氏も留守であった。私の困惑を見て李献章氏は出かける予定をキャンセルして、終日私の客家語調査の協力をしてくれた。

その後、今までの調査資料を整理し、学会発表や論文投稿を控え、2014年再び塘坊を訪ねた。思いもよらないことに50代だった李献章氏は亡くなっていた。このことを聞くと、なぜか昨年の調査の時点で既に予感していたかのような思いが湧いた。一年前の調査で私がとった録音やビデオが彼の残した最初で最後の客家語資料となったのである。李献章氏はまだ壮年であったとはいえ、高齢者に依存することの多いこの種の調査では、ありがちなことである。私は一日も早くこの塘坊客家語の記録を完成しなければならないという使命を改めて感じた。

今回は時間に余裕を以って一週間ほど滞在し、塘坊村のことも詳しく伺うことができた。塘坊村の客家人は自分たちの客家語を「広東声」(広東訛)と呼んでいる。各家族の家譜にも広東省から移民してきたことが記載してあるという。塘坊客家人は李氏と曽氏の二族がメインである。曽氏一族は自分の祖先は「広東省興林県」から移住してきたとはっきり記憶している。李氏一族は自分たちの祖先はまず広東から江西に移住し、約200年居住したあと、平江塘坊に移住したと主張している。

2004年の調査時には客家語を話す人は何十人かはいると聞いたが、2013年の調査時は話者は20人以下になったという。2014年の調査時には地元に居住している話者は10名となっている。二、三十年前は生産隊の会議で客家語を使用していたという。しかし、今は客家語話者二人が出会っても、会話に客家語を使うことはほとんどないという状態になってしまった。2003年より調査を始めて以来、私の調査対象は二人亡くなった。いまや村ではほとんど客家語を聞くことがない。消滅の危機に瀕しているこの塘坊客家語を記録し、伝えていくことに私は重大な責任を感じている。

漢語方言に限らず、今は方言が消えつつある時代である。私のできることは消える前の方言の姿を記録し、資料として保存できるようにすることである。方言に親しみ大切にされる環境作りにも力を入れたい。

更に詳しい情報は拙稿を参照されたい。
張盛開2014「平江塘坊客家語研究」東京外国語大学記述言語学研究室編『思言』第10号(近刊)
張盛開2015「消えゆく言葉を追いかけて」静岡大学人文社会科学部『アジア研究』第10号:29-40(近刊)

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「通じる」ことの嬉しさ

平井和之(日本大学)

オープンキャンパスの進学相談会に来る高校生やこれから中国語を専攻する新入生から、「しゃべれるようになりますか?」という質問をよく受ける。外国語学習の経験が少ない人ほど、外国語を学ぶことの最終目標は話せるようになることだと考えているのだ。

その気持ちは理解できる。自分の知らない言語で誰かと話している人を見れば、素直に「格好いい!」と憧れるのであろう。ミュージシャンやアスリートに憧れるのと同様、人間は自分にはできないことをしている人をリアルタイムで目にすれば驚きと尊敬の念を持つ。

しかし外国語の教師からすれば、それは一面的な考えだと言わざるを得ない。「読む・書く・聞く・話す」の4技能はいずれも等しく重要である。会話には相手がいる以上、聞き取れなければそもそも会話が成り立たない。現在はface-to-face communicationと同様かそれ以上にEmailでのやりとりの機会が増えており、正確に書く能力は不可欠である。「日本人は英語は読めるが話せない」というのも俗説に過ぎない。英語をきちんと読める人は私は尊敬するばかりである。

このようなことを私は折に触れて学生に話し、“你好”“谢谢”“再见”だけ言えてもしょうがないだろうと尻を叩くのであるが、彼らはどうも納得がいかないらしい。嘆かわしいことだと思いつつ、翻って考えてみると、自分の言った外国語が相手に通じるということはやはりたまらなく嬉しいものだ。

中国の大学から招聘した先生のバリウム検査に付き合ったことがある。検査医の先生から、マイクで検査台に伝える指示を訳してくれと前もって頼まれていたのだ。中国の先生の検査の日の前日に自分が検査を受け、大体どのような指示が出されるのか知っておき、難しそうな単語も一通り調べておいたが、それでもちゃんと訳せるか心配であった。当日はX線カメラのある部屋に入り、検査医の隣りに立った。何しろ隔離された場所からなので、私が実際に動作をやってみせて指示を伝えることもできず、また普段中国人と会話する時のように、こちらが適当に単語を口に出していれば相手がちゃんと言い直してくれるという手も使えない。純粋にこちらが話す言葉だけに頼らざるを得ない。もし私が訳した指示通りに動いてもらえなければ、中国語教師としての面目丸潰れだ。

「バリウム飲んで」「台を背にして取っ手を握って」「息を止めて」……これぐらいならまだ大丈夫だ。「上のハンドルを握って左向きになって」……ちゃんとやって下さいよ……よし!「右回りにうつぶせになってそのまままた仰向けに戻って」……これはダメかも……やったー、大成功!

それほど時間はかかっていなかったろうが、検査が終るとへとへとに疲れたと同時に興奮覚めやらなかった。自分の指示通りに動いてもらえたことに大満足だった。中国語が通じて嬉しく思ったことは久しぶりだった。

外国語を学んでいる以上、自分のしゃべった言葉が通じなかったらがっかりしてしまう。「通じた」という経験は外国語学習において一番の報酬である。“你好”“谢谢”“再见”だって通じれば嬉しいのだ。私は主に文法の授業を担当しており、受講生は授業中にそのような喜びを感じる機会がほぼない。何とか工夫して、彼らに「通じる」ことの楽しさを体験させることができれば、学習のモチベーションも一気に増大するであろうが、私の一方的な説明を眠そうな顔で我慢して聞いていてくれれば御の字で、私語やスマホいじりに忙しかったり、机に伏せて寝ている学生が大半というのが実情である。勿論その責めは私が負うべきであり、学生に対して嘆かわしいなどと言えた義理ではないことは重々承知しているのであるが。自分が中国語を学び始めた頃中国人の先生に一言でも通じた時の嬉しさを忘れない教師でいつづけるべきであろう。

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カンボジアでの中国語体験

田村新(首都大学東京・非)

2013年8月、私が所属する教会の教団出身のアメリカ人宣教師夫婦に頼まれて、カンボジアはプノンペンにあるTrinity Institute of Cambodiaに日本語を教えに行った。2011年に続き二回目の訪柬。プノンペンの空港の広告はすべて「中国銀行 Bank of China」とあり、ずいぶん中国の影響が強くなったものだと感じた。街を歩いても、クリスチャンのやっている店にはないが、お店には必ず関羽を祀る小さなほこらがある。宣教師の話によれば、意味も分からずカンボジア人が中国人を真似ているのだそうだ。

私が担当する日本語の授業は夕方だけで、授業以外の時間は論文を執筆するために日本から持っていった資料とにらめっこをしたり、ホームステイした宣教師夫妻の人脈の拡大のために、主にアジア出身の宣教師と面会したりで、結構忙しい毎日だったが、多くの人と出会い、非常に充実した日々を送った。出会った方々の中には、意外にも中国語圏から来た宣教師も多くいた。ある宣教師は鄭州の出身で、2003年に仕事でカンボジアに来たが大けがをし、それがきっかけで聖書に出会い、受洗。今は献身者としてプノンペンの国際教会で牧師をしているという。カンボジアには多くの中国人が住んでいる。

中国政府のインフラ整備の援助(中国は道を作り、日本はJICAが上水道を整備しているという)で、ここ数年で、中国から多くの工事関係者が物資とともにやってきているという。彼の話によると、具体的な数字は聞かなかったが、カンボジアでは潮州話を話す中国人が一番多く、広州話、客家話、福建話、海南話と続き、普通話を話す中国人は6番目。普通話を話す中国人は最近仕事などでカンボジアに来た人々で、上位五つの方言を話す人たちは、昔カンボジアに来た華僑だという。最近来た中国人は割に裕福な生活をしているそうだが、華僑はどちらかというと貧しい生活をしている。この宣教師はカンボジアに住む華僑に対しては、普通話と英語を教える事で就職を支援し、貧困から抜け出る手助けをしている。また、中国から献身を決心した中国人をカンボジアに呼び、外国人が多く住むカンボジアの地で、異文化適応能力と中国語を教える能力を養って、海外に送り出す中国人宣教師を育成する働きをしているという。

Trinity Institute of Cambodiaの理事でシンガポールからいらした、ある華僑の宣教師が校長をしている学校を訪問した。貧困層の華僑の子女に対して教育を行っているという。この時、私は5歳児の子達の礼拝の時間を見学させていただいた。男性教諭が聖書から話をしている。「そり舌」ができないので、てっきり中国の南方から来た人かと思ったが、よくよく聞いていると声調もおかしい。校長に聞くとカンボジア生まれでカンボジア育ちの華僑だという。この学校で働く人々は皆カンボジア育ちの華僑で、校長のみカンボジアの外の人間なのだという。教育を受けることで貧困から抜け出せるようにという宣教師の思いに賛同するキリスト者のカンボジア華僑が薄給で教育を行っているという。

わずか三週間のカンボジア滞在だったが、普段日本にいては見る事のできない、中国語を体験することができた。福音を伝え、人々を貧困から救い出そうという宣教師の熱心を見て、かつて中国に来て多くの資料を残したヨーロッパの宣教師達を見た思いがした。

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完了イメージの構築と受身文

杉村博文(大阪大学)

「小王被小李打了」と言えても「*小王被小李拽了」とは言えず、「小王被小李拽倒了」とか「小王被小李拽了一下」とか言わなければならない。この現象――「結果なければ受身なし」――は、木村英樹先生のご論考などによりすでに広く斯界の知るところであるが、これに対して井上優さんは「日本語では『李くんに殴られた』も『李くんに引っぱられた』も自然な受身文になる。中国語の受身文でなぜいちいち結果を言うのか、不思議な気がする」とつぶやきつつ、こう答える。

 i.中国語では、動作の結果がどうなったかがイメージできないと受身文が成立しにくい。
 ii.「打」は動作の結果として「痛い」ということが具体的にイメージできるが、「引っぱる」だけでは結果がイメージしにくい。
 iii.「一下」のような動作の量も結果の一種である。
 iv.日本語は「られ」が単独で「影響を受けた」という受身の意味を表すが、中国語は「被」と結果を組み合わせて「影響を受けた」という意味を表す。結果を言わないと受身の意味が表せないのである。

以上、出典は井上さんの『相席で黙っていられるか 日中言語行動比較論』(岩波書店、2013年、98-99頁)である。この本、未見の諸氏には是非一読を勧めたい。教えられるところの実に多い本である。

さて、話を元に戻すと、「結果なければ受身なし」という観察のキーは「動作の結果」で何が表現されているかである。「拽倒了」では「小王」の身に起こった状態変化「倒了」が結果である。では、「拽了一下」という動作の結果は何であろう。もしそれが「小王」に向かうものであれば、あまりに可能性が広すぎ、しぼりきれない。次のような結果さえありえる。

 (1) 小王被小李拽了一下,但是纹丝不动。

これだけ可能性が広ければ、「小王」に関しては何も結果を言っていないのに等しい。

おそらく、「結果なければ受身なし」の「結果」は「動作の完了イメージの構築」と理解すべきものである。そして注意しなければいけないのは、もし完了イメージが構築できなければ、受身文を持ち出すまでもなく、能動文からして成立しがたいということである。「小李拽小王」と言えて「*小李拽了小王」と言えないのである。よって、「*小王被小李拽了」が成立しないのは、それが受身文であるからではなく、動作の完了イメージの構築が不完全であるからという問題に落とせる可能性が高い。視点を換えれば、完了助詞の「了」が動詞のアクチオンサルト(Aktionsart、語彙的アスペクト特性)を活性化し、その言語化を求めているのである。

アクチオンサルトから見通せる「拽」の完了イメージは「つかんだまま離していない」か、「n回つかんでn回離した(n≧1)」かのどちらかである。しかし「拽了」だけではどちらのイメージも構築できず、「拽住了」あるいは「拽了n下」と形式化して始めて完了イメージの構築が完成する。

 (2) *小李拽了小王。~ *小王被小李拽了。
 (3) 小李拽住了小王。~ 小王被小李拽住了。
 (4) 小李拽了一下小王。~ 小王被小李拽了一下。

同じく結果でも、「倒れる」や「微動だにしない」などは「拽」のアクチオンサルトから見通すことのできない二次的結果である。ここから考えれば、「小王被小李打了」も、今、目の前で小王が小李にゴツンとやられた様子を実況しているのではなく、小王が小李から暴行を受けたと事後報告している可能性が高い。そうであれば、「打」は暴行を受けたか否かの対立で完了イメージが構築され、叩かれて痛い云々は文の成立と無関係となる。実は「拽了」も、幼稚園の子供が取っ組み合いの理由を先生に訴えるような状況であれば単独で使用することができる。

 (5)〔我们俩打架,是因为〕龙龙拽了我!

このような状況では「拽」のアクチオンサルトが変化し、引っぱったか否かの対立で完了イメージが構築され、「拽住了」と「拽了n下」の対立は解消しているとみることができる。よって、もし文脈から「引っぱることで意地悪をする」のような意味が「拽了」に付与されれば、「小王被小李拽了」にも成立する可能性が生まれるものと思われる。

以下に、完了助詞「了」の付加のみで動作の完了イメージ構築が完成し、それに対応して受身文も成立する例を少し挙げておく。

 (6) 车停在留学生楼下的时候,严守一吻了她。→ 她轻轻地抚摸她的第一次被他吻了的嘴唇。
 (7) 她歪着头冲我一笑,大概是表示踩了我的脚的一点歉意吧。→ 一转身,正好看见那被我踩了新鞋的小伙子。
 (8) 姑姑偷看了我的日记。→ 我的日记被姑姑偷看了。
 (9) 最糟糕的是刘四也知道了这件事。→ 再说,这个事要是吵嚷开,被刘四知道了呢?

* * * * *

以上の話、実は今年大阪大学で開催された中国語学会、そのワークショップで報告しようと思っていたのですが、与えられた課題の「視点」とリンクさせるのが難しく言いそびれてしまったため、この場をお借りし補わせていただきました。

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古屋昭弘(早稲田大学)

メルマガがついに100号を迎えたとのこと、現任・歴代のウェブリソース委員会とくにメルマガ担当の委員の皆様に心よりお礼とお祝いを申し上げたい。

「百」と聞いて何を思い浮かべるかは人様々であろう。私の場合、入声と百六韻であった。

学部で中国音韻学の授業を担当してはや30年、自分が学部生だった頃、藤堂明保先生が担当しておられた授業であり、その絶大な影響のもと自分がその道を進むことになったことを考えると責任重大である。マンネリ化を避けるため様々な工夫を試みるのだが、大抵は空振りに終わってしまう。自信をもって伝えた音韻対応の法則に欠陥があることに後で気付き、悔やむこともしばしばである。たとえば、日本漢字音で「フクキツチ」で終わる2モーラ的な字音が入声であることは周知の事実であるが、そのうち「フ」で終わる字の見分け方について、日本漢字音で「-オウ(ヨウ)」「-ユウ」と発音するもののうち、現代中国語で-ng、-ao、-ouでないものが「-フ」で終わる入声であり、この法則を知っていれば、たとえば「工構興甲航高(以上現代日本語コウ)及宮九(以上キュウ)張牒澄重調(以上チョウ)常疊蒸条饒(以上ジョウ)」の中から「甲カフ及キフ牒テフ疊デフ」を探し出すのは容易である…と教室で得意げに言っていたのだが、思わぬ伏兵があった。遇摂三等虞韻(平上去)の「厨柱駐チュウ」「乳ニュウ」などである。これらを「-フ」で終わる入声から排除するためには以下のように修正する必要がある。

日本漢字音で「-オウ(ヨウ)」「-ユウ」と発音するもののうち、現代中国語で-ng、-ao、-ou、-uでないものが「-フ」で終わる入声

実はこの法則には笑い話のような欠点がある。入声の代表「入ru4にふ」が例外になってしまうのである。この点どうかお忘れなく。

もうひとつ(ご存じの方も多いとは思うが)北京語第2声の無気音の音節はほぼすべて入声。

台湾の竺家寧先生は音韻学の授業で、キッズソングとして有名な「アーユースリーピング」を使って広韻206韻の韻目を覚えさせるそうだ。
 東冬鍾江、支脂之微、魚虞模、齊佳皆灰咍、真諄臻文欣元、魂痕寒、桓刪山。
 先仙蕭宵、肴豪歌戈、麻陽唐、庚耕清青蒸登、尤侯幽侵覃談、鹽添咸、銜嚴凡。
「魚虞模」と「麻陽唐」は二回ずつ歌い、「齊佳皆灰咍」には「呀ya」を加える必要がある。日本語の歌詞で言えば「グーチョキパーで、グーチョキパーで、なに作ろう、なに作ろう…」の旋律で「東冬鍾江、支脂之微、魚虞模、魚虞模…」を歌うということである。「元寒山」「談咸凡」が押韻効果を発揮し、また「麻陽唐」がお菓子の名前のように聞こえて、とても覚えやすい。

これに触発されて106韻を覚えるのにふさわしい旋律を考えてみた。「東冬江支微魚虞」を「君が代は」の旋律に配したり、「ぽっぽっぽ鳩ぽっぽ」に当てはめたり、色々苦労した揚句、ついに見つけたのが「どんぐりころころ」である。これだと上平「東冬江支微魚虞、齊佳灰真文、元寒刪」(「齊」を長めに)と下平「先蕭肴豪歌麻陽、庚青蒸尤、侵覃鹽咸」にぴったり合うのである。ぜひ中国語でお試しあれ。

「百」とは関係ないが、最後に文字関連のことで一つ。「己」「巳」「已」三字の違いを覚えるのに「巳(み)は上に、己(おのれ)「つちのと」下に付き、「已(すで)に」「已(や)む」「已(のみ)」中ほどに付く」(下の句は「半ば開くれば…」とも)という歌があることは有名である。この歌の真似をして「戊」「戌」「戍」三字の違いを覚える歌を作ってみた。「戌(ジュツ)は一(イツ)、戍(ジュ)は点まもり、戊(ボ)は零点、戊戌(ボジュツ)の政変 つちのえの いぬ」。「戍(ジュ)」に「まもる」の訓があることも覚えられるようにしたのだが、「戊戌の政変」自体、今ではマイナーすぎることもあって、学生さんにはスルーされている。

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寿寧方言と閩東語音韻史

秋谷裕幸(愛媛大学)

九月十日から二十日まで、福建省寿寧方言の調査をした。またまた閩東語。その最北端の方言の一つである。さらに三十キロくらい北上すると呉語地域にいたる。いろいろな事情で八日半しか調査時間がとれず、語彙調査の途中で時間切れとなった。私の場合、一地点について最低三、四回は行くので、続きはまた次回ということになる。この方言を調査した目的はいくつかある。当初もっとも興味を感じていたのはこの方言の語彙である。しかし、調査してこれはかなり重要なんじゃないかと思ったのは、意外にも韻母の音価であった。寿寧方言は閩語閩東区福寧方言群に属する。このグループに属する多くの方言は、開口呼韻母の数が斉歯呼、合口呼、撮口呼韻母と比較して不均衡に多いという特徴をもつ。その原因のひとつに、安定的に低いɛとɔの舌位がある。*ieがeに変化し、*uoがoに変化しても、ɛ、ɔとの区別は保たれる。このことなどに起因する一連の変化のため、他の方言ではあまり見かけないような韻母体系が出現する。それが行き着いた先が撮口呼韻母のなくなってしまった福安方言である。このような異常な韻母体系、開口呼韻母がぎゅうぎゅうにつまった韻母体系は非ネイティブの調査者にとっては脅威以外の何者でもない。寿寧県斜灘鎮方言は寿寧県の方言ではあるが、その韻母体系は福安方言的である。この方言を調査したとき、私はすでに四十二歳のおじさんだったが、比喩ではなくリアルに泣きそうになった。今回調査した寿寧方言は南陽鎮の方言。斜灘方言とはちがい、狭義の寿寧方言である。この方言は福鼎方言と同様、開口呼韻母の増加がまったく起こっていない。しかし、そのきざしらしき現象が観察された。この方言では閩東祖語*uŋに由来し、音韻論的にも/uŋ/と解釈される韻母が[ʊŋ]あるいは[oŋ]と発音される(「風」など)。ɔŋ(「缸」など)の舌位が低いので、両者の弁別には何ら問題ない。興味深いのは、uoŋ(「光」など)の介音が主母音に吸収され開口呼化する以前に、*uŋ>ʊŋ>oŋが起こっている点である。福安方言タイプの変化をとげた方言ではその後oŋがouŋへとさらに変化する。それに引き続き*uoŋがʊŋに変化し(「光」など)、斜灘方言のようなɔuŋ「缸」、ʊŋ「光」、ouŋ「風」といった状態にいたるのであろう。(実際にはこれにいわゆる「変韻」という現象も加わるので何がなんだかもう訳が分からなくなるのである。)閩東祖語から斜灘方言への変化過程をまとめると(もちろん間違っているかもしれない)、

 「缸」など  *ɔŋ>ɔuŋ
 「風」など  *uŋ>*ʊŋ>*oŋ>ouŋ
 「光」など  *uoŋ>ʊŋ

ここで問題となるのはなぜ*ɔŋ>ɔuŋ、*oŋ>ouŋが生じたかである。ouŋとかaiŋ、œyŋのようなタイプの韻母は閩東語そして閩北語ではめずらしくないが、なじみのない人には風変わりな発音に感じられるのではなかろうか?私の考えでは、このタイプの韻母がなぜ、どのようにして生まれたかは、閩東語音韻史の根幹に関わる最重要問題の一つであり、このタイプの韻母こそ閩東語音韻史を統率する一大要因なのである(まるで的外れかもしれないが)。そして、今回調査した寿寧方言にはその発生プロセスを解明する鍵となるかもしれない現象も存在する(ような気がした)。まだ自信がないが、考えがまとまったら詳述してみたい。が……そのためにはどうしてもまず福清方言を調査する必要がある。このようにして閩東語の調査が果てしなく続くのである。やれやれ。せっかく中国に来るなら閩北語の調査をしたいんだが。(2014年9月22日、上海にて)

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私的小資生活

河崎みゆき(上海交通大学・日本語学科講師)

8年半勤めた武漢の華中科技大学を離れ、上海交通大学に移って早や1年以上が過ぎた。森の大学と言われた大学内のゲストハウス暮らしから、上海では大学の外、旧フランス租界にあるメインキャンパスに近い衡山路の小さなアパートで暮らしている。上海図書館や宋慶齢女史が住んだ家も近い。書斎の窓からは、洋館の庭が見え、窓に面した紅葉の木は、秋には真っ赤に染まり、辺りからは時折、寂しげなアコーデオンの音が聞こえてくる。田舎のねずみから、上海という大都会の片隅のねずみになったのだ。

上海生活の余暇の楽しみと言えば、洋館のレストランなどで友人たちと上海料理や各国料理を食べることもあるが、なんといっても租界を歩き、その文化的な香りを味わうのが楽しい。

上海戯劇院で京劇もいいが、上海に来てからは、話劇(新劇)が好きで、よく行くのは、安福路にある上海話劇芸術中心という劇場だ。家から歩いて、30-40分ほどで、途中作家巴金の故居の前を通る。こんばんは巴金先生!

多くはガラスの豪華な高層ビルへと変わりゆく上海だが、そのあたりは、マロニエの並木、たたずまいから言って中国でも、ヨーロッパでもない不思議な空間が残っている。

お芝居を見て、「中国語の役割語」を観察してメモをとることもあるが、演劇専門でもないので、ご専門の先生方から見れば、ほとんど「ねずみに小判」状態で、他の観客と一緒にその時空に浸っている。

この一年で見たお芝居の中でいちばん面白かったのは、2011年茅盾文学賞を受賞した畢飛宇の小説「推拿(マッサージ)」を舞台化した芝居かと思う。登場する役者さん全員が目を閉じたままの演技だった。星空の舞台セット、マッサージ師たちの狭い寮の二段ベッドのきしむ音、その夢と苦労。いままであまり想像したことのない世界を教えてもらった。

また、2000年に婁燁(ロウ・イエ)監督が映画にし、周迅がヒロインを演じた「蘇州河」の舞台化。上海・蘇州河岸でオートバイの荷物運びで生計を立てる「馬達(マーダ」と少女「牡丹(ムーダン)」の悲恋物語で、万博前までは上海の黒いリボンと呼ばれた蘇州河の両岸で生きる人を描いており、上海在住の私には心に残った。

王(羽中)という若い舞台監督のイプセンの「一鏡一生」という作品も、実権的手法で面白かった。翻訳物ではアガサクリスティの「スパイダ―ウェッブ」、人気の喜劇「ドリアンの女」もしゃれた都会生活の会話で爆笑の渦だった。

だが、見たいものすべて見ているわけでもなく、末代皇帝傅儀を演じた陳道明と三谷幸喜の夢のコラボ「喜劇憂傷(笑いの大学)」(上海大劇院大劇場)は冬休みの帰国中で、見逃した。

同年代の中国の友人からは「小資(プチブル)生活」と揶揄されているが、今年も秋が深まるにつれ、マロニエの並木と街灯、その向こうに揺れる劇場の灯り。それにまた吸い寄せられ、わたしの「都会のねずみ的小資生活」が続くことでしょう。

蛇足:ご存知かと思いますが、「上海/演出/話劇」でネット検索なさるといくつかのチケットサイトが出てきます。お好きなものに目星をつけていらっしゃり、当日上演1~2時間前に劇場へ立ち寄られるとチケットが入手できたりします。平均、150元~300元ほどで、私自身、当日のダフ屋さんで買ったこともあります。南京西路でも、一本入った、寧波路に80年の歴史をもつ新光小劇場というアラベスクな建物の劇場があります。

毎夜どこかしらの劇場で何かをやっていますから、是非、上海にいらして異空間の夜をお楽しみいただければと思います。

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中国のラジオ番組を聞いて

赤平恵里(慶應義塾大学・非常勤講師)

初めて中国を訪れてから十数年になるが、当然まだまだ知らないことも多く、いまだに何気ないことで、中国と日本の文化の違いを感じる。ただ、私はしだいに中国化してきているのか、その違いに気づくのにいささか鈍感になっているようで、家族や学生の発言から気づかされることも度々ある。

数年前からたまに聞いている北京のラジオ番組にリスナー参加型の番組がある。その番組では、たとえば「家に使っていないパソコンがあるので、いくらいくらで譲ります。」とか「子供向けの自転車がほしいのだけれど、譲ってくれる方はいませんか。」のように自分の家にある不要品を譲りたい人や譲ってほしいものがある人が電話をかけてくる。その際、みな必ず名を名乗り、住んでいる場所を話し、連絡先として電話番号を伝える。

私はこれを長いこと、何の違和感もなく聞いていたのだが、ある日、主人に「中国の番組って公共の電波に個人の電話番号まで流すんだね。」と言われ、はっとした。確かに不特定多数の人に電話番号を知られるのは危険すぎるし、日本だったらありえないことだろう。しかもこの場合、中国どころか海を越えた国の住人にも知られてしまっているわけである。

その後、個人情報を流しているのはこの番組だけなのか、注意していろいろな番組を聞いてみた。すると、お見合い相手を探す番組でもやはり連絡先を放送していた。そこで、このようになっている訳を「中国の人は大らかで細かいことをいちいち気にしないため」、「日本ほど個人情報に関する法律が整備されていないため」などと考えてみたのだが、実際のところどうなのだろう。非常に些細な事なので、誰に訊いてみることもなく、このコラムに書かせていただいたのだが、詳しい事情をご存知の方がいらっしゃれば、ご示教いただけると幸いである。

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「さとり世代」の中国語学習

干野真一(新潟大学)

私事で恐縮だが、昨年わが家に娘が生まれ、大学教員としての筆者のモチベーションにもいくらか変化が生じた。いま教えているこの学生たちは、娘が成人する頃には40歳手前、ちょうど脂が乗って、社会の中心を担っていることになるかも知れない。とすれば、より良い世の中にしてもらうためにも、立派な人材に育ってもらわなくては、と。かくして筆者の教育方針に親バカな動機が一つ加わった。しかし、彼らはいわゆる「さとり世代」、一筋縄では攻略できない。加えて、昨今の若者の内向き志向、日中関係の冷え込みなど、中国語を教える環境は向かい風が強い。

学生の多くは大学から中国語を学び始めるが、初修外国語の修得が学生の人間力育成に寄与すると考える筆者にとって、その彼ら自身が初修外国語を学ぶ意味をどのように考えているのか、関心のあるところであった。そこで、学習歴1年前後で中検3級に合格した教え子数名に「合格体験記」アンケートに答えてもらった。学習方法に関しては別の機会に譲るものとして、ここでは「中国語を学んで成長した事、変わった事」という問いへの回答を紹介する。

  • 中国語を学び始めるまでは外国に対して全く関心がなかったが、中国語を学んで自分の視野というか、世界が本当に広がった。より柔軟な考え方が出来るようになった。中国や中国人に対するイメージも良くなり、仲良くしたいと心から思うようになった。
  • 外国から見た日本を考える機会が増えた。中国語をきっかけに留学生と関わりができたが、日本のことを答えられないことがよくあり、自国についてよく知らないことを痛感した。中国語を話す際、話す内容が決まっていないと、しどろもどろなってしまうので、自分の考えをきちんと持つよう意識するようになった。
  • 視野が広がる、そして自信がつく。人前で話すどころか、人前に立つことさえ恥ずかしかった自分が、しっかりと話せるようになった。

他者理解や、翻って自文化理解への関心が促され、また、自己発信力が鍛えられることで論理的に考えるようになったり、自分に自信をもてるようになったという。これらの回答は高等教育関係者にとって、平凡なものである。しかし、学生自身が自らの経験を踏まえて語っていることに意味があり、堅実で高望みをしないとされる「さとり世代」を、どのように導くべきかのヒントがあるように思う。

語学の専門家を養成するわけでなくとも、いっぱしの中国語の使い手に育てるためには、時には叱咤激励も必要だ。各々に必要な語学力を備えつつ、語学習得を通して自信をつけて更に高みを志すことの出来る「さとり」世代を、たくさん輩出することが、世のため、人のため、学生のため、はたまた娘のため(?)であり、そのようにして筆者は、言わば「情けは人の為ならず」を多義的に実現するのである。

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門外音談:「o」の陥井(落とし穴)

王占華(北九州市立大学)

当タイトルは、魯迅の『門外文談』を“效顰”したものである。魯迅の言う「門外」とは「部屋の外」、即ち「庭」を意味するが、拙文の「門外」は「門外漢」のこと。小生は音声学の専門家ではないので、発音について“理屈詞窮”まで問い詰められることが多々あるのだ。そこで、この場をお借りして、それらの経験の中で特に印象に強く残っているoの発音とその教え方について大方之家のご教示を乞いたいと思う。

「単母音のoはどう発音するのか」とよく聞かれる。多くのテキストや教育者は、IPAの[o]、つまり「お」に近い発音で教えるものの、学習者から「ではなぜ『bo po mo fo』は、『bお pお mお fお』というふうに発音しないのか」と問われた際、なかなか“自圓其説”できる者は少ないようである。

小生は中国の小学校で、oは「短いuo」という発音で教えられた。20年後、大学で中文系の講義『現代漢語』を担当した際も、学生には同じように教えた。小生は長い間、oとuはともに円唇後舌母音であり、前者は「半狭」、後者は「狭」という点が異なるだけで、両者の間には若干の音素で構成されるcontinuumが存在しているから、uに近い「短いuo」という読み方こそが標準語で通常使用される音素oだと思っていた。だが、王理嘉(2005)1)を拝読し、“普通話里原本也只有一個属合口呼的uo韻母,並無一個由単元音o充当的韻母”であることが判明した。「ではなぜ、そもそも存在しない発音を、『漢語ピンイン方案』に取り入れたのか」と、憤りすら感じながら読み進めていくと、なんと「漢語ピンイン方案」を作成した際の便宜上の省略(書き換え)であるとのこと。更に氏によると、“凹”のauはanと区別しやすくするためaoが、“欧”と“悠”のeuとieuは、en等と区別しやすくするためouとiouが、綴りとして採用されたらしい。また“中zhong”のoも元々はuであったということだ。要するに、ピンイン符号としてのoは存在するが、それはほかの母音の“替身”である、ということだ。

『現代漢語詞典』によると、普通話のうちoのみで注音されている語は“喔(噢)、哦(第2声)、嚄、哦(第4声)”の4語である。小生が数年に亘って行った無作為調査によると、60~80代の北方人は、これら4語を“wo(或いはao)、e、huo、e”と発音する人が殆どであり、また、60代以下の調査対象者のうち、“喔(噢)”の読み方について、「[o]と言われれば、[o]の方が正式な読み方だろうか」と半信半疑で付和雷同した者もいたが、同人らに自主的に発音させたところ、実際にはwo或いはaoと発音する人が半数以上であった。

oを含む複韻母等はuo、ao、iao、ou、iou、ong、iongの7つであり、それぞれが21の声母と組み合わさって84の音節を構成し、ong以外のゼロ声母音節を加えると90となる。更に声調が加わり、計282の「有語音節」となる。内訳は、o系の“波”等16個、uo系の“窝”“戳”等43個、ao系の“凹”“包”等60個、iao系の“腰”“標”等40個、ou系の“欧”“抽”等52個、iou系の“悠”“糾”等22個、ong系の“冲”等40個、iong系の“拥”“冏”等9個となる。前述の王氏の説を証明するには、音声の記録分析ができる機器を用い、一音ずつ厳密な検証を行う必要があるかもしれないが、少なくとも、これまで小生の行った調査から判断すると、明らかに完全な[o]という発音は存在しないように感じられる。

『現漢』の“喔(噢)、哦(第2声)、嚄、哦(第4声)”の読み方は一旦棚に上げさせていただくとして、しかし仮にこれら全てを[o]と発音するとしても、この極少数の常用外の語(“噢”と第4声の“哦”だけはHSKの丙級詞に収められている)を根拠として、「oは[o]と発音する」と教えるのは得策とは言えない。得策どころか、実際の発音にそぐわない「音」で基本母音を教えることは、外国語を教える教育者にとって「自殺行為」と言えるほどのダメージになりかねないと申し上げても過言ではないだろう。

1)王理嘉2005「《漢語拼音方案》与世界漢語語音教学」, 《世界漢語教学》第2期,p5-11。

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“讲义”で思い出すこと

澤田達也(大阪大学・特任研究員)

昨年の春までメールマガジンの編集を2年間担当して、その間多くの方々にコラム記事の執筆を依頼させていただいたが、こうして自分が書く番になってみると何と気の重いことか…。

数年前からある勤務先で魯迅の『藤野先生』を読む授業を担当している。有名な作品で読む価値はあるが、時代背景の説明や時に現れる古めかしい表現、はたまた魯迅特有の言い回し等を第2外国語の履修生(2年次)に理解させるのは一苦労である。

例えば“讲义”という表現もその一つだ。この作品では文字通り「講義」を表す場合もあれば、「講義ノート」を表す場合もあるのだが、学生たちが使う一般的な辞書には「授業で配布されるプリント」等と説明されていることが多く、まだ初級から中級レベルの彼らにとっては、どういった場面でどのような意味で用いられるのかを把握するのはなかなか難しいようだ(ネイティブの知人に聞けば、“讲义”という語自体すでにほとんど使われることはないとのことである)。

そもそも、“讲义”という語彙が「講義」そのものだけでなく、「講義ノート」や「配布プリント」をも指す場合があるのは、おそらくかつての(謄写版やコピー機が普及する以前の)大学では、教員が口頭で述べた内容を学生が一字一句漏らさず書き写す講義スタイルが一般的だったからだろう。しかし、今の学生にはそのような講義スタイルそのものがほとんど想像できないものになっている。筆者自身も、学生時代にそういう形の講義を受けた覚えはない。

ただ、中国の大学では似たようなことを経験した。もう10年近く前の話だが、2003年からの2年間、南京大学中文系にお邪魔していた頃に受けた講義では、先生が自分の「講義ノート」を読み上げ、学生がそれを書写するというスタイルのものが多かった。やや若い先生などは時折資料を配ることもあったが、それも稀であった(おそらくは教材作製費などの経費が付けられていなかったからではないかと思う)。先生が講義内容を滔々と語り、学生はそれを黙々と書き写す。その雰囲気を感じながら、私は一人「講義」というものの「真面目」を見たような気になっていた。時には講義の途中で、先生の話し方が早すぎてノートが取れないとクレームを言う学生もいたが、先生方は気安く応じていて、それはそれで微笑ましい情景であった。

今ではそういう講義風景も様変わりしているかも知れないが、『藤野先生』を読むとふとよみがえる思い出である。

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マルペンサ空港で中国人に間違われて

伊伏啓子(静宜大学)

7、8年ほど前のことです。夏、ヨーロッパで研究会に参加し、その後少し旅行して、ミラノから上海経由で日本に帰りました。まだ学生だった頃です。

飛行場に到着し、カウンターに行くと、乗るはずの飛行機は何かの理由で出発が遅れるといいます。少しイライラしながら多くの人が待っていました。7割ほどは華僑の方のようです。しばらく待つと、「フライトは翌日の早朝に変更、航空会社が準備したバスで郊外のホテルへ行き、そこで一泊して翌朝また飛行場に戻る」と、担当者が説明します。ありがたいことに担当者は中国人の女性でした。

学生だった私は「しょうがないな」とのんびりした気持ちで、中国語の説明を聞き逃さないようみんなと一緒にいました。そして、ぞろぞろとみんなと一緒に移動し、バスに乗る少し前にある女性に声をかけられます。背の高いはつらつとしたきれいな中国女性でした。

「私の母と一緒に上海まで帰ってもらえませんか」

隣には更に背の高い優しそうなヨーロッパ人の男性が立っています。ご主人のようです。娘さん夫婦に会いにはるばるやって来られたのでしょう。少し離れたところから、素朴な中国のお母さんがニコニコしながら、でも少し心配した面持ちで私を見ていました。

海外旅行が初めてのお母さんが明日ちゃんと飛行機に乗れるかどうか心配であること、上海の空港には妹さんが迎えに来ていること、二人はどうしても今日ミラノを離れなければいけないこと。「私でよければ」と言えば良いものを、「私日本人なんですけど、いいですか?」と聞きました。お姉さんは、フライトが延期になった時から、カウンターの近くでお母さんを頼める人を探していたのだと話してくれました。

さて、お姉さんのお眼鏡にかなった私はそのお母さんと一緒にバスに乗り込みました。お母さんは涙を流しながら娘さんを心配することばを話され、私は方言なまりの中国語を必死に聞きました。ホテルに到着すると、二人分のパスポートを持ってもみくちゃにされながら部屋の鍵をもらい、ランチボックスのような冷たい夕食を食べ、部屋で休みました。そして、私がバスタブに浸かっていると、「寂しいでしょう」と言いながらお母さんが椅子を持って入って来て、私たちはしばらくバスカーテン越しに家族の話をしました。今でも真っ白なホテルのバスルームと共にその時のことが思い出されます。

翌日、私たちは無事上海に着き、飛行場で妹さんと会い、別れました。武漢にいらっしゃるお母さんとはその後一度お手紙のやり取りをしたきりです。武漢に訪ねてゆきたいと思いながら、まだ再会は実現していません。

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語学研修

小川泰生(広島大学)

広島大学では今年春休みに初めて台湾の輔仁大学で語学研修を行うことにした。今までは、夏に北京の首都師範大学で行っていたが、PM2.5、水、食物等の問題もあり、台湾で行ってみることにしたのである。台湾で行うには、気になることがあった。それは、繁体字、注音字母の問題である。日本の中国語の授業では簡体字、ピンインを使っているので、3、4年生なら適応できるだろうが、1、2年生だと学びにくいだろうと思われたからである。しかし、輔仁大学に相談すると、テキストは広島大学で指定するもので教えてくれるとのことで、支障がなくなり、台湾での語学研修が実現することとなった。

1995年から1997年まで3年間、夏休みに学生を引率して、北京語言大学へ行っていた。当時は広島大学主催の語学研修はなく、私が個人的に引率していた。学生には、広島大学主催ではないこと、たまたま私が北京に行くので一緒に行くこと、引率のための料金は取らないが、何かあった場合には責任の取りようがないので保険に加入すること、以上のことを親御さんによく説明して了解を得てくることを条件に、引率していた。その頃は、担当しているクラスで語学研修の話を持ち出すと、あっという間に30人くらい集まり、それ以上は一人では面倒を見切れないので断っていたものである。

2007年から広島大学主催になり、広島大学が首都師範大学に北京センターを開設している関係で、首都師範大学で語学研修を行ってきた。ただ、以前と比べて希望者は減り、何回か説明会を開いてやっと人数を確保する有様であった。補助金が出ても希望者はそれほど多くなかった。理由として、不況で保護者からの資金援助を受けにくいこと、学生の内向き志向、好ましくない日中関係等が考えられる。2011年までは毎年引率していたが、体調の関係で、その後、私はタッチしていない。2013年度は学生が集まらず、実施されなかったようである。

文科省から補助金をもらう関係かどうかよくわからないが、語学の勉強よりは文化体験を重視したプログラムになり、期間も2週間に短縮された。そのため、中国語を学びに行きたい学生の受け皿がなくなってきたので、中国語を学びたい学生のために、今回語学研修を新たに企画したのである。

中国語教育の到達目標として何を重視すべきか。発音、文法、語彙、会話、読解等いろんな考え方があるだろうが、私はやはり発音が大事で、初めての文章でも独力でピンインを読めるようになれば1年間の中国語学習は成功だと考えている。ただし、教員に対する評価としては、学生の中国語能力を向上させること以外に、2年生になっても中国語の学習を続けるとか、中国に留学に行く学生が多い等、いかにして、中国や中国語に興味を抱かせ、中国語の学習意欲を持たせることができるかということも、大切な評価項目だと思う。

広島大学総合科学研究科では毎年春と秋に国際交流委員会の主催により、総合科学研究科、総合科学部に在籍する留学生、日本人学生、教職員の参加する国際交流懇親会を開催しているが、留学生はほとんどが中国人である。これからの日中関係を築いていくのは若い学生たちであるので、日本人と中国人の学生がお互い助け合い、協力し合って、良好な日中関係を築いていってほしいし、今後ますます語学研修に参加する学生が増えてほしいと願っている。

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福州探訪

木津祐子(京都大学)

2013年の夏休み、福州で琉球関係の史跡を巡る機会を得た。その幾つかを、字数の許す限り報告することとしたい。

最初に訪れたのは琉球館こと柔遠駅であるが、これについて多言は要しまい(注1)。その足で「万寿橋」へ。琉球から福州入りした貢使一行は、河口で小船に乗り換え、この橋で下船したという。琉球館のほぼ真南で、今は広い国貨西路で隔てられているが、当時は徒歩数分の距離であったろう。緑陰溢れる石造りの可愛らしい橋であった。この橋を知ったのは、神奈川大学の渡辺美季氏HP(http://www.geocities.jp/ryukyu_history/)中のコンテンツ「中国における琉球関係史跡の紹介」である。「天妃宮」(琉球使節が海路の安全を祈った祠)が万寿橋のすぐ近くにあることを教えていただいたのも、同サイトである。

さて、ここからが琉球通事の官話教材に登場する史跡となる。

この万寿橋そばの五一南路を南下し訪ねたのが「水部尚書廟」である。『官話問答便語』は、他の様々な「廟会」の紹介とともに「迎尚書爺」に言及し、「尚書」は宋の陳文龍という参政官で、忠義の為に投水自殺したことによって「水部尚書」に封じられ、廟には商船いまも絶え間なく参拝する云々と、詳しい記述が見える。その陳文龍尚書廟がこれなのだが、現在の立地では、小さな水路はあるものの、とても商船が往来できるとは思えない。どうやら福州市の閩江沿いの街路整備計画により、2005年にもとの「塢尾街」から移築されたらしい(注2)。なるほど、もとの所在が閩江沿いであったなら、商船の往来も可能であったろう。

翌日は、今も観光名所の一つである「烏塔・白塔」へ。『官話問答便語』が、「南関内西の黒塔と東の白塔は、中秋の八月十一日から十五日、七層すべてに燈火が輝き、老若男女の行き交う良宵美景だ」と称えるそれである。この二塔は、烏山と于山の間に、ちょうど八一七南路を挟むようにして建っていた。石造りの烏塔に好対照の白塔は、石灰が表面に塗られているとか、驚くほどに白く光沢があり、琉球人が中秋燈会の幻想的光景に心躍らせたのも頷ける景勝である。上に記した尚書廟とこの二塔については、王振忠教授の論文「清代琉球人眼中福州城市的社會生活」(『中華文史論叢』96、2009、pp.41-110)に詳しい考証が見える。

続いて探索に出かけたのは「太保廟」である。『官話問答便語』は、「土地大王」誕生日に「太和廟」まで芝居見物に出かける会話を載せる。一人は福州に来て間もない勤学生であろうか、「物語を知らないから、幕ごとに説明してくれないとわからない」と訴え、もう一人が「ともかく気楽に見てればいいさ、わからなければ説明してやるから」と請け負う。先のフレーズには「毎出替我説説,我方知道」、後のフレーズには「你只管満看,……不曉得的,對你講講」と、琉球の官話教材では重要な、介詞の「替」と副詞の「満」(注3)を含むことから、これまで何度も読み返した条である。銅鑼が鳴ってるから急ごうぜと語り合うところを見ると、琉球館近くにあることは間違いない。ここで、先の王教授の論文が助けとなった。琉球館すぐ近くの「達道」に「太保廟」という「地名」があるというのだ(王論文p.84)。しかし地名?廟は無いのか?

