個人の見える社会学
-要素還元アプローチ-

追補版
2005-2014 Iwao Otsuka


[総論]

社会学における要素還元アプローチ


[要旨]


要素還元アプローチは、全体社会の中で活動する個人を、粒子、構成部品としてはっきり可視化する社会学、「個人の見える社会学」を目指す。
社会を構成する個々人の心理、神経系の活動を、全体社会を分析する視点の中に取り入れることで、心理学との視点共有を目指すこと。
従来の、「社会は個人の総計以上の存在であり、外在して個々人を拘束するものである」という伝統的な社会学の考え方を批判すること。
社会は、相互作用する個々人の集合体であり、それ以上でも以下でもない。
社会は、要素として、個々人の心理、および個人間を結ぶコネクタへと還元される。社会行動は、個人神経系間の相互作用に還元される。


[社会の要素還元]


要素還元アプローチとは-社会学-。

要素還元アプローチは、全体社会の中で活動する個人を、粒子、構成部品としてはっきり可視化する社会学、「個人の見える社会学」を目指す。

社会を構成する個々人の心理、神経系の活動を、全体社会を分析する視点の中に取り入れることで、心理学との視点共有を目指すこと。

従来の、「社会は個人の総計以上の存在であり、外在して個々人を拘束するものである」という伝統的な社会学の考え方を批判すること。

社会は、相互作用する個々人の集合体であり、それ以上でも以下でもない。個人を超えて外在しないこと。
社会は、要素として、個々人の心理、および個人間を結ぶコネクタへと還元される。社会行動は、個人間の相互作用に還元される。
文化は、個々人の頭の中、神経系の中へと還元される。

2005.05-2006 初出

社会は個人に還元できる。

社会は個人に還元できないとする創発性は、幻である。

ある一人の行為者にとって、社会とは、残りの人々の集合体である。それは、一人の意のままにならない、思い通りにならない、言うことを聞かない存在である。個々人の集合体であり、個人に還元できるが、個人では動かせないという点で、個人を超えた存在である。

個人は、各自、個別の事情を抱えており、自分に都合のよいことをしようとするが、それが他人には迷惑になっていることがある。

人間は、他人が周囲にいるときと、いないときとで異なる行動をしようとする。人間は、自分と同じことをしようとする人が周囲にいると、気が大きくなって、自己が拡大したような気になって、一人だけの時とは違うことをする。 人間は、周囲に、自分と同じ文化を共有する仲間が数人でもいると、気が大きくなって、一人ではできないことができる。
気が大きくなることは、一人では起きないので、「社会」のおかげという説明が、これまではなされてきた。 確かに、個人の心理は、一人でいる時と、周りにたくさん他人がいる時とでは異なる。周囲に他者がいる時は、他者との間にコミュニケーションや相互作用のためのブリッジが成立するためである。

これは、他者の援助があると思うから気が大きくなる。他者がいることによって初めて起きる、一人単独では起こらない心理があるのは確かである。これが、社会は、個人単独ベースでは説明できないことの論拠とされてきた。

しかし、これは、実際は、同類の相手・他者がいる時に起こる個人の心理にへと還元しうる。つまり、これは、「外部社会」がそのように仕向けていると言うよりは、もともと、人間各個人の神経系の中に、そのような、自分と同類が見つかったとき、協力者が増えたと感じて気が大きくなるという心理的機構が遺伝的に組み込まれているということだと考えるのがより々自然であろう。

生物個体の活動は、細胞レベルの活動の上に積み上がっているはずである。
社会は、個人の心理・生理とは別個に、個人を超えて独自に成立すると主張すること、社会を個々人の集合以上のものと捉えることは、生物個体の活動が、細胞活動に支配されずに、細胞活動とは別の次元で切り離されて行われている(生じている、決まる)と主張するのと同じである。つまり、生物の活動を、細胞レベルを無視して構築できると考えるのと同じであること。これはナンセンスである。

これは、個人の顔が見えない社会学であり、一人一人の個人の力を軽視し、個々人の意思を無視した非人間的な学説である。

こうした考えとは別に、以下のような考え方も成り立つ。すなわち、社会は個人を超えて存在しない。社会は、個人の合計であり、個人に還元される。社会は、個々人の集合以上でも以下でもない、とするものである。つまり、個人が見える社会学であり、今後の社会学は、この方向で進むことで、今までにない、個人を尊重した新たな見地を得ることができる。

つまり、社会を、個人を超えた独自の存在として捉えるのではなく、個々人の集合体として捉える。

2005-2006 初出


社会は、個人に還元できないと言えるか?