取りあえず地図を頼りに、五一南路から「達道路」に入って歩き出してみると、地名よりも何よりも、すぐさま「達道太保廟」が見つかった。小さな祠の中に、錫杖のようなものを振りかざした神様が正面に祀られ、壁にも神々の絵が描かれている。おもしろいのは廟の入口につるされた幟。「柳爺」(注4)の誕生日を祝い、信者(弟子)たちが「演戲」を奉納する、とあるではないか。もしかすると、「太保廟」では今も神様の誕生日には芝居がかかるのかもしれない。心躍らせ、廟前で夕涼み中のご老人に尋ねてみたのだが、情けないことに返ってきた福州方言が聞き取れない。翌日も、普通話の話せる人が近くにいないかと再度訪れてみたのだが、やはり昨日と同じご老人が椅子で団扇を扇いでおられるだけ。私の顔を見てにっこりと笑い、また明日おいでと言ってくださった、なぜかその言葉だけはよく聞き取れた。

気を取り直して向かったのは……と続けたいところだが、すでに与えられた字数は完全に超過しまっている。残りの報告は別の機会としたいが、福州に、清代の琉球通事が見聞した史跡が、いまも形は変えつつ残されていることを知り得たのは大きな収穫であった。あとは福州方言を体得できれば云う事無いのだけれども。

 注1 最近、福州出身の復旦大学王振忠教授の随想が出たので、詳しくはそちらで(『東方早報』デジタル版2013年10月27日「琉球館」:http://www.dfdaily.com/html/1170/2013/10/27/1082118.shtml)。
 注2 廟前に立てられた台江区人民政府の記念碑による。
 注3 特徴的なのは『白姓』系で主に出現する「連同」の「替」だが、受益者を導く「替」は『官話問答便語』にも見える。副詞「満」は、「とりあえず」などの意。
 注4 後で調べてわかったのだが、「柳爺」とは「太保廟」に祀られた鮑姓・柳姓二神のうちの一神である。

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吾屯村を訪ねて

更科慎一(山口大学)

2013年の9月、一週間ほど青海省に滞在した。単身、短期間の滞在ではあったが、漢語、チベット語、アルタイ諸語など、系統の異なる様々な言語の話されている当地の現状について、いささか知ることができた。旅の一部をここに記したい。

省の東端にある循化撒拉族自治県から南へ、バスで3時間ほど行くと、同仁県、チベット名レプコンreb kongに到着する。ここは私にとっては初めて訪れる地である。県の人口の7割以上がチベット族で、町の書店に売られている本ももはやチベット語のものが大勢を占めている。同仁県城(隆務rong bo鎮)から7キロほど離れたところに、チベット仏教美術で有名な吾屯(seng ge gshong)の村がある。言語研究者にとっては、そこは中国でも珍しい混合言語のひとつ「五屯話」(語彙は漢語が多く文法はチベット語的)が話されている村としても忘れることができない。五屯話については、1980年代の陳乃雄氏の論文や、近年発表された意西微薩・阿錯氏の『倒話研究』などを読んで知ってはいたが、実地に話されているところに立ち会うなどは、思いもよらないことであった。

同仁のバスターミナルの付近にたむろしていたチベット人のタクシー運転手に「どこへ行く」と声をかけられ、とっさに「吾屯村」と言ったらすぐに連れて行ってくれた。彼は村にある立派な寺院に案内してくれたが、そこでたまたま出会った青年の僧が絵師で、しかも五屯話の話者だという。二日後に会う約束をして、その日は別れた。

翌々日、絵師に教えてもらった携帯電話の番号にかけるために、村の入り口の診療所兼雑貨屋のような場所に入った。電話は、親切にも、診療所の方がかけてくれた。この日は結局、絵師の青年の家ほか、診療所の前にたまたまいた若者の家にも招かれ、いろいろと話を聞くことができた。興味を引いたのは、五屯人は公式には土(トゥ)族に識別されているが、当人は自身を土族ではなくチベット族であると考えている点である(陳氏論文にも同様の報告がある)。絵師は、現在のチベット自治区にあたる地の具体的な地名(聞き取れなかったが)を挙げて、五屯人がチベットにルーツを持つ民族集団であり、断じて土族ではない、と力説されていた。診療所にいた若者は青海民族大学を卒業して今は公務員をしているといい、現代日本事情について私にいろいろと質問をした。彼は、五屯村について、仏教美術の村として青海省内でも有数の豊かな村になったと語ってくれた。彼もまた五屯語の話者である。彼によれば、この村では小さな子供もみな五屯語を話しているという。話者人口こそ少ないものの、いわゆる危機に瀕した言語ではなさそうである。絵師の話す五屯語の短文をいくつか録音することもできた。「我正在吃飯。」にあたることを「我飯喝的有。」のように言うことなどが確かめられたが、先行研究に記述された摩擦音の細かな区別などは認められなかった。単に私の耳が悪いということもあろうし、それまで聞いたこともない言語の発音の区別をいきなり聞き分けるのはもともと困難なのであるから、本当は区別があるのかもしれない。村の人々のhospitalityに感謝しつつ、私は吾屯村を去った。

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相声の思い出

渡部 洋(大谷大学)

85年夏、北京大学中文系の3年生であった私は相声(漫才)に夢中であった。週に二日永定門からバスに乗り黄庄の師匠の家に通って単口相声(立って落語をするようなもの)を習っていた。当時の北京にはおもしろいことがたくさんころがっていた。ある日、黄庄へ行く途中のバス停で乗車したご老人がバスのドアに挟まれそのままバスが出発した。見ると、ご老人は身体半分が外に、もう半分が車内にあって大きな声で“挟住了!”、“挟住了!”と叫んでいた。しばらくして運転手も気が付いてバスを止めた。当時のジャバラのバスはゆっくりとしたスピードで走っていたのでご老人は幸い怪我もなく怒ってはいたが元気だった。その老人はまさに侯宝林の「夜行記」のキャラそのもので私は心中笑いが止まらなかった。外出するたびに何かしら“事件”に出くわしていた私は“やっぱり北京はおもろい”と感じると同時に、この時、結果補語の《住》は動作が完全にストップするという意味であることを改めて実感した。

初めて師匠に会った日、私は師匠から発音が悪いし顔も小さすぎると言われた。しかし、これであきらめるわけにはいかなかった。顔は仕方がないが、発音はなんとかできると思ったからである。そこで師匠から渡されたテキストの繞口令(早口言葉)を何度も練習した。師匠に繰り返し教えられたのは大勢の人に聞いてもらうには正確な発音でしゃべらないといけないということであった。ずいぶんたってからようやく簡単なものを1つ教えてもらった。私はそれを毎日何度も何度も繰り返し練習した。自分の相声を録音して聞くと下手なのがよくわかる。わかるからこそ練習と録音をひたすら続けたのである。そんな毎日を2ヶ月程続けたある日、私は自分の相声が聞くに耐えうるようになったか試したくなり、某ホテルのレストランに行った。昼過ぎ暇そうにしているウエイトレスを集めてやってみると、意外にも笑うところで笑ってもらえた。ものめずらしさもあってのことに違いないがうれしかった。中国人との距離、相声との距離が一歩縮まったような気がしたからである。気をよくした私はその後も何度かチャレンジした。通訳のバイトで済南へ行った際宿泊先のホテルで試すと従業員が沢山集まってくれ私の相声を笑ってくれた。バカの一つ覚えでも笑ってもらえるとうれしいし自信もつく。ましてや留学生の身でゼロというよりマイナスからのスタートだったのだからなおさらだ。継続は力なり。スターには才能と努力と運が必要だが凡人は努力のみである。

ところが、その凡人に奇跡が起きた。ある中国人の紹介でお笑いの大御所侯耀文と馬季に会う機会を得たのである。侯さんは非常に実直で神経質な感じの人だった。当時ちょうど離婚したばかりで暗い気分だったからかもしれない。私に自分が日本へ行って相声をやったらうけるだろうかと訊ねてきたりして日本に興味を持っているようだった。侯さんは侯宝林の息子さんで所謂“説 学 逗 唱”の四つの芸はピカイチだった。しかし、お父さんのような“味”はなかった。生意気な言い方になるが、うまさが前面にでて面白みに欠けるのである。“芸”とは難しいものだとつくづく思った。一方馬季さんは非常に明るく人なつっこい感じの人だった。私が相声を勉強していることを伝えると歓迎してくれた。やってみろと言うのでやったが、不思議なことにその時の反応がどうだったか全く記憶がない。余程緊張していたに違いない。

ところが、北京大学卒業を間近に控えたある日、馬季さんからお手紙をいただいた。一緒に東北を回らないかというのである。驚いた。詳しいことはわからなかったが、自分を思い出してくださったこと、声をかけてくださったことが本当にありがたくうれしかった。しかし、失礼だったかもしれないが帰国を前にした私に決断する勇気はなかった。迷いに迷った末、結局“発音が悪く顔が小さすぎる私”はお断りの返事を出したのである。あれから30年、毎日の生活に忙殺され、せっかく覚えた相声もすっかりできなくなってしまった私だが時折大好きだった劉宝瑞の「黄半仙」の出だし“六月三伏好熱天, 京東有个張家湾···”のフレーズがふいに口をついて出てくることがある。あの時勇気をふりしぼっていたら、私は今頃どこで何をしているのだろう・・・。30年も前の昔話である。

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中国語について最近思うこと

成戸浩嗣(愛知学泉大学)

学生時代は好きで続けていた中国語であるが、これほど長い付き合いになるとは思わなかった。気がつけば、大学で教え始めてからでも四半世紀が過ぎている。学生時代の専攻は法律学であり、これまでに教えてきた多くの学生の場合と同様、第二外国語として学び始めた。中国に短期留学することが徐々に可能となりつつあった80年代のはじめ、3年生の夏休みを北京で過ごし、中国にはまってしまった。新鮮だった。中国は経済的にも社会主義であった。大学での専攻を間違ったか、とちらりと思った。

法律学も言語学も、社会の変化を後追いして変化、発展していくものである点で一脈通じるものがある。所属していたゼミでは「手形法」を学んだ。商行為の相手方への支払いを約束する手形について、いわゆる「債権(請求権)」ではなく「物権(物に対する直接的、排他的権利)」を認める少数説をとる先生が担当であった。今にして思えば、「債権」と「物権」の間にも、明確に区別しがたい中間領域があるということなのであろう。何やら、中国語研究における様々な分類作業があちこちで限界にぶちあたる現象に似ていなくもない。色で言えば、濃淡様々な「赤色」を、一様に「赤」ですましてしまうのではなく、他の色との連続性をも視野に入れながら細かく区別してあつかうというようなことである。

このごろは、中国語を研究対象としながらも、一般言語学との関連を意識することが多くなった。それを意識しつつ作業を進めることが、ようやくできるようになったとも言える。筆者の場合、中国語と対照させて考えることの可能な持ち駒として日本語のほか、英語、フランス語がある。容貌は全く違っても互いに同じ人間であるように、系統的にはつながりのない欧米言語や中国語、日本語を対照させてみると、言語として発想や表現の仕方が似ていることは、しばしばみられる現象である。どこが似ていてどこが違うのかを整理し、できればその理由を明らかにすることが、研究者の役目であろう。他方で、中国語教育は、少なくとも大学においては、スタンダードな知識にとどまらず、中国語独自の現象にスポットをあてつつ行なうことが必要だと思う。そのようなことを通して、特に、中国語を専門としない多くの学生に対しては、それぞれが専攻する学問領域において新たな知見を生み出そうとする姿勢をもつよううながすことができれば成功である。

かたい話ばかりになってしまった。最後に、エッセイでしか語れない、研究と教育の相乗効果についてひとくさり(あくまでも個人の)。研究作業によって元気が出る→元気な状態で教室に行ける→学生から元気をもらう→再び元気に研究に打ち込む(校務もできるだけ元気にやる)、のような循環が維持できていれば最高である。ささやかではあるが、長い教員生活、元気を保ちつつ送って生きたいものである。若い読者の皆さんにはもう一つ。小生の所属する大学に在籍しておられたK先生(英語学・故人)からの大切な一言である。「40代をどう過ごすかが人生の分かれ道だぞ」とおっしゃった。研究をやめてしまうこともできるし、続けることもできるという意味である。

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心和む声音—公開講座の思い出—

富平美波(山口大学)

現在、勤め先の大学で、全学の公開講座のお世話などをしている「地域連携推進センター」の主事を兼任しておりますので、ここでも、公開講座の思い出を少し書かせて頂きます。

もう10年以上前になりますが、学部主催の公開講座で「外国語学習コース・中国語」(全8回)の4回分を受け持ったことがあります。残る4回分の担当者が当時評判だった中国映画「山の郵便配達」の原作を講読するというので、考えたあげく、老舎の「想北平」を、美しい挿絵のある朝日出版社のピンイン付教科書(相原茂先生編『微神』に併録)で読むことにしました。自分の老舎や北京に関する知識の不足が心配でしたが、さいわい中野江漢『北京繁盛記』(中野達先生編)もありましたし、なにより『岩波中国語辞典』と中山時子先生の『老舎事典』を無二の味方と頼んでカバーすることにしました。

受講者はほんの数人、ぱらぱらといらして、ご年配の女性が多かったですが、どういう機会に中国語を学ばれたのか、どなたも発音や読解がお上手でした。そして驚いたことに、翻訳にあたって、たっぷりと敬語を使った訳文を作る方がいらっしゃいました。また総じてお声が上品で、ちょうど、時々テレビで報道される、美智子皇后さまが人に話しかけられる時のような感じの方が多かったです。そういうふうに日中両言語とも発音されていました。恐らく日本の女性のある年代までの人たちには、こういう発声やリズムで話す習慣があるのではないでしょうか(特に「よそゆき」の場面では)。そういう発声が中国語の学習法上効果的かどうかはともかくとして、聞いて快い響きであったなあと今でも思い出します。

この講座の前後、参考のために中国で出ている北京についての本をあれこれ買い込みました。生来の怠け者ゆえ買ったばかりであまり読んでおりませんが、『老北京旅行指南−《北平旅行指南》重排本』(1997北京燕山出版社)や『北京街巷名称史話』(張清常氏著・1997北京語言文化大学)等、後まで取っておきたくなる本がありました。そしてやはり、金受申さんの書かれたものがいちばん好きになりました(当時は『北京的伝説』や『老北京的生活』が北京出版社から出ていました)。

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空白を埋める

石崎博志(琉球大学)

ボクが指導する学生に、色彩語彙の用法を卒論のテーマに選んだ者がいる。その研究の過程で、近年、漢語の“黒”に動詞の用法が新たに加わっていることを知った。例えば“我的網站被人黒了”(私のサイトが不正に侵入された)などである。“白”には名詞、形容詞、副詞、動詞といった多様な用法があるが、“黒”は“白”ほど多様性がないと思っていたので、驚いた。一方、日本語で他人が暑がっているのをみた時、「彼はあつい」は言えず、「彼はあつがっている」といった表現を選ぶ。だが、いつ頃だろうか「彼はあつい」という表現は熱血漢を示す意味で使われ、定着している。これらの日中の例では、用法の空白に新たな表現が進出しているが如きである。そして、その空白地帯で、人々は新しい表現を楽しんでいる。

・・・このように文法学者からお叱りを頂戴しそうな苦し紛れの文章をしたためているのには、理由がある。ボクは今年度からメルマガの編集を担当しているが、実は今月、お願いしていた原稿が届かなかったのである。この電子通訊は毎月一回配信され、読み物も欠かさず掲載されていた。ボク自身、この欄を楽しみにしていたこともあり、編集担当として読み物が空白になるのは避けたかった。そして、急遽ボクが空白を埋めることにした。思えば、ボクは学術雑誌も含め、編集をしたことがなかった。原稿を待つ焦燥や悲哀を味わったことがなかったのである。

この切なさはきっとボクを育ててくれる。そう思いたい。

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ある日の授業

王志英(沖縄大学)

ある日、沖縄大学の二年生と一緒に中国語の「~是~的」の文型について復習しました。一年生の時、すでに授業でやったものでしたが、もう一回丁寧に説明してから、「それでは、「~是~的」を使った文を言って、作ってみてください」と言いました。しかし、皆静かで、誰も手を上げてくれませんでした。今までは新しい文型について説明をしたら、私が日本語の文を言って、皆に中国語に訳してもらう方法で練習してきましたが、今年の中国語コースの学生たちは皆優秀で、毎回ほぼ完璧に訳してくれました。その日は復習なので、作った文を言ってもらうことにしましたが、教室はシーンとしていて、何度言っても、皆はずっと黙っていました。 一人の学生の机に丸い筒のような物が置かれているのに気づきました。何が入っているだろうと多分皆が気になっていると思ったので、それが何か、中国語でその人に聞いてごらんと言いました。私の言葉を受けて、一人の学生がボソボソと喋りはじめました。そうしたら、それをきっかけとして、皆段々目が輝いてきて、われ先にと争ってしゃべりだし、中国語で以下のようなやりとりがなされました。

学生A:多少銭?
本 人:不知道。
学生B:是誰給你的?(今日の文型が使えるというヒントを与えた)
本 人:是学長給我的。
学生C:他為什么給你?
本 人:没有人要,我要了。
学生D:里面是什么?
本 人:不知道。
学生E:為什么不知道?
本 人:不知道就是不知道。(「A就是A」という文型を使ってというヒントを与えた)
学生F:可以打開看嗎?
本 人:可以。
学生G:這个人是誰?
本 人:是一个拳撃手。

結局、それは空手宣伝用のポスターだということが分かりました。午後1時からの授業はもともと集中力がきれやすく、教え方が面白くないと学生たちが寝てしまう時間帯です。授業の間にこのような実践的な練習を入れたら、皆盛り上がって、教室は笑い声と笑顔で溢れました。今日の授業で彼らが自ら話した中国語は多分一生忘れないでしょう。

私は大学時代、日本語を専攻していました。自分の恩師に関するエピソードは私の一生の宝物です。その先生は毎日時間がある限り、日本語で物事を考えていたそうです。ある日、その先生が中国の西安でバスに乗っていたら、うっかりして隣の人の足を踏んでしまった時、思わず「すみません」という日本語が飛び出したそうです。

中国語を教えるとき、教科書通りに教えてもいいのですが、やはり、教えたあと、学生にそれをどう活用してもらうか、どのようにしたら彼らのモノになるかということについて、より一層の工夫が必要だと思われます。

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1976年夏 台湾にて

山田忠司(文教大学)

今を去ること37年前の1976年夏、台湾で一夏過ごしたことがある。中国語はもとより中国、台湾について高校世界史で習ったこと以上の知識を持たなかった私にとってはすべてが、驚きの連続であった。当時の台湾の様子を知る人もそう多くはないと思うので、私の個人的体験を記しておきたい。

戒厳令下の台北は時折防空演習が行われ、瞬時に町から人、車が姿を消すということもあった。新聞はと言えば、大陸の指導者の漢字表記には「犬+毛」「犬+澤」「犬+東」のごとくすべて「獣偏」の漢字が当てられ、「共匪」の文字が躍っていた。唐山大地震(’76.7.28)の翌日の新聞記事は被害の大きさそのものよりもこれを機に大陸では反共産勢力が暴動を起こすだろうという論調であった。私の友人の一人はこの地震は共産党支配に対する神の怒りだと言い放った。また本省人と外省人も激しく対立しており、「白色テロ」も横行しているとの話であった。中でも衝撃的だったのは上半身裸になって道路工事を行っている人のなかに「中華民国萬歳」「三民主義萬歳」などの入れ墨を背中一杯に入れている人を見たことだった。友人の話によれば、彼らは元中国人民解放軍の兵士で朝鮮戦争の際に朝鮮半島に出兵し、投降後台湾亡命を希望し、スパイでない証明としてこのような入れ墨を体に彫ったということであった。

このよう書くと極度な緊張状態にあったようだが、人々は経済発展に伴って豊かになりつつある生活を大いに楽しんでもいた。当時は40歳以上の本省人の方々は日本語が堪能で、日本統治時代を懐かしんでいる風にも見えた。そんな方々から私は台湾光復後やってきた国民党軍に関してよく以下3つの話を聞かされた。

1つ目は、台北における日本統治の実態を視察した軍幹部が日本人は馬鹿だと評した。なぜかというと日本人は台北中いたる処に立派な大学を造ったからだと。しかし、実はそれは小学校であったというのがおちであった。

その2、台北に来て初めて水道を見た軍人がこれは便利だと感心し、金物屋に行って蛇口を買い、それを壁に塗り込めたが、水が出ないのに腹を立て、金物屋に怒鳴り込んだという話(この話は王育徳著『「昭和」を生きた台湾青年』にも描かれているので、よほど人口に膾炙していたのであろう)。

最後は自転車を盗んだ人が、乗り方がわからず、担いで逃げたもののすぐに捕まったというもの。

なぜか台湾の年配の方は親しくなると判で押したようにこれら3つの話をしてくれた。

当時の状況からは今日のように台湾と中国が自由に往来できる時代が来るとはまったく予想もできなかった。まさに隔世の感である。

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郭鋭先生の「現代漢語」

中司梢(早稲田大学・非)

2010年9月から2012年7月までの約二年間、北京大学の中国語言文学系現代漢語教研室に高級進修生として留学していました。単位の取得は関係ないため、受け入れ先の指導教官のゼミに出る以外は、かなり自由に時間が使えました。そこで、大学院の授業のほか、学部生の授業も興味があるものをかたっぱしから聴講することにしました。北京大学は、勉強したい人は誰でも自由に授業を聴きに来てよいというスタンスの大学ですので、他大学の学生もたくさん聴講にきていました。

その中でも印象深かったのは、郭鋭先生の「現代漢語」です。これは中国人の学部1年生向けに開講されている必修科目で、週2日、計4コマ(1コマは50分)です。北京大学中文系の基礎科目という位置づけということもあり、語彙や文法など総合的な内容で、大変勉強になりました。特に“語音”は、最初の3か月強を使って詳細に説明してくださいました。

今でもとても感謝しているのは、単母音のeについての説明です。日本にいたときに、中国語の先生に「君のeの発音は何か少し違う」と言われ、しかし自分ではどこがどう違うのか分からずに矯正のしようがないと感じていました。発音の方法を説明されなくても真似ることができる人もいるのでしょうが、私には難しいことでした。郭先生は、「単母音eは厳密にいうと発音の過程で口を少し開くので、複母音である。ただ、その変化がそれほど大きくないため、単母音としてみなされる」と説明しておられました。この説明は驚きでしたが、非常にすっきりした思いがしました。

もしかしたら日本でも説明してくれた先生がいたのに、聞き漏らしていただけかもしれません。ただ留学時は、先生の言うことを一文字も漏らさずに聞き取るぞという気合いで授業に臨んでいました。また、一緒に聴講していた大学院の“同学”にノートを借りることもあり、さらには期末試験にも学部1年生に混じって参加させてもらいました。

「現代漢語」の授業は留学二年目も聴講しましたので、一年目に聞き逃した箇所をノートに埋めていきました。今やそのノートは私にとって宝となり、何かわからないことがあると、すぐに開いて確認するようにしています。

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辞書利用を続けて

西山猛(九州大学)

私は中国古典を専攻しておりますので、辞書を日々どう利用していくかが研究の重要な要と考えても過言ではありません。私は大学学部学生の頃から『新辞源』、『中日大辞典』、『新華字典』、『漢語大詞典』などたくさんの辞書を引いてきました。もちろんそれだけでは十分ではなく、個別の辞書を参照したことも多々あります。ですが私の実力のなさもあってか、それが必ずしもいい結果に結びついていないことが残念です。

ですがそんな私にも辞書の効用を実感したことがありました。以前『遊仙窟』に関する論文を書いた時のことです。巻一の「自隱多姿則」という語句を調べていましたが、「自隱」がどういう意味なのか全くわかりません。いろいろな辞書を引いてみましたが、ぴったりくるものがないのです。かなり調べていくうちに『敦煌変文字義通釈』に「自己のことをおしはかる意」としてこの「自隱多姿則」という句そのものが挙げてあるのが目に留まりました。「溜飲を下げる」とはこのような時に用いる表現である、ということを実感した瞬間でした。

ただしこれには後日談がありまして、その後今村与志雄訳を見ていましたら、訳注に『敦煌変文字義通釈』云々と書いてあり、本文に「いくらお綺麗だと思ったにしても」ときちんと解釈されていたのです。結局「私の実力のなさ」がまた露呈された形になったわけですが、ただ手順を踏んで調べるというということを再確認する意味では、いい経験となりました。

しかしこのようなことは日常ではまずありません。徒労に終わることが殆どです。ですがごくまれに前述のようなことに遭遇することがありますので、こうやって研究を続けているというわけです。

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語源解釈の楽しみ

(松江崇・北海道大学)

札幌に移住して十年になるが、はじめに住んだのが「平岸」というまちだった。こんなに坂ばかりなのにどうして「平岸」?と思っていたのだが、何年か前になってこの地名がアイヌ語のPira kesh――Pira(=崖) kes(=はずれ)――に由来するとの説を知って驚いたことがある。ご存じのように、北海道の地名にはアイヌ語由来のものが多いのだが、「平岸」のようにいかにもそれっぽい漢字で表記されると、漢字語と誤解された上での語源俗解が生まれやすい。

言うまでもなく、中国語にも「それっぽい」漢字表記のために種々の語源俗解をまねいてきた語がある。なかでも面白いのは、学者の手にかかって作り出された「それっぽい」漢字表記とその語源解釈だ。例えば、漢の揚雄『方言』巻八に「虎」を表す語形として「李耳」という表記がみえる。かの南方熊楠は、郭璞や応劭の語源俗解的な説を引いたあと、「李耳は狸児を訛った」との李時珍の説を踏まえて「李耳」という表記を「狸児」のことだとみなした上で、「虎を蔑して児猫といった意味だろう」と言う(「虎に関する史話と伝説、民族」『十二支考』所収)。これなど、まず「李耳」を音通により「狸児」と読み替えることで「それっぽい」表記の語形を作り出し、さらにそれを語源俗解的に解釈していることになる。熊楠説が面白いのは、語源解釈の際、「野狸に分かたんとて猫を家狸と異名す」だの、「仏経に竜を罵って小蛇子と言う」だの、「日本で猫を虎に擬えた」だのといった「児猫といった意味」説が成立し得る蓋然性を高めるための情報が、これでもかと言うぐらいにちりばめられていることである。とはいえ、熊楠の蘊蓄が膨大であることと、その語源解釈が事実か否かとは、全く別の話である。残念ながら、一般には、「李耳」は土家語で雌虎を表すli31 nji35という語(李敬忠「方言中的民族語詞試析」『民族語文』1987年3期)、あるいはこれと語源的に繋がる何らかの少数民族語を音写したものとされている。

といったような様々な学者の説を読み進むうち、私は、語源解釈についてそれが事実かどうかというより、「解釈したがる」という行為そのもの、あるいはその際に生み出される創造力といったものに惹かれるようになった。その点から言えば、一番度肝を抜かれたのが、「干支」についてのE.G.Pulleyblankの説。干支が中国語ではなく何らかの原語の音写ではないかという話は古くからあったが、Pulleyblank氏は、二十二天干地支というものは、文字が発明された時代に古代中国語の子音を代表させた字母なのだという説を提出しているらしい(”The Ganzhi as Phonograms and their Application to the Calender” Early China16:39-80)。「らしい」というのは、これだけ堂々と紹介しておきながら、私がまだ原文を読んでいないからであり、全く面目ない次第である。

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『言語類型地理論』の衝撃

平田昌司(京都大学)

かつて京都大学正門の斜向かいにナカニシヤ書店という名物の本屋があった。ここで橋本萬太郎先生の『言語類型地理論』を買ったのは、1978年1月の出版から間もないころのこと。

もともと「中国語学」をやるつもりはなく、橋本萬太郎というなまえにも、その著作にも関心はなかった。ところが、尾崎雄二郎先生のご紹介で、よくわけも分からないまま、橋本先生が主宰されていた東京外国語大学(当時はまだ北区の西ヶ原四丁目にあった)アジア・アフリカ言語文化研究所の辞典編纂プロジェクトに参加するようになった。そして、尾崎先生と個人的におしゃべりしていると、意外にも「萬ちゃんは面白い」と評価されるものだから、この得体の知れない題名の本を手に取ってみたわけである。

『言語類型地理論』を読んだ人だったら覚えがあるだろう。ケレン味のあるおおげさな言い回し、ちょっと待ってくださいと口をはさみたくなる論証の粗さ、先行研究の二次的利用ばかりではないか、ちゃんと調べたのかと疑われる例文(警告:自分が教師の立場で、本書を修士論文として受け取っていたら、不合格にしたかも知れません)。それでも、この本は強い魅力にあふれ、熱中するほどに面白かった。

「少なくとも大陸部にかんするかぎり――そして言語の構造類型の面では――アジアは、ひとつの連続体(continuum)をなすことを、この本は示すことに、成功したつもりである。」

こうした、やたらに読点のおおい文体で語りだされるのは、たんなる「中国語学」の世界の話ではなく、アジアの全体像をどう把握しようかという迫力ある構図だった。ややあって、『月刊言語』で始まった「現代博言学」の連載も、楽しかった。辞典編纂プロジェクトの研究会は、20代の参加者でもみんな自由に発言できて、しばしば議論が非常に盛り上がったし、橋本先生の編にかかる報告書『アジア・アフリカ語の計数研究』も、どんな論文が出てくるか受け取るたびに期待感があった。わたくし個人にとって、1970年代終わりから1983年あたりにかけての日本の「中国語学」の中心地は西ヶ原四丁目で、当時は――会員のみなさま、どうかお許しください――中国語学会なんかどうでもよかったのである。

さて、初版刊行から35年を経たいま、『言語類型地理論』はもう捨て去られたようにみえる。はるかに豊かになった言語調査データは、当時の仮説をつぎつぎと崩していった。それでも、全体像を自力でとらえようとする「ナマの着想」の情熱にとってかわりうるものは、現れたのだろうか。もちろん「中国語学」は、中国語という個別言語を離れては存在できないし、確実な証明が欠かせないことも分かっている。しかし、規範的中国語や日本語の事例だけで議論が完結してしまったり、「印欧語では」と引き合いに出される例がいつまでもいつまでも現代英語だけだったら、それは惜しい。

わたくしの場合、『言語類型地理論』で「中国語学」を始めることは、おそらくなかっただろう。しかし、『言語類型地理論』があったから「中国語学」を続けられたことは確かである。橋本先生の問題提起をどうしたらいいのか、何年も摸索して方向がつかめなかった。自分なりに組み替えてみた結果だと言えるのが、似ても似つかないものだけれども、1990年代に入って思いついた科挙制度や文学革命に関する一連の論文である。1987年に亡くなられた橋本先生にお見せすることは、もちろんできなかった。
(附記:『言語類型地理論』は、いま『橋本萬太郎著作集』第1巻、内山書店、に訂正版が収められている。)

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中国語パフォーマンスコンテスト

島津幸子(立命館大学)

立命館大学の衣笠キャンパス(京都市北区)に赴任して3年目になる。今年度は教育の面でとても嬉しいことがあった。正課の中国語の授業を1年間受けてもっと勉強を続けたい学生に用意された「副専攻」というコースがあるのだが,その授業の一環として行われているクラス対抗の中国語劇コンテストで私の担当クラスがなんと最優秀賞に輝いたのである。3年目にして初の快挙!このコンテストは2年間の中国語学習の締めくくりとして毎年12月半ばに行っている。コンテストの歴史は古く,今回がなんと21回目ということだ。優れた個人にも賞が授与され,私のクラスからも女子学生一人が第2位に選ばれた。

それにしてもこのコンテスト,多くの学生にとっては頭痛の種なのだ。コンテストが行われる時期が問題だ。3回生の後期といえば,就職活動がまさに始まろうという時期,授業時間だけでは間に合わなくなってくる12月初め,それじゃあ授業時間以外で練習をしよう,と実行委員(全体のコンテスト運営を行うため各クラス2名ずつ選出する)がクラスのみんなに呼びかけてもなかなか人が集まらない。授業時間以外の劇の準備は基本的に学生に自発的に行うようにさせるので,そうした動きは担任も入っているメーリングリストへの投稿を眺めている中でキャッチする。このメーリングリストでは時々「プライベートなお誘い」も投稿される。1年目の時はコンテスト直後のある日,ケーキ食べ放題に誰か行かない?という投稿があった。今年度は企業説明会に参加しての感想が載ることもあった。一時期まるで公開日記と化していた。

話を「劇」に戻そう。劇の準備は後期が始まるとすぐに開始される。そうしないと間に合わないのだ。まず台本を日本語で書き,それを中国語に訳して台本が完成する。と書くと簡単そうだが,台本執筆者が現れるかどうかが最大のポイントだ。今回は運よくすぐに立候補者が現れ,実行委員も担ってくれたこの彼女はたった1週間で台本を書き上げてきた。演目は「西遊記~妖怪山奮闘記~」。単純なストーリーではあるものの,キョンシーが2体(?)登場するなど,なかなか斬新なアイディアも見られ,十分に笑いもとれる内容だ。思いのほか順調かと思われたが,実はここからが大変だった。せっかく台詞を覚えるのだから,自然な中国語にしたい。翻訳のグループ作業の結果を学生には提出してもらい,これを私が中間チェックし,最終的なチェックには作文の授業を担当するネイティブの先生のお力を拝借した。台本が完成したのは11月半ば。本番まであと約1ヶ月。授業時間はほぼ3回しか残っていない状態だった。ここからのラストスパートはまさに学生の底力と団結力の見せどころ。本番当日は一人もカンニングペーパーに頼ることなく,ナレーション役も舞台上で何も見ずにかなり長い中国語をすらすらと諳んじて見せた。そして予想通り随所で笑いもとれたのだ。

出だしは皆冷めた感じで「助走期間」が長かったが,終わってみれば,クラスの誰もが,参加してよかった,クラスのみんなと仲良くなれて本当にいい経験だったと感想を述べてくれた。中国語の授業の一環ではあるが,就活開始の多忙な時期にも仲間とともに熱くなれるこのコンテストの取り組みを通して学生たちは中国語だけでなくもっと大切なものをも学んでくれたのではないかと思うのである。

最後に成績の付け方であるが,やはりテストは必須だ。昨年度からは劇の台本をもとにテストを作っている。今回は穴埋め問題を出すという予告に間髪を入れず「選択肢を出して~」との声が上がった。コンテストが終わった時点でかなり甘くなっていた私はこの要求に応じたが,学生にはそれでも難しかったようだ。

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ある日の授業から

郭修靜(大阪大学・非)

ある日の授業。その日は量詞を教える回だった。まずは典型的な例を練習するために“一瓶牛奶”,“兩塊蛋糕”、“三匹馬”、“五頭牛”等の練習から始め、同時に量詞の基本概念について解説を進める。日本語にも数量詞があるため、中国語の量詞を理解することは学生にとってそれほど難しいことではない。用法の違いについて少し注意を向けさせればよいだけなので、私は教科書に挙げられている名詞を絵にして黒板に書き、その上で量詞の最も基本的な分類について説明を始めた。

この日は量詞を学ぶ前に鼻音韻母の練習もしていたので、学生たちの頭はすでにだいぶ疲れているようだった。私は学生たちをリラックスさせるために、私が日本語を話すときによくしてしまう間違いについて話をした。例えば「ズボン」と「くつ」を間違えることがあるが、それは中国語の「ズボン」と日本語の「くつ」の発音が似ているからだ、というような話を。この話は意外にも学生達に深い印象を残したようで、その証拠に「ズボン」の発音は"kuzi"だということをしっかりと覚えたようだった。

その後授業は進み、量詞「条」について説明していた時のこと。「細長いものに対して使う」ということを説明していた時に学生たちが急に笑い始めた。初めはその理由に気付かなかったのだが、学生たちが笑いながら「"ナガホソイ"じゃなくて"ナガボソイ"ですよ」と指摘してくれて、やっと自分の間違いに気が付いた(日本語の連濁はいつまでたっても難しい)。そのあと、学生たちが笑い終わるのを待って再び量詞「条」の説明に戻り、今度は「蛇」を例に出して説明を進めた。ところが、ここでもまた「ヘビ」を「エビ」と言ってしまい、学生達から笑い声が。この間違いには私自身もさすがに気がついて学生たちと一緒に笑ったのだった。このことで私の頭はすっかり混乱してしまっていたのだろう。この日は普段なら間違えない「ガラス」と「グラス」の違いについて間違えたり、「カップラーメン」を「コップラーメン」と言ってしまったりして、その度に学生の笑いを誘ったのだった。

このように自分自身も間違うことが多いので、既習事項であってもついつい間違えてしまうという学生達の気持ちはよく理解できる。そのため、私は普段から教室では出来るだけ笑顔になって、学生達に自信を持たせようと意識している。この日のいくつもの間違いをおかしてしまった授業は、それだけを見れば失敗だったかも知れない。しかし、その後の授業で再び量詞を取り上げたときには、学生達のほとんどがその内容や用法を理解できていた。

言語学習ストラテジーの理論によれば、記憶ストラテジーは注目するというメタ認知ストラテジーや不安を軽くする情意ストラテジーを同時に使えばより効果的であるとされている。情意的要素(感情、態度、動機、価値)は言語学習に重要な影響を与える。また、教師が学習者に情意ストラテジーを使うように指導するという方法は、クラスの情緒的雰囲気に大きく影響を与えることができる。この日の授業では、私の失敗によって学習者の不安を軽くすることができリラックスした雰囲気で学習内容に集中させることが出来たが、それはまさに言語学習ストラテジーの理論と合致するものであったのだ。一般的に、言語学習では語彙学習は扱いにくい部分であるとされている。このことから、私は経験上、例えば視覚情報と結びつけて新しい語彙を導入したり、語彙を品詞別・話題別・機能別などのグループに分けたり、実際の動作と関連付けたり等の記憶ストラテジーを運用して、学生の学習意欲を高め、記憶を促進することにしている。

それにしても、教師の失敗が学習者の学習効果を高めることが出来る ということを身を以って知ることの出来たこの日の授業は、何とも意外な収穫となった。

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因材施教

張佩茹(東京理科大学・非)

先日、ハリケーン被災地や米大統領選挙の激戦州の一つとして世間の注目を浴びていたバージニア州。ニュースでバージニア州の地名を聞くたびに懐かしい気持ちになる。2002年の秋から、中国語TA (Teaching Assistant)としてそこで過ごした10ヶ月間の記憶がよみがえってくるからである。当時、台湾師範大学の修士課程で外国人向けの中国語教育を専攻していたが、卒業には2ヶ月以上の実習経験が必須条件だった。それなら海外で実践してみようと、アメリカでのインターンシップに申し込んだ。そして運よくバージニア州に所在するワシントン・アンド・リー大学で勤務することが決まった。

中国語TAは、教授の補佐という位置づけで、口語練習のドリルを担当するほか、補充教材の作成やテストの採点、学生の個人学習指導や作文添削など、仕事の内容が幅広かった。実際に授業での指導も行っているため、期末の授業評価アンケートではTAの仕事ぶりを評価するものもあった。調査結果はコピーして保存してもよい、ということで、辛口のコメントを書いてくれたアンケートを3枚ほど選んで、「自分への戒め」のために取っておくことにした。この記事を書くために久しぶりに出してみたら、私への評価はおおむね良好ではあるが、改善事項として「授業時に英語を使いすぎ。私たちに中国語だけを話させるようにもっと強く指導すべき」という意見が挙げられていた。

そのような意見を初めて目にしたとき、ハッとしたことを記憶している。なるほど。たとえ学習歴が長くなくても、学習意欲の強い学生には「完全イマ―ジョン(total immersion)」、もしくはそれに近い方式を取ってもいいのだ。完全に目標言語で指導することは、言語教育理論として大学院の授業で習ったものの、教育経験が浅いため、どのように実施すれば効果が出るのか、まだコツが掴めなかったのである。

中国語TAのインターンシップ期間終了後、台湾に戻り、修士論文を執筆しながら、高校の非常勤講師として、交換留学生に中国語を半年ほど教えていた。ドイツ、カナダ、アメリカ、メキシコなど、学生の国籍が多様であるうえ、高校生というやや難しい年頃ということもあり、アメリカの大学で見聞きし、かつ実践してきた教育方法だけでは物足りなかった。

来日後は8年間ほど、早稲田大学で少人数制会話レッスン、「チュートリアル中国語」に携わっていた。中国語のみという指導方針は、ちょうどアメリカで得た教訓を生かす絶好の機会だった。日本語がまったく使えない環境で、学生自身が持っている中国語の知識をフルに活用してもらうことが授業の一大目的である。その授業を履修する学生はほぼ全員、授業の指導方針と達成目標をよく理解しているため、毎回の授業がやりやすく、楽しかった。また、授業評価アンケートの結果から、学生にとっても満足度の高い授業であることが分かる。

そして、2002年から10年経った今年、新しいチャレンジが始まった。非常勤先で30人弱を相手にして、第二外国語としての中国語初修クラスを担当することになったのである。最初は意気込み高く「予習が前提である」という授業スタイルを打ち出し、授業ではあらかじめ用意したパワーポイントを使い、ひたすら学生に聞く・話す練習をさせた。例文は基本的に教科書にあるものを使っているため、予習していれば分かるはず、という前提で日本語の説明を最小限にして、テンポよく授業を進めていた。学生に鍛えてもらいたいのは、いわば「中国語の反射神経」である。しかし、前期の期末試験やアンケート調査の結果をみると、このやり方についてきている学生もいるが、一部の学生にとっては難しすぎるようである。後期に入ってから、学生の反応を見ながら授業のやり方を調整しているところ。「因材施教」が目下、切実な課題である。いや、おそらくこれは永遠の課題になるだろう。

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台湾とIACL-20

戸内俊介(日本学術振興会特別研究員PD(東京大学))

中国語学のメールマガジンコラム記事のオファーが来た。どうしようかと逡巡した挙句,今夏の夏休みのダイジェストでも書いてみようと思いいたり,表題の如きアンバランスなタイトルになってしまった。

この夏,香港理工大学で開催されたThe 20th Annual Conference of the IACL(2012年8月29日-31日)にて研究発表を行った。事前に発表が受理されていたため,香港行きは早くから決まっていたのだが,折角だからと思い立ち,その途上で台湾に立ち寄った。

台湾は初めてである。

滞在期間が短かったため(8月24日夜-28日朝),台北市内のみの活動となったが,それでもスケジュールはタイトだった。まず向かったのが故宮博物館。展示物の中でも,私が最も興味を持っているものは青銅器コレクションであるが,期待通り大変充実したものだった。私は古漢語を専門としているため,研究の必要上,時に青銅器銘文を調査するのだが,博物館に青銅器が展示されていれば,ついつい中に文字が書かれていないか確認したくなる。しかし,私の身長ではなかなか青銅器の奥底まで見ることができず,結局展示物の前で飛び跳ねて中をのぞくしかない。もし,博物館でピョンピョン飛び跳ねている人がいれば,それは大概私である。

この他,滞在中,台湾のプロ野球を見に行く機会も得られた。観戦したのは台北市天母球場で行われた「統一ライオンズ」対「興農ブルズ」。淡水線芝山駅から球場まで送迎バスが出ている。球場に入り最初に気付くのは,外野席がないこと。観客は全員内野席で観戦する。ホームランが出ても,ボールをただただ見送るだけかと思うと,何かむなしい。応援も内野席のみなので,日本の球場とはだいぶ違う印象を受ける。

それ以外は,ルールも含め日本の野球と大差ない。チケットは日本より安く(300台湾ドルくらいだったと記憶している),飲食物の持ち込みも自由なため,コストパフォーマンスは高い。時に東京の某ドーム球場に通う身としては,実に嬉しい。全体の編成は現在,1リーグで4チーム。かつて日本の球団に在籍していた選手やコーチも散見され,日本のプロ野球ファンであれば,台湾プロ野球の知識がなくても充分楽しめる。

その後,台北を発ち,香港へ。

今回のIACLにはポスターセッションを含めれば200以上の発表があったが,そのうち日本からのエントリーは8人。距離的近さを考えると,ややさびしい。また,欧米等遠方よりエントリーしていた研究者の中には,当日発表会場に現れない人もちらほら。

本来であれば今回はイギリスで開催の予定であった。が,担当校の方で問題が生じたらしく,急遽香港理工大学開催の運びとなった(それ故に,開催時期も通常の6月ではなく,8月となったのであろう)。私はイギリス上陸経験がなく(それどころかヨーロッパすら未だ行ったことがない),ついに初上陸できるものかと期待していた。アビーロードで男4人を集め,髭でも蓄えて写真を撮りたかったと今でも思うが,残念ながら夢と終った。

研究報告に関しては,熟慮の末,かつて『中国語学』254号に掲載された甲骨文の“于”に関する研究の報告を行った。私の場合,使用言語は中国語であったが,学会の特性上,英語を使用する発表者もかなり多い。普段あまり感じないが,このような学会に参加すると英語の重要さに気付かされる。報告の出来については,今はさておき,発表の際にフランスのDjamouri(羅端)氏に司会を担当していただけたのは望外の僥倖であった。氏も出土資料を用いた古漢語研究をしており,専門は私と近い。その上でいくつか学問的な交流もでき,IACLに参加した成果は小さくないと感じられた。

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「なでしこジャパン」と大和撫子(大和抚子)

新沼雅代(横浜国立大学)

サッカー日本女子代表は「なでしこジャパン」の愛称で知られている。この愛称は2004年のアテネオリンピック本大会前の7月頃に制定されたそうである。2011年FIFAワールドカップで日本女子代表が優勝した時、すでに「なでしこ」という愛称は日本国内で徐々に知られるようになってきていたが、中国では「日本女足」や「日本队」という表現が用いられ、まだ「大和抚子」は使われていなかった(7月19日付「华商晨报」)。2012年8月11日付「新浪奥运」では、「大和抚子」の表現を用い、「大和抚子,这个名字被用作性格文静,温柔稳重并且具有高尚美德的女性的代称,被用来广义地代指日本女性,更是日本女足的代称」(http://2012.sina.com.cn/zq/ft/2012-08-11/112554995.shtml)としている。

「なでしこ」は大和撫子からきているのだが、大和撫子を国語辞典で引いてみると、「日本女性の美称(『角川国語辞典』、『広辞苑』)」、「日本女性の清楚な美しさをたたえていう語(『日本国語大辞典』、『大辞林』)」、「日本女性の清らかさ・美しさをたたえていう語(『岩波国語辞典』)」、「日本女性をほめていう語。か弱いながらも清楚な美しさがあるという意(『福武国語辞典』)」とある。類語辞典で引いてみると、「可憐さとりりしさを兼備した日本女性の美を花に託した美称(『角川類語新辞典』)」、「可憐ではあるが、りりしいところのある若い女性(『講談社類語大辞典』)」とある。つまり、大和撫子は、清楚で美しく、清らかで道徳的、上品でおとなしく穏やかで、意志が強く、か弱く可憐でりりしくて、若くて花にたとえられるようでなければならないのである。辞書編者の妄想(?)をまとめてみるとこのようにものすごい内容になる。

日漢辞典では意外に簡素で「日本女性的美称(『日汉大词典』)」、「日本女子(的美称)(『新版日汉大词典』)」、「(温柔而刚强的)日本女性的美称(『日汉辞海』)」とある。「なでしこジャパン」の活躍に伴い、中国の日漢辞典における大和撫子の説明がより具体的に変わっていくかも(?)しれない。

「なでしこ」のロンドンオリンピックでの振る舞いは、大和撫子の面から評される一方で、スポーツマンシップとして評されてもいる。アメリカNBCニュースでは、敗れたフランスチームの選手に優しく手をかけて慰める(記事では“comfort”, “console”が使われている)宮間選手の行動を真の「スポーツマンシップ」だとしている。 (http://photoblog.nbcnews.com/_news/2012/08/06/13148046-a-moment-of-true-sportsmanship-as-japan-consoles-a-defeated-france?lite

サッカー日本女子代表は「なでしこ」とよばれるようになり大和撫子のイメージとリンクされるようになってしまった。私は彼女たちの振る舞いを大和撫子とリンクさせて評することがなんだかしっくりこない。メンバーのインタビューやオフの様子をテレビで見ていると、彼女たちはサバサバしたいわゆる「体育会系女子」であって、清楚で可憐でか弱くて・・・・といったものとは正直つながらない(「意志が強い」は合っていそう)。ロンドンオリンピックでの「なでしこ」の振る舞いは、米NBCニュースがいうようにスポーツマンシップからでたもので、それは他の国のチームでも行いえる行動である。今、スポーツマンシップがすたれているからこそ「なでしこ」の振る舞いが評価されたのである。「なでしこ」流の大和撫子は「潔さ」とか「さっぱり感」とでも表現できる特徴をもった新しい大和撫子像で、「体育会系女子的大和撫子」である。「体育会系女子」はこれまでずっと生息していたが「なでしこ」がその地位を大和撫子に押し上げたといえよう。

だから、私は一日本女性として、大和撫子の辞書的意味を「日本女性(の美称)」程度にとどめておいてもらえるととっても気が楽なのだが、このコラムを読んでくださっている女性の皆さんはいかがでしょうか。

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いいテストはいい学習者を作る

植村麻紀子(神田外語大学)

今年3月に公益財団法人国際文化フォーラムから『外国語学習のめやす2012―高等学校の中国語と韓国語教育からの提言』(以下『めやす』)が刊行された。6月下旬「実践サポートめやすWeb」(http://www.tjf.or.jp/meyasu/support/)もオープンし、8月にはこれらを用いた研修が行われた。『めやす』の作成と研修に携わった者として、簡単にご紹介させていただきたい。

『めやす』は、学習者の人間的成長を促し、グローバル社会づくりに必要な総合的コミュニケーション能力を養成することを目指し、“3×3+3”をキーコンセプトとして掲げた。「言語・文化・グローバル社会」の3領域それぞれにおける「わかる・できる・つながる」力の獲得を目標とし、これらを強化するために「学習者の関心・意欲や学習スタイル、既習内容・経験や他教科、教室外の人・モノ・情報」と連繋した授業づくりを提案している。

2009年に始まった「外国語担当教員セミナーおよび高等学校中国語韓国語教師研修」(共催:桜美林大学)は、カリフォルニア大学サンディエゴ校教授の當作靖彦先生を講師に、セマティック・ユニット、バックワード・デザイン、テキストブック・アダプテーションといったテーマでおこなわれてきた。今年は関西大学に会場を移し、8月3日から5日間、80名を越す参加者が「学習動機と学習効果を高める評価」をテーマに学んだ(共催:関西大学大学院外国語教育学研究科)。

『めやす』では、語彙・文法の知識や発音の正確さ、正書法だけでなく、コミュニケーション・ストラテジーや文化理解、ITスキルの活用、さらには協働作業にいたるまで、さまざまな学習項目を掲げているが、その達成度を測り、学習者にフィードバックするには、従来のようなペーパーテストだけでは不十分である。100点満点の何点かを示しただけでは、学習者は、何がよいのか、どこをどう直せばよいのかがわからない。今回の研修では、テストと評価の基本概念について学んだ後、実際に日本語学習者の“看図説話”や手紙文をルーブリックで評価した。ルーブリックは成績をつけるモノサシであるだけでなく、評価の観点や到達目標を学習者にあらかじめ示すものであり、学習の途中で用いれば、その段階での達成度を示すこともできる。教員が重視する点は、ルーブリックの評価項目の立て方や加重化に反映させることができる。

後半2日間の中・韓わかれてのグループワークには、高校・大学教員、院生等、中国語だけで計28名の参加があり、わたくしは、関西大学の山崎直樹先生、関西学院大学の胡玉華先生とともに担当させていただいた。

初めに、ある高校の2人の生徒の「我が町紹介スピーチ」をビデオで流し、2種類の評価用紙で各自評価した後、グループで討議した。次に、「めやすWeb」の中から1つの単元案を取り上げ、目標達成を測る評価(総括的評価)とその途中段階で習得・学習を助ける評価(形成的評価)をどのようなタスクとルーブリックで評価したらよいかの例を示した。最後に「中国人に安心して日本料理を食べてもらうためのガイドブック作成」という単元目標の達成を測る総括的評価、形成的評価のタスクとルーブリックをグループごとに作成していただき、ポスター発表・討議した。完成したファイルは、全員が閲覧でき、また自由に書き換えて再アップロードできるように、Wikiを使って共有した(使用したサービスは、Wikispaces:http://www.wikispaces.com)。

「いいテストはいい学習者を作る」とは當作先生の至言。今後も、学習・習得を助けるためのテストや評価のあり方を模索していきたい。

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アメリカの「問題解決型外国語」教育

奥田寛(姫路獨協大学)

12年前の2000年3月31日、アメリカ合衆国オハイオ州コロンバスに到着。到着後の一週間の、気候のめまぐるしい変化に驚く。朝、晴れていたかと思うと、雨、そして急に雪、そして暑くなる。アメリカ中西部、北にエリー湖をいただくオハイオ州の州都コロンバスは、閑静な田舎町であり、研修先であったオハイオ州立大学東アジア言語文学部は、そこのダウンタウンの北に位置していた。

この大学には、アメリカ合衆国における中国語教育で高名なGalai・Walker教授(同大学のThe National East Asian Language Resource Center 、Director)がおられた。同教授は、これまでの多くの外国語教育理論の長所を生かした中国語テキストを「入門」から「高級」レベルまで編纂され、それが同大学の中国語の授業で使用されて、優秀な中国語人材を輩出していた。同教授は、特に「外国語教授法の逆三角理論」を唱えたことでよく知られている。その理論は、簡単に言うと、「レベル1」「レベル2」の入門、初級の段階では、学習者に専ら「語彙、統語」など、「言語知識」中心の教授を行う必要があるが、学習者の外国語能力が「レベル3」、「レベル4」の中級、上級へと進むにつれて、学習者がその外国語を使って、彼ら自身の問題(例えば生活や仕事の上での)を自身で解決が図れる『ストラテジー』(strategies)習得を目指した教授へと移行する必要がある」というものであった。要するに外国語教育は、「外国語の知識」を専ら教授する段階と「その外国語を使って自己の目的を達成する」という外国語をも含む「文化」的知識の習得を目指した教授の段階があるということである。

一方、日本の外国語(中国語)教育は、「外国語(中国語)の知識」(発音、文法、語彙など)の教授にまだまだ重心が置かれており、今後「文化的知識」をベースにした「問題解決型」の外国語能力習得を目的とした教授法開発が急がれる。

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男はいくつから“老男人”になるのか?

塩山正純(愛知大学)

数年来、ある授業で中国の女性作家、安頓のインタビュー作品集から気のきいたものを選んで読んでいる。この授業では、中国人留学生も毎年数名参加しており、作品の内容にまつわる種々の話題で、日中の学生で議論が盛り上がって楽しんでいる。

今期は“这些女人在想什么”という話を選んだが、これは、ビジネスマンの周天黎が自身の離婚と、その後の巧児という女性との逢瀬を述懐し、インタビュアーである安頓が筆記したものである。その冒頭、周天黎が内緒で巧児の住居を訪ねた時、彼女が寝間着のまま見知らぬ男性をマンションのロビーまで送って出て来るという、彼が「最も見たくなかった」場面を語る“巧儿穿着一身花布睡衣,送一个老男人下楼…”という一文がある。

この話の顛末はさておき、面白かったのは、この“老男人”を日本語でどう表現するのが相応しいかと議論していたとき、日中の学生で意見が真二つに分かれたことである。日本人は“老男人”を70歳だと言い、中国人は40歳だと言う。

まず、日本人学生は“老”即ち“年寄り”、“年寄り”は当然“70歳位から”というイメージで解釈し、この男性は“70歳”に違いないと言うのが相場であった。辞書の記述も、例えば小学館の『中日辞典』第2版の“老”の年齢に関する記述は「1.年をとっている。老けている。2.老人、お年寄り。」といった具合で、学生の感覚と一致する。

一方で、中国人学生は、彼らの説明によると、年齢が自分よりも一定程度、大体20歳位上だと、“老男人”と言いたくなるようである。授業でも、冒頭の“巧儿穿着一身花布睡衣,送一个老男人下楼…”だけで即、読み手である自分の年齢と比較して、40歳のオトコをイメージしたらしい。念のために、他の中国人留学生やインターネットの掲示板等で、若者の一般的な見方についても調べてみたが、結果は留学生たちが授業で言ったことと概ね一致した。

さて、作品は最後まで“老男人”の実年齢には触れないので、結局のところ、真相は分からずじまいである。しかし、半ばまで読み進めると、周天黎が34歳、巧児は48歳であることが明記されており、授業では、ここまで読んで漸く“老男人”が恐らくは60歳位か、もう少し上、或いは70歳位だろう、という辺りで落ち着いた。

それでも、ネイティブの学生の何人かは、ムカついたり、気にいらない人物に対してだと、「あのジジイ」というような感じで、“老男人”ということばが口をついて出てくるものだ、とも言っていた。なるほど、と頷ける面もあるが、日本語の場合、34歳の男が僅か5、6歳年上の男性を「ジジイ」呼ばわりするだろうか。やはり、“老”ということばが表すイメージに隔たりがあることを感じてしまうのである。留学生でも日本滞在が長い人ほど、“日本人的”な“老”のイメージに近づくようでもあるが、授業では、“老男人”の40代説を簡単に放棄できないネイティブ学生が多かったのも確かである。

新鮮だったのは、“老”ということばについて、筆者自身と20歳前後の日本人学生たち(一般化しすぎか?)が持っている「絶対的な老い」のイメージを、同じく漢字を使う20歳の中国人留学生たちが持っていなかったことである。“老”が絶対的な「老い」のみを表すのではなく、“幼、小”に対する“老”というように「相対的な年齢の大小」を表すことは承知していても、その程度がいかほどなのか、ネイティブでない私たちにはとっさに想像つかない。(たかが)“老”の1文字ではあるが、心底悩んでしまうのである。

「この“老男人”はきっと40歳ですよ。20歳の自分たちからすれば、40歳はもう立派な“老男人”ですから」と言い切った女性の中国人留学生たちに、議論の最後、筆者が「実は私も40歳なんですが、やっぱり立派な“老男人”でしょうか。」と尋ねると、彼女らは、何と言ったら良いのか、非常に困った顔をした。

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2つの初体験

池田晋(筑波大学)

語学教師としてはごくごく当たり前のことであるが、私も大学1年生向けの中国語基礎の授業を数コマ担当している。基礎の授業なので、まずは発音から始め、あいさつ表現を教え、それが終われば“我是大学生。”などの簡単な課文に入っていく……、という学習内容は毎年大きく変わることはない。しかし、“年年岁岁花相似,岁岁年年人不同。”の言葉通り、教える内容は同じでも、学生は毎年変わっていく。とりわけここ数年は、これまでに教えた経験のない、特殊な背景を持った学生の受講が増えてきたように思う。今年は私にとって2つの初体験があった。

1つは、聴覚障害の学生が私の授業を履修していることだ。補聴器をつけているので音声は少しだけ聞きとる事ができ、またパソコン通訳の学生が常に隣についているので、授業で私が話す内容については問題なく伝わっているものと思われるが、話をするときは必ず前を向いて話すとか、授業で聞き取り練習を行う際は、代わりにピンインを簡体字に起こす練習をしてもらうとか、いろいろな配慮をする必要がある。しかし、やはり一番難しいのは発音指導である。4つの声調の違いをどのように説明すればよいか、そり舌音はどのように指導すればよいか、言ってみれば「お手本のない」状態で発音を教えるのだから、本当に難しい。一度、声調の違いを喉仏の動きで説明してみようと試みたが、「(女性なので)喉仏が出ていない」という根本的な理由により、この試みはあえなく失敗に終わった。付け焼刃の知識では太刀打ちできないことが多く、改めて音声学を学び直す必要性を痛感した次第である。

もう1つの初体験は、また別のクラスで、リトアニアからの留学生が授業に出席していることである。リトアニア出身の方と知り合うのも初めてなら、アジア以外の出身者に中国語を教えるのも初めてなので、授業を受けたいと言われた時は少し困惑したが、幸い日本語がたいへん上手な学生なので、問題なく授業にはついてきてくれている。ただ、やはり名前が長くて、難しい。ニュースや新聞で海外の著名人を取り上げる場合は、多少長い名前でもそのまま漢字をあてて、6文字7文字で表すことが多いが、中国語を勉強したいという学生にそんな長い名前を付けるのは、なんとなくよそよそしくて、違和感がある。結局、私の方でいろいろと候補を準備していき、本人の希望も聞き入れた上で、最終的には3文字の名前にまとめることで落ち着いた。ちなみに発音の面では、やはり苦手とするところが日本人と異なるようで、特に声調の区別が難しいようである。

今回、このような特殊な背景を持った2人の学生を教えることになり、苦労する面はもちろんあるが、いろいろと新しい発見もあるので、私自身としてはそれなりに楽しんで授業ができている。将来的には、障害を持った方が高等教育を受ける機会も増えてくるだろうし、グローバル化ということもあるので、今回のようなこともいずれは日常に変わっていくのだろう。教える内容は毎年同じでも、教師には状況に応じて変化していく力が求められているのかもしれない。

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パソコン音痴のCALL奮闘記

中川裕三(天理大学)

2009年、天理大学では、長年愛用してきた4つのLL教室をすべてCALL教室に改修した。2010年の学部改組の目玉として、天理大学で学べるすべての言語の授業でCALLを導入することになったのだ。

私はリスニングの授業でLL教室を使っていたことから、中国語専攻ではまず私がCALL教室で授業をすることになった。しかし、中国語のリスニングでどのような授業を展開できるのか、皆目見当がつかなかったので、他大学の中国語専門課程での状況を尋ねてみた。「授業でCALL教室使ってますか?」東京のM氏はこう答えた。「CALL教室が大学にあることは知ってますよ」関西のY氏はこうだった。「操作が面倒だから使ってません」ようやく中国語の授業でCALLを活用している大学を見つけ、授業風景を見学させて頂いたが、実際のところ、事前の準備や機械の操作が煩わしそうに思えた。

CALL教室開設に当たり、CALL運営委員会が組織され、「最初はLL教室のような使い方で構わないから、各言語の授業で最低1科目はCALLを導入するように」とのお達しが出たので、私は何のノウハウも持たないままCALL教室で授業をすることになった。最初はただ教卓から一方的に音声を流しただけだったので、操作が煩雑になっただけで、LL以上に効果が上がったとは思えなかった。

幸い、CALL運営委員会の要望を大学側が聞いてくれて、CALLを熟知したエキスパートをテクニカルアドバイザーとして2名常駐させてくれていたので、そのアドバイザーさんの一人に相談してみた。「CALLを使って双方向的な授業を構築できないものですかね?」答えはこうだった。「弊社のシステムには『先生呼び出し』という機能があります。これは学生が先生にメッセージを送るためのものですが、授業に活かせるかもしれません」私は「これだ!!」と思い、さっそく授業に組み入れることにした。

まず私が中国語の単語を発音する。それを学生が即座にピンイン入力して漢字に変換し、「先生呼び出し」機能で、私のパソコンに送信する、というものだ。学生が送信してきた答えは、早い順に教室のスクリーンと学生間のセンターモニターに映し出され、誰が正解であるか、誰が早いかが、一目瞭然である。これが学生の競争心に火をつけた。その日から学生はバトルを繰り返し、一番になった者は歓喜の雄叫びを上げ、負けた者は「次は自分が一番になるぞ!」と、闘志をあらわにした。

これに気をよくした私は、1年生の文法の授業でもCALLを取り入れてもらうことにした。例えば日文中訳のテストは、日本語をピンインで中国語に変換させることにした。一般のペーパーテストでは、漢字さえ間違っていなければ正解になるが、ピンイン入力だと、-nと-ngを間違えただけで不正解になる。文法の授業でありながら、ピンインも確実に覚えさせるのが狙いだ。しかし、いきなりそんなテストをしても学生ができるはずがない。既存のE-learning教材を幾つか見てみたが、どれも高価である上に、うちのカリキュラムにピッタリのものは見当たらなかった。

そこで、CALL授業の学生アシスタントに相談してみた。「テキストの本文を入力しておいてピンインでタイプする練習ができるようなフリーソフトはないかな?」大学は私のようなパソコン音痴でも授業ができるように、CALL教室を使用する場合、授業に学生アシスタントを付けてくれていたのだ。たまたまその学生がパソコンオタクだったのが幸いし、ネットサーフィンして、中国語のテキストも入力できるタイピング練習用のフリーソフトを見つけてくれた。そのソフトは遊び心に溢れていて、練習中BGMが流れたり、正解すると「ピンポン」、入力ミスすると「ブー」と効果音が鳴ったり、画面がブルブル震えたりする。BGMや効果音を自分好みに変更できるのも面白い。デフォルト状態での出だしはクラシック音楽が流れるように設定されていたが、アドバイザーさんが『燃えよドラゴン』に変更してくれたおかげで、より刺激的なものになった。

そのソフトに、テキストの本文を仕込んで、文法担当の他の先生の授業で使ってもらうことにした。「テストはピンイン入力漢字変換」という達成目標を設定し、その練習用として学生に配布してもらったところ、効果は絶大だった。学生は自主的に、早めにCALL教室に行って練習したり、PC自習室や自宅でも練習したりするようになり、文法のテストでは大半の学生が高得点をとっていると聞いている。昨年夏のオープンキャンパスで、私が2年生のトップの学生と早打ちの対決をしたところ、その学生は私よりはるかにはやく入力できるようになっていて、私は大勢の高校生の前で恥をさらす結果となった。

現在、中国語専攻では、12科目(17コマ)の授業でCALLを導入している。授業は軌道に乗りつつあるが、日々試行錯誤を重ねるうちに、現行の授業方法やCALLシステム自体の問題点が徐々に見えてきた。今後さらにCALLを使った授業を増やしたいのだが、4教室はすでに満杯状態なので、大学側にCALL教室の増設を要望しているところだ。

これから中国語の授業にCALLを導入しようとお考えの大学は、天理大学の取り組みも参考にして頂きたいが、CALL教室という「箱モノ」を作っただけでは宝の持ち腐れに終わってしまう可能性が高い。併せてそのシステムを作成したメーカー派遣のエキスパートと、教員に代わってパソコンを操作してくれるアシスタントを配置してもらうことが是非必要だということを強調しておきたい。

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中国語スピーチコンテスト企画運営雑感

勝川裕子(名古屋大学)

去る2011年12月10日(土)、江蘇国際文化交流センター及び南京大学との共催による中国語スピーチコンテストが名古屋大学で開催された。企画運営に携わった者として、コンテスト開催に至るまでのドタバタな運営記録と若干の感想を記したいと思う。

生の中国世界と「つながり」を持った学生は、単位という縛りがなくなっても自律的に学び続けていく。授業で学んだ中国語を教室の中だけで終わらせず、教室の外、即ち生の中国世界とつながりを持たせるにはどうしたら良いか。ここ数年ずっとそんなことを考えつつ試行錯誤しながら教えているが、そんな中、協定校である南京大学から中国語スピーチコンテストを共催しないかというお誘いが来た。短期留学補助等の豪華賞品付きでコンテストとしては魅力的だ。しかも同じ条件で京都大学でも開催するという。これは負けるわけにはいかない。ということで俄かに動きはじめた企画だったが、開催に至るまではまさに試行錯誤の連続だった。

共催とはいえ、企画運営はすべて日本側で「良きに計らえ」というお達しだったので、部門設定から審査基準の設定まで自由にやらせてもらった。まず、暗唱部門(自己紹介を含む)とスピーチ部門の2部門に分け、暗唱部門は中国語学習歴2年未満の学生を対象とした。江蘇省がスポンサーということもあり、課題文は名古屋大学と縁の深い郁達夫をはじめ朱自清、陸文夫らの散文から400字程度抜粋し、ネイティブ教員の美しい朗読録音と共に学生に提示した。スピーチ部門は「中国と私」という無難なテーマを設定し、これに加え、コンテスト当日に放映するDVDの内容に基づく質疑応答も課題とした。また、「つながる」場の提供として、希望者には中国人留学生のチューターを付けることにした。チューターは当初ボランティアを募る予定だったが、ありがたいことに予算を付けてもらえることになり、アルバイトとして正式に雇った。

設定したレベルが高すぎただろうか。内向きだといわれる名大生が果たしてチャレンジするだろうか。エントリーが15名の入賞枠を満たさなかったら…と不安がよぎったが、蓋を開けてみると、暗唱部門39名、スピーチ部門5名のエントリーがあり、予選をせざるを得ない状況に嬉しい悲鳴を上げた。結局、予選を通過した暗唱部門25名、スピーチ部門5名の計30名が本選に出場することとなり、学生たちは本番までの1か月半を練習に励んだ。学内のあちこちで、チューターと頭を突き合わせ原稿を練り、暗唱やスピーチの練習をする姿が見られた。もちろん我々教員の指導にも熱が入る。

コンテスト当日。私はこれまで中国語を教えていてこれほど強く心を揺さぶられたことはないというほど深い感銘を受けた。そして正直学生を侮っていた自分を恥じた。目をキラキラさせ、堂々とスピーチをする学生を眩しく思った。情けないことだが、教室で学生があれだけ目を輝かせることは、ない。

今回のスピーチコンテストでは、授業中反応の薄い(!)理系男子のエントリーが予想外に多く、「へぇ、あの彼が?!」と嬉しい発見がいくつもあった。入賞の分布を見ても文系、理系に大差なく、総じて男子学生の健闘が目立った(本選出場者30名中、男女比9:21、文理比18:12。入賞者15名中、男女比7:8、文理比9:6)。また、学習歴が半年に満たない1年生の多くが相当の水準に仕上げてきており、2年生を差し置いて入賞したのには驚いた。内向きだといわれる学生も、ちょっとしたきっかけがあれば、内に秘めた(?)芽が吹き出すようである。そうした芽を見逃さず、教室の外にも様々なきっかけを仕掛け、学生に多様な生きた経験をさせることが必要である。スピーチコンテストの企画運営を通じて改めてそう感じた。

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仙台の大学から ― 東日本大震災一周年を前に ―

塚本信也(東北学院大学)

春季休暇を盗んで、学内では何度目かの大規模修理が始まった。

あの日からまもなく一年。今なお夢のようであり、また夢ならばとも思う。学外のことは種々の報道に詳しいので、学内のこと、在仙大学の一教員が学内で見聞きしたことだけを二つ三つ綴ってみたい。

震災後、教職員が一堂に会したのは、漸く4月も半ばを過ぎた頃であった。もっとも、この時期ですら未だ仙台へ居を移せない新任教員がおり、後に聞けば、交通事情云々ではなく、運送業者がトラックを確保できなかったのだという。

第一回の学部教授会では、わざわざ心理カウンセラーを招聘してのレクチャーがあった。教学について、一般論として震災に言及することは構わないけれど、具体的個別的な挙例説明は避けるべしという内容である。なるほど、私のようなおっちょこちょいならば、あれやこれやをしたり顔で語っては、学生たちの重い記憶に手を突っ込むぐらいはやりかねない。心の二次災害を防げ、大学当局のメッセージはそれに尽きよう。

夏頃までは、多くの教職員がいわゆる“震災ハイ”の状態にあったのではなかろうか。何かしら高揚しているような、どこかしら殺気立つような感じである。例えば、ボランティア活動に奔走していた同僚にいきなり怒鳴りつけられた時などは、さすがに呆気にとられてしまった。勿論、私が冷静であったかと問われれば、これはもう全く自信がない。

秋を過ぎると、ガス欠というか燃え尽き症候群というか、少なくとも傍目には疲弊ないし虚脱状態に見える教職員たちが出てきた。強い義務感使命感に駆られ、奮闘している者から倒れてゆくのだから、何ともやりきれない。同時に、私の如く何もしていないできない人間は、罪悪感に苛まれ続けている。或いは、これをしもサバイバーズ・ギルトと呼ぶのかもしれない。

被災地にある大学の責務として、強制的にでも学生をボランティア活動に動員派遣すべきだという主張がなされたこともある。極論すれば、中国語の単位もボランティア活動で代替できる理屈になるわけだけれど、幸か不幸か、その案が実現されることはなかった。余談めくが、ボランティア活動なる文言は実に万能無敵で、葵の御紋よろしく、これが出されると一件落着とはいかないまでも、異議を唱えにくい雰囲気が醸される。少し踏み絵に似ているというと、要らぬ誤解を招くだろうか。

授業料減免や緊急給付金など、わが勤務校でもいくつかの学生支援策を打ち出している。私は福利厚生を担当する部局の人間でもあるため、否も応もなく膨大な被災者兼支援内容リストに目を通さざるを得ない。そして、親しい学生の名前とその罹災状況を確認するごとに、文字通り息を呑み、肩を落とした。誰一人として、その事実をおくびにも出していなかったのである。彼らの心中を慮ると、我と我が身の無能無力を呪わずにいられない。

そういえば、入学検定料の免除措置を申請した受験者が、当該部局の予想より遥かに多かったらしい。巷では“仙台バブル”なる状況が現出しているやに聞くが、一体どこの星の話かと思う。僭越ながら、被災地にはどうか息の長い支援をお願いしたい。“震災後”は、せいぜい始まったばかりなのである。

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早期粤語語法ワークショップ

竹越美奈子(愛知東邦大学)

2011年12月14日、香港科技大学で「早期粤語語法ワークショップ」が開かれた。早期粤語研究とは、19世紀以降急激に発展した香港でドラスティックな変化を遂げた粤語の変遷をたどる研究である。

今回のワークショップは香港政府の助成を受けており、アメリカから『香港粤語語法研究』の著者である張洪年氏とMarjorie CHAN氏、大陸から『清末粤方言語法及其発展研究』の楊敬宇氏、日本から筆者が招かれた。これに香港の研究者が加わって、スピーカーは全部で8人であった。

プログラムの構成は非常によく考えられていた。現在構築中の早期粤語データベースのデモンストレーションに続いて、日本刊行粤語資料のあらまし(筆者)、量詞“個”の発展(楊敬宇)、量詞“個”から程度副詞への発展(張洪年)、方向補語(姚玉敏・香港科技大学)、アスペクト助詞(片岡新・香港教育学院)、文学作品(Marjorie CHAN)、共時的研究と歴史的研究(銭志安・香港教育学院)、類型論からのアプローチ(張敏・香港科技大学)と、資料の紹介に始まってケーススタディ、そして方法論の検討へ発展していくという大きな流れができていた。それはまるで、早期粤語の研究という共通の関心を持った個性的な各ランナーがバトンを渡していくリレーのようであった。さらに全員がワークショップの意味を正しく理解して協力したため、会の進行は非常にスムーズだった。ご存知のように、ワークショップの目的は、一般の研究発表とはやや違って、各参加者が互いの知識と経験を共有することにある。だから、別の見方や可能性を指摘することはあっても、批判することはない。たとえば、楊敬宇氏が「量詞“個”>指示代詞>構造助詞」への発展を仮定したのに対して、張敏氏は類型論の立場から同意し、筆者は資料に現れる順序はむしろ逆だと指摘し、張洪年氏は構造助詞が指示代詞を経由する必要はないのではないかという慎重な見解を述べた。このような意見交換が終始なごやかな雰囲気で行われたのは、香港学術界のもつ自由で平等な文化が背景にあるのだろう。

さて、個人的に深く感銘を受けたのは張洪年氏のスピーチだった。ここ20年あまり早期粤語に関する論考を積極的に発表し、学界をリードしてきた方である。全国大会(熊本)で講演していただいたこともある。2010年に香港中文大学を退職してからはアメリカに居住し、今回1年ぶりに香港に帰って来た。久しぶりにお会いする先生は、以前よりもっと人懐っこい笑顔を浮かべていた。この場にいることを心から楽しんでいるようで、すべてのスピーチに敬意を払い、温かいコメントを寄せていた。自身のスピーチでは、まず謙虚に「こういう場は1年ぶりなので大変緊張しています」と始めた。その内容は、歴史的かつ共時的観点から精密かつ大胆に、遊び心と茶目っ気までおりまぜた、自身の研究の集大成とでも言うべきすばらしいものであった。正直に言って、こんな少人数で聞くのはもったいないような気もしたが、このような形での学術交流はむしろ本人の意向だったという。ワークショップ終了後は全員が学内のレストランで円卓を囲んで長い一日が終わった。

私はこの10年間、手探りで早期粤語の研究をしてきた。悩んだこともあったが、応援してくださる方もいた。おかげで今回香港に呼んでもらえたし、世界に多くない“同好の士”と語り合い、すばらしい研究に感動する機会を得た。やってきてよかったと心から思えた、幸せな1日でした。

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山西四方山話

八木堅二(京都大学・院)

研究(方言調査)の都合上、山西によく行く。金銭的・時間的経済性と快適さを勘案しながら北京から山西に入ろうとすると、太原まで動車(新幹線)で行き、そこから長距離バスや火車で各方面へ向かうということになるだろう。太行山の長いトンネルをぬけると、起伏に富んだ黄土高原の大地が出迎えてくれる。新幹線は乗客のマナーも良く快適だが、切符購入の段取りが悪いと3時間半無座となり、駅の売店で折りたたみ式の板凳を20元で買う羽目となる。或いは邯鄲まで行って長距離バスに乗りかえると、高速脇に窑洞の集落を沢山見ることができる。

やはり窑洞(ヤオトン)を抜きにして山西は語れまい。バスの窓から集落を眺めていると、古い窑洞の前に新しく家が建てられている光景を目にするが、家屋の屋根は平らで正面はアーチ状にくりぬかれ、窑洞を模した作りであることが一目で分かる。コンクリートの新築でも屋根が平らなのは、窑洞の上も畑として利用する習慣の名残だったりするのだろうか。いずれにせよ、山西の人達は窑洞にかくも愛着を持っているのだ。窑洞は丘や山に穿たれ、大きな丘の集落では斜面に何層にも渡り洞が連なる。筆者がお邪魔した窑洞の一つは町外れの山にあったが、細い坂道がくねくねと続き、その脇の畑から煉瓦の煙突がにょきにょきと生えている。窑洞に備え付けられた炕(排煙暖房ベット)の煙突だが、何の変哲もない畑の下が住居であることを実感する。夏涼しく冬暖かいとされる窑洞だが、真夏に案内してくれた人は、ウチの窑洞は本当の「土窑洞」じゃないからちゃんと涼しくないんだヨ、といって隣人宅に連れて行ってくれた。外見は全く同じに見えるが、確かに少し涼しい気がした。窑洞にもいろいろあるらしい。山からは現代的な町並みを見降ろすこともでき、ちょっと異次元な空気を窑洞の丘では味わうことができる。

山西は面条(うどん)の国でもあり、山西人は皆自分で面を打つことができる。これは北京大学で刻苦勉励する山西人同学が言っていたことだから間違いない。実際、筆者のコンサルタントはよく自分で打った面を振舞ってくれた。刀削面も拉面もお手の物だ。豆やジャガイモ、茄子、豚肉などを炒めたツユを和えて食す会面など、町の食事処で出るものよりよほどおいしい。うどんを削るための専用の大きな擦擦(おろしがね)もよく見かける。とはいえ、山西の人達も毎日ウドンばかりたべているわけではない。粟の粥(稀饭)が日常的な食事で(カボチャや豆が入る場合もある)、ジャガイモと面粉を混ぜて練って面にして炒める薄烂子[paʔ læn ʦəʔ(バランザ)]、炉面(サヤインゲンの入った一種の焼きそば)等もよく見かける。茹でたトウモロコシをデンと出されたこともあったが、家族のブーイングが起きた所を見るとさすがに日常的な主食ではないのだろう。基本的には素食だが、別れの日に水餃子などを振舞われたものなら感無量である。

調査は不安と絶望(或いは涙目と腹痛)の毎日で、嫌なことも多々あるが、山西ののんびりとした雰囲気と人々の暖かい心遣いに触れると、また頑張ろうかという気持ちになる。

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中国「ふれあい」鉄道旅

荒木典子(首都大学東京)

今を去ること二年前、この「読み物」欄にて『関口知宏の中国鉄道大紀行』(2007年NHKで放送)のDVDを中国語の授業で利用されたという竹越美奈子先生のお話を拝読し、これは良いと膝を打った。私はこの番組を毎回楽しんで見ていたのだ。

早速DVDを購入し、当時担当していたやる気溢れる、溢れすぎてしばしば収拾がつかなくなるクラスで毎回授業開始から20分ずつ放映することにした。反響は期待以上、みな関口さんの目を通して異文化に驚き、時には関口さんに突っ込みながら楽しんでくれた。

この番組のいいところは、多分にテレビ局の力であろうが、外国人の個人旅行ではまず下車することのないような小さな村の小さな駅にも沢山立ち寄ることである。ガイドブックでは往々にして、上下車は終点始発となるような大きな駅で、と奨励している。各路線の途中駅では切符が買いにくいから致し方ない(最近もそうだろうか?)。

毎回きりのいいところまで視聴した後、出てきた事柄について話す。自分の経験を思い出した時はそれも話す。例えば、私が初めて中国の夜行列車に乗った時のできごと。関口氏も吃驚の「触れ合い」である。

それは2004年10月、当時留学中だった私は、現地の先生方と一緒に、北京から徐州まで学会へ行くことになった。夜8時過ぎに北京駅を出発し、向かい合った下段に同行者5人で腰掛けて、ひまわりの種をかじったり雑談したりして過ごした。早くも9時過ぎにはみんな眠ろうということになった。私は中段だった。窓側と通路側どちらを頭にして寝ようか、と迷ったが同行者がみな通路側に荷物を置き、頭を窓際に向けて体を横たえたのでそれに倣った。出発前は眠れるかどうか心配だったが存外すぐに寝入った。

10時には消灯したと思う。異変が起きたのは真夜中である。私は目を覚ました。そうだ、トイレに行こう。梯子で下り、車両の連結部付近のトイレへ向かった。ベッドへ戻ろうとして初めて、車内が真っ暗なことに気づいた。どの辺を走っていたのか見当もつかないが街の灯りはない。月明かりも差し込まない。来る時は車両の端が目的地でわかりやすかったから簡単だったが、暗がりでどんなに目をこらしても、どれが自分の寝台だかわからない。何しろ全部同じなので…。それでも距離からしてだいたいこの辺であろうと思われるところまで歩いた。

この時私は通路側に黒いリュックを置いていたことを思い出した。この辺に黒いリュックは…これだ。私は手を伸ばした。リュックに手を置く。予想に反し、右手の中指と薬指がそれぞれ一つずつ、生温かい穴を塞いだ。リュックじゃない……人の顔ではないか!