仮に社会の総人数が10名ほどだったと仮定した場合、社会が個人に還元できない外在的な存在であると言うのならば、10人から1人分ずつ頭というか心(神経系)を順に消して行ったとき、全員消しても、社会は「外在的存在として」残り続けるということなのだろうか?

2人が残った状態までは、2人の間にコミュニケーションのやりとりをするコネクタが成立するから、社会は外在するということになるが、実際にそのような実感は果たして2人だけの状態で沸くだろうか?単に、もう一人の他人の個人心理が目前にあると感じるだけで、社会の存在は感覚としては消え去るというのが自然ではあるまいか。

強いて言うならば、1人だけ残った状態で、その1人の頭の中、神経系の中に、他の(消え去った)成員が見つけてきた、その成員由来の情報が記憶されて残っている場合、その(消え去った)外在成員との共同社会が、残った1人の神経系の中に息づいていると言える。しかし、その際、情報を残した外在成員は誰と誰々だ、この情報は誰由来だと同定できる訳であり、そういう点では個人還元可能である。また、外在成員の持っていた情報が、その成員個人が初めて見つけたものでなく、太古の昔から様々な不特定の成員の間を連綿として受け継がれてきたものである場合、「外部社会由来の情報です」と果たして言うことができるだろうか?単に、誰が最初に言い出したかの寄る辺、手がかりが、長い歴史が経過する内に失われただけで、最初にその情報の内容を見いだした、発見、発明したのは、特定の誰か個人である。発見、発明は、個人の頭の中で起きるのであり、初期状態では、他の成員の頭の中には共有されていない。その点、その情報も社会の中に最初から存在していた訳ではなく、個人の発見、発明に帰せられるのである。

2005-2006 初出


従来の還元主義との相違

要素還元アプローチにおいては、1人1人の個人の動き、すなわち要素の粒々の動きと相互作用が見えるようにする(観察対象とする)。。
従来の還元主義とは異なる。すなわち、社会を個々人の心理に還元して捉える、心理還元主義や、個人は社会的存在に過ぎないとして全てを社会に還元する、社会還元主義とは異なる。

粒子=個人の頭(神経系)の中の文化は、ウィルス化して、他人の神経系に感染する。感染は、他人の神経系との間に、コミュニケーションのためのブリッジが確立して、神経系間の情報のやりとりが可能になることで生じる。

2005-2006 初出

要素還元アプローチと箱庭社会

要素還元アプローチにおいては、箱庭社会の研究が有効である。
15~50個位の粒子で、全体社会の縮小・ミニチュア版の小社会を作り、そこで、粒子が構成する社会の動きをコンパクトにシミュレート、図式化する。

少数粒子からなる箱庭社会のシミュレート例としては、パターンDで動く社会(ドライな社会)とパターンWで動く社会(ウェットな社会)がある。パターンDは気体分子群、パターンWは液体分子群を、それぞれ小さな社会として捉え、コンピュータ・シミュレーションでの粒子群の動きを動画キャプチャしたものである。


例えば、グループAの各成員には、共通して、「A」という文化ウィルスが感染しており、同じ文化ウィルスに感染した者同士は、互いに仲間として親近感を持って捉えられる。一方、グループBの各成員には、共通して「アンチA」という文化ウィルスが感染しており、グループAとは、互いに反対の文化を持つ状態になっている。


文化の粒、素子は、文化ウィルスとして、図に表示できる。各文化ウィルスに対して、個人は、頭の中で、促進・肯定、否定の価値観ラベルを貼る。

2005-2006 初出


[社会学と個人]


個々人の集合体としての社会

社会とは、個々人の心理、意思の集合体である。

社会は、人々の相互作用に基づく集合体として捉えられる。
本来、他人の心理システムから移植された行動様式を、「社会」という個人とは独立した存在が生み出したかのように錯覚した。

個々人の総意が、社会的意思決定ということになる。
いろいろな相反する考えの人がいるので、互いに、自分を有利にすべく牽制、足の引っ張り合い、攻撃や邪魔等を行うため、個々人の集合体である社会の意思は、各個人の意のままにならない。そのことが、社会は、個人とは独立した、独自の意思を持つ「怪物」のように錯覚することにつながる。