暗がりで伸ばした手の指が、顔面でも占有面積のそう大きくない鼻の穴を塞ぐ確率は決して高くはないだろう。加えてこの時自分が声を上げなかったこと、更には「その人」が驚いて目を覚まさなかったことも奇跡ではないかと思う。よりによって通路側に頭を、私のリュック大の頭を、黒くないのにすれば良かった、と取り乱しながら私はトイレへ引き上げた。次は慎重に「その人」を避け、無事に自分の寝床へ戻った。

しかし正しかったのは通路に頭を向けて眠っていた「その人」だったと後で知る。窓際は思ったよりも冷え、私はこの旅行の半ばまで喉が痛かった。どこのどなたか存じませんが本当にごめんなさい。

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古文字学講座に参加して

野原将揮(早稲田大学・院)

今年の夏休みに広州中山大学で開講された古文字学講座に参加しました。年初に青山学院大学の遠藤光暁先生からお誘い頂き、すぐに参加を決意しました。日本国内で古文字学を学ぶ機会が限られていることは言うまでもありません。これを機に本場の中国で古文字学を学んでみようと一念発起したわけです。

講座には私を含め計9名の先生方が参加され円卓を囲むには丁度良い人数でした。本格的な広州料理は未体験でしたので正直なところあまり期待していなかったのですが、想像以上の美味しさと色彩豊かな料理に大変驚きました。「舌鼓を打つ」、「ほっぺたが落ちる」・・・いろいろと表現できそうですが、やはり「食在広州」、この一言に尽きます(潮州出身の先生方は何度も「食在潮州」と言っておられました)。朝食はもちろん飲茶。その中でも湯麺がとびきり美味しそうで大変心待ちにしていたのですが、予期せぬ不運が重なり、結局私は湯麺を食べる機会を逸してしまいました。食べ逃した悔しさが顔から滲み出ていたのでしょうか、ある先生の「遺恨があってはならない」という一言で、もう一つ湯麺を注文していただき念願の湯麺を頂けることになりました(お恥ずかしい限りです)。

さて本題です。8月8日から12日までという短い期間でしたが、実に充実した五日間でした。初日と二日目は「甲骨文字」と「金文」、三日目は「西周〜戦国の金文」、四日目は「戦国竹簡の文字」、五日目は「貨幣」や「璽印」の文字というように甲骨から秦漢までの文字を通時的に学びました。講座を担当された五名の先生方はいずれも古文字学の専門家であり、先生方からは文字の成り立ちや新出土資料に関する情報等の大変興味深いお話を伺うことができました。古文字学では某字をどのように隷定し、どのように読むかということが議論の中心となるわけですが、研究者の意見が必ずしも一致するとは限りません。今回の講習会においても先生方が同一の文字に対してそれぞれ異なった見解を展開された点が実に印象的で、古文字学を学ぶことの難しさを肌で感じるとともにその奥深さを垣間見ることができました。本格的に古文字を利用した研究を進めるためにはやはり自分で文字資料を読み解く力を身につけなければならないと自覚する良い機会となりました。

五日間という短い期間でしたが、随分と体重が増えたのできっと頭の方も栄養たっぷりになっていると思います(というかそうでないと困ります)。最近、戦国竹簡を読んでいる夢を頻繁に見るのですが、これも集中的に古文字を勉強した成果のひとつかもしれません。

最後になりましたが今回の講習会を企画してくださった遠藤光曉先生に感謝の意を表したいと思います。

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SFCの中国語授業で感じた驚き

黄琬婷(慶應義塾大学)

今年の4月から慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)に赴任しました。

学期が始まる前に、専任の先生から授業では日本語を一切使わずに、全て中国語で行わなければならないとお聞きしたのですが、正直、上級レベルなら中国語のみで授業を行うことはある程度想像がつきましたが、初級レベルの学生に対して、しかも発音導入の段階から日本語を一切使わずにどう教えるのか、私には全く想像がつきませんでした。

そこで、学期の第一週目に長年教壇に立たれている先生方の授業を聴講に行かせてもらうことになりました。それは驚きの連続でした。初回の授業と言うことで、冒頭の授業内容の説明等は日本語で行われたのですが、その説明が終わると、担当の中国人講師の方は「では今から授業を始めます」と言いながら、突然、黒板に漢字を書き、中国語だけを使って話し始めました。学生たちにとってこの突然の変化は大きな驚きだったらしく、中にはまるで別世界に入ったように不思議な顔をしている学生もいました。その後、母音の発音について説明があり、すぐに発音練習が始まりました。講師の発音を聞き、少し戸惑いながらも口を開けて発音してみる学生もいましたし、初めて生の中国人が目の前で中国語をしゃべっているのを見たかのように面白半分に発音してみる学生もいました。私も学生と同様、このような授業は初体験でしたので非常に新鮮で強烈なインパクトを与えられました。

その後、四声の違いを学生に理解させるため、講師の方がジェスチャーを使って説明されましたが、それはまるで舞台劇を演じているようでした。声調の変化に伴い、手で空中で線を描くような身振りをしたり、しゃがみ込んだり、伸び上がったり。講師の動きがやや大げさに見えたせいか、下を向いてニヤニヤ笑っている学生もいました。私も学生の前でエネルギッシュな動きをされるベテラン講師の方を見ていると、自分も教壇に立って同じような動きをしたら恥ずかしく感じるのだろうな、と思いました。しかし、学生に分からせるようには頑張って「演じ」なければなりませんので、今もそうですが、克服する必要がある課題の一つでもあります。ちなみに、学生が確実に理解できるよう、文法を説明する時だけ日本語を使うことが許されます。

この地に引っ越してきてまだ一年も経っていないのですが、ここ湘南藤沢キャンパスは湘南の海に近いため夏は海へ行く人の姿をよく見かけます。太平洋気候のため冬も温暖な気候に恵まれているそうです。また、食べ物がおいしくて有名な鎌倉へもすぐに行ける距離です。皆さんもぜひ、おだやかな湘南の海と古い日本の雰囲気を残す鎌倉に来てみてください。

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研究小誌KOTONOHAについて

吉池孝一(愛知県立大学)

『KOTONOHA』という月刊の研究小誌をウェブ版と紙版で発刊し続け、この8月末で105号となる。発行母体の古代文字資料館についてはかつて日本中国学会便り(2008年第2号)で紹介させていただいた。今回小誌の紹介を書くことになった。いろいろと考えた末、4月に100号を記念して発刊した記念論集(『KOTONOHA百号記念論集』非売品)の序文とあとがきを転載することとした。それは決して手を抜いたわけではなく小誌の好個の紹介文ともなっているからである。序文は中村氏、あとがきは吉池が担当した。なお、竹越 孝氏の手になるKOTONOHAの総目録(1号から100号まで)が記念論集 (ウェブサイトでも閲覧可能。サイトは「古代文字資料館」で検索)にある。あわせて参照願えれば幸いである。

■序文■
2002年11月に産声を上げた『KOTONOHA』も、ついに100号の区切りを迎えた。この8年余りの間、毎月コツコツと続けてきた結果である。8年の歳月は決して短くはない。創刊当時愛知県立大学の学部生だった数名の方々は、それぞれ早稲田大学、名古屋大学、金沢大学の各大学院で研鑽を積み、新進の研究者として今回の百号記念論集に原稿を寄せてくれた。確かに8年余の時間が経過したのだと実感する。

2002年10月に「KOTONOHA」という誌名が決まった経緯については、「『KOTONOHA』発刊5周年に寄せて」と題して本誌60号(2007年11月)に記したことがある。ほんの偶然から決まったとも言えるこの誌名が、今では執筆者にも読者にも違和感なく馴染んだものになってきたのは、やはり8年間休まずに刊行し続けたからだろう。

一種のアマチュアリズムを保持したまま100号を迎えることができる『KOTONOHA』は幸せな雑誌である。テーマの大小を問わず、真面目な論文や資料紹介から、気の張らないエッセーや学部生の初めての文章など、雑多な内容のものを全て同じ土俵に上げて提供する、これが『KOTONOHA』のやり方である。そのような同人誌的な雑誌は通常あまり長続きしない。それが100号まで続いたのは、なにより発起人である吉池孝一氏の情熱の賜物であり、さらには本誌のスタイルと内容を気に入って、温かい励ましの言葉をかけて下さった多くの方々のおかげでもある。

学問の世界において、長年の定説を覆すような新説を発表したり、それまで知られていなかった貴重な資料を発掘公表することは確かに大きな栄誉に違いない。しかし、あまり注目を浴びることのないような小さなテーマなり、ささやかな発見であっても、それを論じる仲間がいて、発表する場があれば、その研究には大きな充実感が得られる。『KOTONOHA』が常にそのような小さなテーマを歓迎する雑誌であり続けてきたことは、この雑誌に関わってきた者として誇りとする所である。『KOTONOHA』は研究成果を発表するだけの雑誌ではなく、むしろ学問と思索の楽しさを伝える媒体なのだ。

『KOTONOHA』の文章は毎月ウェブサイト「古代文字資料館」の中にアップされており、したがって読者の大多数はインターネット上でその内容を読んでいる筈である。しかし、『KOTONOHA』の“本体”は、輪転機で B5版の紙に印刷したものをホッチキスで留めただけの、発行部数30部のちっぽけな冊子である。ネットで公開している以上、そんな紙の媒体は不要ではないかといぶかる向きもあろうが、このちっぽけな冊子こそが我々の喜びなのである。月末が迫るたびに原稿の締め切りに追われ、時には寝不足になることもあるが、出来上がった冊子を手にした時の感触は、まさに学問の楽しさと一体である。そのような同人誌的な側面は紙の媒体にして初めて味わうことができる。

今回は第100号を記念して、いつもの冊子ではなく、正式な書籍として刊行することにした。こんなにも多くの方々に原稿を寄せて頂いたのは全く予想外のことで、うれしい驚きであった。とりわけ、長田夏樹氏の最初期の文章を載せることができたのはこの上ない光栄であり、本書の価値を高めるものと信じる。

読者として、あるいは執筆者として『KOTONOHA』を応援して下さった全ての方に心よりの感謝を捧げたい。

2011年3月31日 中村 雅之

■あとがき■
長田夏樹先生の初期論文を発見しお寄せくださった長田家の皆様をはじめ、多くの方々のご厚意に支えられ、本書を発行することができました。感謝もうしあげます。

KOTONOHAは100号を越え、150号という次の山を目ざして、一歩を踏みだしたところでございます。こんごともご批正くださいますようお願いします。

KOTONOHA編集室一同、吉池記

なお、次の書籍がKOTONOHA単刊として発行されている。No.1『清代満洲語文法書三種』(編訳者:竹越 孝、2007年)。No.2『中古音のはなし―概説と論考』(著者:中村雅之、2007年)。No.3『語学漫歩選』(編:古代文字資料館、2008年)。No.4『有坂秀世研究―人と学問―』(著者:慶谷壽信、第1刷2009年9月。第2刷2010年12月)。No.5『KOTONOHA百号記念論集』(編:古代文字資料館、2011年)。いずれも非売品。入手方法などについてはサイト古代文字資料館を参照願いたい。

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北海道釧路から

鈴木慶夏(釧路公立大学)

今回は、北海道釧路の状況をとりとめなくお伝えします。学期末のお忙しい中みなさまの気分転換になれば幸いです。

道東は、土地面積あたりの医療過疎率日本一です。毎日のようにドクターヘリ(空の救急車)が道東各地から釧路に飛んでおり、私の研究室は上空がヘリの航路になっているようです。中国語教員の過疎率も日本一のはずで、日勝峠より東側には私以外の中国語専任教員はいません。

2005年4月、釧路公立大学に外国語選択必修としての中国語が開設され、この地に赴任したのですが、最初に驚いたのは、一人の学生が市内の書店で1992年出版の中日辞典を買ってきたことです。その一冊が売れたことで、別の学生たちは誰も辞書を入手できませんでした。私の初仕事は、市内の書店に中日辞典をおいてもらうよう交渉したことでした(学生たちはネットで購入しました)。

次に驚いたのは、主述述語文の学習後、“釧路夏天暖和”という作文を大量に目にしたことです。文法は教えたとおりですが、違和感を覚えました。「夏は暑いと決まっているのだから、“釧路夏天不熱”と否定文にするか、“釧路夏天涼快”と言ったほうがいいでしょう」とコメントしましたが、クラスの約半数を占める道内出身学生たちはキョトンとしています。道外から来た学生たちは、「なんで“夏天”に“暖和”?」と笑っています。

考えてみれば、意味論的前提も語用論的前提も、話者の生活実感と無関係ではありませんから、「長い冬が終わってやっと夏」という地に暮らしていれば、「寒い」の反義語に相当するのは「あたたかい」なのです。みなさんは、「毎日毎日暑くて、もうイヤ!」と思うから、「涼しい」という語を発したいでしょう?心より暑中お見舞い申し上げます。ちなみに、本日は最高気温が18℃、すがすがしい一日でした。

今年6月24日(この日の最高気温は13℃、寒かったです)、釧路日中友好協会が設立されました。産官学連携という主旨で、釧路各産業界の実務家、現市長・前市長等も役員として参画しました。人口密度が低い地域では、文化交流だけで協会を存続させるのは難しいのです。地元の経済人と協力することが、地域の中国語教育を少しでも充実させることにつながるのではと感じています。

道東は美しく魅力的な景勝地です。中国語圏からの旅行者も年々増加しています。ぜひ日本国内のみなさんも、冷涼な気候と目を見張る自然にふれてみてください。

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プリンストン大学中国語授業参観記

西香織(北九州市立大学)

私は昨年9月、ニューヨークのコロンビア大学で開催されたTCCRISLSのワークショップと学会に出席したが、せっかくなのでこの機会にアメリカの大学の中国語の授業を参観してみたいと思った。以前、2005年にも勤務校(当時)の英語語学研修の引率のため、ハワイ大学のカピオラニコミュニティカレッジを訪れ中国語の授業を参観したことがあったが、当時は「まあこんなものか」というのが正直な感想であった。

今回、ニューヨーク市立大学に勤務する知人に打診したところ、「アメリカに来たのだから、ぜひプリンストン大学の中国語の授業を見るべきだ」と言われ、その知人の紹介でプリンストン大学の周質平教授の授業を中心に一日、特別に参観できることになった。たまたま同じ学会に出席予定だった鈴木慶夏学姉にも同道いただいたが、二人とも目の前で繰り広げられる授業に、驚きとため息の連続であった。

まずは専任講師による中級クラスの授業を参観。受講者は10数人、この日は“不得已”、“免不了”、“任何”、“養成〜的習慣”等の文型の導入が中心であったが、ピンインなしの例文を学生達はすらすらと読んでいく。例文の内容そのものについて“我不同意”と中国語で意見する学生までいる。

次の授業は周質平教授の初級クラスで受講者は8人。9月に入学したばかりの学生達で、始まって3回目の授業だとおっしゃっていたように記憶している。学生達はそれぞれプリンストン大学が独自に作成している驚くほど分厚い初級テキストを持ち、中国語による授業についていこうと必死である。ちなみに、この初級テキスト『First Step 中文起歩』は最後にお土産として頂いたが、レターサイズ(A4に近いサイズ)で500ページ近くもある。

休み時間をはさんで周教授の中国思想史(上級)のクラスへ。この日は小説『祝福』に見られる魯迅の思想についての中国語によるディベートであった。受講者は30人ほど。教員は司会進行役に徹し、学生主導で進められていく。時差ぼけも吹っ飛ぶほどの衝撃を受ける。ただ、これには少し裏があり、授業はディベートが本番であって、学生達は授業とは別の日に関連の文献や映画(DVD)にあたり、それらに対する知識を深め、さらに中国語アシスタントの下でディベートの練習を積むのだという。

最後に、更に驚く事実を知らされることになる。この学生たちは皆、中国語専攻ではなく、経済、法律、工学等、さまざまな学部の学生だと言うのだ。さすが名門校は違う。

アメリカ史が専門の同僚に「アメリカの大学では第二外国語で中国語を履修して、卒業までに『山』という漢字が書けたら万々歳って聞いたわよ」と言われたことがあるがとんでもない。「山」という漢字など目を瞑っていても書けるが、何年も中国語を習っていても、簡単な挨拶以外は話せない日本人学習者がどれだけいることか。今更ではあるが、日本の大学の中国語(外国語)教育のあり方を本気で見つめ直さねば、と強く思った刺激的な授業参観の一日であった。

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“小姐”の扱いは慎重に?

史[丹彡]嵐(龍谷大学)

毎年春節の夜中央電視台の番組を見ているが、中国語の語彙の絶え間ない変化に感慨を覚える。2011年春節夜のあるコントを見て、私は大きなショックを受けた。次はその台詞の一部だ。“大姐”“小姐”“大妹子”などの呼称が問題となる箇所なので、その部分だけ日本語に訳さず括弧を付けてある。

中年の男:大姐!(“大姐”!)
若い女性:叫誰大姐?(誰が“大姐”ですって?)我有那麼老ma?(私はそんなに老けてるかしら?)
……
中年の男:小姐!(“小姐”!)
若い女性:罵人是不是?(バカにしてるの?)a?(どうなの?)誰是小姐了?(“小姐”ですって?)誰是小姐了?(“小姐”ですって?)
中年の男:我什麼時候罵ni3了?(俺がいつあんたをバカにした?)大妹子!(“大妹子”!)
大妹子行ba?(“大妹子”ならいいだろ?)

若い女性は中年の男に“小姐”と呼ばれたことに、何が不満だったのだろうか?参考書や授業でもかなり早い段階で、尊称としての“先生”と“小姐”という呼称を教える。《現代漢語詞典》でも次のように説明している。

(1) 昔金持ちの家で召使が主人の娘のことをこう呼んだ。
(2) 若い女性に対する尊称。

どういうことかと疑問に思いながら、ネットでちょっと調べてみると、いくつかの文章が目に留まった。次はその抜粋である。

これまでずっと“小姐”は社交辞令でよく使われる言葉で、未婚の若い女性に対してある種の尊敬の気持ちを表す呼び方だと思っていた。ところがあるとき不運な目に遭ってから、もう若い女性を“小姐”と呼ぶ勇気はなくなってしまった。

それは出張先での出来事である。食事をしようと、わりと豪華なレストランを選んで入った。注文してから料理が出てくるまではすべて順調だった。ウエイトレスは全身から若々しさがプンプンする女の子だったので、「“小姐”、ちょっと酢を持って来て!」と声を掛けた。その途端、ちょっとマズイ雰囲気が流れ、「酢が欲しいんだったら、お前の母ちゃんとこに行きな!お前の母ちゃんこそ“小姐”よ!」と、彼女は怒ってしまったのだ。[1]

「“小姐”、お部屋はどちらですか?」と声を掛けただけなのに、ホテルのガードマンはその女性客に胸ぐらをつかまれ、おまけに足で蹴っ飛ばされた。当事者の胡さんによると、そのとき玄関ホールには大勢女性客がいたが、自分だけガードマンに尋問されたので、恥ずかしくてたまらなくなったのだそうだ。彼女は言う。「着てるものがちょっとセクシーだったので、私のことをヤバイ職業の女だと思い込んだのよ。見た目で人を判断するなんてないわよね」また、そのガードマンの口ぶりや表情は軽薄だったとも。[2]

次の記事を読むと、上掲の文章がまんざら作り話でも誇張でもないことがわかるだろう。

中新ネット10月8日配信、ドイツのoulineonlineの報道によると、10月6日の大14回ドイツ漢学大会で“小姐”という言葉が漢学者を困らせたという。北京語言大学学長の崔希亮教授は同大会で気まずそうに次のように述べた。「北京の街角で見知らぬ女性に道を尋ねるなら、絶対に“小姐”と呼んではいけません。そんな呼び方をしたら逆に罵られてしまいます」、「もし深[土川]なら、見知らぬ若い女性には“小妹”しかだめで、絶対に“小姐”と呼んではいけません。以前は客がウエイトレスのことを“小姐”と呼ぶのはごく普通でしたが、今ではタブーになっています。大衆の場では気軽に“小姐”と呼んではいけませんが、5つ星のホテルは例外です」[3]

周知のように、言葉の意味というのは社会が発展するにつれ絶え間なく変化するもので、“小姐”も例外ではない。元々は、相手のことを“小姐”と呼ぶのが、若い女性に対する礼儀であった。しかし今では、“小姐”には「水商売をしている女性の代名詞」という別の意味が含まれているように思う。このような現象につては更なる検証が必要であるが、仮に事実だとすると、サービス業を営む場所、とりわけホテル、レストラン、理髪店などでは、“小姐”という言葉は慎重に用いなければならない。そこでは見知らぬ女性をどう呼ぶかが問題となっているのである。

[1]http://bbs.zggs.gov.cn/viewthread.php?tid=49556
[2]http://www.northnews.cn/2009/0928/101996.shtml
[3]http://news.sohu.com/20061008/n245674360.shtml

*以上日本語訳(中川裕三)

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ホスト意識

今井俊彦(立教大学・非)

最近,テレビなどで中国人観光客のことが取り上げられているのをよく目にする。秋葉原の電気店で炊飯器を5個も10個もまとめ買いしたり,銀座の高級ブランドショップで何十万円もの買い物をしている様子が映し出され,日本に来る中国人は皆大金持ちであるかのような印象を抱く。取材に答えて消費金額を明らかにするような人は本当に富裕層なのかも知れないが,現在は,年収6万元程度の中間所得層にも訪日ビザが発給されている。日本円に換算すると必ずしも高所得とは言えないこれらの人々が,一生の記念にと全財産を握りしめ,さらには親戚や友人から頼まれた分も背負ってやってきている,というのも十分に考えられることである。せっかく来てくれたのだから,買い物以外にもよい思い出をつくってもらいたい。そのためには,直接観光に関与している訳ではない我々も,「迎える側」であるという意識を持つ必要があるのかも知れない。

中国人の日本旅行は,現在のところツアーが主流であるようだが,それでも街頭や店内,電車の中などで,中国人を見かける機会が多くなった実感はある。訪日個人旅行も解禁されており,日常生活の中で中国人を見かける機会は今後さらに増えることだろう。これは,学んだ中国語を使える場が増えるということでもある。

初級の授業では,勉強したばかりのフレーズが中国人留学生に通じたことをうれしそうに報告してくれる学生が毎年現れる。そういう学生は総じて成績も良く,積極的に使ってみることや,「通じる」という成功体験が,外国語学習の動機付けとして効果的であることは間違いない。そこで,日本に観光に来た中国人旅行者との会話を想定した教科書を作ったら面白いのではないかと思っている。

現在出版されている初級教材の本文は,日本人が中国を訪れるという設定で書かれたものが主流である。しかし,中国語専攻でない学生にとって,「わざわざ」中国に行くのは心理的にもハードルが高いようで,大半の学生は一度も中国へ訪れることのないまま卒業していく。これでは,せっかく学んだ教科書の有用なフレーズも,使う機会を得られない。その一方で,中国人の訪日旅行者が増え,日常的に中国人を見かけることが多くなれば,中国語実践のチャンスはむしろ日本にあると言える。従来の「道を尋ねる」式からの転換を計り,「道を教える」といった視点から,日常生活の中で出会うかも知れない,見知らぬ中国人旅行者に,ホスト意識を持って接することを主眼とした教材があれば,より実用性の高い中国語を教えることができる。

新年度,漠然と「これからは中国語だ」といった思いで授業に出てくる多くの学生に,中国語が役に立ったという経験をしてもらうことができれば,その後の学習意欲の向上にもつながるのではないかと思う次第である。

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新HSKについて

鈴木清美(愛知大学孔子学院・非)

数年にわたり,学生や社会人を対象にしたHSK対策講座を担当してきた。学生の目的は,就職活動や今後のキャリアに役立てたいというものが主である。社会人は,試験勉強を通して実力アップを図ることを目的にした人や自分のレベルを知りたいという人など様々である。

旧HSKは三種類(高等・初中等・基礎)あり,そのうちの一種類を受ければ点数によって級が与えられるというものであったが,新HSKは各級(1級から6級)に分かれている。中国語検定と同様,5級を目指すならば5級を受験し,得点によってその合否が決まるというシステムになっている。

旧HSKで多くの中国語学習者(実際に私が担当していたクラスでも同様)が目標としてきた6級〜8級は,新HSKでは5級となった。私自身,学生時代に何度もHSKを受験したが,6級と8級ではかなりのレベルの差があり,実際に6級→7級→8級と,一段一段上ってやっと8級に到達した。また,担当するHSK対策講座では,6級からなかなかステップアップできなかった受講生が,2年半のあいだ必死に勉強して8級に到達したという例もある。それが新HSKでひとくくりにされるのは,いささか残念ではある。目標を7級,8級に設定していた学習者からは,もう受験しないという声もちらほら耳にする。また,HSKという資格が中国語に関係ある企業でやっと浸透し始めたということを考えると,新しく設定されたシステムが認知されるのには,また時間がかかりそうである。

しかしシステムが変わった今,前のほうが良かったと未練がましく言ってみても仕方がない。プラスに考えれば,旧HSKでは6級の実力で8級に遠く及ばなかった人にとっては,新HSKでは同じレベルとして扱われるので,少しお得感がある。また,旧HSKではリスニングが規定の点数に到達せず,目標の級に届かないという学習者が多かったが,新HSKでは各パートの最低点が定められておらず総得点で合否が決まるので,リスニングが苦手でもほかのパートで挽回することができる。そのほかに特筆すべき点は,新HSKでは旧HSK基礎レベルよりも難易度が低い級が新設されたということである。これにより今までHSKは難しすぎると考えていた初級レベルの学習者も,受験しやすくなったと言える。1級と2級の問題には全てにピンインがふってあるので,特に非漢字文化圏の中国語学習者にとっては,以前よりはるかに挑戦しやすい。よって,世界中のより多くの学習者がHSKを受験するようになるであろう。また新HSKでは,4級と5級,5級と6級のように隣り合う級を併願できるよう受験時間が配慮されているので,その点からも受験者が増えることが予想される。

一方,試験内容で大きく変わったのは,文法問題がなくなり,記述問題(単語並べ替え問題,作文など)が設けられたことである(3級から6級)。旧HSK初中等の文法問題では,副詞を文中の適切な位置に入れる問題や接続詞や量詞を選択する問題が存在した。新HSKではそれが文法問題という形ではなくなったが,記述問題には今まで以上に文法の実力が必要とされると言えるだろう。5級では,与えられた単語をすべて使って作文する問題が出題されるが,その際,単語の意味が分かっていても使い方を知らなければ誤文につながってしまう。実際に受講生の作文を添削したところ,与えられた“志願者”という単語を「ボランティア(活動)」と理解し,「ボランティアに参加する」という文を作ろうとしたほとんどの学生が,“参加志願者”とした。こうした間違いを防ぐためには,語の用法をしっかり把握するということに尽きるだろう。初級から中級レベルの学習者の多くは辞書を引く際に,どうしても意味を調べることだけにとどまりがちである。そういった勉強の仕方ではこの作文問題には太刀打ちできない。その点を今まで以上に教える側が強調し,導いてゆく必要がある。

就職活動で中国語の能力をアピールしたいと考えている学生は多い。新HSKの場合,大学や専門学校で中国語を専門とする学生が履歴書の資格欄に「使える資格」として堂々と記入するには5級が一つの目標となるであろう。旧HSKの3級から5級が新HSK4級に該当することを考えると,最低でも4級は持っておきたい。

また,筆記試験とは別に,口頭での中国語レベルを測りたい学習者に対して,新たに口頭試験が設けられた。高等(筆記5・6級に対応)・中級(筆記3・4級に対応)・初級(筆記1・2級に対応)の三等級である。旧HSKにも高等レベルにのみ口頭問題があったが,それは筆記と同一の試験であり,このように筆記と別に設けられたものではなかった。筆記には自信がなくても話せるという人は,是非こちらも受験してみてはどうだろうか。

こうして作文問題や口語の試験が新たに設けられ,リニューアルされた新HSKを見ると,以前よりさらに中国語の応用力,総合力を問われるものとなっている。学習者には,自分の目標に応じて計画的に学習してから受験することを勧めたい。

なお,新HSKの詳細や学習方法についてのアドバイスについては,HSKホームページや各種参考書に譲る。

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高校生の中国語スピーチ

小林和代(天理大学・非)

平成22年11月13日(土),高等学校中国語教育研究会関西支部主催の第15回近畿地区高等学校中国語弁論大会が関西大学千里山キャンパスで行われた。この大会は関西地域で開催される高校生の中国語スピーチコンテストの類の中では最も古い大会である。今回この大会で審査員として高校生の中国語の発表を聴く機会に恵まれた。

本大会では司会は参加者とおなじく高校生が担当していた。大会の参加資格から,日常生活で中国語が身近にある生徒は参加できない。しかし,教室には当然そういう生徒もいる。そこで,そのような生徒に司会を担当してもらうことにしたそうだ。いい企画である。参加者にとって他校の生徒の発表を聴くこともいい刺激になるが,自分と同じ高校生がスラスラと流暢な中国語で次々とスピーカーを紹介している姿もまたとてもいい刺激となったのではないだろうか。本大会でスピーチの発表とは別に中国語で歌を披露してくれた生徒がいた。とてもいい歌声で会場を魅了していた。彼は日本の高校で中国語を履修しているフィリピン人生徒であった。大会参加者の中には通信制高校に在籍するお年をめされた方もおいでであった。孫ほどの生徒たちの中でその雄姿を見せておられた。教室には,様々な国籍,様々なバックグランドの生徒たちがいる。彼らがこのような大会で日ごろの学習の成果を発表し,互いに交流できるのは非常にいい機会である。生徒たちにこのような機会を提供するために企画運営なさる先生方も,生徒を指導なさる先生方も,真摯に取り組む生徒たちも,皆,大変なバイタリティーが必要だ。感に堪えない。

入門暗唱の部の課題文は3種類,《磨杵成針》《白雲和烏雲》《真的没有了!》で,250文字程度。初級暗唱の部は《阿倍仲麻呂》《落花生》《井底之蛙》で,350文字程度。いずれも暗唱するには結構なボリュームである。入門の部はエントリー21名,参加資格は中国語履修1年目3単位まで。その中国語の発表は初々しくも,とても4月から学習を始めたばかりの生徒とは思えないほど立派な出来であった。初級の部はエントリー14名,中国語の履修単位数の多少は問われないので,参加者の学習歴は1年目2単位であったり,3年目計6単位であったりと様々であるが,李白の《哭晁卿衡》や阿倍仲麻呂の「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも」の和歌を中国語の五言絶句で朗々と吟じる姿は堂々としていてそれは見事なものであった。

弁論の部はエントリー5名。中国語の履修単位数の多少は問われないので,参加者の学習歴は1年目2単位,2年目4単位,2年目6単位と,様々である。この部門だけはスピーチの後に質疑応答がある。審査員の中国語による質問にたじろぐことなく,見事に応答していたのには驚くばかりである。弁論内容は豊富であった。中国で“討價還價”したときの経験と感想,ニュージーランドへ語学研修に行った時の経験と感想,将来の夢,など。スピーチの内容はそれぞれユニークで興味深いものであった。“混血児”と言われると,日本語ではないにしても少々ドキッとする。中国語ではこの語に偏見の語感は含まれないという。しかし,日本語では「ハーフ」「ダブル」「クォーター」「国際児」「mixed」等等,そもそも特別な呼称を付けること自体に批判も出るので,どう表現したものか…。ところが,高校生らしいみずみずしい感性と新鮮な感動でもってこのことを「誇らしいことだ。」と謳い上げていた。日常,ココロにオリが溜まっているせいか,こういうまっすぐな意見に清々しさを感じた。

今回,審査員と合わせてプロンプターも仰せつかった。コンテストにプロンプトとはいかがなものかと思われるかもしれないが,高校生の大会である。緊張して実力を発揮できないこともある。それでも制限時間一杯最後までやり通すことを学ばせたいという指導なさる先生方のお心遣いを察することができる。

高校生たちの発表や質疑応答の受け答えから,先生方の熱心な指導がうかがわれ,それに応えて努力する生徒たちのひたむきな姿勢が感じられた。

高校生が学習の成果を発表する場では優劣を競わないものもあるが,この大会はコンテスト式であり,参加資格,制限時間,審査内容と点数が決められており,成績によって各賞の受賞が決まる。本番でいいパフォーマンスができ喜ぶ生徒もいれば,失敗して落ち込む生徒もいる。彼らにとってこの大会に参加し競い合うことは高め合うことであり,大会までの準備期間こそが学びであると感じた。大会当日演台の前に立てたところでかなりの部分,達成できたと言えるのではないだろうか。

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万博で見たもの

岡本俊裕(京都外国語大学)

暑い中,上海の万博に行った。忙しい授業のすき間をくぐり抜けての強行軍だった。

万博というと,大阪万博のことが思い出される。当時小学生だった私は,40年の時を経た今でも,千里の丘のにぎわいが忘れられない。そう,ちょうど私は猪歳生まれの“20世紀少年”。だから,万博には特別な感情がある。大阪万博に未来社会の到来を予感した私は,上海万博にも何かがあるという期待を携え,ここに来た。そして会場に直接通じる地下鉄13号線の階段を,そそくさと上がった。

目の前に広がる空間は,もはや上海の街中ではなかった。人は多い。でも,ひとつひとつの建物が醸し出す雰囲気は,まぎれもなく万博会場のものだった。左には大きな建物のシンガポール館。その入り口には長い列,場内放送では待ち時間は1時間半。私は最初の目的をあきらめた。

会場の中心部に向けてゆっくりと歩く。その内,遠くにあった中国国家館が,視界の中でゆっくりと成長し,異様な高さと大きさで目の前に立ち上がった。

“ああ,大きすぎる。”これが第一の印象だ。他のパビリオンと比して,あまりに巨大な中国国家館は,北斎の赤富士を逆さまにして東京の街中に持ち込んだような,そんな威容で,周囲の人間に,文字通りの圧倒的な“圧力”を振りまいている。

“これは一体?”と,圧力に抗しながら,私はつぶやいた。館の出口からは,少し疲れたような表情の人の列が続く。何十人何百人という人間が途切れることなく出てくる。この中には何人の人がいるんだろうか,というつまらないことを思いながら,館を中心に会場をぐるっと一周した。そこで発見したのだが,今回の万博では,会場のどこにいても,さっきの大きな中国国家館が見えるようになっている。そして,その圧力が,無言の内に,会場の隅々にまでゆきわたり,全体をその赤い色に染め上げているのだろうか。大気が重い。

雨が降ってきた。だんだん強くなる。私は歩き疲れて,会場の中を大きく横切る黄浦江の川べりに立った。ここでも国家館は,遠くにあるが,圧力を弱めてはいない。川と逆さ富士のような,赤い骨組みの浮き出た建物。雨音に視野をぼんやりとさせた私は,何かの声にもう一度首を上げ,遠くを見た。その時,見えた,この万博のすべてが。あっ“漢”だ。川の水のサンズイと,国家館の形を写す旁とで,漢字“漢”。“漢”が巨大な姿で,圧倒的な力で,会場を覆う。

そうか,これが上海万博だったのか。中国の立ち上げた,巨大な“漢”のモニュメント。他の国々のパビリオンを圧倒し,無数の人々を孕んで,“漢”は,私の中で新たなゲシュタルトを結んだ。

もう他の物は目に入らない。暑い。水を飲んだ。が,急に息苦しくなった。漢の一文字に集約された万博の意思に,私は疲れた。ここを離れないといけない。漢に押しつぶされる。急に怖くなり,疲れた足で,地下鉄の入り口を下りた。明るい構内だが,私の視野は暗いままだった。私は,見てはいけないものを見たのだろうか。

この万博に込められた中国の意図は,たぶん,大阪万博の幽霊に憑かれた私に,新たな思い出を与えてくれるだろう。でも,思い出は,甘美なものばかりではない。背負ったヤケドのような過去は,今と未来とを,ただれた姿に変えることもある。美しい未来の生活と新たな街とを求めてはいても,不条理な怒声に,心を痛める人間もいる。人生とは,隠れた意味と権力に恐れおののく時間の積み重ね。巨大な力を眼前に,私たちはなすすべを持たない。……万博の夢を見ていたのだろうか。漢字の力がここを支配しているようだ。

中国は,海に向かう地で,漢たるを宣す。これが万博で見たものである。

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米国大学主催の中国語スピーチ大会に参加して

朱鵬(天理大学)

この夏,北京で行われた米国大学主催の中国語スピーチ大会に参加して,彼らの中国語能力の高さを直に感じるチャンスを得た。この大会は,「2010年京津地区美国暑期項目中文演講」と称して,短期語学研修で北京と天津に滞在している学生を対象に,研修期間終了時に行われた合同スピーチコンテストである。平素,日本人学生に中国語の発音や表現を四苦八苦しながら教えている私は,米国大学から来た学生の中国語表現の力強さとスピーチの内容の充実ぶりに,ただただ驚くばかりであった。

この大会は,「普北班」(プリンストン大学),「哈佛北京書院」(ハーバード大学),「哥大班」(コロンビア大学)の引率教授が,北京の協定校の協力を得て,5年前に発足したものである。以後,毎年夏に北京で行われており,出場者はイェ―ルやコーネルといった,いわゆるアイビー・リーグ(Ivy League)校をはじめ,ウィスコンシン,ノースウエスタン大学などからも優秀な学生たちが多く集まる。会場は毎年変わるようで,今年は主催校のコロンビア大学と姉妹関係にある中央民族大学で開催された。

今回の出場者は合計84名であった。その中には,在米の華人子弟が21名含まれていたが,彼らだけで一つのグループにまとめられていた。大会は,朝9時から正午12時までの予定で行われた。開会式の会場には出場者を含めた200人以上の観衆が詰めかけ,座席だけでなく,階段や両サイドの立見席まで人で溢れていた。最初のうちは,84名もいるのに予定通りに終われるのだろうかと些か心配だった。しかし,6グループが別会場で同時進行する形で行われ,また1人につき5分間という制限時間が設けられていたため,どのグループもスムーズに進行し,11時には全体の講評に入ることができた。

私が引率していた学生の中から2名が出場を許可され,2年生第2グループに入れていただいた。このグループのスピーチのタイトルは,次の通りである。

(1)「北京印象記」(2)「在北京的拍照経歴」(3)「最可愛的人」(4)「三人行必有我師焉」(5)「返璞帰真――吃素的魅力」(6)「感受中国」(7)「[女乃]酪及其他」(8)「在美国或者別的西方国家的亜洲学生」(9)「声調和生活」(10)「老胡同、老故事」(11)「大話三国」(12)「臉書」(13)「和而不同的世界」

これらのスピーチは,学生たちが中国の社会,文化,歴史,言語を学んで自分なりにまとめた中国論か体験談である。たとえば,北京の人々との写真撮影の体験を記した(2),自分にとって恋人的存在であるチーズの魅力と北京での生活を綴った(7)は,構成面で随所に工夫が施されているだけでなく,中国とアメリカの習慣の違いから日常生活の面白さを教えてくれるといった興味深い内容のスピーチであった。

一方,このような生活談とは対照を成すような論理的なスピーチもあった。たとえば(4)は,孔子『論語』「述而」の「三人行必有我師焉,擇其善者而従之,其不善者而改之」を取り上げ,ユダヤ人もこれと似たような考え方をもっていることをヒントに,世界の言語から他人の善処を学ぶという視点から,学ぶことの楽しさについて力説した。中国文化を熱心に学び,且つより広い視野からその真髄を探求しようとする姿勢に,私は強い感銘を受けた。タイトルのみからの推測ではあるが,84名のスピーチの内,このような論理的な弁術を展開したと思われるものが全体の約三分の二を占めていた。

また,欧米諸国に留学しているアジア人留学生の問題を取り上げた(8),中国語の声調と中国人の生活について語った(9),三国志演義に対する自分なりの解釈を展開した(11)は,彼らの好奇心の強さ,独特の視点,教養の高さを存分に示していた。別グループの「小西瓜、大中国」「学中文和結婚的相似之処」「琴弦上的中国」「太極不是西瓜」などは,タイトルからだけでも,新鮮で奇抜な発想を味わうことができた。

私の記憶では,米国大学の学生が夏季研修という形で大挙して北京に滞在するようになったのは,1990年代初めのことである。プリンストン大学東アジア学部(Department of East Asian Studies)の周質平(Chih-p'ing Chou)教授が北京師範大学に「普北班」を設けたのは,当時としては画期的なできごとであった。「普北班」だけでも毎年百数十名の学生が北京で2〜3ヶ月の間濃密な中国語教育を受けており,修了生の数はすでに千数百名に上っているという。

周質平氏は,近現代中国思想史,明末の思想と文学の専門家としてその名が知られ,Yuan Hung-tao and the kung-an School(Cambridge University Press, 1988) や『胡適與魯迅』(台北,時報,1988)など,明末の文人袁宏道,近代の胡適に関して10数冊の英文,中文の業績をつくっておられる。1980年代末頃から中国語教育に携わり,以後,『胡適読本』『中級現代漢語読本』『人民日報筆下的美国』『中国知識分子的自省』など15種類の中国語の教科書を精力的に編集,プリンストン大学などから出版されている。

これらの教科書に基づいた周氏の中国語教授法は,きちんとした発音とセンテンスの教育が基本となっていて,学生に大量の練習を課すところに大きな特徴がある。「普北班」では現地で採用した中国語教師にまずこの教授法を習得させることになっていて,学生や教員から高い評価を得ているという。また,周氏のこの教授法或いは学習法は「周質平模式」とも呼ばれ,全米の中国語教育にも大きな影響を与えているとのことだ。

今回のスピーチ大会に参加し,私は久しぶりに好奇心を刺激された。ほとんどが自然科学系の学生で,中国語を専攻しているわけではないにもかかわらず,彼らの中国語スピーチのレベルは予想以上に高かった。そういえば,昨年の「普北班」の懇親会である学生が突然評書の「楊家将」を披露し,単田芳の口ぶりをそっくり真似たのに舌を巻いた記憶があるが,彼らの未知のものに対する好奇心と,それを必死で学ぼうとする真摯な態度には感服せざるを得ない。

この報告を書くに当たり,日本の中国語教育界に何か言いたいことがあるかと周氏にメールで尋ねたところ,「米日の中国語教師はほとんど交流がないのが残念だ!!」という返事が来た。最後にそれを,皆さんにお伝えしておこう。(2010年10月12日)

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高校中国語の小風景

須田美知子(東大阪市立日新高等学校)

私は商業科・英語科・普通科総合選択制併設の東大阪市立日新高等学校で国語の常勤講師として勤務している。本校は2005年度から中国語を開設し,私は当初から担当して今年6年目となる。文部科学省が2年ごとに実施している「高等学校等における国際交流等の状況」に関する調査によれば,中国語教育を実施する高等学校の数は,1986年度は46校だったが,2009年度には831校と,開設校数では全体の16%になっている。しかし履修者数は2009年度現在19,751人,高校生1000人あたり5.9人とまだ少ない。

履修単位数の多い学校では3年間に20単位以上も取得でき,特色ある教育としてアピールしている。また第二外国語としてアジアの言語を必修で取らせる学校もある。しかし多くの場合中国語は選択科目の間口を広げる役割として存在している。現に本校では3年生の選択科目で,茶道,囲碁・将棋と並ぶ位置づけにあり,履修生徒のほとんどはまさか定期試験が課されるとは思っていない。毎年最初の授業で生徒の「えーっ」という声を聞くことになる。そんなモティベーションが高くない生徒に,50分・週2回の2単位という少ない学習時間で,どうしたら興味を持ってもらえるか,どれだけの内容が教えられるのか工夫が要るところである。

また本校の選択科目の中には,前述の科目以外にもちろん英語関連のものもあり,大学進学を希望する者はよほどの理由がない限り英語を選択することになっている。したがって中国語のクラスは原則として専門学校進学か就職希望者ばかりで,彼らが今後また中国語を勉強することはおそらくないだろう。そこであらゆる機会を捉えて,生徒に中国を自分の目で見たり,中国でひと言でも中国語を話したり,中国文化を体験してもらえたらと考え,積極的に高校生の中国派遣事業への応募,中国語スピーチコンテストなどへの出場を促す取り組みをしている。

そのなかで,桜美林大学孔子学院主催の全日本青少年中国語カラオケ大会への参加は今年3回目となった。幸いなことに,テープ審査,国内最終予選を経て,中国で行われる決勝大会出場者に毎年選ばれている。今年は残念ながら家庭の事情で辞退し,上海には行けなかったが,生徒は中国語カラオケという初めての体験を楽しみ,少し広がった世界を感じたようである。その大会では青少年とは35歳以下という規定で,中心となる大学生のほか社会人の方々も参加され,高校生はまだまだ少数派である。

参加の呼びかけに応えた生徒に手持ちのCDやDVDを貸し,何曲か選ばせた中で私が指導できるものに決定する。なにしろ自分は中国語カラオケといえばテレサ・テンという世代で,最近の字余りの曲にはついていけないが,生徒たちはそのおかげで中国も音楽は同じだと感じられるようで,助かっている。またJポップをカバーした曲も多くあり,親しみやすく,メロディだけでも覚える苦労が少ないという理由でそんな曲を選ぶ生徒もいる。女子生徒には台湾のアンジェラ・チャンが圧倒的に人気があり,どうしても歌いたいと言うのでアップテンポの「パンドラ」という曲に取り組んだこともあった。生徒は発音にはあまりこだわらないためか,無理矢理詰め込んだような歌詞も案外すぐに覚えてしまう。中国語カラオケ大会で歌われている曲を見てみると,「ラップ」がはやっているようだ。中国語はまさに「韻を踏む」のが得意な言語で納得がいくが,あの舌をかみそうなラップを教えてと言われたらどうしよう,と時代遅れのオバサン教師は今からおびえている。

本校の中国語クラスではもちろん歌ばかり歌っているわけではなく,なかなか実行はできないが『高等学校の中国語と韓国朝鮮語:学習のめやす(試行版)』(財団法人国際文化フォーラム)の提案を取り入れた授業を目指し,日々試行錯誤している。学習のめやすでは,語彙や表現を学習することが授業の最終目標ではなく,学習言語を使って実際にコミュニケーションできるようになることを目標としており,今完成版が待たれている。基本となる新しい外国語教育の考え方や活用法を共有するため,夏には教師研修が開かれる。今年は大学の先生方も参加され,中国語教育は高等学校から変えるという意気込みを,高校教員と共に感じ取ってくださったのではないだろうか。

今年も秋のスピーチコンテストの時期がやってきた。いくつかある大会のどれを選ぶかと問えば,うちの生徒は間違いなく高額賞金の出る大会を選ぶ。そんな選び方は如何なものかと感じるが,きっかけは何であれ,真剣に練習に取り組んでいる時間は本物である。どうか今年もいい経験をしてほしいと願っている。できれば去年のように,カラオケ大会がきっかけとなり希望進路を変更,スピーチコンテストで花開き,中国帰国生以外に初めて大学の中国語専門のコースに進学したT君のような生徒が現れることを夢見ている。

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贈り物

喜多山幸子(大東文化大学)

だいぶ前だが,中国語の入門テキストを作っていて,課文の会話の録音に立ち会ったときのこと。発音をしてくださっていた2人の中国人のうち,Wさんが途中で,「このせりふは中国人なら絶対言わない」と言う。あらかじめ信頼できるインフォーマントのチエックも行っているのに,そう言われて困ってしまったが,話し合ううちに,少なくとも彼の世代以上の中国人は言わないが(Wさんは当時アラフォーだったと思う),今の若い世代なら言うかもしれないと譲歩され,録音を続けることになった。くだんのせりふとは,プレゼントを受け取った中国人の若い女性が,「ありがとう。開けて見ていいですか」というもの。Wさんは,中国人は贈り物をもらってすぐに喜んだりその場で開けたりはしない,欲しそうだと思われるようなそぶりは彼の世代ではしないと断言される。そう言えばどこかでそのような内容が書かれた文を読んだことがある。しかしいざ課文を作る段になると,限られた行数に必要な文法項目を盛り込むことばかり考え,中国人の習慣から逸脱した会話を創作してしまう。それをいましめる体験となった。

これはずっと昔,留学生だった頃のことだが,中国人におみやげを受け取ってもらうのにとても苦労した覚えがある。やはり中年の方で,日本のおみやげを差し出すと,いきなり「自分で食べなさい」「ほかの人にあげなさい」などのことばが返ってきた。こんなことを言われるとは思いもかけなかったので,とっさにどう返してよいかわからず,しどろもどろに「自分のはあるから…」などと言ってやっとのことで受け取ってもらった。後になって思えば,自分は少しも欲しがってはいないという気持ちを伝える,物を贈られたときの中国式の常套的な遠慮の表現だとわかるが,そのときはことばを額面通りに受け取り,せっかく日本から持ってきたのにどうして自分で食べろとか別の人にあげろとか言うのだろうと,あまり良い気持ちがしなかった。

こんなとき効力を発揮するのが,例の「わざわざあなたのために」というひとことではないか。日本の感覚では押しつけがましいようだが,あのとき中国人に倣って「わざわざ日本からあなたのために持って来たのです」「あなたにあげたくてわざわざ買って来ました」と言っていれば,もっと素直に受け取ってもらえたように思う。物を贈ったり,受け取ったりする場面でのやりとりで,遠慮して受け取りを拒否される前に,それを制して相手が受け取らざるを得なくなるように仕向け,受け取りやすくする。そんなことばなのだろうとこの体験を通して感じた。

その留学生時代,大学主催の夏休みの旅行に参加し,鉄道とバスを乗り継いでウルムチまで行った。途中トルファンで名産の緑色の干し葡萄をビニール袋にいっぱい買い,北京に戻って新学期が始まった頃,お世話になっている先生に旅行のおみやげとして少しさしあげた。その冬,先生のお宅にお招きいただき,手作りのお料理をごちそうになったが,その中に八宝飯があった。それにはナツメなどと一緒に緑色の干し葡萄が使われており,それは以前私が先生にさしあげたものだった。先生のおっしゃるには,北京ではなかなか手に入らない質の良い干し葡萄で,八宝飯に入れて食べさせようとその分を取っておいてくださったという。ほんのり甘いもち米の八宝飯を食べながら,トルファンみやげを喜んでくださったお気持ちが伝わってきて,とてもうれしかったのを覚えている。

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IACL-18 & NACCL-22 Joint Conferenceに参加して

遠藤雅裕(中央大学)

國際中國語言學學會(IACL)の第18回大会(IACL-18 & NACCL-22)が,去る5月20日から22日の3日間,ボストン近郊のハーバード大学で,北美漢語語言學會議(NACCL)との共催でおこなわれた。わたしは,この学会に報告者として参加したが,普段は味わえないような,いろいろな刺激を受けることができた。

わたしの興味は,個々の報告ももちろんではあるが,その使用言語にもあった。学会では作業語として中国語か英語が使われる。その割合をプログラムの発表題目から割り出してみると,約200の報告の内,中国語は半分に満たない70程度である。つまり,中国語使用率は3分の1強で,残りは英語ということになる。

アメリカでは英語が一般的な使用言語であるから,このような比率になったと考えるのが妥当かもしれない。しかし,一方では,中国語学を議論する際にも,すでに英語が共通言語になりつつあることを表わしているともいえよう。昨年のパリ,あるいは,2003年に愛知県立大学で開催されたIACLの大会でも,英語が優勢であるとの印象を持ったので,後者の可能性が高いだろう。このような状況を英語帝国主義とみなすことも可能だが,実用面から考えれば,英語使用は,より多くの受信者を得られるという点で有利だろう。

研究の効率という点でも,英語を中心に据えた方がよいのかもしれない。学会で会った台湾の友人は,中国語(あるいは漢語系諸語)についての少なからぬ研究が,英語圏での言語学の研究成果を参照しているのであるから,英語で受信し,また発信した方が効率がよく,言語学のメインストリームにもコミットしやすいのだ,といっていた。

とはいえ,母語以外の言語の習得には,それなりの時間と費用と労力がかかる。さまざまな世俗の雑事などもあり,英語習得に充分な時間が割けない人も多いだろう(これはわたしの言い訳か)。畢竟,非英語母語話者は,英語学習をしなければならない分だけハンディとなるのだ(その時間を研究にあてられれば,より多くの成果が出せるかもしれない)。そして,英語力に応じて情報格差が生じることになる。このような状況を打開するためには,経済的余力があれば,会議の場では同時通訳(今回は英語を中国語に通訳)をつけるべきだ。これで,特定言語が不得手な参加者が,平等な立場で議論することが可能となり,また主催者側が少数言語にも多少なりとも配慮しているという多言語主義的な態度の表明にもなるのである。

いずれにせよ,このような状況が続けば,国際学会では中国語ですら劣勢言語になってしまうかもしれない。いわんや,わたしの母語である日本語は,もとより一顧だにされないのである。つまり,日本語で発信しても,その影響力は限定的になってしまうわけだ。国際的に認知されたければ,好むと好まざるとにかかわらず,英語,あるいは少なくとも中国語で発信する必要があろう。わたしが日本語で書いた論文について,別の台湾の友人は,読めなくて残念だといっていた(たとえ日本語であっても,読んでもらうだけの論文を書け,というつっこみは覚悟の上であるが)。

もうひとつ気がついたのは,学会では大学院生の発表が少なくなかったことだ。会場が北米であるから,地元以外の学生は経済的な理由から参加が難しいだろう。とはいえ,台湾の学生なども含めて,思った以上に学生が多いという印象を持った。日本の国際的な発信力ということを考えれば,特に,若い研究者は,発信するためのスキルを磨くためにも,とりあえず国際学会にどんどん申し込んでもよいのではないだろうか。そして,母語以外の言語でプレゼンする訓練は,早いうちにしておいた方がよい。

結局,今回の学会では,キーノートスピーチあるいは一般の発表でいくつか興味があるものがあったが,そのうちの多くが英語であったために,英語力が不十分なわたしは,その場で,すんなりと理解することは難しかった。特に,Bare classifier phrasesという分科会(これで分科会になるのがすごい!)には,かなり興味をそそられたが,英語がナチュラルすぎたため,それについていくのに必死で,内容の理解がなかなか追いつかなかったのは残念だった。

チャールズ川近くのLegal See foodsで,地元のビールであるSamuel Adamsを味わいながら,現在の日本語母語話者である中国語研究者には,研究対象である中国語(あるいは漢語系諸語)以外に,アウトプットのための英語習得もそろそろ本格的に必要なんだろうなぁ,と改めて思ったのである。

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版本調査の話

小方伴子(首都大学東京)

版本調査の話をさせていただこうと思い,冒頭に,「ここ数年,毎年夏になると北京に行き,国家図書館の善本閲覧室で『国語』の版本の調査を行っている」と書いたあと,ふと,最初に行ったのは何年だっただろうと振り返り,それが2007年であることに驚いた。もっと前から,もっと数多く通っていたような気がしていた。

2007年の夏,はじめて国家図書館善本閲覧室を訪れた。おもな目的は,黄丕烈の『国語』校本の書き入れを調査するためである。貴重書の閲覧は原則として認められないということで,はじめのうちはマイクロフィルムによって黄丕烈の題跋や校勘記の文字を追った。朱墨の判別は,投影機上に映し出される文字の濃淡で見当をつけるしかなかった。しかしフィルムではどうしても判断のつかない色,解読できない文字もある。そこで書庫に自由に出入りできる善本閲覧室の方に,原本との照合を依頼した。董蕊さんという若いスタッフが快く引き受けてくださった。校本を数枚プリントアウトし,照合を要する箇所に印をつけてお渡しした。董さんが原本によって確認してくださったものを見ると,フィルム上には写っていなかった文字や,色の判断を誤っていた文字がいくつかある。少なくとも次の論文で取り上げる字句については,すべて原本と照合しなければならない。お忙しい董さんにはもうしわけなかったが,改めて数枚をお願いした。翌日にはさらに数枚を,翌々日には十数枚をお願いした。董さんも,さすがにこれには対応しきれないと思われたのだろう。「上司に相談してみます」とおっしゃって,善本特蔵部文献開発主管の趙前先生を紹介してくださった。趙前先生に事情をお話しすると,あっさりと原本閲覧の許可が下りた。

今から二百二十年前,乾隆五十五年(1790年)の冬,江蘇長州の藏書家・黄丕烈は友人から重刻公序本『国語』を譲り受け,二種類の『国語』別本すなわち陸敕先校本と惠棟校本の臨本を用いて校勘作業を行っていた。その頃,『国語』版本の主流は公序本で,何種類もの重刻版が流通していた。陸敕先校本も惠棟校本も,底本は重刻公序本である。黄丕烈校本とは版を異にするものの,宋刻公序本を祖とする点は同じである。二種類の別本の校勘資料としての価値は,むしろそこに書き入れられた明道本との校勘の記録にあった。宋刻明道本『国語』は早くに逸しており,抄本しか伝わっていない。しかも質のいい抄本を手にするのは容易ではなかった。黄丕烈は陸敕先校本,惠棟校本に書き入れられた校勘記を頼りに,明道本との校勘作業を行っていたのである。もどかしい作業だったと思う。

五年後の乾隆六十年,黄丕烈は影抄明道本『国語』を手に入れ,校勘を施し,納得の行く校本を仕上げる。そのときの喜びは,巻頭の題記に溢れている。楷書で大きく「而今而後,『國語』本當以此爲最,勿以尋常校本視之」(今後,『国語』はこれをもって最も優れたものとするべきで,並の校本を見る目で見てはならない)と記された文字を眺めているうちに,私は涙がこぼれそうになった。

前年の冬,私は「『国語』版本考-公序本と明道本-」と題する論文の資料として,黄丕烈校本の題跋を読んでいた。テキストには,始めは『士礼居藏書題跋記』に収録されているものを,後にはその依拠本である楊紹和『楹書偶録』を用いた。『楹書偶録』に収められている題跋は,晩清の藏書家・楊紹和が黄丕烈校本から写し取ったものである。題記・跋文の順序はオリジナルとは異なる。文字の異同も疑われる。しかし当時の私にはそれしか拠るべきものがなかった。八ヶ月後,原本を求めて北京へ向かった。だが国家図書館における調査でも,最初の一週間はマイクロフィルムしか利用することができなかった。間接的な調査には不安が残る。「原本が見たい,原本が見たい」と念じ続けていた。そのもどかしさは,公序本の異本だけを頼りに校勘作業を行っていた黄丕烈の心情にも通じる。明日は帰国という日に,ようやく原本を見ることができた。朝九時から夕方四時半まで,水も飲まずにひたすら書き写した。乾隆六十年に影抄本を手に入れた黄丕烈も,寝食を忘れて自身の校本と見比べていたはずである。その姿が目に浮かび,「乾隆嘉慶期の藏書家,校勘学者」でしかなかった黄丕烈が,身近な存在として感じられるようになった。

翌2008年の夏,再び国家図書館を訪れた。前年の調査で顔なじみになったスタッフの方々が暖かく迎えてくださり,黄丕烈校本の閲覧もすんなり許可された。恵棟校本の原本も閲覧することができた。書見台をふたつ並べて,黄丕烈校本と恵棟校本を同時に眺めるという至福に酔いしれた。欲をいうともう一点,目録に「國語二十一卷,呉韋昭注,明嘉靖七年金李澤遠堂刻本,顧之逵校並臨段玉裁校跋」とある校本も見たかった。しかし貴重な原本の閲覧を重ねてお願いするのも憚られて,マイクロフィルムの調査だけで済ませてしまった。それが失敗だった。柄に合わない遠慮と手抜きが,後で大きな過ちを招くことになる。その顛末を書くと長くなりそうである。2009年度の調査と合わせて,次の機会にお話しさせていただきたいと思う。

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“明白”,“dong3”,“dong3得”と“弄dong3”

原由起子(姫路獨協大学)

“明白”,“dong3(立心偏に「董」,以下同じ)”,“dong3得”については,『中国語類義語のニュアンス』(相原茂,荒川清秀,大川完三郎,杉村博文編,東方書店,1995)のなかで大瀧幸子先生が詳細に論じておられ,本稿もそれを逸脱するものではないが,新たな視点から,“弄dong3”も加えて分析してみたい。

“明白”,“dong3”,“dong3得”は,日本語ではいずれも,一般には「分かる」と訳され,置き換え可能な場合もある。

『学漢語近義詞詞典』(趙新、李英主編,商務印書館,2009)によると,これらは「いずれも動詞として用いられ,事実や道理を分かった,理解したことを表し,ときには互換できる」とある。例えば次のような例を挙げている。

1) 他看了半天,還是不明白文章的意思。(dong3/dong3得)(彼は長い時間かけて読んだが,やはりその文章の意味が分からない)

2) 他講了半天,大家終於dong3了他的意思。(dong3得/明白) (彼が長い間話して,皆はついに彼の言わんとすることが分かった)

3) 読書可以使人dong3得很多道理。(dong3/明白)(読書は人に多くの道理を分からせてくれる)

一方で,“dong3/dong3得”と“明白”の異なる点として,次のように説明している。

「“dong3/dong3得”は主に道理や認識を獲得し,どのようにするべきかわかったことを表すのに対し,“明白”は主に事柄に対してはっきり理解し認識し,あやふやなところがないことを表す」としている。そして次のような例を挙げている。

4) 王京很dong3礼貌,很dong3道理。(*dong3得/*明白)(王京はとても礼儀をわきまえているし,道理もわきまえている)

5) 我們経歴了許多痛苦,於是更dong3得享受歓楽。(*dong3/*明白)(私たちは多くの苦しみを経験した,そこでなおのこと楽しみを享受することがわかった)

6) 大家心里都很明白他是個什麼様的人。(*dong3/*dong3得)(皆は心中彼がどういう人かよく分かっている)

4)〜6)の例文を見て疑問に思うのは,同じく「道理や認識を獲得し,どのようにするべきか分かったことを表す」のに,“dong3”と“dong3得”が置き換えできない場合があるのはなぜか,という点である。両者の使い分けにどのような要因が働いているのだろうか。興味深いのは5)の例である。5)は,「多くの苦しみを経験した」ということを経て,ようやく「楽しみを享受することが分かった」のである。この“dong3得”を“dong3”に置き換えることはできない。5)の例文から推察されるのは,「分かる」までになされた努力や経験の多寡によって,両者は使い分けられているのではないかということである。そのことを裏付ける例を挙げよう。

7) 他毎天刻苦学習,才dong3得/弄dong3了那条数学的道理。(*dong3/*明白)(彼は毎日懸命に勉強して,やっとその数学の道理が分かった)

8) 他去図書館調査過許多資料,才dong3得/弄dong3了那個歴史上的問題。(*dong3/*明白)(彼は図書館へ行って多くの資料を調査して,ようやくあの歴史上の問題が分かった)

例7),8)のように多大の努力をした結果分かるようになったというときは,“dong3得”,“dong3”のうちだと“dong3得”が用いられ,“dong3”には置き換えられない。更に言えば,インフォーマントによると,“dong3得”より“弄dong3”の方が動作主の「分かる」ための積極的な関与が感じられ,一層自然であるという。

このような観点から見ると,例4)の“很dong3礼貌”(礼儀をよくわきまえている),“很dong3道理”(道理をよくわきまえている)というのは,それほど多くの努力や経験がなくても実現可能である。そして例6)の“心里很明白他是個什麼様的人”(心中彼がどういう人かよく分かっている)というのは,一番自然に「分かる」ことができる。

ここで例1)〜3)のうち,特に1)と2)の“看了半天”(長い時間かけて読んだ),“講了半天”(長い間話した)は相応の努力をしていると言えるが,1)は否定形で努力や経験の多寡の違いが中和されているので,“明白”,“dong3”,“dong3得”のいずれも使えるのであろう。

また2)は「長い間話して」努力した“他”(彼)が「分かった」主体ではないので努力や経験の多寡の違いが反映されず,これも三つの動詞とも使えると思われる。

以上のことから,“明白”>“dong3”>“dong3得”>“弄dong3”の順に,「分かる」ためになされた努力や経てきた経験が多いと言えるであろう。そのことの証左となるのが次の例である。

9) 他自然而然地明白了。(彼は自然に分かった)

10) 他好容易弄dong3了。(彼はやっとのことで分かった)

例9)の状語“自然而然地”(自然に)が最も自然に共起するのは“明白”であり,10)の状語“好容易”(やっとのことで)が最も自然に共起するのは“弄dong3”である。

以上,「分かる」ための努力や経験の多寡という視点から,“明白”,“dong3”,“dong3得”,“弄dong3“の違いを述べた。ささやかではあるが,この四つの動詞の使い分けをいくらかでも明らかにできていればと思う。

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“米”と“面”の意味

続三義(東洋大学)

中国語の“米”と“面”に関しては少しでも中国語をかじっていると,大体の意味が分かるだろう。しかし,実際の場面にぶつかった時,ややもすると,その意味の取り違えをしてしまうことがある。

まず,“米”について見てみよう。

『現代漢語詞典・第5版』(商務印書館)の説明だと ,“大米”のことであると分かる。しかし,“大米”と言っている以上,それに対応する“小米”があるということも忘れてはならないだろう。この“小米”というのは,いわゆる“普通話”の言い方で,実際,中国の北方で,例えば私の田舎の山西省では,元々米が取れないから,普通に言う“米”はすべて粟のことである。“米湯”というのは,“普通話”の“小米粥”(粟粥)のことだが,田舎では別にわざわざ“小米湯”または“小米粥”などとは言わない。今,日本では「米粉」といって米を粉にしていろいろな食品を作っているが,私の田舎ではずっと昔から,粟を粉にしていろいろな食品を作っている。例えば,“米面饅頭”(粟粉で作ったマントー),“米面餅”(粟粉で作った焼きパン),“米面[米羔]”(粟粉で作ったケーキ)など。山西省を始め,北方の多くの地域では“米”と言えば実際粟のことを指すということを理解してもらいたい。ちなみに,“米飯”の場合,“普通話”でも,米のご飯と粟のご飯の両方を指す(『現代漢語詞典』)。

日本語の「米粉」は,中国語“普通話”では“米面”がこれにあたるが,上記のように,私の田舎では“米面”というのは,粟の粉のことである。このことを念頭において,“面”の意味を見てみよう。

ある中国語の事情を述べるエッセーの本を見ていると,とてもいい本だが,中国語の図鑑を紹介するところで,中の“米、面”のジャンルのタイトルが直接日本語の「米、麪(原文のまま)」と訳されている。図鑑では中国語の“米、面”類の食品を絵で説明している。そうだとすれば,中国語の“米”の訳は(中国語の“普通話”からすれば)一応正しいと認められても,“面”のことを直接日本語の「麺」としたのではいささか問題があるように思われる。

確かに日本語では,「米」と「麺」が並んだ場合,その「麺」はラーメンや蕎麦などの「麺類」のことを指す。しかし,中国語の図鑑の“米,面”についての説明では,上記の“米面”の説明でも分かるように,その“面”は決して「麺類」のことを指しているわけではない。中国語の“面”はまず「粉」の意味で,そして図鑑で言っている“面”は“面食”のことである(ちなみに,図鑑の英語の説明はflourとなっている)。“面食”とは“用面粉做的食品的統称”(『現代漢語詞典』),つまり「小麦粉で作った食品の総称」である。中国語の“面”はまず「小麦粉」のことで,そして図鑑の説明は“面食”のことだと理解してはじめてその“米、面”の並べ方が納得されるだろう。

中国人の間ではいつもこの“米、面”のことで「口喧嘩」をしている。北方の人は,「南方の人は“米”が好きで,“米”ばかり食べている。その“米”ってどこがおいしいというのだ。何の味もないじゃないか。」対して,南方の人は,「北方の人は“面”で作ったものが好きだと言っているが,あの“面”で作ったもののどこがおいしいだろう。何の味もないではないか。」そして,北方人は「“米”でできる食品はご飯しかないじゃないか。“面”なら何でも作れて,いろいろ楽しめる。」と反論する。そして,南方の人は「炊き立ての“米”のご飯だけで十分おいしいよ。“面”で作ったもののどこがおいしいの?」などと延々と続く。実際,私の知っている南方出身の方は北方で数十年生活していても,いまだに餃子の味が分からないといっている。一方,知人で,長く日本で生活している中国北方出身の方は,いつも“饅頭”などを恋しがっている。

以上の主張は別として,例の“米、面”に限って言えば,筆者のような南方生まれ北方育ちで,“米、面”のどちらも好きな者からすれば,残念ながら,やはり“面”に軍配を上げることにしたい。つまり,図鑑にある“米”は普通“米飯”「米ご飯」の1種類しかない(炒飯というのも,飯である)のに対して,“面”は“饅頭”(蒸しパン)をはじめ,“花卷”(花の形の蒸しパン),“包子”(中華まんじゅう),“油餅”(平ペったく揚げたパン),“油条”(細長く揚げたパン),“面包”(パン類),“焼餅”(塩味,ねぎ味などの焼きパン),そして“餃子”(ギョーザ),“焼麦”(シューマイ)などが挙げられる。“面条”(麺類)もこの“面”に入るが,“面”類は本当にたくさん種類がある。

中国語で“Ni3是吃米還是吃面?”と言う場合,その“米”は上記のように「ご飯」に限られるが,“面”は決して日本語のように「麺類」に限られるわけではない。本当に日本語の「ご飯と麺」を聞く場合,“Ni3是吃米飯還是吃面条?”と聞かなければならない(まあ,場面による場合もあるが)。

“饅頭”,“面条”,“餃子”などを作る際,“和面”という工程がある。“和面”は,「粉をこねる」ということになるだろうが,“和好的面”を日本語でどう表現するか,ちょっと迷ってしまう。“面条”の場合は,「よくこねた麺(生地)」ということになるだろうが,ほかはどうだろう。中国語の“面”には「粉」と「生地」という二つの意味があるが,日本語の場合「粉」そのものとそれをこねて作った「生地」を区別して表現するようだ。

言葉の意味って,厄介だが面白い。

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口伝の威力

石崎博志(琉球大学)

本日は三線(三味線)について語りたい。

三線は中国から琉球に伝わり,本土にもたらされたと言われている。三線は琉球の古典音楽のなかでは最も重要な楽器の一つである。沖縄と言えば民謡をイメージする方も多いが,琉球の古典音楽はもともと中国の使節を接待する宮中の音楽が今に伝わるもので,民謡とは随分と趣きを異にする。私は昨年から琉球古典音楽の師範に三線を習っているが,その教授法は今日,とても「独特」である。

沖縄では音楽の道場を「研究所」と称する。私が属する安冨祖流の研究所は,口伝で歌・三線を教える。師範の前に正座して,師範が歌い・弾くのを真似て曲を覚える。琉球音楽には工工四という楽譜があるが,私の研究所では使わない。演奏される曲は人生で一度も耳にしたこともない曲ばかりだが,師範が弾く指を観ながら同じ勘所を押さえ,先生の歌にひたすらついていく。戸惑いながら師範の演奏に必死に合わせることを,何十回,何百回と繰り返し,歌と三線の技術を覚えていくのである。琉球古典の教授法は伝統的にこのような口伝であったが,今もこの方法を採る研究所は少ない。

古臭く,非効率だ。時代に合わない。そうお思いであろうか。楽譜を使い,最新のツールと教授法,学習者の気質に合わせた方法ならもっと巧くなる,そう思われる向きもあるかも知れない。確かに,手間がかかる。気の抜けない一対一の場である。師範の手から一瞬でも視線を外すと,即座に「私の手を観なさい」と注意が飛ぶ。しかし,師範は私が間違えるたび,弾き直して下さる。師範には頭の下がる思いである。幾度となく失敗を繰り返し,申し訳なく,情けない思いにかられる。だが,先の見えない反復のなかで,次第に音はメロディに,音節は言葉になっていく。そして,徐々に,確実に師範の手と節回しが血肉化される。教育において学習者のパフォーマンスがより重要であるなら,これほど効果的な方法はない。今ではそう思う。

だが,こうした方法は弟子の師匠への信頼なしには成立しない。弟子が師匠を疑い,相対化し,評価するようなシステムでは,信頼関係の構築はおろか,お稽古を継続していくことすら困難であろう。伝統芸能において,初心者の個性や自己流の演奏など,微塵の価値もない。学問研究で必要とされる学生の批判的精神は,技の継承を第一とする場では大きな障碍となるのである。こうした精神的なことも含め,口伝という方法に,教え・教えられることの往事の姿を垣間見た思いであった。

昨年の八月。私は琉球古典音楽コンクールで新人賞を受賞し,それ以降,結婚式の余興や演奏会でたびたび演奏させて頂いている。そして,昨年の12月の演奏会では,新人賞受賞者のなかから3名が選ばれ,伊野波節を独唱させて頂く栄誉に浴した。4月には県内最大のホールで7曲を斉唱することになっている。演奏を通じて大学以外の方々と知遇を得て,日々,楽しくお稽古させていただいている。

ここまで読まれて,私をよく知る方のなかには,この文章の「真の狙い」を悟って苦々しい思いを噛み締めた方もいらっしゃるかも知れない。イシザキは,畢竟するところ,三線自慢をし,沖縄生活の悦楽を披瀝したかっただけぢゃぁないのか。三線と中国の関係云々や口伝や教授法といった話も,単なる自慢への前振りにすぎぬ,と。

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レシテーション大会と弁論大会

竹越孝(愛知県立大学)

毎年10月と11月は学会やら種々の入試やらで,ほとんどの週末に用事が入り,かなり忙しい日々を過ごすことになるが,ここ2年ほどは,この時期さらに2つのイベントの練習日程でスケジュール帳が埋めつくされる。それがレシテーション大会と弁論大会である。

レシテーション大会というのは,2年前から本学の大学祭行事の一環として行われているもので,正式名称を「多言語競演レシテーション大会」という。外国語系で大学祭と言えば,一般的には「語劇」だが,後発では新鮮味がないということでレシテーション(暗誦)になった。本学の外国語学部には,中国以外に英米・フランス・スペイン・ドイツの専攻があるが,各専攻の言語で詩や小説・戯曲など有名な文学作品の一節を暗誦し,観客の投票によって順位を決めようというものである。第一部が学習1年目,第二部が2年目以上対象で,英語は第二部にしか出られない。これは大学が宣伝目的で始めたことであるから,出場者選びや発音指導,当日の演出など,最初のうちはすべてこちらの主導でやらなければならない。

本学の客員教授・劉乃華先生は中国でずっとスピーチや朗読の指導に携わってこられた方で,この方面をお願いするにはうってつけの存在なので,こちらは安心してサポートに徹すればよい。コンテストと違って審査員がいるわけではないのだから,要するに観客に受ければよいのだろうということで,一昨年は衣装を伝統服で揃え,BGMや背景画像にも凝って孟浩然『春暁』などの唐詩を暗誦し,第一部で2位に入った。昨年からは他の学科も演出に凝り始めたのでやや焦ったが,我々は第一部に『論語』,第二部に魯迅『故郷』で臨み,それぞれ1位と2位を取った。他の大学ではどうか知らないが,本学では欧米系に押されて中国学科の立場が弱いので,大いに面目を施した次第である。

その余勢を駆って,一昨年からは京都外国語大学主催の「全日本学生中国語弁論大会」にも出場者を出している。これは半年以上中国に滞在したことがない2・3年生を対象とするスピーチコンテストで,主に関西・中部地区の外国語系大学から参加する。学生は約5分間の原稿を暗記して臨むことになるので,実質的には夏休みから準備を開始し,練習に割く時間もレシテーション大会よりは格段に多い。一番大変なのは劉先生で,学生の書いた中国語原稿の添削,徹底した発音訓練から各種表現技巧の指導まで,こちらが申し訳ないほどの熱心さで取り組んで下さる。僕は練習時間と場所の手配をしたり,日本語を話さない劉先生のために通訳を買って出ているだけである。一昨年は2人出場して1人入賞だったが,昨年は3人出場して3人とも入賞,うち1人が最優秀を獲得するなど,本学は大躍進を果たした。早速大学のホームページや広報誌で大々的に宣伝したことは言うまでもない。

弁論大会の会場で先輩や知り合いの研究者を偶然見かけ,同じように引率で来ていたことを知って驚いたり,今年は負けたが来年こそはうちが勝ちますよ,などと言い合うのも楽しい。僕はもともと文学部中文専攻の出身だから,学生時代にスピーチコンテストのようなものに参加したことは一度もないし,そもそも現代語の運用能力を上げようという意識すら希薄だった。20年経った今,こうしたことに取り組むようになったのは自分でも意外だが,ともあれ僕の周りにいる熱心な同僚と熱心な学生に引きずられるようにして,秋にやってくるこの2つのイベントを楽しんでいるのである。

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辞書のゆくえ

安部悟(愛知大学)

昨年末に愛知大学現代中国学会から刊行された『中国21』第32号(2009.12.30)では,「辞書のゆくえ」というテーマで特集が組まれている。これは,中国語辞典を中心に辞書の現状と将来を考えるというもので,そのきっかけとなったのは,『中日大辞典』第三版出版の準備過程で,中国語辞典の抱える問題について改めて色々と考えさせられたからである。

特集を任されどのような内容にするか頭を悩ませていた時,2008年の京都外国語大学で開かれた本学会全国大会のシンポジウムにおいて中国語学習辞典のことが取り上げられた。それは私にとって正にタイムリーな企画であり,早速コメンテーターの方に執筆をお願いすると同時に,特集の内容もほぼ固めることができた。辞書について議論する機会が,これまで支部例会等ではあったものの全国大会では初めてで,その英断にこの場を借りてお礼申し上げたい。

そこで取り上げたのは中国語辞典,国語辞典,英語辞典についてであり,辞書全体のことを考えるものではないが,それぞれの辞書の特色や様々な問題点が明確に示されており,興味のある方は是非そちらをお読みいただくとして,ここでは私の個人的な感想を2つの点に絞って書かせていただきたい。

第1は,現在の辞書が抱える大きな問題として電子化の問題がある。今回の特集でも多くの論者が指摘しているように,これは今後さらにその対応を迫られる問題としてまず考えておかなければならないだろう。紙辞書と電子辞書との関係は,現在発売されている電子辞書のコンテンツとなっているのが既存の紙辞書であることを考えるとあまり問題にならないかもしれないが,今後は紙辞書ではなく直接電子辞書として発売される可能性がある。この場合,紙辞書が持つ特性が失われてしまうことになり,それに対するご意見は多くの方がお持ちだろう。私も紙辞書世代の1人であり,紙辞書の良さについては十分に理解しているつもりである。

しかし,IT化が急速に進んだ現代社会においては,好悪に係わらずその対応を考える必要がある。特に学生の電子辞書使用率を考えると,この問題は避けて通れないものになっており,最近ではあまり騒がれなくなったが,本があまり売れず携帯小説が流行するなど,紙離れがかなり顕著になってきている。学生にとって電子辞書は便利グッズであり,実際に使ってみると電子辞書ならではの面白さもある。また辞書編集の側から言っても,近年の社会情勢の急激な変化に伴い,従来では考えられない速度で新語が次から次へと出てきて,それらに対応していかなければならいという実情がある。実際,第3版でもかなり新語を取り入れたが,紙幅の関係上同数の語彙を削除しなければならなかった。今回の改訂で最も難しかったのがこの問題で,前述の特集の座談会でも触れているが,1冊の辞書ですべてを網羅することは不可能であり,このため複数の辞書が必要となる。電子辞書だとこの問題を解決することも可能となるわけだが,我々はそこからさらに一歩進んで語彙データベースの構築ということも視野に入れて検討中である。

第2に,コーパスの活用ということである。これは,英語辞典ではかなり早い段階から採用され,現在ではかなり一般的となってきている。辞書の機能を仮に「読解用」と「作文用」とに分けた場合に,現在の辞書の多くはその両方を意識した編集となっているが,特にその後者における利用価値が極めて高いといえよう。『中日大辞典』は前者を強く意識して編集されており,コーパスの活用が必ずしも緊急課題とはなっていないが,今後この面での研究が進めば,それらをどのように辞書編集に反映させていくのかが問題となろう。また,コーパスの特性を活かして後者に特化した辞典の開発も必要になると思われ,ユーザーの視点に立った新たな検討が求められている。この点について言えば,特集の中にある中国での研究成果が大いに参考になる。

今回,辞典の出版及び辞書の特集を担当して,近年の日本の中国語辞典の充実ぶりと,それらに込められた編集者の熱い思いに改めて気づかされた。辞書の出版はまさに一大事業であり,限られた条件の中でそれぞれの編集者が特色を出すために様々な苦労を重ね,その結果として多様な辞書が存在しているということだ。しかし一方で,1ユーザーの立場から考えてみると,それぞれの辞書の特色をどこまで理解して使っているかといえば,まだまだ疑問が残る。今後は,辞書を編集する側もこの点に配慮し,紙辞書であれ電子辞書であれそれぞれの特色をより明確にし,辞書を使うことの大切さや楽しさといったことを,もっとユーザーにアピールしていく必要があるように思う。そのためにも,辞書について議論する場を継続的に設け,ユーザーと一緒になって辞書のあり方を考えていくことが必要だろう。

最後に,ほぼ20年ぶりの大改訂となる『中日大辞典』第3版が2月に刊行されるが,前述したような問題もあり予想以上に編集作業に時間がかかった。今回の改訂に対する先生方のご意見,ご教示をお願いして結びとしたい。

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第59回全国大会を終えて

松江崇(北海道大学)

昨年の5月,とある尊敬する先生より次年度の全国大会を北大で開催できないかというメールをいただいた時,ずいぶんと長い間考え込んでしまった。平素から学会の恩恵を被る身,二つ返事で快諾すべきだろうが,私の事務能力は宴会の幹事も覚束ないレベル。加えて次年度は北大中文研究室としても国際シンポジウムを抱えており,とても重任に耐えられそうになかった。にもかかわらず最終的に立候補を決めたのは,理性的な判断によるのではなく,単なる“勢い”によるもの。幸い,飯田真紀先生・金昌吉先生にもお手伝いいただけることとなった。

最も心強かったのは,今大会より岩田礼先生を委員長とする「全国大会運営委員会」が発足し,開催校の事務的・能力的負担が大幅に軽減されたことである。分科会発表の審査など重要な判断は運営委員会で行っていただけるとのことで,これなら何とかなると勢いづいた(運営委員会と準備会の“合作”は最後までうまくいった。とりわけ第57回大会経験者の石崎博志先生には巨細にわたるアドバイスをいただくことができた)。

準備会としては,(1)遠隔地にも足を運んでいただけるシンポジウムを運営委員会に企画・提案すること,(2)今大会からの導入となるポスターセッションを成功させること,(3)各会場間の距離を短くして合理的でコンパクトな会場づくりをめざすこと,などを目標として掲げた。今大会の目玉の一つである「存在表現の類型と歴史」というシンポジウムの企画は,運営委員会として企画したものであるが,決定の際には準備会から積極的に発言させていただいた。発表者の先生方には,講演・司会をお引き受けいただいたのみならず,他の講演者のご紹介やシンポジウムに対するアドバイスなど,甚大なお力添えをいただいた。

分科会発表・ポスターセッションの募集を締め切った6月下旬,海外からの応募が二十件を優に超えていることに気づいて驚いた。これなら大会の盛況は間違いないと大変嬉しく思ったのであったが,私個人としては下手な中国語で毎日メールを書くことのつらさを痛感させられた。

準備会が本格的に動き出したのは分科会発表の審査も終えた8月であった。しかし,さあこれから,というときになって大会会場に関する深刻なトラブルが発生し,作業の中断を余儀なくされてしまった。茫然自失。私は大学の廊下をうわの空でふらつく日々を過ごした。ところが,この醜態が情勢を持ち直す契機となったのである。見かねた文学部の同僚が件のトラブル解決に動き出し,中文研究室の院生たちは「この男には任せておけない」と危機感を持ち,主体的に作業をこなすようになった。そのほとんどが文学・哲学専攻で本学会とは関係がない院生たちが,毎週木曜の夕方から夜遅くまで,食事もとらずに会議をひらくようになり,それぞれの役割を決めていった。

大会当日は,天候にもめぐまれ,また“公約”どおりに銀杏並木が美しく色づいた。参加者が300人を超えるという予想以上の盛況となり,スタッフは緊張感を持って本番に臨んだ。当日,分科会プログラムの印刷ミスなどが判明したが,ほとんどが私個人に起因するもので,準備会全体としては大過なく大会を終えることができたといってよいと思う。多くの方から(1)シンポジウムが興味深かった,(2)キャンパスが美しく大会を楽しめた,という感想をいただくことができた。いずれも準備会の功績ではないが,我がことのように嬉しく思った。

大会が成功裏に終了できたのは何よりも分科会・ポスターセッション・シンポジウムなどでご発表くださった先生方,司会をお引き受けくださった先生方,大会を支えてくださった大会運営委員会・執行部・事務局の先生方,そして札幌という遠隔地まで足を運んで大会にご参加くださった皆様のおかげである。衷心よりお礼を申し上げます。

来年度の第60回大会は記念大会と位置づけられ,神奈川大学で開催されるとのこと。一会員として大会の成功を心よりお祈り申し上げます。

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一石で二鳥も三鳥も

照井はるみ(札幌市立大学)

初雪の舞いそうな空模様の11月1日,北海道日中友好協会主催による「2009年度全日本中国語スピーチコンテスト北海道大会」が札幌エルプラザで開催された。この大会に札幌市立大学からはじめて6名の学生が出場し,暗誦の部で2位と3位,朗読の部で3位入賞という好成績を収めることができた。中国語開講から3年目でコンテストに参加したいという学生が現れ,8月で講座が終了しているにもかかわらず夏休み明けの2ヶ月間を特訓期間として練習に励み,1つの成果をみるにいたった経過をここで紹介したい。

札幌市立大学は,06年に開学したデザイン学部・看護学部共に入学定員80名の規模の小さい大学である。05年6月,当時開学準備を進めていた札幌市市民まちづくり局から中国語担当の依頼があったとき,その内容を聞いて一瞬,「えっ,たった15回の授業!何を教えるの?」という驚きが私の脳裏をよぎった。計画されていた共通教育科目中国語の履修は,韓国語・ロシア語と同じく,2年次前期(または後期)1単位,15週というものであった。最初は驚いたが,現実の条件に即した授業の展開を目指し,07年4月の開講までの1年余り,これまでの固定観念を捨てた基本方針を定めて準備を進めた。その基本方針とは:1,大学の第二外国語の授業として,入門の基礎的内容はきちんと教える。そのためには,15回内で終えることのできる入門用のテキストを使う。2,少ない授業数で語学学習の成果を高めるために,1クラス20人以下のクラス編成を大学に要請する。3,中国語のみならず中国入門の講座として,語学学習と文化学習を盛り込んだシラバスを作る。語学学習はテキストを中心に教室で,文化学習は毎回配布するプリントを授業後各自で読む。また映像による中国紹介の時間を設け,出来るだけ多くの文化・社会・歴史・政治・生活情報を伝える。以上の盛りだくさんの基本方針は,大学側の理解も得て現在ほぼ方針通りに展開しており,幸い学生からの評価も高い。

中国語の学習で一番難しいのは,やはり発音と声調の習得である。はるか昔,私は天理大学中国学科で4年間学んだが,当時の自分は発音・声調そのものが不安定であり,理論的理解も不明瞭であったことが思い返される。そして今,全15回しかない講座の中で,入門の基本を全部教えたいというのは元々無理な話しではあるのだが,そこには,定着は無理としてもせめて基礎は一通り学んだという実感を持って欲しいという教える側の思いがあり,その実現のためにこれまで色々授業方法を工夫してきた。「一石で二鳥も三鳥も」を念頭に展開してきた授業の内容は,次のようなものである。

まず1回目のガイダンスで配布する発音教材のプリントは,クラスごとの“名単”と「母音と子音」の2種類(他に文化プリントは7種類配布)。“名単”には各クラスの学生と私の名前を簡体字とピンインで表記し,下の段に数字“一”から“十”と“零・一百・一千・一万”をピンイン付で入れてある。毎回の授業は“点名”で始まり,教師が学生の名前を中国語で呼ぶと,学生は呼ばれた自分の名前を復唱してから“到”と言う。このとき発音・声調に問題があればすぐ模範を示し,学生にも言い直しをさせる。こうして毎回繰り返せば,自分の名前を段々正しく発音できるようになる。また数字もなかなかやっかいで,日付や時間の単元で始めて発音したぐらいでは正しい声調が身に付かない。そこで毎回“点名”のあと皆で音読し,そのあと1人1音ずつ音読させていくが,必ず途中で誰かが躓き,なかなか“十”までたどり着けない。「母音と子音」は,A4サイズ用紙の上段にすべての母音を,下段に21の子音をそれぞれ表にしてまとめた自主教材で,毎回“点名”のあとに全員で音読し,口の開け方,舌の位置,息の出し方などを注意する。ガイダンスの中で特に強調するのは,「発音のときの顔の表情や,人前で教師に直されることを恥ずかしいと思わないこと。1人の発音が直されているとき,他の人は“聴力”を養うことができるのだから,全員が集中して聴くことが大事」ということである。はじめは学生も恥ずかしがっているが,誰もが次々とやり直しをさせられていくので,段々とその雰囲気を受け入れるようになってくる。

次に,自己紹介文を使った学習方法がある。使用しているテキスト『実用中国語10課』(白帝社)の各課から1文例ずつ選んでまとめた1篇の自己紹介文を前以て作っておき,名前や年齢,家族構成などの部分は自分のことを書き込ませ,毎回各課の学習の最後にその日習った文例を全員で音読する。そして15回目の授業では「クラス内コンテスト」という名称で全員が発表者であると同時に審査員となり,この自己紹介文を1人ずつ発表する。こうして「中国語で自己紹介が出来る」という到達目標の1つを,全員がクリアすることが可能となっている。しかしこういう授業ができるのも,1クラス20人以下で,という最初の要請を大学側が受け入れてくれたからに他ならない。ちなみに今年の中国語履修者は,デザイン学部46人で2クラス,看護学部55人で3クラスに編成された。デザイン学部は2クラスとも20名を超えてしまったが,基本的にこの少人数クラス体制が,札幌市立大学の「内容盛りだくさん中国語講座」を支えている基盤だと思っている。

これまでの学生の感想文の中に,もっと学びたいという声が少なからず出ていたので,今年はじめてコンテストへの参加を呼びかけてみたところ,デザイン・看護から各3名,計6名の希望者があった。そこで,発音練習は12回の授業の中でしか受けたことがないのに,それぞれ異なった課題文を選んだ学生達に週1回の特訓をすることになり,毎回「母音と子音」に沿って口の形,舌の位置,息の出し方を確認しながら,まず基本の発音を練習するところから始めた。回を重ねるに連れて学生達が「顔がだるい」と言うようになり,「これは一種の筋肉トレーニングだから,ようやく正しい発音ができるようになってきたのよ」と答えて皆で大笑した。折しも大会が1週間後に迫った10月24,25日の両日,北海道大学で「日本中国語学会第59回全国大会」が開かれ,母校天理大学教授の中川裕三先生が来道した。中川先生は,今夏,中国湖南省で行われた「第8回「漢語橋」世界大学生中国語コンテスト」で「一等賞」になった天理大学4年の岩崎元地君を指導してきたスピーチ指導の達人なので,これ幸いと特訓中の学生の朗読を録音して聞いてもらった。そしてシャドーイングが足りないという指摘を受け,残り1週間は全員ひたすらイヤホーンを耳にはさんで練習に励んだ。その結果,2ヶ月間一番熱心に練習し,私から中川先生にお願いして特別に課題文の模範朗読を吹き込んでもらった学生が,暗誦の部で2位になった。この結果は,常に注意深く状況を判断しながら指導を進めてきた私にとって,今後への大きな励みとなった。また,大学としてもはじめてのことであったようだが,練習場には交通の便の良い都心部にあるサテライトの使用を認めていただいたし,コンテスト入賞の結果は学内の広報に載せてくださるということで,今回のコンテスト出場は,学生達に授業を越えた学修モデルの一つを示したと言えるのではないだろうか。

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“鳳凰男”と“孔雀女”の話

洪潔清(千葉大学)

“孔雀女”絶対不嫁“鳳凰男”(「孔雀女」は絶対「鳳凰男」と結婚しない)

初めてこの言葉を耳にした時,「えっ?“鳳凰男”,“孔雀女”ってどういう意味?」と全く見当がつかなかった。

“鳳凰男”は,中国の諺“鶏窩里飛出金鳳凰”(鳶がタカを生む)から生まれた新しい言葉である。農村に生まれ,向上心と勤勉で大学に入学し,卒業後もよい就職先を見つけ,“白領”(ホワイトカラー)の地位をつかんで,都市に住み着いている男性を指している。一方,“孔雀女”とは,都市に生まれ育った一人娘で,幼い頃から恵まれた環境で大切に育てられた女性を指している。このような“鳳凰男”と“孔雀女”の結婚はここ数年増えつつあるが,双方の家庭条件や生活背景の違いにより,さまざまな衝突が起こっている。

“鳳凰男”の多くは裕福な家庭で育ったのではない。たいへん苦労して今の生活を得たため,精神的にも,肉体的にも非常にタフである。仕事場では真面目で,誠実な好青年として上司や同僚に好感を持たれ,家庭では,優しくて気がきく“模範丈夫”(模範的夫)のイメージがあるので,女性に人気がある。それに対して“孔雀女”は,小さい頃から両親や祖父母に溺愛され,何一つ不自由なく生活してきて,まさに,“飯来張口,衣来伸手”(飯が口元に来れば口を開け,服が体のところにくれば手を伸ばす)のプリンセスである。表向きは傲慢で自己中心的に見える“孔雀女”ではあるが,内面は意外と単純で,男性の能力を頼りにし,家庭を大切にしている人が多い。しかし,生まれ育った環境や生活習慣から生じた価値観は,いろいろな面に影響を及ぼしている。そのため,夫婦間ないしは相手方の両親との間でいざこざが絶えない。

このことについて専門家は次のように指摘している。数年間の都会生活や大学の学歴だけでは,“鳳凰男”の長年にわたる農村での生活習慣や思考方式を簡単に変えることができない。都会では彼らは常に新しいものを受け入れる努力をしなければならない。これはまた彼らが都会へと溶け込んでいく過程でもある。一方“孔雀女”も,夫婦双方が平等である立場から物事を考えなければならない。

去年の夏休みに一時帰国した時,『双面膠』というテレビドラマを見た。嫁姑の問題をモチーフにしたこのドラマは,東北出身の“鳳凰男”と上海生まれの“孔雀女”を主人公にし,地域文化の差異を中心に物語を展開している。大上海に残っている“小市民”意識がリアルに描かれていて,一見の価値があると思う。インターネットで『百度』( http://www.baidu.com )から「双面膠電視劇」と入力すれば,無料で見られる。

蛇足になるが,“鳳凰男”と“孔雀女”のほかに,“普相女”(見た目や顔立ちが非常に普通である女性),“優剰女”(魅力的なのに売れ残っている女性),“便当男”(質素で倹約的な生活を送る男性)と“牛奮男”(将来性がある努力家で魅力的な男性)といった言葉も若い世代で流行っている。また,日本語を語源とする“食草男”と“肉食女”も使われているようだ。

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「第六届歐州漢語語言學學會學術研討會」に参加して

吉川雅之(東京大学)

The 6th Conference of the European Association of Chinese Linguistics(以下,EACL-6)が8月26日から28日までの3日間,ポーランド西部の都市ポズナニにあるアダム・ミツキェヴィチ大学(Adam Mickiewicz University)で開催された。主催は当大学の言語学院(Institute of Linguistics)である。私は“On Chinese pronunciation of the 16th century in the Romanized script written by Francesco Carletti”という題名で口頭発表を行った。日本からの参加者は私一人であったので,ここに紹介を行うことにする。なお,プログラムの詳細は http://www.chineselinguistics.eu/EACL6/ をご覧いただきたい。

EACLは1998年に設立され,1999年に第1回学術会議をパリで開催して以来,2001年に第2回(ローマ),03年に第3回(ヘント),06年に第4回(ブダペスト),07年に第5回(ライプチヒ)と回を重ねてきた。第4回と第5回では,後に査読有りの論文集が刊行されている。今回はスペシャルパネルが布教に関する言語研究(Missionary linguistics in China: 17th-19th centuries)であり,現在台湾で精力的な研究活動を展開しているクローター教授が中心となって企画されたものと推察する。私の口頭発表はイタリアの商人であるカルレッティが『三大陸商業旅行記』(1606年頃の成書)に記した漢字音の基礎方言を考察したもので,漢字音自身は16世紀のものであるが,このスペシャルパネルに入れてもらう光栄に与った。

会議の構成はIACLや国際粤方言研討会と同じで,午前は前半がキーノートスピーチ,後半が分科会,午後は分科会のみであった。異なるのは分科会について口頭発表の時間が30分,質疑応答の時間が10分と長めに用意されていたことである。おかげで発表者は十分な説明が可能となり,聴く側も発表者の意図を理解することができたと思う。質疑応答では私もこれまでに参加した学術会議の中で最も多くの質問を発することができた。私は7月上旬にパリで開催されたIACL-17(國際中國語言學學會第十七届年會)にも参加して,EACL-6とは異なる題目で口頭発表を行ったが,僅か15分という発表時間のために十分に意を尽くさない結果に終わってしまったとともに,意図を理解することが困難な口頭発表も多かったと感じた。それに比べると,口頭発表の数を絞ることで発表・質疑の時間を確保するEACLの方法は,口頭発表の応募数が増加の一途をたどる昨今の学術会議の事情に照らすと,大変有難いものと言わねばならない。日本中国語学会はポスター発表や春の拡大例会を設けることで対処しており,対処方法は相異するものの,望ましい環境を維持するという点では一致している。

分科会は,スペシャルパネルの他に,現代語文法が3つ,方言が2つ,古典語が2つ,意味論が2つ,その他(タイポロジー,音韻など)が各1つであった。バランスが取れていると同時に,欧州の中国語学の幅の広さを感じることができる構成であった。口頭発表の総数は,キーノートスピーチを除くと42であり,欧州の高等学府に籍を置く研究者が多かった。台湾から(クローター教授を除き)13名もの発表者が来ていたことは印象的であったが,スペシャルパネルでの発表者はおらず,布教に関する言語研究が台湾にはまだ根付いていないことを窺わせた。分科会の口頭発表は大多数がパワーポイントを用いた無原稿スピーチで行われ,ハンドアウトを配布した発表者は数名に過ぎなかった。パワーポイントを併用したとはいえ,カメラレディの原稿を用意して配布したのは,分科会ではどうやら私一人だけだったようだ。パワーポイントのみを用いてのスピーチというスタイルが欧米で主流であること,そして高等なスピーチの技法を身につけることが自分にとっての課題であることを知る良い機会となった。

スペシャルパネルの口頭発表には,内容に関して次のような特徴が見られた。(1)マテオ・リッチとミケーレ・ルッジェーリ,ニコラス・トリゴーを開祖とする歴代の辞書や研究書が資料とされている,(2)文献資料の紹介や欧文表記法の比較が中心である,(3)中古音や近世音との対応関係に論及していない,(4)日本の研究成果がほとんど引用されていない。この中で,(1)は欧州の研究者が掲げる「布教に関する言語研究」の範囲が,日本で言う「欧州のシノロジー」や「東西言語文化交流研究」の範囲と必ずしも重ならないことを物語っている。私の口頭発表の考察対象は欧州の文献に現れた漢字として最古の一つであり,また辞書や研究書ではなく旅行記であるため,(1)の中には納まらない。「布教に関する言語研究」の範囲に対して「欧州のシノロジー」と「漢語方言学」の角度から一石を投ずることができればと思い発表を行った。それにもかかわらず,5名もの研究者から意見を頂戴することができた。クローター教授からは初期の版と字形について質問をいただき,シモンズ教授からは記される漢字音の基礎方言と層について指摘をいただいた。

一方で,(3)は言語史の中でとらえる,あるいは言語史に反映させるという意識が現段階ではまだ薄いことを物語っていると言えよう。日本の研究が彼らに対して差異化を打ち出すとすれば,この側面は重要になってくるのではないか。いずれにせよ,上記の4点が2年後にウィーンで開催されるEACL-7においてどのように伸張しているか楽しみである。

最後に,EACL-6の設営に尽力されたアダム・ミツキェヴィチ大学の教職員と学生の方々,特に細かい心配りを見せてくださったコルデック教授に心より感謝申し上げたい。ベルリンから都市間急行オイロシティで往復6時間,確かにそれに見合うだけの参加価値と収穫は有ったのだ。

2009年8月30日,帰途ロンドンにて

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中国鉄道大紀行

竹越美奈子(東邦学園大学)

2年生以上対象の選択科目「総合中国語」の時間に『DVD中国鉄道大紀行』を見た。俳優の関口知宏が2007年,春と秋の2回に分けて,中国大陸の鉄道網を同じ路線を2度通らずに巡る,最長片道ルートの旅をしたときの映像だ。

春の旅ではラサからゴールの西安まで主に南方の17,000kmを10週間かけて回る。このDVDは春の旅だけで全4巻,432分である。「総合中国語」は週2回のカリキュラムだったため,授業は15週で全30回あった。毎回始めに15分ぐらいずつ見ることにした。

4月,キャンパスは新学期を迎えて期待感であふれていた。関口さんの旅もチベット高原の雄大な自然を背景に始まった。5月,数千枚の棚田が広がる雲南の田園風景。新緑が美しい。教室では中国に興味のある学生が意欲的に参加して,快調に授業が進んでいた。6月,関口さんに長旅の疲れが見える。教室も中だるみの時期で,教員・学生ともに疲れ気味だった。7月,ついにゴールの西安に着いた。長かった前期の授業も終わった。旅の途中には美しい風景だけでなく,たくさんの出会いがあった。授業も同じ。今年も中国語を通じていろいろな学生と出会うことができたことは,私にとって貴重な財産である。

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注文の多い料理店――ある体育会系シェフの奮闘

塚本信也(東北学院大学)

前日のオープンキャンパス打ち上げが効いたか,早くに目が覚めた。無論,近くの野球場からの低い声援やら太い野次やらも,十分すぎるぐらい耳に届いていた。時計に目をやれば,何と朝未き五時四十五分。がしかし,深更まで遊んでいたこちらとしては,あちらの早朝からの楽しみにも鷹揚である(それを宿酔とはいう)。こういう場合,“下手の横好き”と腐すわけにはゆくまいから,“好きこそものの上手なれ”と励ますことになるだろうか。ただ,算数で教わった通り,好きだから必ず上手になれるわけではないし,上手が決まって好きだったとも限らない。

一体,大学生であれば勉強好きなのか,或いは勉強好きならば大学生であるのか,そのあたりはよくわからない。けれど,「興味のない必修科目まで履修させるのは理不尽だ」と言い張る学生たちに従えば,否が応でも履修せねばならぬ必修科目より,各人の裁量に任された選択科目の方が,いくらかなりとも好きなのだろうとは思う。さながら味は不問,栄養第一で摂取せねばならぬ料理は敬遠しても,好物には自然と手が伸びる様なものだろう。ピーマンやニンジンは不承不承,でも肉やケーキは熱烈歓迎,と意訳して大過なかろうか。もとより,学生諸君の嗜好とメニューの相性は一筋縄ではゆかない。

わが初級クラスをいくつか紹介しよう。X学科の第二外国語科目は,週三コマ・必修である。当然,学生は辟易しているはずと思いきや,さにあらず,連中は揃いも揃ってピーマンが大好物であった。週一コマ・必修のY学部はα学科とβ学科を抱えるものの,前者は中国語を必修科目から除外する。ところが,わざわざ選択科目から第三外国語として中国語を学び,しかも優秀な成績を収める学生が少なくない。この学科には元来,肥えた舌,丈夫な胃の持ち主が集っているのである。Z学部は週一コマ・選択,語学に最も冷淡という意味で,X学科の対極といってよいだろう。だが,語学を選択科目に配したゆえに,美食家の釣れる可能性がないともいえない。果たして現実や如何に。

結論からいうと,Zの学生にとって選択科目とは,必ずしも好物を意味しなかった。聞けば,そこでは消去法が幅を利かせており,あれも嫌,これもダメの挙げ句に残ったのが中国語,いわばデモシカ履修者が一定数いるらしい。なるほど,美食家というより偏食,或いは単に悪食と呪うべきかもしれないのだが,そこはそれ,むしろ×曜日△校時のメニュー八品目の中から,よくぞ中国語を,選りに選って私を,と理解すべき筋ではないのか。嗚呼,残り物に福あれかし,釣った魚にこそ餌はやるべけれ。かくて,妙なヒロイズムに酔った私は,仇を恩で返すべく熱血コーチに化けることになる。

御承知の通り,選択科目は中途で放棄されやすいし,それを恨んでも始まらない。そう,恨んでも始まらないのだが,実のところ,未だ恨みを呑む如き深刻な事態には至っていない。意外や意外,脱落者はほとんど出ず(皆無とはいわない),彼らは嬉々として学習に勤しんでいるのである。

その理由を考えるに,やはり中国語特有の教学法が大きいのではないか。要するに,例の発音練習である。どなたも首肯して下さるだろうが,あれはクラスの連帯感一体感を強く育んでくれる。その教育的効果たるや,我々が想像するより以上に,また発音の習得という第一義より以上に,おそらくは大きい。

例えば受験勉強,その典型としての英語学習は,何となく座学的個人的な印象が強い。誤解を恐れずいえば,その内向的求心的なベクトルは,どことなく文化部系の活動を彷彿させもする。片や,方法としては素読にも似た中国語学習は,むしろ体育会系のそれに通じるところがありはしまいか。少なくとも発音練習が実技に近いことは間違いない。文化部と熱血教師は水と油かもしれないが,体育会に熱血コーチは付きもの,見る前に飛べ,悩む前に発声せよ,だ。抑も,私が過剰に熱血コーチを演じている時,彼らが熱血部員に興じていないとも限らない。ティーチング対コーチングといおうか,頭脳対身体といおうか,いずれも後者のエッセンスが受験生だった彼らに新鮮に映っているフシはある。隣人もライバルではなく,今やチームメイトなのである。

気がついたら好きになっていた,そういうものだろう。上手になれるか否かは,それとは取り敢えず関係がない様に思う。あまり功利的打算的に考えすぎると,気がついたら嫌いになっていかねない。いい大人が朝も早くから心浮き立つ様に,学生諸君にワクワクしてもらえないものか。苦悩を振り払うべく,熱血コーチは今日もまた四声を絶叫するのである。

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「宝貝」のような電話のはなし

中田妙葉(東洋大学)

中国語に興味を持った学生が投げかけてくる質問は,今まで何気なく使っていた言葉を,改めて見つめ直させてくれることがある。これは,ある量詞についての質問を受け,その量詞のイメージをつかませようと,語彙の背景の説明を考えていた時に,ふっと思い出した,電話の話である。

辞書によると,電話の量詞は「個,門,部」とあるが,ラジオやテレビとどう違うのか,という質問を受けた。「個」はともかくとして,「部」や「門」はどういうことであろう。「部」で数えるものは「書籍,映画,車両,機械」と,「門」は「学科・技術,大砲,親戚」と,辞書は説明している。(他の辞書には「台,架」とあるが,彼女のもっていた辞書にはそう記されてはなかった。)

「部」,「門」から連想されるのは,機関や軍隊,一族・家庭や学術・宗教の組織など,どちらも組織単位ということである。そこから考えられるのは,生活における電話という存在の位置・意味合いであろう。中国で電話が個人の持ちものとなったのは,ここ数年としても,一家に一台が当たり前となったのですら十数年前のことに過ぎない。各家庭に電話がついて便利になったと思っていたのも束の間,あっという間に携帯が普及したのである。その前はというと,数軒または十数軒の家庭で1台の電話を共有していた。電話番をしている人が,家まで呼びに行ってくれる。しかし,寮と違って常に誰かが側にいるわけではない。毎日決まった仕事場に行く人は,「家に電話はないし,呼び出しも不便だから」と,仕事場の電話番号を教えてくれることが多かった。

90年代前半の北京では,電話があるという家庭は特別であったが,一般人にはまだ贅沢品だという程の認識であった。ところが,電話とはどれほど貴重な価値をもつものなのかと,目を疑うほどに驚いたことがあった。

97年の夏,四川省の大足に向かっていた道中の話である。重慶の長距離バスターミナルで,バス会社の都合により,個人営業の小型バスに乗せられる羽目になった。バスは,座席を人でいっぱいにするまで待ちに待ち,2時間余り経った後,やっと走り出した。ボロボロのバスは,高速道路に乗ると,解体するのではないかと思うほどに,ガタガタと賑やかな音をたて,耳が痛くなった。早いとはとても思えない。私は大足のホテルが,遅くなったからと,キャンセルしてしまうのではと,心配になってきた。万が一の時は,泣いて,ホテルの人達の情に訴えるしかないか?!と,次の手段の構想をあれこれと練っていた矢先である…,突然,「パーーーーーン!!!」と耳をつんざくような破裂音がした。車体はお尻を大きく振りながら道の脇に寄り,トロトロと休憩所に入った。今日中に着くのだろうかと,心は更に重くなる。バスを降りると,敷地の奥に建物が見えた。「もしかして」と期待を抱きつつ近づいていくと,ガソリンスタンドだった。ドアは開いている。良かった,まだ人はいるようだ。

中には3人ほど従業員がいた。「何の用?」ときかれたので。「あの…電話を使いたいんですが…」というと,1人が「ないよ。」という。「大足行きの車が故障して,遅くなることをホテルに言っておかないといけないんです。お金は払いますから。」というと「高いよ!」といわれた。「かまいません,いくらですか?」とおそるおそる聞くと,「1.5元」とのこと。内心,「やすっ!」とホッとしながら承諾すると,お姉さんの1人が鍵を手にし,ついてこいという身振りをする。

後について,奥の部屋に入っていった。彼女は電気をつけると,ガランとした部屋に,ポツンと置いてある机へ向かい,机の引き出しに取りつけてある,南京錠を開けた。そして,引き出しの奥からジュラルミン風の小箱を取り出すと,机の上に置いた。なんと,箱にも南京錠が付けられている?!その蓋を開けると,中から電話を取り出した。そういえばこの部屋に入る時も鍵を開けた。とすると,この電話は3重に守られているということか?!もしかして,この部屋は電話を設置するための部屋なのだろうか??と,目の前の光景に困惑しながら,夢うつつ気分でいると,彼女が振り返り,「電話したら」といってくれた。

大足のホテルにはすぐに繋がり,電話の向こうからは,「わかったわ,大丈夫。フロントに人がいなかったら呼んでね。」と明るく気さくな声が聞こえてきた。まったく大丈夫とは思えなかったが,それでも少しは気が楽になった。

その後は順調に大足に着いた。勿論,大足石窟が目的の旅行だった。しかしながら,この旅で強く印象に残っているのは,3重に守られた電話だった。何でそこまでする必要があったのだろう?この話をすると学生は,電話がかかってきたら取れないじゃないですか,といった。確かにそうなのだが,あの光景は外部など関係ない。あくまでも内部に対して,電話を大切に保管している,という姿勢にしか取れない。仕事場の電話は便利だから,頻繁に連絡用として使う人がいるのだろうか?それとも,とてもとても貴重品だから,滅多なことには使わなかったのだろうか?

そんなことをつらつら考えると,電話というものは,個々の「機械」として認識される前に,職場や住居という「組織が所有するもの」として認識されてきたのであろう,という思いを強くするのであった。

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既習者クラスのこと

安藤好恵(大東文化大学)

大東文化大学で2度目の既習者クラスを担当することになった。大東の既習者クラスは,中級レベル以上の中国語力を持つ学生を対象とし,高校や留学で中国語を学んだ日本人の学生と,幼少期を中国で過ごしたり,中国人の家庭で育った中国ネイティブの学生で構成される。毎年20名弱のクラスで日本人学生は約2割,大半はネイティブの学生である。

実際にネイティブの学生に接するまで,私は漠然とネイティブだからできるはずだ,と思っていたし,中国語のレベルは中国に居た期間に比例して高くなると思っていたが,実際はそうではなかった。

同じ期間を中国で過ごしていても,日本語能力試験1級と中検準1級を取得している学生もいれば,日本語は会話レベルの文しか書けず,中国語は簡単な漢字やピンインも書けない学生もいる。しかし話す,聞く能力は私より高い。こうした学生達にまじって日本人の学生がいる。誰を基準にして,何をどう教えていけばいいのか,試行錯誤の連続だった。中検3〜2級,HSK中級レベルを目安にリスニングと文法の問題を用意し,学生の反応を見ながら毎回小テストを行い,課題を提出させ,「易しすぎる」だの「難しすぎる」だの文句を言われながら毎回の授業を何とかこなしていった。

お互いに疲れとストレスがピークに達した頃に,ちょうど学期末になる。1年の前期にクラス内でちょっとした揉め事があり,その仲裁のためクラス全員で食事をしてから,試験が終わるとクラスで食事会をするのが慣例になった。授業は出たり出なかったりだが,こういうセッティングをするのが得意な学生がいて,適当な店を見つけてきてくれる。2年の後期には中国からの客員の先生もお招きして,上野の中華料理店で食事をした。この客員の先生とセッティングしてくれた学生は1年のときに衝突し,私は学生を連れて先生のところへお詫びに行ったことがある。そこで「あの時あんなこともあったけれど,今はどう?」ときいてみると「今はちょー好き」と言うので,私はほっとする反面当時の緊張を思い出してがっくりしたのだが,2年後学生にこう言わせしめる中国の先生の指導力に改めて敬服した。

2年間既習者クラスを担当し,最後まで悩みの種だったのが教材選びだ。昨年までのやり方だと,1冊のテキストを通して学習するのと違い,明確な到達目標が見えず達成感も薄い。学習事項に対する試験を行うと相応の点数を取るのだが,各人の総合力をどれだけ伸ばせたかは疑問である。特に日本人の学生については,高校の先生が蓄積された遺産を食い潰しているだけのような気がして,申し訳なく思っていた。

今年は学力を目に見える形で示したら少しわかりやすいのではと思い,既習者クラス選考試験の得点結果を項目別にグラフで表し,一人一人に渡した。高校で中国語を学んできた学生は,どの項目もほぼ均一に得点しているが,ネイティブの学生は単語が弱く,中検2級を取得していても,4級レベルの単語が全くできなかったりする。ピンインを漢字に直す問題も苦手だ。クラス全体の得点表を見ながら教材を用意する。単語は初級レベルからだ。できる学生には「待った」をかけている状態になるが,クラスの成績度数分布図を作り,「この部分の学習が必要な学生がこれだけいるので今この教材を使う」ということを理解してもらう。こうしたやり方がどれだけ有効かはわからない。今年のクラスには今年の問題があって,やがてそれが噴出するだろう。とりあえず,前期の終わりには3年になった既習者クラスの学生達と合同で食事をする約束をしており,それを楽しみにしている。

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新潟県立大学の開学にあたって

後藤岩奈(新潟県立大学)

2009年4月,「新潟県立大学」が開学した。これは1963年創立の「県立新潟女子短期大学」を4年制,共学に改組したものである。中国語に関して言えば,同短大に1993年に設置された国際教養学科中国語コースから,県立大学国際地域学部国際地域学科東アジアコースでの履修に変わる。新しい大学の開学にあたり,筆者が在職した短大時代12年間の「中国」「中国語」をふりかえってみることにする。

4月。新潟の4月は寒い。中国語の授業では発音練習が始まる。初めのうちは口を大きめに動かすので,母音eや二重母音,三重母音は結構顎が疲れる。ga ka haの,舌の付け根から出す音は,空気が冷たい季節には,結構喉が嗄れる。

ゴールデンウイーク。大学周辺の田んぼでは田植えが始まる。

2年次の夏休みに,中国現地での語学実践活動である「実地研修」をおこなっている。期間は約2週間,場所は新潟県と友好提携を結ぶ黒龍江省ハルピン及び北京で,毎年20〜30名が参加する。学生の中には,中国の環境汚染,大気汚染の報道,情報を耳にして,研修参加に不安を抱く者もいる。1970年代,日本の東京も排出ガス,光化学スモッグなどの公害が問題になったが,当時東京におられた先生方は,今も元気に授業をされていることを学生に伝える。

中国。異国。これまでの自分と違う価値観,生活習慣,生活環境を突きつけられると,初めのうちはどうしても拒絶したくなることもあろうが,そういう経験をしたり,その時考えたことは,後になっていろいろと役に立つことがあるということを学生に体験して欲しいと思う。

実地研修が終わり,大学周辺の田んぼは一面黄金色の稲穂となる。

生まじめで,一生懸命自分の考えを作文する学生の中国語文ほど日本語直訳となり,要領よく教科書の表現をつないだ学生の作文がむしろ自然な中国語に近くなるというこの皮肉。教員の文法説明に忠実に中国語を組み立てようとする学生には,数学が好きな学生がけっこう多い。

中国で感染症SARS(サーズ)が流行した2003年,実地研修は年末の冬休みに。ハルピン名物氷祭を初めて見た。クリスマスの日,北京の街では「ジングルベル」が流れ,中国側スタッフがケーキを買ってくれた。90年代初めの中国(天津)では,クリスマスには何もなかったが,市場経済は宗教をも凌駕する?

2004年10月23日,短大は学友祭で,体育館でお笑い芸人のライブが終わる数分前に激しい横揺れ。学生部長の即断でライブは中止に。翌日の催し物も中止となった。中越地震である。めったに地震がなく,また言葉が分からない中国人の先生も,大変怖い思いをされたようである。県内でも災害時の外国人支援体制の整備が議論される。

「先生,“小姐”って,フーゾクっぽい意味あるんですか?」。2005年夏の実地研修,ハルピンの繁華街中央大街で,ある学生に質問された。中国人男性からそのようなニュアンスで声をかけられたらしい。90年代の初め,天津の大学に留学していた時,日本語専攻の二人の女性の大学院生と“小姐”という語について話したことがある。少し前まではあまり使われていなかったこの単語に,一人は「とても新鮮な感じがします」とのこと。もう一人に言わせると,「何か,軽く扱われているように感じます」とのこと。「ネエちゃん」といった感じであろうか。ちなみに中央大街で声をかけられた学生は,日本では水商売のアルバイトをしていた。

新潟には中国残留孤児の帰国者とその家族が多い。1930〜40年代,新潟は,旧満州への移民の数が長野,山形,宮城に次いで全国4位であった。2001年から08年までに,計7人の中国生まれの学生が入学した。単語を並べる言葉である中国語を母語とする学生の話す日本語は,膠である「が,の,を,に」の使い方が弱い。

「中国語を生かせる職業につきたいです」と挨拶する新入生。しかし新潟で中国語を生かせる職業は……。コシヒカリ,日本酒,農作物,三条市の金属,大陸に向いた空と海の港,温泉(?)…開拓の必要あり。

2006〜07年,突然学校に出て来なくなる学生が多かった。学生の中には「こころの病」も多い。精神的理由で食事が取れなくなるIさんは,実地研修の北京市内見学中に病院へ。帰国後も体調がすぐれず,卒業を一年見送ることになった。どうしてももう一度中国に行きたい,中国語で現地の人と交流したい,というIさんは,翌年再度研修に参加することに。2008年の実地研修はオリンピックの北京を避けて大連,瀋陽へ。李香蘭(山口淑子)ゆかりの遼寧賓館(旧ヤマトホテル)は見損ねたが,Iさんは研修を貫徹した。そして卒業論文で李香蘭をテーマに選び何とか卒業した。「こころの病」に対して「言葉」が何ができるか,考えてゆきたい。

大学の東側を流れ,日本海に注ぐ阿賀野川。新潟水俣病の発生でも知られる。大学周辺にも患者さんがいる。吉林省をはじめ中国各地でも同様の病気が発生しており,新潟の患者さんと中国側関係者の交流も始まっているという。環境や医療に「言葉」が何ができるか,考えてゆきたい。

2009年,新潟県立大学が開学し,2年制の短大から4年制へと移行した。今後どのような展開となるのか,教員にとっても,未知の「課程」である。

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ヨンさまと「奥特曼」

下地早智子(神戸市外国語大学)

男の子を生まなかったら決して見ることはなかっただろう番組を毎週楽しく視聴している。ちょっとお恥ずかしいが,それは仮面ライダーシリーズ。同じ年頃の男の子を持つ同僚に聞いたら,結構みんなファンで盛り上がる。その同僚の一人に薦められて,子供と一緒にウルトラマンシリーズを見始めた。同僚曰く,仮面ライダーより明るく,伝えるメッセージが健全ということだ。(ジェンダー論的にはどうかと思いますが。)ウルトラマンは仮面ライダーと比べると,展開が単純でドラマとしては少々物足りない。しかし,息子への吸引力には驚かされた。あっという間に仮面ライダーカブトとゴーオンジャーを凌ぎ,ウルトラマンメビウスが我が息子のヒーローとなった。

この2月は,CCTVの「血色迷霧」にはまって,時間が許す限りチャンネルを合わせていた。主演の柳雲龍がクールでハンサム,とても素敵だし,謎解きにも工夫が凝らされておりスリル満点だった。ただ,日中戦争前夜の中国はかなり丁寧に作りこまれているのに,敵役の日本人のリアリティのなさがあまりにもひどくて閉口した。やたら狡猾で抜け目がなく,悪趣味なほどに残酷である。大雑把ですけど,中国人に比べて日本人の大人は,無邪気でワキが甘いのが大きな特徴なような気がしている。(政治家だけか?) まあ,酔っ払い大臣を見て,中国人の日本人観も大いに真相に近づいたに違いない。ドラマでは,殺した後に肝をえぐるという猟奇的な連続犯行の真相は,なんと犯人が日本人陰謀集団だったから,という結末で,呆気にとられた。一時期ハリウッド映画の敵役が,中東系移民風であったのと同レベル,大衆「受け狙い」の一環なのでしょうか。

さて,最近北京に出張するたびに,中国人の同僚のお宅に泊めていただいている。彼女のご子息は高校一年生,やんちゃ盛りで人懐っこい少年だ。彼,通称デビッド君の部屋の本棚には,一番目に付く中段に,「名探偵コナン」(名偵探柯南)と「ドラゴンボール」(龍珠)の全巻がずらりと並べられている。私が日本人なので,彼なりのリップサービスだったのかもしれないが,幼いころはウルトラマン(奥特曼)が彼のヒーローだったとか。

お互い様ということもあるのだろうけど,一般の中国人民の日本人観が,ひと昔前のアメリカ人のアラブ人観と同じくらい誤解と偏見に満ちているとすれば,隣人として本当に寂しく残念なことだ。ヨンさまとWBCが,日本人の韓国人に対する友情と尊敬を一気に高めたことは記憶に新しい。ゆっくりで構わないから,ウルトラマン(奥特曼)世代が大人になったとき,先入観なしに素顔の相手を見る目が培われていて欲しい。頼むよ,中国のデビッド君,そして我が息子達よ。

(付記:「仮面ライダー」は中国語では「蒙面超人」というそうです。)

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五感の語感

藤田益子(新潟大学)

以前,大学で留学生のための授業を開設する必要があり,それならば,良い交流の場にもなるだろうと,中国語を学習している日本人学生と中国語が出来る留学生を対象に合同で,日中,中日の翻訳の授業をしたことがある。日本語の授業を担当させられていた時分,中国人の書いた作文を添削していて,気づいたいくつかの特徴のうち,特に不得意だと感じた文章表現の一つに,擬態語,擬声語の描写があった。

そこで,こういう類の語が沢山出てくる文章を教材に取り入れるべく,散々探した結果,最後に行き着いたのは漫画本であった。漫画は,臨場感や緊迫感を与えるために,噴出しの台詞以外にも,多くの「ハッ!」,「ドキ!」など,擬声語とも擬態語ともつかないようなものも含めて,音や感覚を表す語が多く使用されている。それも,小説等とは違ってかなり実生活に近い口語で話が展開されて行くので,日本語の実際の会話表現を学ぶには非常に有効な教材であった。近年では,日本の漫画が中国でも多く出版されているので,中国語から日本語への翻訳には,敢えて中国語版の漫画を用いて,中国語の象声詞が,日本語ではどういう表現になるのかということを学習してもらった。日本人の学生にとっても,日頃の教材ではあまり触れることのない中国語の音の表現を学ぶことには,新鮮な印象があったらしい。

逆に,日本語から中国語への翻訳教材では,群ようこの『ビーの話』という短編小説を選んだ。飼い猫ビーとの生活を通して,猫の行動や感情の起伏を描き出しているので,内容のほとんどが猫の描写に費やされている。そのため,驚くほど擬声語や擬態語が多く使われていることが,選択の決め手になった。この教材を中国語に訳している時に,一番説明に苦労したのが,ビーは,得物を狙うように歩を進めるシーンで「つーっと近づいていった。」という表現である。中国人には,「つー」という日本語が理解し難いらしい。具体的に動きを真似てみせて,状態を説明すると,それでは,「すー」とはどう違うのかと言う。不意をつかれて,「『つー』と近づくほうが,『能』の動きのように体の全体の動きがない滑らかに動くような印象がある。」と,言っては見たものの,確かに「すー」と近づく時もあまり体が動いているような印象はない。また,「すーっと」の方が,動きがスムースで素早いようにも感じられるが,だからと言って,この場合の「つーっと」がもたついている感じもない。中国語のように動作の状況説明によって表現しなければならない場合は,「つーっ」と進んでも,「すーっ」と進んでも動き自体には,大差が無いように思われる。「つー」は「つっと」,「すー」は「すっと」という副詞からの派生表現であるが,『広辞苑』などのこれらの副詞の解説を駆使しても,留学生達のムズムズするような欲求不満を到底解決するものではなかった。

実に,日本語の擬声語,擬態語は難しい。その上,この手の語を並べることで,意思疎通が可能となる不思議な力を持っている。ある雪の残る日,講義に遅刻して来た日本人の学生が,教室に入ってくるなり釈明を始めた。「正門のところで自転車でツルッとなっちゃって,フラッとしてる時に,車がバッと来たので,本当にガッと行きそうになって,ワーッとよけたらザーッって感じで,もう死ぬかと思いましたよ。」と慌てた感じでまくし立てた。学生たちは,口々に「危なーい」とか「あそこヤバイよなー」などと騒いでいる。教室にいた全員がまるで一緒に映画のワンシーンでも見るように同じ状況を脳裏に浮かべていたのではないかと思う。内心,私は,「なんだ?今の日本語は!」と眉を顰めつつ,一方では「日本語って凄い!?」と驚嘆してしまい,必死に頭の中でフィルムを巻き戻し,今の文章を頭に仕舞い込んだ。何が凄いって,状況説明の大半が,擬態語や擬声語で出来ているではないか。日本語はこうした表現が恐ろしく発達しており,事態や状況説明まで可能にする不思議な言葉である。「ツルッ,フラッ,バッ,ガッ,ワーッ,ザーッ」と並べるだけでも,妙なリアリティを持った状況が目に浮かんでくる。これを中国語に言い換えたら,全ての事件の起こった発生状況と動きをきちんと解説しなければならない筈だ。そのためには,まず,この「音」いや,「語」が,どういう事態に,どういう内容を表現しようとしているものなのか,きちんと理解している必要がある。例えば,この場合「フラッ」としたのは,「自転車のバランスを崩した」事を言うのであって,「目眩を起こした」のでも,「誘惑に負けて心を奪われた」わけでもない。確かに根底には均衡を失うという語義の共通点はあるが,コンテクストによって,瞬時にどんな事態の表現なのかを捉えなければならない。

中国語は,漢字が表音文字ではないので,こうした音をストレートに表す表現方法を活用することには,余り向いていないのかもしれない。反対に日本語では,聴覚に拠って表現する擬声語の他に,様々な感覚に拠って状態を音声化する擬態語を用いた表現が非常に発達しており,こうした音が象徴する意味で,事態や状況まで説明することが可能である。ただし,重要なのはそこに共通認識があって初めて意思の疎通が可能となることである。

小学館の『日中辞典』第1版には,「中国語には擬声語は比較的多く認められるが,擬態語は日本語ほど豊ではない」として,沢山の擬声語による音の用例が載っている。なるほど,この音は中国語ではこういう音になるのかと,見ているだけでも面白い。ただ,実際に学生の翻訳を見ていると,その音の表現は,実際に日本語ではどういうシチュエーションで用いられるのかという判断が難しいようだ。その辺りが,辞書の解釈だけでは限界があるところのようである。書物を通して語法や語彙を学んでも,なかなか感覚として捉えることのできない,音という感覚に訴える語,まさに語感が物を言う世界の話である。

現在は,この講義は開設されていないが,私がこれまで行ってきたものの中で,飛び抜けて留学生の評判が良く,根強い再開の要望があったのは,この講義であった。

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国際粤語学会に参加して

飯田真紀(北海道大学)

去年の暮れ,香港城市大学で開催された第13回国際粤方言学会に参加して来た。この学会は一般に広東語として知られる広州方言ほか粤方言について専ら討議する学会で,1987年に第1回が開催されて以降,昨年末で13回目というのは,中国語学の個別分野の学会としては開催数がかなり多いほうである。

参加者は広東省や香港の研究者が多いが,日本からもいつも数名の研究者が参加している。私自身はこれが5回目の参加である。必ずしもレベルが高い研究発表ばかりではないが,広東語の文法を専門にする私にとっては,国内ではあまり得られない意見や情報交換ができる貴重な機会である。

大会は広州,香港,澳門の教育機関や言語学会が回り持ちで主催する。主催機関が香港の回は大会の運営が一番しっかりしていて,きちんと論文集も出される。

その一方,澳門が主催する回はだいたい運営がおおざっぱである。第6回目(1997年)の澳門で開催された粤方言学会は私にとって初めて参加した海外の学会であったが,なかなか印象深かった。このときは台風の影響で澳門に渡れず欠席した研究者が多かったこともあり参加者はあまり多くなかったのだが,会場はホテルの宴会場のようなフロアを借り切ったもので,その中でテーブルごとに分かれて分科会が行われた。上下のフロアは改装工事でやかましく,ついたてで仕切られたすぐ横で一般客がマージャンをしていた。

その後開催された大会は主催機関によって参加するかどうか決めていたが,香港で開催された回は全て参加している。最近は広州,澳門が主催の時は,従来の開催場所では新鮮味がなくなってきたせいか,広東省の中山や広西チワン族自治区の南寧といった地方都市で開催される。年末休み少し前の学期中の時期で,しかも北海道在住の私としては非常に行きづらくなった。

この学会では,各発表が何語(何方言)でなされるかという点も興味深いポイントの一つである。広東語が話せても大陸の研究者は普通話,香港の研究者は広東語か英語が多いが最近は(上手ではない人も多いが)普通話を使う割合が増えてきた。ハンドアウトは英語で準備しながらも,当日聴衆の言語環境や雰囲気を見て口頭発表は広東語にスイッチというのも数名あった。

発表内容は多様化してきているが,歴史的研究がここ数年増えているような印象だ。標準広東語以外の粤方言の文法に関する報告も興味深い。印象に残ったのは2006年に大会が開催された南寧で話される粤語に関するものである。比較構文の例文として“點芥菜捱霜打過甜過過點盟捱霜打過。”というのがあったが,「霜に打たれたカラシナは霜に打たれていないカラシナより甘い」という意味だそうだ。添えられた普通話訳から判断するに,“點”は「ちょっと」の量を表す量詞,“捱”は受身を表す前置詞,“盟”は否定副詞だろう。標準広東語でも名詞の前に量詞を置いて特定性を表したり,比較を[形容詞+“過”+比較対象(Y)]「Yより〜だ」で表したりする。しかし,連体修飾節が被修飾語の後ろに置かれる点はおよそ中国語らしくない語順で,普通話の訳文がなければさすがに意味が取れない。ちなみにここの方言は動詞+結果補語も目的語がある場合は動詞+目的語+結果補語(大まかな例で示すと“打花瓶爛”「花瓶を打ち壊す」)のような語順を取るということで,チワン語との言語接触の影響を示唆する調査報告が今年の別の学会でなされている。

なお,次回の国際粤語学会は今年年末に桂林で,周辺方言に関する学術会議と併せて開催されるとのことである。

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父 望月八十吉の想い出

望月圭子(東京外国語大学)

父の洗礼名は,ヨハネという。聖書の「ヨハネによる福音書」は,「初めに言があった」から始まるからである。晩年,父は「自分の人生は,言語研究に捧げた」というのが口癖だった。80歳を機に母校のそばに家を建てた際,自宅をLingua House(言語の家)と名づけ,一階を英会話・中国語教室にして,83歳まで地域の人びとに中国語を教えていた。そして不思議なことに,Lingua Houseの創立五周年の日の早朝,召天していった。

父の書斎から,NHKテレビ中国語講座の台本が二冊出てきた。大阪から東京に移る際,蔵書や資料の4分の3は古い家とともに消えていったが,この二冊だけは,思い出深かったものなのだろう,東京まで持ってきていたのである。そのうちの一冊の表紙には,「1970年1月9日(金)放送,1969年12月22日(月)収録,『包餃子』」と,新年を祝う内容の番組タイトルがガリ版で印刷され,下に「〜NHK京都〜」と記されている。NHKテレビ中国語講座は,1969年度より始まり,大阪外国語大学相浦杲教授と父が初代講師を務めた。なぜ東京ではなく,京都という地方局で中国語講座を製作していたのかについて,父の弁によれば,当時は日中国交正常化以前だったので,NHK東京で中国語講座を製作することがはばかられ,それで京都で製作したのだ,ということであった。

台本二冊とともに綴じられているのは,1970年12月23日(水)の朝日新聞夕刊である。「NHKの中国語講座,『白毛女』が“草原の歌”とは」「地名も架空に書き換え」「現代中国学会『不当な規制』と重視」という見出しの記事がある。1970年10・11月の中国語講座テキストに,「八大人胡同」「南小街」「東安市場」といった実在の地名や,「白毛女」というバレエ・京劇の作品名を講師が使ったところ,NHKから架空の名前に置き換えるよう要求があったということを報じている。中華人民共和国と正式な国交を未だ持たなかった38年前の今日の朝日新聞に,NHK教育局次長の言葉として以下のような談話が掲載されている。「複雑な国際情勢があり,番組を視聴する人もさまざな思想を持っている。純粋な語学番組が無用なトラブルに巻込まれたり,一方から誤解を招くことのないよう一部の地名を替えていただいた。実在でも架空でも学習効果には影響ないのではないか。」

この架空の地名への書き換え問題に反発して,二人の初代講師は,いずれも出演拒否をしたらしい。当時私は小学生だったが,母から,「東京からNHKの一番偉い人がいらっしゃっているから,お茶を持っていきなさい」と言われて,来客にお茶を持っていった時のことを鮮明に記憶している。そのゆったりとしたおじ様が,栗まんじゅうのたくさん入った菓子折りを「お嬢ちゃん,どうぞ」と手渡してくださり,大喜びしていた光景が浮かんでくる。今でも,栗まんじゅうを見かけるたびに,日中国交正常化直前の,この出来事を思い出す。

父の書斎でふと手にとった父の古い論文に,「私の最終的な研究目標は,中国語の動詞の研究である」と前書きに書いてあるのを発見した。中国語音韻学のH先生は,父について「衒いのない人でした」と,言語学のK先生は,「やりたいことをやり尽くされて旅立っていかれた」という追悼のお言葉を私に送ってくださった。情熱的に言語研究に没頭した父にひきかえ,私は,到底学究肌とはいえない。けれども,自分自身の残り時間ももはやあまり多くはないと思うと,せめて残り時間を中国語の動詞研究に捧げることができたら,と思う。

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第58回全国大会を終えて

岡本俊裕(京都外国語大学)

第58回全国大会が終わって,約1ヶ月になる。バタバタと準備に追われた中での開催だったが,参加者は400名を越えて,学会会員全体でいうと,約3人に1人が会場である京都外大に足を運んだことになる。盛会といってもよい,多数の会員の参加を得ることができて,正直に言って,単純に“涙が出るほど嬉しい”。今回大会の開催に直接・間接にご協力いただいた学会正副会長・事務局・理事会・評議会・前回担当校等の各位に,担当校メンバーの一員として衷心より謝意を表したい。有難うございました。

大会1日目の2つの講演とシンポジュームには,多くの観客を得ることができた。広い講堂の席の多くが常に占められ,質疑応答も活発に交わされて,大いに盛り上がったものになった。また,2日目の研究発表分科会では,80本を越える発表があり,活発な意見の交換が行われた。今回大会の特徴かどうかは分からないが,研究発表の内,海外会員からのエントリーが10本を越えた。もはや本学会が,単に国内だけの範疇のものではない,という印象を強くした。

担当校としては,当然ながら,全ての場面に注意を払ったが,その中でもとりわけ力を注いだのが,分科会の時間と場所のアレンジである。同一分野のテーマが重ならないように分科会を分けてプログラムを組み,会場間の移動の便を考えて,エレベーターを中心に場所を配置するなど,工夫した点は多い。これは,過去の大会の例を横目で見ながら,今回大会の独自色を,表立って見えない所に配した例だが,もう一方の,前面に押し出した“個性”に関しては,参会された会員のご判断の通り………。

……このように,大会を終えると,色んな考えが頭の中にいっぺんに湧き上がってきて,うまくまとまらない。だからというわけではないが,ここで少し脈絡を離れて,担当校の一員としての心情を語ることを許していただきたい。

58回大会の時,不惑もだいぶ過ぎ,知命の直前のこの頃,過去と折り合いをつけることの大切さを,なんとなく感じるようになってきた。人間は思い出に寄りかかってしか生きていけない,などとうそぶく自分に,お前も大人になったな,と声を掛けるようなゆとりが,育ち始めたのである。

自分の内面の変化の一方で,日常は煩雑さで沸き立っている。理想とは程遠いところで,自分の考えとは全く離れた形で決定された他人の意思に振り回される日常が,当たり前のものとして,私たちの上に覆いかぶさってくる。

昔は,こんな毎日が,この年齢の日々に満ちているとは,想像もしなかった。いつ終わるか分からない雑用の連続の中に埋没しそうな向上心,中国語だけを考えることが許されない毎日への焦り,そして物事をちょっとだけ達成したあとの安堵感,プラス・マイナスの感情が入り混じって,私たちの心の今は,塗り固められていく。

今が昔になるように,今回大会も過去のものになり,思い出となる。何年か後には,「あの京都外大での大会の時には…」という形で会員の口に上るようになるだろう。だが,これこそが私たち担当校メンバーがいちばん望んでいることなのかもしれない。自分たちの仕事が,他者の中で思い出に姿を変えていくのを見るのは,心地よいものである。

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中国語はどんなことばなのか?

町田茂(山梨大学)

中国語はどんな特徴を持つのか,という古くて新しい問いについて,これまで色々な意見に接してきた。ところが,「それらを総合すると〜となる」という総括は非常に難しい。「中国語は〜」という説明の中に,いくつもの相異なる見解が見られるからだ。

  • (1)a 中国語は特殊な言語である。
  • - b 中国語にも世界の他の言語と共通する現象が多数存在する。
  • (2)a 中国語は漢字を使うので,漢字一つ一つの意味が非常に大切だ。
  • - b 中国語は漢字を使うが,二つ以上続くと一つ一つの漢字の意味の和にならないので,漢字一つ一つの意味にとらわれてはならない。
  • (3)a 中国語は漢字一つ一つを単位とした単音節語である。
  • - b 現代中国語は二音節語が圧倒的に多い。
  • (4)a 中国語で難しいのは発音で,それに比べ文法は学びやすい。
  • - b 中国語学習者はしばしば「文法上正しくても習慣上中国人は使わない」という表現を使ってしまう。
  • - c中国語の文法は決して易しくない。
  • (5)a 中国語には明確な語形変化が存在しないため,語順が重要で,語順によって表す意味が異なる。
  • - b 中国語では後ろに置くべき成分を前に出すなどの語順変化が頻繁に起こる。
  • (6)a 中国語の語順は描こうとする事態が発生した時間の順を基本とする。
  • - b 中国語ではしばしば強調のために語順を変化させる。
  • - c 中国語の基本語順は英語と同じでSVOである。
  • (7)a 中国語の各単語には品詞の区別が有り,品詞によって文法的性質が異なる。
  • - b 中国語の単語は文脈によって品詞の転化,特に名詞化・動詞化が頻繁に発生し,それらは必ずしも辞書には記されていない。
  • (8) a中国語には構文上の規則が多数存在する。
  • - b 中国語の文法は突き詰めれば一つ一つの単語の用法である。

これらの見解にはそれぞれ背景となる事実があり,必ずしもどれが正しくどれが誤りだと断ずることはできない。また,このような相異なる見解が共存することを事実として受け入れ,そもそも中国語はそういう多面性を持った言語なのだと理解していくことも必要なのかもしれない。特に,こうした諸説の有効性を一つ一つ検証していくことが中国語学を志す人間のとるべき態度なのだ,と言われれば,ひれ伏すしかない。ただ一方で,こうした「総論」における立場の差異が,中国語学習や教育の現場で様々な行き違いを生んでいることも確かであろう。

中国語をどのような特徴を持った言語だと捉えるかは,時として,中国語の語学力とはどういうものなのか,中国語学習をどのように組み立てていくのか,といった現実問題と関連してくる。「こういう項目は日本語を母語とする人には解りやすい,解りにくい」という判断を下す際も,「総論」における中国語観が大きく影響する。中国語に取り組む際,漢字を出発点にするか,基本語順を出発点にするか,構文規則を出発点にするか,個々の語の用法を出発点にするか,といった立場の違いは,学習・教育現場では相当増幅されているのではないか。

私はここで,何か結論めいた提案ができるとは思えないし,そのような大それた目標を持つこと自体分不相応だと考えている。中国語研究の場では,このような立場の違いが新たな知見につながる可能性もあるだろう。しかし一方,学習・教育現場での実用を前提に,こうした「総論」について,様々な意見を自由に交換できる場がどこかに有ればよいとも思う。学習者の多様化・学習目的の多様化・教材の多様化という現実を前に,「『総論』における中国語観も多様でよい」と主張し続けることに,どことなく不安を感じるからである。

急速な社会変化の中で,中国語自身にも新たな表現が多数生まれている。「有事儿ni打我的手机。」は「用事があったら私の携帯に掛けてください。」と解釈され,「用事があったら私の携帯を使ってください。」という解釈を排除する。これを「総論」ではどう説明すればよいのだろうか?やはり,「総論」は古くて新しい問題である。

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“写不出来”“念不出来”なことば

豊嶋裕子(東海大学)

先日,映画『頭文字D』の香港版DVD(出品:寰亞,銀都機構)を頂いた。日本版(提供:GAGA/avex)の音声は日本語と広東語で,普通話はなく,主題歌もavexのAAAだ。頂いた香港版は,広東語と普通話。主題歌も主演の周杰倫が普通話で歌っている。原作は日本のマンガで,学生に人気が高い。

「これは授業で使える」と喜んで,字幕を参考にしながらせりふを書き取り始めた。字幕が多少せりふと一致しないのは仕方ない。大抵は字幕を頼りに実際のせりふが書き取れるのだが,どうしても聞き取れない個所が出てきた。

チャップマン・トウ演じる高校中退の青年が,友人の父親を訪ね,昔のようにまたレースに出てくれと頼むが,全く相手にしてもらえない。そこで,「もしあんたが自分の父親だったら,とっくに殴っているところだ」と捨てぜりふを言う場面。この後半部分の字幕は“…,我早就教訓ni3”だが,何度聞いても“我早就bie2 ni3 了!”に聞こえる。工具書類で調べても“bie2”または“bie3”がどういう字なのか,字幕の“教訓”と意味が一致しているのかも,音からだけでは分からない。

そもそも,動詞の“教訓”は≪現代漢語詞典≫では「教え諭す」のみ。『中日大辞典』には「こらしめる」「しかる」の釈義もあるが,私は日本語の「教訓」のイメージから,「言葉で」諭したりこらしめたりする意だと思っていた。ところが,この部分の日本語吹き替えは「俺の親父だったらぶん殴ってるぞ」,広東語でも“打”の音が聞こえる。あれこれ調べて,『東方中国語辞典』に「<口>殴る,たたく」とあるのを見つけ,“教訓”に「殴る」の意があることを知ったのだった。

北京出身の先生に尋ねると,この“教訓”はやはり「教育してやる→酷い目に遭わせる/殴る」の意で,せりふの音声は「殴る」という意の“bie3”,字は多分「へこむ/ぺちゃんこになる」の意もある病垂れの字だろう,とのこと。上海出身の先生に尋ねると,後のnと重なって聞こえにくいが,音は“bian3”で字は“扁”,やはり「殴る」の意だそうだ。一般の辞書では“扁”は「平たい/ぺちゃんこだ」の形容詞とされる。北京の先生に再確認したところ,“bie3”も“bian3”も音を聞いて「殴る」の意と分かるが,字は「口語だから自信がない」という。結局,話し言葉は文字表記しにくいものもあるし,外国人には難しいことを再確認するにとどまり,授業でこのシーンを使うのは諦めた。

さて,『頭文字D』は「かしらもじ…」ではなく「イニシャル・ディー」と読まねばならない。AAAは「トリプル・エー」だ。このように固有名詞は命名者が設定した読み方が正解とされ,勝手に読みかえられない。

では,中国語の≪頭文字D≫はどう読むのだろうか。香港版では題の上にルビのように“飄移族”と書かれている。漢字をそのまま発音せず,≪頭文字D≫と書いて“piao1yi2zu2”(drift族の意)と読ませるのか。それとも原題同様“Initial D”だろうか。題名が発音されている映像を探したが,なかなか見つからず,やっと1本だけ宣伝用インタビュー集でナレーターの音声が確認できた。何のことはない。そのまま“Tou2wen2zi4 D”だった。ただ,この読み方が正しいとわかったが,一般の人が皆こう呼ぶとも限らない。

同様に,教科書に出てきて読み方に困ったのが“7-11便利店”(セブン-イレブン)だ。日経『企業・ブランド名辞典』莫邦富・呉梅編にピンインが付いているはず…と見ると,残念ながら「7-11」部分にはない。中国人の先生に伺うと,「多分」の前置き付きで,“Qi1-shi2yi1”“Qi1 dao4 shi2yi1”“Qi1 yao1 yao1”,「そのまま“Seven-Eleven”」や「単に“便利店”のみ言う」など,実に様々な答が返って来る。北京に行ったら,正式な読み方と,現地の人が常用する呼び方を調べて来ようと思いながら,なかなか時間が取れず未解決のままになっている。どなたかご存知の方,お教え頂けると幸いなのだが。

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忘れられた「唐音唱詩」の伝統

加藤徹(明治大学)

古来,日本人は,漢文を訓読で読んできた。音声の美をたっとぶ漢詩さえ,訓読で吟じた。

しかし例外もあった。漢訳仏典を読経するときは,日本漢字音で音読した。

もう一つの例外は「唐音唱詩」である。中国伝来の歌曲に乗せて,漢詩や白話文の歌詞を歌う場合は,日本人も,同時代の中国語の発音を模した「唐音」で歌った。

江戸時代から明治にかけては,プロの漢学者でない普通の日本人も,唐音唱詩を楽しんだ。「詩吟」のときは訓読吟詠で,「唱詩」のときは唐音唱詩で,と,二つのチャンネルを使い分けていたのだ。

王維の七言絶句「送元二使安西」の起句,「渭城朝雨 [水邑]軽塵。…」([水邑]は,サンズイの右横に「邑」という漢字)を例にとると,訓読吟詠では,独特の節回しをつけて,

「イジョウのチョウウ ケイジンをうるおし…」

と朗詠する。これを唐音唱詩で歌うときは,日本人も,

「オイ ジン チヤウ イー イー キン ヂン。…」

などと唐音で発音した。

唐音は,呉音や漢音と違い,カナ表記が固定化しなかった。例えば「渭城」のフリガナも,現存の楽譜本を見ると,「ヲイ ジン」「オイ ジン」「イ ジン」など,まちまちである。

江戸期の日本人が歌った中国伝来の歌曲には,明末清初の亡命僧・東皐心越が伝えた琴曲や,長崎の魏君山が広めた明楽,来舶唐人が伝えた清楽など,さまざまな種類があった。昔の日本人が「渭城朝雨 [水邑]軽塵。…」を歌うときのメロディーは,東皐心越の琴曲なら,

「ミードーソーミー,ラーソーソー…」

魏氏の明楽なら,

「レーレーレーレー,ドーミレドラー…」,

傅士然が伝えた「唐詩五七絶譜」なら,

「レーミーソーラー,ラードラソー…」

と,様々であった。

(これらのメロディーを耳で聴いてみたいかたは,筆者のHPの中の「漢詩を歌う」

http://www.geocities.jp/cato1963/kansiwoutau.html

というページをどうぞ。中国語や漢文の授業でもすぐに使える「カラオケ」用音源を,MIDIでアップしてあります)。

昔の中国人は西洋人と違い,自分が聴き慣れた曲を,あまり楽譜に書かなかった。

上記の中国伝来のメロディーも,中国本土の楽譜資料には残っていない。江戸時代の日本人が記録した中国伝来音楽の楽譜は,現代中国の研究者が明清期の中国音楽を復元するうえでも,貴重な一次資料となっている。

さて,漢詩を訓読して読み下すと,原詩を音読したときのリズムとずれる。

詩吟は「吟詠」であり,節回しのリズムや音長を適当に伸ばしてよいので,訓読することによって生じる原詩のリズムとのズレも,適当にごまかせる。

これに対して,漢詩を楽曲として歌う「唱詩」の場合,訓読した読み下し文を原曲のメロディーに乗せて歌おうとすると,「字余り」になってしまい,歌えない。

こういうわけで,明治までの日本人は,「詩吟」は訓読で,「唱詩」は唐音直読で,と,二つのチャンネルを使い分けていた。

現代の日本で,英語を話せない人も「ハッピーバースデー,トゥー,ユー」くらいは歌える。

それと同様に,明治までの日本人は,中国語は話せなくても,中国伝来の歌曲である「九連環」とか「算命曲」,あるいは「紗窓」くらいは知っていた。

このうち「紗窓」は,,唐の七言絶句をそのまま歌詞とするもので,筆者のHPの中の,

http://www.geocities.jp/cato1963/singaku-07.html

にも載せておいたが,日本でもアコーディオンの練習曲として採られたり,大正時代の街頭演歌になったりするほど有名だった。

残念ながら,日本における唐音唱詩の伝統は,1894年の日清戦争の勃発によって終わる。開戦後「文明国民たる日本人は,東洋精神の精華である漢詩漢文を,日本語で訓読すべきだ。野蛮で遅れた敵国語で発音するのはおかしい」という偏見が,一挙に広まったからである。

以後,日本では「訓読吟詠」だけが残り,今日に至っている。

ただ,現在でも,東京の湯島聖堂でのコンサートや,長崎の明清楽保存会の演奏会などで,江戸時代さながらの唐音唱詩の実演を聞くことができる。また,明治までに刊行された唐音唱詩関係の楽譜本は,かなりの量が現存している。webcatで検索すると,日本の各大学の図書館にも,けっこう収蔵されている。

「唐音唱詩」の歌は,メロディーが単純なものが多い。カラオケがうまい人なら,簡単に歌える。

また,メロディーも歌詞も,著作権フリーである。

筆者のHPには,原楽譜本の写真や,五線譜,カラオケ音源などをアップしてある。

ご興味のあるかたは,歌ってみてはいかがだろうか?

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「閑人」の正体

加藤晴子(明海大学)

中国で何か手続をしなければならなくなったとき,窓口の効率の悪さやそのことがもたらす長い行列にうんざりしたことはないだろうか。しかも,そういうときにふと垣間見えた窓口の奥,事務室の一角に,ひまそうに雑誌のページをめくり茶をすすっている人間がいるのを眼にしたことも一度や二度ではないはずだ。休憩時間なのかもしれないが,こんなに混雑しているのだから,少しくらい融通して手伝ったらよかろうに,と,そのたびにわたしは思ってきた。自分がその「閑人」になるまでは。

ある年の春節明け,わたしは学生を引率して杭州市のある大学に行った。宿舎に着き学生を部屋に落ち着けた翌日,午前中に担当者のいる事務室に赴いた。挨拶のためと,上海までの出迎えの車代を支払うためである。しかし,時期が時期だけに,事務室では各国からの留学生が列をなし,様々な手続,要求,支払い,などのために自分の順番を待っていた。列に並んだ留学生の多くはほとんど中国語が話せず,それでも単身やってきて,英語で各自の目的を達していく。中には,さっきそこで買ってきた携帯電話の画面表示を中国語から英語に切り替えてくれという者までいて,その堂々たる要求ぶりに感心した。反面,わが学生の過保護ぶりを思いつつ,行列の途切れたすきに担当のW先生に声をかける。

型通りの挨拶の最中にも,ひっきりなしに留学生が訪れ,そのたびに我々の会話は中断される。すぐには片付かないと判断したか,W先生は応対の合間に茶をいれてくれ,事務室の奥の椅子をすすめてくれた。所在なく手近の雑誌を手に取りページをめくる。すぐに気がついた。これこそまさにわたしがこれまで怨嗟の対象としてきた「閑人(ひまじん)」ではないか。そうか,こういうことだったのか。事務室前は相変わらずの混雑である。留学生たちの視線を首筋に感じるが,「閑人(部外者)」のわたしにはどうしようもない。そのまま時間は過ぎ,やっと昼休み。潮が引いたように静まり返った事務室で,車代を払い領収書を書いてもらい,そそくさと引き上げてきた。

思わぬところで「閑人」の正体を知ることになったわけだが,最後にひとつ,かの留学生の携帯電話の画面表示はわたしが切り替えたことをつけ加えておく。

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会話練習

丸尾誠(名古屋大学)

学期末に授業アンケートというものがある。その自由記載欄に授業の感想,(後期の授業への)要望を書いてもらうと,どのクラスでもほぼ確実に「あまり当てないでほしい」という願いとともに,「もっと会話をやりたい」という意見が散見される。前者の方は気にしないとして,後者については「会話は中身が重要なのに」などと思いつつも,これも私が普段文法偏重の授業を行っていることへの反動と反省して,以降はできるだけ取り入れるように心掛ける。

教室に中国人留学生を連れて行く。クラスの雰囲気がいつもと変わる。本文を改造した会話練習は皆無難にこなす。が,事前に準備しておくことを課題として課していた自己紹介を交えた自然会話の段になると,大抵名前,国籍,年齢,趣味,家族構成プラスアルファで沈黙が訪れる。留学生には既習の文をあらかじめ伝えておいて,それらを組み合わせて使ってもらうのだが,なぜか普段私と受講生の間で行われる会話のようにスムーズにはいかない。学生は救いを求めてただひたすら(そこにはいないことになっているはずの)私を見つめる。

従来は文法中心の授業を行っているものの,会話にも役に立つようにと私なりに配慮は払ってきたつもりである。例えば,習ったばかりの文型を用いて即興で口頭作文をさせたり,思い出したように突然中国語で質問をしたりしている(時間,日にちほか)。また会話練習においては沈黙は金ではないので,「詰まったときは“Ni ne?”[あなたは(どう)?]で相手に振ればとりあえず会話は続く」,「日本語の『そうですか。』『えーっと,あのー』のような応答・つなぎに相当する中国語が自然に出てくるように」などと教えてはいたのだが……。こちらとしては普段の「細切れの文」を片っ端から使って,不自然な流れになってもいいからとにかく「発話」してほしいのだが,これがなかなか思惑通りにはいかない。

そもそもそれほど親しくない者であれば,同じ日本人同士であっても会話は弾まない。初対面のネイティヴ相手で緊張するというのなら慣れている私相手でも構わないものの,私の場合上記のようにじっと見つめられるのは恥ずかしいので,姿の見えない電話というシチュエーションでやろうと提案すると(助けを求める術がなくなるという危機感を即座に察知して)強硬に反対される。会話がうまくなりたいのならとにかく声を出すことだと思う。通常の授業で用いるテキストを自分で音読する際にも,かつてシュリーマンがロシア語を習得する際に用いた手段のように,中国語を解さない家族・友人を「犠牲」にしてひたすら聞いてもらう方法だって考えられなくはない。

最後に,私が留学中の体験として学生に紹介する話がある。これは以前共通教育関係の事例集(『豊かな教養教育を目指して』平成11年度)にも書いた内容であるが,それが学内向けのものであったため,今回その中の一部分を加筆した上で再度記す。

留学先(瀋陽)の街の中心部にある広場が,毎週末になると外国語サロンと化す。行ってみると,そこでは小学生から大学生,社会人までもが年齢を超えて,小グループ単位で英語で会話をしていた(日本語は二割程度だろうか)。お互い知らない者同士がである。全体を仕切る者はいない。決して流暢とはいえない者も少なくなかったが,何しろ皆我先に話そうと躍起になっていた。会話が詰まったときに傍で指導しているのは,留学経験者と思われる。日本人的な発想であれば「どうせ同じ国の者同士が外国語で話しても……」というのが関の山だろう。たまに外国人が来るとその周りが黒山の人だかりとなる。なぜこのような活動があるのか参加者に聞いてみた。曰く「自分たちはあなたたちと違って自由に外国に行けない。しかし,もしそういう機会が巡ってきたら絶対にそれを逃さないために常日頃から準備しておくんだ」。我々もそれを真似ようなどと言いたいのではない。ただ,そのような現実があったということを知ってもらいたい。1996年当時の話である。

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母校

中川裕三(天理大学)

私は,大学院を東京都立大学(現,首都大学東京)で学んだが,学部は奈良県の天理大学が母校である。2年前ご縁があって,その天理大学に転任した。

前任の愛知大学現代中国学部(現中)には,1997年の設立以来,9年間在職した。現中は文学部や外国語学部といった従来の枠組みにとらわれず,現代中国全般を教育・研究対象とした学部である。その設立に当たって現代中国に関係するさまざまな分野の研究者が日本全国から集められた。私は現代中国語文法の専門家として,授業以外では主として中国語カリキュラムの構築とテキスト作成に従事し,2回のカリキュラム改革を経て,現行のカリキュラムを作り上げた。道なき道を歩んだ9年間だった。苦労も多かったが,各分野の教員が知恵と力を出し合って作り上げたその特色ある教育プログラムが認められ,2003年には特色GPに採択された。

私が天理大学に在籍していた頃は,「語学の天理」,「発音の天理」といった言葉をよく耳にした。当時は,私の先輩,同輩,後輩が朝日新聞社主催「中国語弁論大会」で4年連続して1位になり,「天理の黄金時代」と言われていた。私も日本一の先輩に憧れて頑張った一人であった。愛知大学に奉職した後も,天理の恩師や先輩から授けられた技を学生に伝授しようと,1期生から中国語スピーチの個人指導を始めた。自分がスピーチをするのと指導するのとでは勝手が違い,最初は試行錯誤の連続だったが,学生たちは期待以上の頑張りを見せてくれた。1999年の朝日「中国語弁論大会」審査員奨励賞受賞を皮切りに,2000年には同3位,2002年には日中友好協会主催「全日本中国語スピーチコンテスト(一般部門)」で1位,2003年に同2位,2004年には中国国家漢弁主催「漢語橋」東京エリア予選で1位と,毎年のように入賞を果たし,新学部「現中」の存在感をアピールすることができた。

天理大学時代,私が在籍していたのは外国語学部だったが,今は国際文化学部と名称が変わっている。今の学部では,外国語の技術だけでなく,当該言語が話される地域の歴史や文化も学べるというのが謳い文句である。しかし,外国語だけに注目すると,必修語学科目の単位数が42単位から28単位に激減している。おまけに,学生は最初から中国語を学びたいと思って入学しても,最初の半年間言語コース選択の猶予があるため,実際に学び始めるのは1年生の後期からになる。これでは,入学と同時に志望言語を学べる外大や外国語学部に太刀打ちできるわけがない。近年スピーチコンテスト優勝のニュースをとんと耳にしなくなった最大の原因はここにあるに違いない。1年生後期開始と28単位という大原則はすぐには変えようがないが,外国語学部系の大学と戦うには何か大きな変革が必要だ。運用の範囲内で,コマ数は少なくても効果の上がるカリキュラムに組み直せないものか?そう思い至るや,コース主任に,中国語カリキュラムの整理を願い出ていた。

以来,時間があったら科目表と睨めっこの日々が続いた。まずは,カリキュラム修了時の具体的な最終到達目標を掲げ,その目標を達成するために,従来よりも科目間の役割分担とセメスターごとの段階性を徹底したカリキュラムに組み直した。中国語科目は各3クラスあるので,専任教員だけで全てのコマを担当することはできず,多くのコマを非常勤の先生方の手にゆだねざるを得ない。しかし,1年生の授業だけは全科目全クラスを専任教員が担当することにし,さらに1年生から3年生までの全科目を2科目1セットにして,同一教員が同一クラスを週2回担当するようにした。そうすれば一人の教員が責任を持ってより深く教えられるからだ。役割分担の明確化により,科目によっては市販の総合的テキストを使えなくなったので,専任教員が科目内容にぴったり合ったテキストを自作することになった。2年生以降は非常勤が入ってくるので,科目担当コーディネーターを置き,専任が非常勤の授業をコントロールしたり,専任と非常勤が相談しながら授業メソッドを開発したりできるシステムを作った。

恩師,同僚の理解と協力のお陰で,新しいカリキュラムは短期間で形が出来上がった。しかし,科目担当者に自分がこの体系においてどのような役割を担っているかを理解してもらえないと,役割分担の徹底を実現できない。非常勤を含めた担当者一人ひとりにそれを理解してもらうのは大変だったが,実際に新しいカリキュラムが動き出して見ると,効果は歴然としていた。先生方から,学生のやる気が出てきて,以前よりも教えやすくなったというお言葉を頂戴した。

カリキュラムの整理と同時に,私は中国語スピーチの個人指導も始めた。私の在学当時からある「漢会班」という会話サークルは消滅しかけていたが,着任した年の幹部学生が頑張ってくれたおかげで,久々にその「漢会班」主催の学内スピーチコンテストが行われた。努力すれば全国レベルになれるということを現役の学生たちに知らせるために,学内コンテストで優勝した学生を徹底的に鍛えることにした。短期間の指導だったが,その学生は,日中友好協会主催「全日本中国語スピーチコンテスト(基礎部門)」で3位に入賞し,それが伝統復活へのきっかけとなった。以来,「漢会班」に入る学生も大幅に増え,活動も活発になってきている。昨年は学内コンテストの1,2位入賞者が,「西日本学生中国語連盟燎原会暗誦・弁論大会(弁論の部)」でそれぞれ1位と3位に入賞した。本年5月,「漢語橋」の関西地区予選が行われ,天理大学の学生が2名出場した。健闘むなしく,入賞はできなかったが,天理の存在感は十分示せたと思う。

先にも述べたように,母校の現体制は,外国語学部系の大学と比較すると大きなハンディキャップを背負っている。そのような状況で伝統を復活させることは容易ではないだろうが,合理的な教育体制と学生の自主的なサークル活動がうまくかみ合えば,他大学とスピーチコンテストで優勝を競い合うことも夢ではないかもしれない。なぜ自分の時間を犠牲にしてまでそこまでやる必要があるのか,と思うこともあるが,それは自分を育ててくれた母校のため,自分を含めた卒業生の名誉のためだということだろう。

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中国語に訳し分けにくいことば

三宅登之(東京外国語大学)

語の意味というものには,単独でその語を眺めていても気がつかないが,複数の語を対比させるとそれぞれの語の意味の輪郭が際立ってくるものがある。以下,ある学会のワークショップで出た話題と一部重なるが,中国語への訳し分け方を聞かれてよくわからなかった例を挙げてみよう。

ある日本語の流暢な中国人が,日本語の「浮気」と「不倫」を中国語でどう訳し分ければよいのかと私に尋ねてきたことがある。「それは…」と言おうとして,お恥ずかしながら辞書を確認してみないと対応できず,日中辞典を引くと,「浮気」には“愛情不専一”“婚外恋”のような訳,「不倫」には“違背人倫”“作風不好”のような訳が並び,いずれにも“乱gao3男女関係”という同じ言い回しが出ていたりした。

どうも釈然としないが,そもそも日本語の「浮気」と「不倫」がどう違うのかを中国人に説明しようとして,うまく説明できないことに気が付いた。国語辞典では,例えば

【浮気】他の異性に心を移しやすいこと。特に,配偶者があるのに(軽い気持ちで)他の異性と情を通じること。
【不倫】道徳に反すること。特に,男女関係についていう。

(大修館書店『明鏡国語辞典』,該当する意味項目のみ掲載)

とあり,一見「浮気」の方だけ配偶者の存在についての記述があるので,「浮気」の方は配偶者がいることが前提となることが多く,「不倫」はそうではないのかという印象を与えるが,日本語ネイティブスピーカーの私(母語は広島方言で共通語は甚だ自信がないが)の語感からするとむしろ逆である。単なる恋人同士の片方が他の独身者と関係を持つことは浮気であって不倫とは言わないと思う。それを「不倫している」と言ったら,相手は必ず妻子持ち(あるいは夫がいる身)で…と,どろどろした話になると思う。

また,「ストレス」と「プレッシャー」はどうだろう。これも,ある中国人が日本語の意味の違いがわからないと言っていた。彼に言わせると両方とも中国語では“圧力”だという。

日本語の「ストレス」と「プレッシャー」は違うじゃない…と説明しかけて,やはりすぐにはうまく説明できず,国語辞典を引いた。

【ストレス】物理的・精神的な刺激(ストレッサー)によって引き起こされる生体機能のひずみ。また,それに対する生体の防衛反応。▼一般には,ストレッサーとなる精神的・肉体的な負担をいう。
【プレッシャー】圧力。特に,精神的な重圧。

(出典同上)

どうもそれぞれの語の意味の解説には確かになっていると思うが,では両者の違いは何かということについては,これだけでは相変わらずよくわからない。私の語感では,両者の違いは,

ストレス:長期的で与える影響が大きいもの。受ける側にとってはマイナスとなるもの。

プレッシャー:一時的で与える影響は比較的軽微。受ける側にとってプラスになる場合もある。

というあたりが違いのような気がする。ストレスを受けては病気になってしまいかねないが,適度なプレッシャーはそれをバネにしてプラスに転じさせることができる場合もあるだろう。

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客家の三合院

田中智子(神戸夙川学院大学)

3月上旬に台湾に行ってきた。3年前に長男を出産して以来久々の台湾である。

私は99年から台湾の高雄縣美濃鎮で話されている客家語を調べている。この客家語は広東省の梅県と同じ方言グループに属する。

台湾では「四縣(客家)話」と言われている方言のひとつだ。美濃の客家人の入植は清の乾隆帝の時代に始まったらしい。美濃鎮は人口約4万5千人,9割が客家人であると聞いている。

美濃に到着し,いつも居候させてもらっていた家を訪ねる。亡くなった奥さんが日本人だったという鍾さんは,90歳くらいだと思うがお元気そうで安心した。友達を通じて鍾さんの娘さんと知り合い,以来調査のたびにこの家にお世話になっている。普段一緒に生活している家族はほかに鍾さんの孫娘二人で女ばかり,毎日にぎやかだ。インフォーマントも良い方なのだが,元小学校の先生であるため「規範的な客家語」が出てきがちだ。そのため鍾さん一家の使う自然な客家語を観察することで,インフォーマントとの対面調査のデータを補うことができる。しかし何よりもうれしいのは,家庭のぬくもりを与えてくれることである。

ところで,このお宅のもうひとつの魅力は,伝統的な三合院の建物だということだ。大陸では円楼が有名だが,美濃ではこの三合院をよく目にする。正面の部分を「正堂」という。正堂のそのまた真ん中には祖堂,祖先を祭る重要な場所だ。毎朝娘さんが供え物を備え,線香を焚いて礼拝する。鍾さんの長男の娘も出勤するときに必ず一礼している。掃除用のほうきも他の部屋とは別で,うっかり「祖堂専用ほうき」を使おうとして注意されたこともある。祖堂の上に掲げられた額には「潁堂川(潁川堂)」とある。インフォーマントによればそれぞれの姓の出身地を表しているそうだ。ちなみにインフォーマントも同じ鍾さんなので,やはり「潁川堂」である。

正堂に向かって右翼の建物は「上横屋」,鍾さんの亡くなられた長男さんの一家が住む。左側が「下横屋」で,鍾さんの娘さんとその娘たちの部屋だ。鍾さんの部屋は正堂にあり,祖堂のすぐ左の部屋である。長男一家と鍾さんたちは,もちろんお互いに行き来はあるのだが,食事等の生活はまったく別々で,客家式二世帯住宅といったところだ。食堂は正堂の脇にある部屋(廊仔)で,台所や裏口へとつながっている。なお,それぞれの部屋は前から出入りするのみで,お互いに独立しているので,裏にあるトイレや洗濯場にいくには必ず食堂を通らなければならない。

以前建て直しをするという話も聞いたが,赤レンガの美しい三合院がそのままだったのでうれしかった。この夏休みにはまた三合院の生活が始まる。

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「閨房」から「大通り」へ

清原文代(大阪府立大学)

——日本の大学の教室とかけて何と解く?
——閨房と解く。
——その心は?
——当事者以外は居てはいけない場所。

Faculty Developmentの一環として教員同士で授業参観をするようにと大学当局から指示があり,私の授業にも見学に来られた方がいて大層緊張した。でもそんなことは言っていられない時代が来ているようだ。

アメリカの大学で起こったことは何年か後には日本に波及すると言われるが(FDもそう),アメリカの大学の教室は「閨房」どころか誰もが行き交う「大通り」になりつつある。YouTubeという動画投稿サイトがある。著作権侵害で物議を醸す一方で,これを教育に利用しようとする動きもあり,例えばUC Berkeleyが専用チャンネルを持っている。

http://jp.youtube.com/ucberkeley

200ほどの講義ビデオが公開されていて,黒板を背に立っている教員がずらりと並ぶ様子はなかなか壮観だ。

教育専門に特化したものとしては,アメリカの大学の講義などの音声や動画を無料で配信するiTunes Uというサービスがある。日本からでもStanfordなど20数大学が配信する音声や動画をダウンロードできる。

日本でも東京大学など,ポッドキャスト(ダウンロード可能な無料インターネット放送)を使って,公開講座を配信している大学がぼちぼち出てきた。ダウンロードしたものをデジタル音楽プレーヤーのiPodに転送すれば,電車の中でも大学の講義が視聴できる。

iTunes Uやポッドキャストの受信方法については,ポッドキャストのリンク集を含む簡単なWebサイトを作成したので,もしよろしければご参照いただきたい。

http://qingyuan.sakura.ne.jp/wiki/

インターネットで授業が見られるのなら,わざわざ大学まで来なくなるのでは?という考えもあるが,しかしアメリカではYouTubeやiTunes Uで公開された講義を見て,「この大学で学びたい」「この先生の講義を受けたい」と言って受験する学生が出てきていると聞く。学位を取得するという目的以外にも,CDやDVDが普及してもコンサートや映画館に自ら足を運ぶ人がいるように,二度と返っては来ない時間を学生と教員が同じ教室で共有するという「ライブの授業の魅力」というのは不滅なのではないだろうか。また,今までなかなか見られなかった人の授業をインターネットのおかげで時間や場所の制限なく見られる。私の同僚の数学の教員は,iTunes UでMITの数学の授業を見ていて,同じ項目でも日本とアメリカでは教え方が全く異なるため,自分の授業の改善に役立つのだそうだ。インターネットは誰もが行き交う「大通り」,人の授業を見るのはさておき,そこに自分の授業が公開されることにはやはり抵抗を感じる。教員にとってはなかなかたいへんと言うか,刺激的な時代が来ているようだが,一度開いた「閨房」のドアはもう閉まらないのではないかとも思う。

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全国大会を終えて

伊藤さとみ(琉球大学)

10月27日,28日の二日間,琉球大学で第57回大会を開催した。開催時,琉球大学の中国語学関連者は,専任教員2人,院生ゼロ,学部生各学年2〜3名という状態であった。このスタッフ難にも関わらず,学会開催を引き受けたのには,個人的な理由がある。私は学部,大学院ともに中文ではないところに籍を置いていたが,なんとか研究を進め,また就職までこぎつけられたのは,日本中国語学会が存在したからである。発表の機会を与えてくれたのは言うまでもないが,会員の方から励ましとお叱りをうけ,また行く末を案じて手を差し伸べてくださった先生方も少なくない。そこで,いつか恩返しをしたい,と思っていたのである。

スタッフ難の問題は,中国語学以外の院生を借りてくることで解決した。実を言うと,当日会場で働いてくれた学生のうち,半分弱は中国語とは縁のない勉強をしている院生,残りは中国語に何らかの興味はあるが,まだ学部在籍中の学生たちだった。バイト説明会のとき,分厚いマニュアルを手にして,「先生,このスタッフでこの規模の学会をするのは無謀ですよ」と学生に言われたが,なんとか無事終えることができたのは,この学生たちの働きのおかげである。

学会当日の最大のアクシデントは,戴浩一先生が講演直後に倒れられたことである。それも,会員とスタッフの奇跡的な連係プレーで後遺症なく快復された。手術後一週間で無事台湾に帰られたが,戴先生とその付き添いに来ていただいた蔡素娟先生の二人を空港のゲートで見送ったとき,「ようやく学会が終わる」と思ったものである。私にとっては,「嘉義に無事到着しました」という蔡先生のメールがやっと辿り着いた閉会の辞であった。

振り返ってみて,学会を通して学んだことは多い。緊急時の対応という特殊な例を除いても,普段の仕事といろいろな点で異なっていた。特に,人との連絡業務が非常に多いことが,コミュニケーションが苦手な私にとっては,一番のストレスであったが,こういうことはやっているうちに上達するものらしい。そういう点で,また一つ,中国語学会に育ててもらった気がする。

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ベトナムでの中国語

三木夏華(鹿児島大学)

昨年ベトナム・ホーチミン市に語学研修に行った際に,同市の華人居住区チョロンを訪ねてみた。チョロン地区はホーチミン市の中心街から5キロメートルほど南西に位置するこの国最大のチャイナタウンである。住民は広東系が半数以上を占め,他に潮州,福建,客家系などから形成されていて,広東語が共通語になっている。私は予備知識からチョロンの華人は受難の民というイメージを何となく抱いていた。この地域はフランスの植民地時代に経済の中心地として繁栄を築きながらも,中越戦争以後は資産制限,華語教育の禁止,その他様々な迫害を受け,多数の住民が難民として国外脱出を図った。ドイモイ政策実施以降は人口も回復し,かつての賑わいを取り戻しつつあると聞いていたが,実際の状況を是非見てみたかった。

ホーチミンからバスで20分,一見町並みは他の地区と変わりないが,表通りから奥まった路地に入ると漢字の看板が目立ち始める。漢方薬局,仏具屋,中国茶などを売る店が並び,漢方の薬材,線香,乾物などの匂いが入り混じり独特の雰囲気を醸し出している。語学の研究者としてやはり気になるのは人の話す言葉だ。周囲から聞こえてくるのはベトナム語ばかりだが,中国語の何方言がどの程度通じるのだろうか。取りあえず入る店々で北京語で話しかけてみると,店員さん達は一見戸惑った顔をしながらも,皆たどたどしい普通話で応対してくれた。聞くと,やはり広東語の方が得意だが,一応学校で北京語を習ったとのこと。大学生の女の子とも話す機会が持てたが,こちらは大変流暢な北京語で応対してくれた。彼女の両親は広東語,潮州語しか話せないが,本人は高校まで普通話を習い続けたので,かなりの水準まで話せるそうだ。ただし正規の授業科目ではなく課外授業ということだったが,残念ながら週に何時間あるかなど細かいことは聞く時間がなかった。しかし,受けた教育の差はあるにしても北京語教育が普及しているということは何となく感じ取ることはできた。

今ベトナムでは中国語学習ブームである。書店ではどこも日本語と並んで中国語の語学教材がぎっしりと並び,語学学校でも盛んに教えられている。この国においても中国語は新たな地位を築き上げているようだ。

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中国を遠く離れて

千葉謙悟(早稲田大学)

最近19世紀イタリアの中国語教科書『三字経』について調べている。これはナポリにあった中華書院なる機関で使用されていた教科書で,『三字経』本文の漢字にローマ字標音を与えラテン語の語釈を付したものである。中華書院はナポリ出身の来華宣教師マッテーオ・リパによって1734年創立された。中国伝道のためヨーロッパ人には中国語教育を行い,中国人にはキリスト教教育を行うことを目的としていた。編者は湖北出身のカトリック信者で,名を郭棟臣という。

さて今年の夏イタリアを訪れる機会があった。ローマではローマ大学を,ナポリでは中華書院の後身であるナポリ東洋大学を訪れることができた。

約半年の旅程を経て,150年前でもさして変わらないであろうこの石畳と煉瓦の街に降り立ったとき,郭棟臣の心境はどのようなものだったのか…彼本人がイタリアの印象を語った資料はまだ見つけていないが,その兄郭連城がイタリア遊記として『西遊筆略』なる文献を残している。彼はサン・ピエトロ大聖堂を訪れてその偉容に圧倒され「置身名勝地,宛似夢醒初,美矣西洋景,人言信不虚」という極めて直接的な詩を詠んでいる。なお,その道中,彼の弁髪は道行く人の注意を引き「人衆環而観之,見余髪弁頗長,倶呵呵大笑」という状況になったのは19世紀ならではというべきか。

また郭連城はナポリについて以下のように描写する。「納玻離乃意大里亜国之地,山勢勇壮,宮殿高聳,海内望之,若一幅絶妙図画」。ある意味そっけない。むしろ彼の興味を引いたのはポンペイを壊滅させたヴェスヴィオス火山であったようだ。「造物多奇巧,巍然一火山」に始まる,ここには引用しきれないほど長い詩を残している。

抑揚の強いイタリア語が響き渡る街中で,郭連城は中国を表すイタリア語Cinaを「期納」と聞いた。文化も環境も異なる中,若き郭家の兄弟はこの陽光あふれる国で何を思っていたのか。調査や発表の合間をぬって150年前に東方からやってきた若者が歩いたかもしれない同じ道を歩き感慨にひたるくらいの余裕は,許してもらえるだろう。

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海外学会参加記

多田恵(桜美林大学・非)

台湾語言学一百周年国際学術研討会
国立台中教育大学(台湾)2007.9.8-9.9

このシンポジウムは,小川尚義が台湾総督府から『日台大辞典』を出して百周年になるのを記念して,2004年に設置された台湾語文学系(洪惟仁主任)が主催した。

洪主任は「百年前,台湾の言語学はアジアで一番」だったとし,台湾に言語学を導入した小川を記念するのは自然なことだと語った。漢語研究の分野でもカールグレンに先駆けて,今の定説に近い再構を行っているという。

オーストロネシア系と漢語系の言語が共存する台湾をフィールドとした小川は,その両方について研究がある。また台湾は,日本語教育の歴史の発祥地ともいえる。

今回のシンポジウムでは,これらの諸言語の研究を回顧し,言語政策,社会言語学,言語教育,言語地理学,辞書編纂の現在を知る手がかりとなる発表が行われた。

李壬癸(台湾原住民諸語),湯廷池(漢語,英語,日本語)をはじめ,台湾を代表する研究者が発表者,司会者として名を連ね,台湾で行われている「母語教育」の教師らが多く参加した。中央研究院のE. Zeitounは,台湾言語学への西洋人の貢献について語り,香港から張雙慶,シンガポールから呉英成が言語政策について問題提起を行った。

日本からは,土田滋(台湾原住民諸語),前田均(日本語教育)が発表者として招かれたほか,中国語学界からも,遠藤光暁,遠藤雅裕をはじめ広い視野を持つ研究者が参加した。台湾在住の日本人研究者,日本留学の台湾人研究者も多く参加した。

開会は,学生スタッフが英,日,中,台,客家,台湾原住民の7言語で宣言し,発表・質疑は主に台湾語(つまりホーロー語,[門<虫]南語),中国語で行われた。英語,日本語によるものもあった。台湾に根ざした言語研究と,台湾の諸言語をプロモートしていこうという台湾の動きが感じられた。董忠司によれば台湾の母語教育は福建にも影響を与えているという。

また,立法委員選挙,総統選挙を前に,民主化と自由な研究環境の関係について触れられた。日本から参加した研究者らは,高速鉄道(台湾新幹線)に乗って台中を後にした。

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類型論研究と中国語の語順

石村広(成城大学)

アメリカの言語学者ホーキンス(J.A.Hawkins)は,VO型(主要部先行型)言語とOV型(主要部後続型)言語の語順について,言語運用の観点から「文の構造の骨格ができるだけ少ない数の語が与えられた段階で理解できるような並び方が選択される」と説明する。

中国語を例に話を簡単にして述べると,"我穿去年買的衣服。"(私は去年買った服を着る)という文は,他動詞構文であることが確定するまでに動詞から4語を要する。しかし,「動詞+目的語」を基本語順とする世界の多くの言語では,このような場合,"我穿衣服"と先に言っておいて,その後ろに目的語名詞句の修飾成分を付け足す。目的語が動詞と隣接していれば動詞から1語で文構造が決定するから,その方が「処理」(processing)が速やかに行われる。動詞句の主要部が先行していれば名詞句など各フレーズの主要部も先行している方が「作業記憶」(workingmemory)の負担が軽減されるので好ましい,というのである。

中国語がどちらの類型に属するかという問題は残るが,こうして見ると,この言語は情報処理の点において非効率な語順を選択していることになる。極端に言えば,中国語は母語話者の数では世界に冠たる大言語であっても,類型論的に見ると周辺的な言語というになる。

実際,各フレーズの主要部位置が一貫している,いわば語順整合性の高い言語の方が,数においても優勢であることが指摘されている。ホーキンスの調査によれば,「動詞+目的語」の語順を持ち,かつ名詞句の主要部が先行する整合的な言語はサンプリングした80言語中56あり,70%を占める。これに対して,先程の中国語の用例のように,「動詞+目的語」の語順をもちながら名詞句主要部が後ろにくる言語は80言語中7つであり,その占める割合は全体の9%にも満たない。さらに,品詞の質的違いをひとまず脇へ置くと,"在銀行工作。"(銀行で働く)のように,前置詞句(P+N)が動詞句(V+O)に先行する語順をとる言語もほとんど存在しないものらしく,同氏の調査によれば,このような言語の占める割合は実に3.6%である(ちなみに,整合的な語順,すなわち「動詞句(V+O)+前置詞句(P+N)」と「後置詞句(N+P)+動詞句(O+V)」の配列をもつ言語の占める割合は,それぞれ40.5%と48.2%)。

中国語だけ見ていると,このような構造的特質に気がつきにくい。この種の語順傾向は,他のさまざまな言語現象,例えば"被"構文や"把"構文といった諸構文の発達にも関係しているはずである。類型論研究の成果は,世界の諸言語から中国語を眺める視点を提供してくれるよい材料であり,知っておきたい知識の一つであろう。

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富者の学問

宮下尚子(久留米大学・非)

昨年の4月から東洋史のM先生にモンゴル語の文語(縦文字)を習っている。習うといっても東洋史の資料講読のためのゼミなので,文字や文法をイチから教えてもらうわけではない。ゼミ開講の条件として,4月の最初の時間までにN. Poppeの文法書(Grammar of written Mongolian)を精読して文法のあらましを理解して,なおかつ文字を全部覚えてくるという課題を与えられていた。そう,受講生はわたし1人だけ。師匠は貴重な時間を割く前にまず弟子のヤル気を見たいとおっしゃる。前期の最初の時間までになんとか文字を覚えてテストをパス。2時間目からKruegerの練習用スクリプト"The Hungry Tigress"を読んだが,当然最初から「転写しろ,読め,訳せ」である。どこで文章が切れているか,あるいはテキストの上下左右もわからず,その短いテキストを読むのに前期いっぱいかかった。その時,辞書はまだ巻末のローマ字グロッサリーでこと足りていた。しかし後期からは資料を読むことになっていたので,いよいよマイ辞書が必要になる。

実はM先生に出会うまではモンゴル語をやろうと考えたことすらなかった。だから知らなかったのだけれども,縦文字を読むために現在手に入る辞書としては『蒙漢詞典(増訂本)』(内蒙古大学,1996年)しかないという。日本では8000円もするが,そもそも現代語のための辞書だし,文字が小さくて配列も独特だし,転写もいわゆるPoppe方式とは違うしで,とにかく初学者泣かせ,とにかくものすごく引きにくい。他に文語を読むための辞典としてLessingのMongolian-English Dictionaryという辞書が定番らしいが,今では古本屋でも手にはいるかどうかと先生はおっしゃった。ネットで調べてみるとなんと一件だけヒットした。6万円もする。日本人はモンゴルが好きだし,『元朝秘史』は翻訳がたくさんあって何度も小説や映画になっているので,辞書や文法書はもっと整備されているだろうと思っていたが,工具書の少なさに泣かされようとは。そういえば最初に読んだPoppeの文法書はたまたまAmazonで買えたのだけれど,これも半年近く待った上に値段は8000円もしたんだっけ。

その後めでたくLessingをだいぶ安い値段で手に入れることができた。状態のわからない本に何万円も出すのは気が進まなかったが,先生曰く「辞書なんてどうせ使っているうちにボロボロになるんだから手に入るうちに買っておきなさい。無駄にはならない」。そして購入後の現在……毎回3キロもある辞書持参で授業にのぞむ。授業中,例えば鉛筆でうすくメモを入れようとすると待ったがかかる。「??辞書はどうせボロボロになるからっておっしゃったじゃありませんか?」「買う時はそうでも,二度と手にはいるかわからないような貴重な本に書き込みなんかするんじゃない!」そんな貴重な辞書を,ろくに読めない私が持っていてもいいのでしょうか。

世の中にはどうやら金のかかる語学とそうでないのがあるらしい。英中独仏露といったメジャーな言語であれば入門書と中型辞典をセットにしても1万円以内でおさまるが,今回の縦文字入門のために使ったお金は軽く10万円を超える。これを安いと思うか高いと思うかは個人の価値観だが,何よりも絶対的に贅沢なのがM先生に直接指導していただけること。いや,まだまだ先生に指導していただいたとはとても恥ずかしくて言えないレベルなのだけれども,気持ちと環境はまさに富者の学問なのである。

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学会の愉しみ

石崎博志(琉球大学)

斯学の著名人を拝見する。僕が学会に足を運ぶ楽しみの一つである。論文や著書で名前と専門に通じていても,拝眉の栄を得ない方は今でも,多い。感銘を受けるような著書や論文を読むと,その著者は僕のなかで「名前だけ知っている有名人」となる。

学会はまさにライブ。丁々発止の議論を聴きながら「へぇー,あんな顔してんだー」「こんな声なんだー」と深い感慨を懐く。滅多にお目にかからない方を観たりすると,「ついに面を押さえたぞー!」と悦に入ることもある。

もちろん発表自体も,楽しい。質疑応答が白熱してやや厳しい応酬になると「クーッ!やっぱこうこなくっちゃねー」などと議論の行方を見守る。発表者がグサリとくる質問が繰り出された時などは,決定的なキラー・パスが通った時のような快感があるし,漠然とした疑問が他の質問者によってクリアになった時などは,「座布団一枚持ってきてー」と言いたくなる。そして新鮮かつ理路整然とした発表は美しく,感動的でさえある。

このような理由で学会には若い人がどんどん足を運んでもらいたいと思っている。だが今回は沖縄開催ということもあり,非常勤の先生や大学院生の方々には経済的な負担が例年より大きくなることが懸念される。しかし,安く来られる方法は,ある。学会日程には変動がないので早めに安いパックをおさえることが肝要。”越早越便宜”である。レンタカー付ホテルもあるし,ゴージャス感は味わえないが「ぎのわんセミナーハウス」 http://w1.nirai.ne.jp/oki-gsh/index.html は大学から徒歩圏内で,グループで来れば合宿のノリで楽しいと思う。中国の影響を受けた建築物や料理,本土と隔絶した気候や沖縄戦の惨禍,青空の下に広がる巨大な米軍基地・・・。ひょっとしたら学会でもない限り足を運ぶ機会も,沖縄の現状を知ることもないかもしれない。かつての僕がそうでした。

これまで僕は学会に有形無形の多大な恩恵を得てきたのだが,運営面に全く携わってこなかった。全国大会開催を機に学会業務の一端を担うことになり,元「名前だけ知っている有名人」が大変な業務を引き受けて学会を力強く支えていたことを知った。自分は学会にフリー・ライドしてきた。そんな反省にも似た思いが強くなった。今回は準備会の一員として,失態をおかさないよう恙なく,そして会員さんに満足して帰ってもらえれば,と思っている。

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「ごみ箱」から思うこと

大西博子(近畿大学)

最近,ある人のブログを見て知ったのだが,中国の赤ちゃんはごみ箱から拾われてくるらしい。というのは冗談で,日本で「橋の下から拾われた」に相当する言い習わしが,「ごみ箱から拾われた」だそうだ。これには驚いた。「橋の下」でもひどい扱いだと思うが,「ごみ箱」とは…。乳幼児の虐待ニュースが続く今,それが本当のことのように思えてしまうから恐ろしい。事実かどうか中国人の友人に尋ねたら,「小さい頃よく言われた」と笑顔で答えてくれた。道理でたくましいわけだ。ちなみに台湾の友人は「岩(石頭坑)から生まれた」そうだ。こちらは孫悟空みたいで可愛い。「ごみ箱」は中国大陸だけの言い習わしなのだろうか。それにしてもえらい習慣の違いだ。

「ごみ箱」と言えば,汚いというイメージがまず湧くが,かつて中国の公園や広場で見た陶器製の“果皮箱”を思うと,そんなイメージは湧かない。手足をそろえて行儀よくお座りしている獅子が,首をかしげて口を開いている姿は,なんとも愛らしい。「えっ,この口の中にごみを入れるの」と,はじめて目にしたときは,あまりの可愛さに手を引っ込めたほどだ。この“果皮箱”だったら捨てられても悪くはないかも・・・なんて,馬鹿な想像までしてしまう。上海に留学していた頃は,茶色の獅子をよく見たが,“果皮箱”収集家のHPを覗くと,茶系色以外にも緑色があり,顔の表情から口の開け具合まで微妙な差異がある。作っている人が違うのだから,違いが出てきて当然なのだが,眺めているだけで楽しくなる。また獅子以外にも,蛙,兎,パンダ,鯉など,実に様々な動物たちがいて,それぞれが個性的で愛嬌がある。彼らは街の自然とうまく調和していて,見る者も楽しませてくれた。まさに芸術作品だった。

しかし近年,中国では街のごみ箱が変わり始めている。芸術性より機能性を重視したステンレス製やプラスチック製の味気ないごみ箱が,彼らに取って代わってきた。経済の急発展とともに,増え続けるごみ。口の中に,ぎゅうぎゅうにごみを押し詰められ,窒息状態で苦しみもがく彼らの姿が目に浮かぶ。今や豊かな生活を手に入れた市民らに見放され,お払い箱にされる運命にあるのか。街の小さな文化遺産が破壊されるようで,いたたまれない。

大量に物を生産し消費する結果,多くの廃棄物を生み出す社会。ごみ問題が深刻なのは多くの人が感じていることで,今の暮らしが次世代も続くのかという不安は日々募る。街の可愛い“果皮箱”は,人々のどういう思いから作られたものだろうか。その誕生の原点を探ると,物を大切にしてきた先人の知恵とユーモアが感じ取れる。今,私たちはあまりにも物を粗末にしているのではないだろうか。物だけでない,人の命までもだ。赤ん坊をごみ箱から拾ってくるなんて,いつまでも冗談であってほしい。

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論争のはなし

松江崇(北海道大学)

私は論争などしたことがない。誰かに話題にしてもらえるほどの学説を持ち合わせていないし,他説を批判したことはあっても残念ながら相手にもされていない。しかし中国語学史上の重要な論争をあとづけることはよく行う。それが当該分野の本質的な問題を浮かび上がらせることにもつながる,と思っているからだ。

上古音に少しでも関心のある方なら,2001年12月に梅祖麟氏が香港の学会で行った講演(《有中国特色的漢語歴史音韻学》JCL Vol.30No.2)に端を発した一連の論争については,よくご存知であろう。敢えて概括的に言えば,梅氏が,王念孫らの清朝考証学者(段玉裁を除く?)及び近代の"章黄学派",そして王力氏に批判を加える一方で,潘悟雲氏らの所謂"新派"の研究を高く評価したのに対して,郭錫良氏をはじめとする複数の論者が,批判された王力氏らを擁護しつつ,かつ梅氏や"新派"の研究方法・態度における問題点を指摘する形で論争が惹起され(郭錫良《歴史音韻学研究中的幾個問題—駁梅祖麟在香港語言学会年会上的講和—》古漢語研究2002-3など),両陣営に属する複数の論者(あるいは麦耘氏などいずれからも距離をおく論者)によって論争が展開された,ということになろう。主な論点は,王力氏の上古音研究の評価の他,"一声之転"による同源語研究,いわゆる"複声母"の再構成,漢蔵語比較研究の上古音研究への援用の問題,など多岐にわたる。各陣営の論者間にも,もちろん見解の不一致はみられ,論争の内容を単純化する愚はさけたいが,論争が多分に両陣営の学風の違いを反映し,感情的な対立をも含みつつ展開されたことは,ここからいわば飛び火する形で(これは私の解釈であるが),梅氏の語法史研究に対する批判が行われたこと(張延成《梅祖麟教授語法史論文点評》古漢語研究2004-1など)などからも窺われよう。

さて,上古音を論ずる能力などまるでない私が,敢えてこの問題に言及したのは,この論争がネット上で通じて盛んに議論されたことに興味をひかれたためである。例えば郭錫良氏が最初に梅祖麟氏の講演の内容を見たのは"北大中文論壇(http://www.pkucn.com)"上であるといい,郭氏が潘悟雲氏の研究を批判した文章(《簡評潘悟云的《諧声分析与異読》》)を公開したのもはじめはネット上であった。無論,掲示板上での議論であるが故に,匿名の,無責任・不愉快な発言も目立つが,著名な学者が実名で重要な文章を載せることも少なくない(例えば鄭張尚芳氏が"東方語言学網(http://www.eastling.org)"に2003年10月に公開した《郭錫良《漢字古音手册》勘誤》など)。総じて言えば,感情的な対立を含みながらも,見応えのある論争が展開された,という印象を持った。ひるがえってみると,わが国においては,ネット上で中国語学に関する白熱した論争がおこることはあまりありそうにない(私が知らないだけかもしれないが)。それは単純に研究者(および院生)人口が少ないためである。しかし,もしかすると,中国には,わが国にはない何かしらの文化的背景—かつて戴震,段玉裁らが意見をかわしたような背景—があることも関係しているような気がするのは,私の妄想だろうか。

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発音の季節

小野秀樹(首都大学東京)

GWを目前にした今の時期,中国語Ⅰのほぼ大部分のクラスでは「発音練習」の真っ最中であろう。現在,日本で出版されている中国語初級テキストのうち,大多数が巻頭に「発音編」を設けて,発音に関する基礎知識を一挙に習得するように構成されている。その種の教材を使うクラスでは,4月の桜散る頃から大型連休を跨ぐこの時期にかけて,連日ローマ字を中心とした発音練習と聴き取りとに授業時間の大半が費やされていることだろう。

私は,そのような構成で編まれたテキストで授業をする度に,いつも心に僅かな疑念が起こる。ほぼ1ヶ月に渡る「発音練習」はどれぐらい必要であるのか,また,どれくらい有効であるのだろうか。無論,私は「発音編」における学習(内容)自体を否定するつもりは毛頭無いし,そこに記載されている内容は,中国語学習者に対してすべて必要不可欠なものであると認識はしている。私の疑念は,あっさり言えば,その内容を学習当初にすべて一挙に詰め込む必要があるのかという点にある。

生まれて始めて中国語に接する受講生は個々人のモチベイションの差こそあれ,大なり小なり,新たな言語の学習に対して期待と好奇心を持っているはずである(と信じたい)。その気持ちをどこまで持続させられるか,というのも語学を教える上で大切なことであろう。「意味」と「実用」の世界から程遠く,機械的に記号の読み方と書き方だけを連日訓練する授業が開始早々続くなら,それは中国語という未知の言語に対して受講生が抱いていた仄かな興奮を削いでいくことにはなりはしないか・・・・・・。私の漠たる不安はそこにある。かくて私自身は,この「発音練習」期間においても,むしろ故意に授業を「脱線」させて,毎回たとえ少しでも中国語の機微に触れて帰ってもらう時間を設けるのが常である(脱線した時の受講生の反応が,また次の年の「脱線」に繋がっているのも事実である)。

「中国語学習では一にも二にも発音の習得が肝要」と昔から言われるが,発音が大事なのは中国語に限った話ではない。4月に学習を始めた瞬間に"e"や"zhi"の発音が上手くできなくて,それ以来中国語の勉強が嫌になったという受講生が出てくれば,悲しいことである。未経験の音を発音することは,本来,楽しいことであるはずで,それを如何に教室で実践させ得るかということに,毎年この時期になると思いを致す。

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関東支部拡大例会を終えて

佐々木勲人(筑波大学)

第1回関東支部拡大例会が開かれた。初めての試みにも拘わらず,120名をこえる参加者があった。開催校をお引き受けくださった明治大学の守屋宏則先生をはじめ,ご協力くださった皆さまに心よりお礼申し上げたい。

全国大会の他にもう一つ発表の機会があればよいのに,というご意見を初めて聞いたのは,今から2年前,筑波大学で全国大会を担当した時だった。あの年,二日目の研究発表には予想を上回る応募があり,開催校としては非常に有り難かった。できるだけ多くの方に機会を提供しようと,6つの分科会を用意したのだが,それでも一部の方には発表をお断りせざるを得なかった。ところが当日,一部の会員から分科会の数が多すぎるという苦情がでた。聞きたい発表が重なっていて困るというのだ。十分注意してプログラムを組んだつもりだったが,学問の関心は十人十色,どうしても重複は避けられない。しかし,だからといって分科会の数を減らせば,せっかく応募してくれた会員から発表の機会を奪ってしまうことになる。近年の開催校はみな同じようなジレンマを感じているのではないだろうか。

会員の約半数を抱える関東支部で比較的大きな例会を開催すれば,全国大会の混雑緩和に少しは貢献できるのではないか。昨年の春,支部代表の佐藤富士雄先生からそのようなお考えを伺ったとき,全国大会の経験から迷うことなく賛成した。それなら春ごろやってみましょうと,とんとん拍子に話は進んだが,会の名前をつける段になって困ってしまった。「関東支部大会」にすると,どことなく独立謀反のにおいが漂うし,「関東支部例会」では華にかける。悩んでいたところ,木村英樹会長が「拡大例会」という名前をつけてくださった。響きも良いし,何となく賑々しい。即決定と相成った。何故「拡大」なのか,というご質問をたくさんの方から頂戴したが,正直なところ私にも本当の意味はわからない。どうしても知りたい方は,木村会長に直接お尋ねいただきたいと思う。

せっかくの新しい試みであるから,全国大会のミニ版ではつまらない。何か面白いアイディアはないかと考えているとき,大阪外大の山崎直樹氏からワークショップの企画をいただいた。『中国語辞書—これまでとこれから—』と題したこの企画は,とてもよく練られていた。複数の発表者がそれぞれ勝手に意見を述べて終わるシンポジウムが多い中で,今回は発表者とコメンテーターのやり取りがきちんと絡み合っていた。もう一つの試みは,質疑応答の時間を20分にしたことである。時間を持て余してしまうのではないかと心配する司会の方もいたが,決してそんなことは無かったようだ。十分な意見交換を行うことは,発表者と参加者の双方に大きなメリットがあることを実感した。

ともあれ関東支部の初めての試みは,どうにか無事に終えることができた。会のあと,御茶ノ水の沖縄料理の店で打ち上げをやった。懇親会もいいが,やっぱり打ち上げの方が盛り上がる。秋にまた,沖縄で再会することを期してお開きとなった。

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“一点”の“一”の声調

三宅登之(東京外国語大学)

自分のブログで書いたことがあるのだが,時刻の1時“一点”の“一”が第何声で発音されているのかについての扱いがよくわからない。

以前テキストを作った時,編集委員の中国人は第1声だと言ったのでピンインも第1声で印刷したら,後日音声CDの録音の際に吹き込みを担当した中国人は,この音は第4声だと強く主張して,結局第4声で吹き込んでもらったことがある。

他のテキストではどうなのかと気になって,いくつかの“一点”の例をあげたテキストを見てみると,第1声派と第4声派のいずれもある。例えば「口語の時刻の言い方は時刻を告げる鐘のなる音の回数を数える言い方になるので“二”ではなくて,“両”を用いる。ただし,“一点鐘”の数詞“一”はあたかも時間の順序を表すかのごとく第1声に発音されることが多い。」(『着実にまなぶ中国語20講―入門速成コース―』讃井唯允著,朝日出版社,2004年)のように詳しい解説つきで第1声だと提示するものもある一方で,例えば『ワンポイント初級中国語』(輿水優著,郁文堂,1997年)のようにピンインがはっきりと第4声になっているものも少なくない。

規範的には本来第4声であるべきだ。(そのように言及している研究論文もある。)しかし「規範からいってあるべき姿」と「現実の姿」は必ずしも一致しない。何人かの中国人に聞いても第1声だとする人と第4声だとする人に(ほぼ半々に)割れた。そのような場合,学習者としてはどう覚えればよいかと迷い,辞書を引いてみることになる。“一点”はフレーズのレベルなのでわずかな例(『中日辞典第2版』小学館,2003年。の“一”の項目の「注意3」)を除き,辞書には記述はないかもしれないが,このように中国人の間でも判断にゆれのある語を辞書でどのように記述すべきかは頭の痛いところである。発音だけでなく,ある語の用例を挙げる際も,その語が現実社会で実際にどのように用いられているかという視点は常に持っておかなければならないだろう。

3月17日に関東支部拡大例会で辞書のワークショップが開かれるが,その場でも学習者にとっての辞書のありかたについて,様々な意見交換ができればよいと思う。

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"我叫阿拉ka(上下)瓦,己悠希代"という時代はくるか

荒川清秀(愛知大学)

中国語教師は授業中,学生の名前をどう呼んでいるのだろうか。ふつうに日本式にアラカワ?それとも中国音でホァンチュアン?たいていの人はなんの疑いももたず,中国音で呼んできたのではないだろうか。わたしは中国語を教えて40年近くになるが,これまでこの呼び方に真っ向から抗議されたことは一度しかない。それから今日まで,たいていの学生はこの呼び方に不満を持っていないのだと思っていた。ところが,98年から「言語文化論」という講義を担当するようになり,「固有名について」というテーマでそのことに触れると,大半の学生は二つ目の名前ができてうれしいとか,最初は少し抵抗があったが今では慣れて抵抗もなくなったと言ってくれるのだが,この中国式の呼び方に違和感をもっている学生も少なからずいるということが分かってきた。

もちろん,わたしたちも毛沢東(モウタクトウ)と日本式に呼んでいるからおあいこだと言って説得するのだが,韓国との間では,30年ほど前に朝鮮人牧師の崔昌華(チョオエ・チャンホア)さんが「わたしの名前をサイショウカではなくチョオエ・チャンホアと呼んでほしい」とNHKを訴えた事件(一円裁判)があってからか,金大中(キン・ダイチュウ)氏はいつのまにかキム・デジュンと呼ばれるようになった。かくて今や日本と韓国との間では,国名をニホンではなくイルボン,ハングッではなくカンコクと固有の漢字音で読みあう以外は,人名,地名ともにほぼ相互現地音主義が徹底している。

これには韓国が漢字を制限していることや,民族感情の問題がからんでいるだろう。しかし,その韓国も少し前までは朝鮮漢字音で,北京をプッキョン,毛沢東をモーテックトンと呼んでいた。それが今やペイチン,マオツァードンと中国式に読むようになってきた。変化しないのは,ただただ中国だけだと言わなければならないが,その中国でさえ,韓国の抗議を受け,最近ではソウルを「漢城」から「首爾」と呼ぶようになってきている。

実は,中国でもかつては日本の地名や人名を日本式に呼んでいた時代があった。たとえば,清末,外国人が編んだ新聞『六合叢談』には「西莫大」が出てくるし,中国人外交官の日記には「哈基蘇克」「福思雅瑪」「由勾哈瑪」「克貝」「維諾」のような表記がみえる。中国人はいつから日本人や日本の地名を中国式に呼ぶようになったのだろう。日本と中国の間に,相互現地音主義が成立する日はくるのだろうか。

(参考:荒川「日本人の名前をなぜ中国音で読むか」『しにか』92/5 大修館書店)

※それぞれ「下田」「蜂須賀」「冨士山」「横浜」「神戸」「上野」

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全国大会を終えて

竹越孝(愛知県立大学)

10月28,29日の二日間,愛知県立大学で開催された第56回全国大会が終わりました。担当校で準備に携わった者としては,大過なく終了したことを何よりも喜んでいます。残務処理が一段落したあたりから1ヶ月ほどは何もする気になれず,バーンアウトのような状態でしたが,最近になってようやく通常のペースに戻りつつあります。

最初に行った会場確保のための交渉から数えると,ほぼ1年の時間を開催準備に費やしたことになります。IACL-11の時まだ着任していなかった私にとってはすべてが初体験で,腹の中に大きな鉛の塊を呑み込んだまま過ごすような気の重い日々でしたが,様々な方々から助けをいただいて何とか乗り切ったという感じです。いま,この1年間自分を突き動かしてきた力は何だったのだろうということを改めて考えてみると,昨年の夏休みに同僚が発した一言に行き当たります。

開催を引き受けることについては様々な意見がありました。私は当初から消極的賛成と言うのか,語学専攻の教員が3名もいる大学はそうないし,どうせ一生に一度は回ってくるだろうから仕方ない,というあきらめにも似た心境でしたが,その同僚は明確に反対の意思を表明しました。研究のための時間を浪費したくない,というのが理由です。そして,竹越さんはまだ30代だからいい,でも自分に残された時間はあとわずかなのだ,という一言を付け加えました。

これは研究至上主義であり,エゴイズム以外の何物でもありません。勝手なことを,と眉を顰める人もいるでしょう。ですが,私はこの一言に腹を立てる気にはなりませんでした。むしろ,平素から学内の雑務を淡々とこなし,毎回の授業の準備を怠らず,何よりも心から学問を尊敬し研究を楽しんでいるこの同僚が,残された時間を数える年齢にさしかかっていることに軽いショックを覚えました。そしてその時,いつまでもこの人に頼ってばかりはいられない,今回は可能な限り自分が頭と体を動かそうと決意しました。

もちろん,すべての事前準備を一人でできるはずもなく,私は1年の間ことあるごとにその同僚の研究室を訪れてはわからない点を尋ね,意見を求め,悩みを聞いてもらいました。彼はそのたびに的確なアドバイスをくれ,開催期間中はただ黙々と手を動かしていました。

すべての後片付けを終えた二日目の夜,私たちは近くの喫茶店でささやかな打ち上げをしました。その同僚は,コーヒーをおいしそうに飲みながら,最初はやりたくなかったが,終わってみるとやはりやってよかったと思う,と言いました。その微笑みを見た時に,私は1年をかけたこのプロジェクトがようやく終わったことを感じました。1年前の,決して前向きとはいえないあの一言によって,私は今回少しだけ成長させてもらったのかも知れません。

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初めてのポスター発表

竹越美奈子(東邦学園大学)

今年の5月,IACL-14 & IsCLL-10(台北:中央研究院)でポスター発表というものを経験した。(横田文彦氏との共同研究)ポスター発表に採用されたという知らせを受けたときは正直とまどった。どういうものかまったくわからなかったからだ。身近に経験者もいなかった。そこで『ポスター発表はチャンスの宝庫!』(今泉美佳,羊土社)という本でポスター発表について研究することからはじめた。そしてとにかく(よくわからないので)試しに全て本に書いてある通りにやってみることにした。

まず本にしたがって8週間前に発表準備を始めた。この段階ですることはこれまでに集めた資料の整理,ポスターを貼るスペースの確認(規定のパネルにポスターが収まらないと読みにくいばかりか周囲の人に迷惑がかかるということなのでメジャーを手に細心の注意を払った)とレイアウトの決定である。そして6週間前からポスターの作成,2週間前には校正(実際にポスターを貼って複数で確認する。ここでポスターを貼るのは思ったより時間がかかること,またポスターを貼る道具として——これは本にも書いていなかったが——両面テープが便利なことがわかった),発表の練習(内容を原稿にまとめたうえで原稿を見ないで説明できるようにする),配布資料や関連する自著の抜き刷りの準備,「当日もちものリスト」の作成(文房具など。特に指し棒は役に立った)にかかった。当初は「8週間前からなんて早すぎるのでは」と思ったが,授業や学校の仕事と並行してやらなくてはならないこと,不測の事態の発生の可能性などを考えると決して早すぎることはなかった。

さて,同書によると当日の注意点は,時間に余裕をもって会場へ向かう(当然といえば当然である。しかし実際は余裕がありすぎるくらい早く行ってしかも二人がかりで貼り始めたにもかかわらず思ったより時間がかかり,最後は共同研究者ではない加納巧氏にまで手伝ってもらった),発表中は相手の目を見て誠意をもって説明する,質疑応答では質問の主旨を正しく理解してから答える(ポスター発表の利点のひとつはさまざまな研究者とじっくりやりとりできることだという。実際,普段口頭発表の質疑応答では手を上げないおとなしい方とかなかなか近寄れないえらい先生のコメントを直接聞けたのはうれしかった),終わったら責任をもってポスターを撤去する(これも当然といえば当然だが,忘れる人もいるらしい)などであった。

こうして初めてのポスター発表はこの本のおかげでなんとか終えることができたのだが——。今考えてみると同書に書かれていた内容は通常の口頭発表でも同じ,基本中の基本である。ポスターはレジュメや予稿やスライド,ポスターを貼るスペースは発表時間にでも相当するだろうか。ポスター発表でも口頭発表でも入念に準備をして緊張感をもって望むべきなのだ。ただ,相対的にポスター発表のほうが準備に時間をかけたかどうかがはっきり出るような気がする。

さて,今年の全国大会は盛会のうちに終わった。が,6分科会に分かれていたため聞きたい発表を聞けなかったとか,聞いてほしい人に来てもらえなかったとかという声もあった。もしかしたら,近い将来この学会でもポスター発表が普通のことになるかもしれない。

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先生の「OK!」—インフォマントは気を遣うという話—

植屋高史(群馬県立女子大学・非)

方言調査というのは,生身の人間を直接の調査対象としている点で独特の難しさがある。調査は少なくとも数週間は続く。緊張感がありすぎても自然なデータは取れないし,緊張感がなさすぎると作業が進まなくなる。このさじ加減は非常に難しい。

共同調査などでベテランの先生方の調査を見せていただくと,巧みに距離間を測りながら,緩急自在に調査を進めている。まるでメキシコのテクニシャン系選手の華麗なアウトボクシングのようだ。

私には,そのような技術や経験はないので,とりあえず「教師と学生」のような関係を築くように心がけている。その旨をはじめに伝えておくと,照れながらも次第に先生を「演じて」くれるようになる。

そして,以下は前回の調査の話である。

ある日,私はインフォマントの実家に遊びに行った。普段は宿舎に来てもらって調査をしているので,いわば実地訓練となる。子供達に誘われて裏山を散策に行くと,ある子がミカンの木を指さしながら私に尋ねてきた。

「おじさん,あれ何て言うか知ってる?」

ミカンは前日に調べたばかりの単語だ。

「(自信満々に)グゥエッでしょ!」

一斉に首を傾げる子供達・・・。そこで,一人の女の子が言った。

「グゥエッじゃないよ。グゥィエッだよ。」

「???」(この段階で,私には同じ音にしか聞こえていない)

このグゥィエッというのは「橘」という字が当てられる。そうだった。私は字音調査の時にその字を何度も何度も読まされたことを思い出した。そして,語彙調査で同じ発音が出てきた時に先生は私の発音に一瞬表情を曇らせたけれども,すぐにOKをくれた。この時に気づくべきだった。実は,私の発音は全くOKではなかったのだ。その夜,子供達について発音練習し,翌日,先生とミカンを食べながら,試しに「このグゥィエッおいしいですね」と言ってみた。「それ,その音!」と手を叩くインフォマント。こちらとしては冷や汗モノだ。もう少しで,おかしな音を大切に記録して日本に帰るところだった。

その話を後日,現地でお世話になっている主任さんに話すと,いくら先生と学生だといっても,外国からのお客様でもあるから,何度も修正させるのは気が引けたのではないか?とのこと。それ以来,インフォマントの「OK!」をすぐには信じないようにしている。

それにしても,子供はどこに行っても子供だ。容赦ない。それが恐ろしいし,ありがたい。

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見るものと見られるもの

遠藤雅裕(中央大学)

文化人類学の分野では,観察者と被観察者の問題について,いろいろな議論がなされてきている。

今夏,調査で中国雲南省シーサンパンナに赴いたのだが,この問題をふと思い出すことになった。

シーサンパンナは,ダイ族というタイ系の民族が集住している地域だ。よって,ダイ族文化は,この地の観光資源になっている。工芸品・料理・芸能・宗教などなど,どこに行ってもほぼダイ族一色であり,また,街路表示には,ダイ文が併記されているので,この土地が,漢族集住地域とは異なった文化圏に属していることを実感させてくれる。

さて,シーサンパンナには「[人泰]族園」なるテーマパークがある。ここは,ダイ族の5つの自然村を囲って,丸ごとテーマパークにしている。そんなテーマパークへ,我々は行ってきた。

感想から述べよう。私は,その土地らしい特色を持っている町や集落を歩くのが好きだ。だから,ダイ族の村を歩くのも当然好きなはずのだが,ここは,なぜか,単純に楽しめない,見ていて,ちょっと悲しくなるような場所であった。

テーマパークであるからには,当然,入場料が必要になる。つまり,我々は,お金を払って,ダイ族の生活をのぞくわけなのだ。いや,そんな失敬なことはしない!と思っても,しかし,そういうシステムなのである。逆のケースを考えてみよう。たとえば,ワタシが住んでる集合住宅が,テーマパーク「日本人村」で,外国人観光客がひっきりなしに来ては,家の中をのぞいたり,写真を撮ったり…どうなんだろうか?たぶん,いくばくかのお金が入ってくるはずだが,おそらく,落ち着かなくて,あんまり楽しくはないだろう。

確かに,村にはお金が落とされて,実入りもよくなるはずだ。全村テーマパーク化は,村おこしの一環ともいえなくもない。とはいえ,そこでは,自分たちの生活の切り売りが行われているわけだし,伝統文化の破壊だって行われているのだろう。

すべては移り変わる。これは,この世の理であるから,ダイ族の村の民族伝統が金を得るためのアトラクションになり,また一方で民族語が失われても,それは,自然の摂理だともいえよう。そして,見るものと見られるものの立場の違いは,厳然と存在している。

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中国の音を採る

中西千香(愛知大学・院)

中国へいけば,以前なら,のちに教材になるかと思って,街のめまぐるしい変化をデジカメでひたすらとったものだが,最近は紙媒体の情報(チラシ類)はもちろん,さまざまなものを採取する癖がついた。その一つに街の音がある。街には中国の風土を感じさせる音があふれており,街をそぞろ歩くだけで,教室では聞くことのできない音が耳に入ってくる。これらは日常生活の音なので,歩くだけで容易に採取可能である。それもあって,私は街を歩くときには録音機能付の小さなMP3プレイヤーを常に肌身離さず持っている。

まずは,売り声。最近は売り声も合理的になったというか録音を流しているだけのところも多い。とはいえ,連呼する“好消息,好消息!最後一天大shuai売!所有皮鞋一律30元!告訴大家一個好消息……”にはニヤリとしてしまう。一つ目の“好消息”よりも二つ目の“好消息”の方が声のトーンが高い。これが中国語の音の心地よさを形づくっている。机上の学習では感じられない醍醐味だ。また,録音でなく,生の売り声を聞けばこれは「買い」である。通り過ぎたあと,やっぱりと思い直して走り戻り,こっそりMP3プレイヤーの録音ボタンを押す。特に夕暮れ時に聞こえる『北京晩報』を売る声“晩〜〜〜報!”は絶品だ。

街の売り声にもう少し耳をむけてみよう。カジュアルウェアの店先で,若い店員が手をたたいて,“看一看,[目焦]一[目焦]!”と客寄せをしている。同じ「見る」意味の“看”と“[目焦]”を使って,中国語の嫌いな重複を避けているのだ。“看”は早い時期に教えても“[目焦]”は教えない。生きた中国語との差を実感する瞬間である。また,有名なお茶屋では時間に合わせて“歓迎光臨,上午好/下午好/晩上好!”と使い分けていることにも気づく。

地下鉄の車内放送やバスの切符売りのおばさんの声もすかさずとる。地下鉄の車内放送では,地下鉄の車両を“列車”といい,「次の駅」は“運行前方”という表現をしている。おまけに到着は,“王府井到了”とくる。到着点である場所名詞が前にくるのだとわかる。バスの切符売りの声からは“扶好”や“拿好”という生きた結果補語“好”の使い方を知ることができる。

こうしてしばらく街を歩いてホテルに戻ると,今度はそれをさらにMP3プレイヤーをFMラジオモードにして,ラジオを録音してしまう。これで帰国しても,採取したデータでまた楽しめる。私の中国の音を採取する旅はこれからも続く。

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多言語意識

山崎直樹(大阪外国語大学)

わたしの勤務する大学で,大人数を相手に講義をしているとき,受講者にこんな作業をさせたことがある。「自分が日常的に使っている言語で,親族名称を知る限り挙げてください。いちばんたくさん挙げた人には,賞品を......」

講義という授業形態でも,教師が一方的にしゃべるのではなく,ときにはこのような作業をさせるのが,授業を活性化させるコツである。

それはさておき,回答用紙を眺めるのは楽しかった。

「イトコチガイ」などという語彙にひさしぶりにお目にかかった。また,感動したのは「やしゃばあちゃん」であった。なるほど「玄孫」が「やしゃご」なら,高祖母はこうなるのか。曾祖母が健在で「ひいばあちゃん」を日常的に使用している人は珍しくなかろうが,生きている高祖母を「やしゃばあちゃん」と呼べる大学生は貴重だろう。御長寿をお喜び申し上げたい。

もっとも,わたしが「やしゃばあちゃん」を最初に目にしたとき,とっさに浮かんだのは「夜叉ばあちゃん」という字面で,「ずいぶん恐ろしげなばーさんだな」と思ったが。

さて,最も多く親族名称を挙げて賞品を獲得したのは,やしゃばあちゃんやひいばあちゃんを擁する日本人学生でもなく,豊富な親族名称を誇る華語圏からの留学生でもなく,家庭内で日常的に日本語と朝鮮語を併用している大阪在住の学生であった。つまり,二言語による3-4世代分の名称が満載されていたというわけである。

この課題を出したとき,わたしはこの結果を予想していなかった。日本の社会は,近年,急速に多言語化していると言われている。そのとおりだろう。しかし,社会の構成員の大多数の意識は,相変わらず,単一言語的であり,言語に関して多元的な思考をする習慣はできていないと,自らを省みて思わされた。

他の学生からは,「ずるーい!」「そんなの,ありか?」という声があがったが,「あり」なのだ,と彼らが思えるようになるのはいつだろうか。

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多言語世界

遠藤雅裕(中央大学)

昨年,1年間,台湾の清華大学に滞在しておりました。

台湾は,というよりも「も」というべきでしょうが,多言語社会です。ホーロー語(台湾語)・客家語・華語という漢語系の言語のほか,オーストロネシア語に属する先住民の言語があります。また,ごく部分的にですが,日本語も残存しています。

ですから,私が会った台湾人にも,ポリグロットの方がかなりいらっしゃいました。たとえば,ある客家人の方は,母語である客家語海陸方言以外に,客家語四県方言・ホーロー語(台湾語)・華語の4言語を話せました。また,清華大学でお世話になった張光宇先生は,母語である客家語四県方言のほか,ホーロー語・華語・英語に通じていらっしゃいましたし,授業では,ところどころ,日本語も交えていました。その日本語は,先生が意識的に習い覚えたというよりは,台湾に残された日本語というべきものでしょう。

台湾では,華語が普及しているために,複数の言語がわからなくても生活は可能です。しかし,華語以外の言語の理解能力の有無によって,見えてくるものが異なるのではなかろうか,と感じました。

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