社会においては、多数のバラバラな考え、主張を持った、個人が互いにぶつかり合って、影響を及ぼし合い、その結果、社会は、個人の統制を外れたものになる。それが、個人を超えた社会が実在するかのように見えるだけであり、実際には、全て個々人に還元される。

社会は、個々人の大規模な集合体と捉えた方が、社会をより実体あるものとして捉えやすくなる。

2005-2006 初出


社会学で、人間の心理を扱う必要性

社会学が従来のように、人間の心理を扱わないのは誤りである。

従来の心理学のように、人間の心理を個人に閉じたものと捉えるのは間違いである。人間の心理は入力と出力がある。入力・出力は、必ず、入力元・出力先の相手が必要である。行動すると、相手との相互作用が必然的に起きる。中には、自省のように、自分自身が出力先となることもある。このように、人間心理は、本質的に社会的であり、相手が必要なのである。

例えば、臨床心理で、抑鬱が困るとされるが、それは他人とうまくやって行けないとか、他人に有効な機能を提供することができないからであり、そういう点で、個人一人の問題でなく、常に他者が関わってくる。


従来心理学が扱ってきた、他人がいない場合、他人と相互作用していない場合の心理は、単独心理と呼べる。一方、他人がいる場合、複数人と同時にいる場合の心理は、集団心理と呼べる。

これは、物体相手の視覚心理のような、対物心理と、生命(ペット、動物、植物)や人間相手のような、対人心理、対生命体心理とに分けることもできる。この場合、生命には、例えば通電でONになるようなロボットや家電製品のようなものも含めることができる。

2005-2006 初出
社会学、心理学、生理学の三層構造
社会学、心理学、生理学は、三層構造をなしており、社会学を論じるには、より基盤となる心理学や生理学の前提知識や考え方が必要である。社会学者は、人間の行動の根本をなす、より基盤となる脳や神経系の活動のあり方、行動との関連性について知っておく必要がある。

↑応用

社会学 複数の脳同士の連携のあり方について調べること。
------
心理学 単一の脳と行動との関連を調べること。
------
生理学 脳の生理的基盤を調べること。

↓基盤


社会を、人間の心理、生理と独立したものと考える従来社会学の行き方は改められる必要がある。
2015年3月初出



個人主体の社会学の必要性

個人主体の、個人が主人公の社会学が必要である。
「社会」という固まりが個人に影響を及ぼすのではない。
社会は、実際には、様々な役割や機能を持つ個人間の連携プレイとして捉えられる。社会の動きは、個々人のプレイヤーにばらして捉えることができる。

例えば、テレビの影響は、以下のような人々の連携プレイで捉えることができる。

事件を起こした人
事件を見ていた人
取材者
編集者
アナウンサーと、放送機材操作者

これは、複数プレーヤの協力行動を、時系列で図示したものとなる。

様々なプレーヤが、各々周囲の他プレーヤに対して自分の影響力を及ぼそうとする。それは、情報伝達や、文化ウィルス感染のように、自分自身で得た情報を知らせたいとか、自作の作品やアイデアを広めたいといった動機に基づくものである。「時分にがあった」といった、出来事、イベント、エピソードに関するもの、「こう動けばよい」といったノウハウに関するもの、「こうすべきだ」という意見に関するものに分かれる。
社会の動きを、各プレーヤまで、個人個人の動きまで分解・分析して、大きな模造紙に大地図のように、各個人プレーヤの動き、機能の連鎖を書き出すことが可能なはずである。

社会を動かす個々人を、粒子、分子に見立てることで、人間~生物社会の動きを、個別のプレーヤに分解して、複数分子の運動のように、各プレーヤの運動の集合体として、社会を捉えること。
社会活動、行動、業務といったものを、パーツに分けて、プレーヤが他のプレーヤに、どのような情報や文化を順に働きかけていくか、「→」で表現して、時系列で図示していく。これは、個人の行動を主体とする「社会行動図(業務行動図)」とでも呼べる。この社会(業務)行動図を、パターン化、部品化して、うまく働く部品を組み合わせることで、社会~業務全体を構築すること。社会(業務)行動図は、あくまでプレーヤである個人の粒々が中心である。

従来の社会学において、社会の動きとして、それ以上分割不可能な大きな固まりの動きとして捉えられてきたものを、社会を構成する個人プレーヤ毎の運動に分解して捉えることが可能であるとする見方を取る。

分子生物学は、生命の働きを個別遺伝子に分割することで伸びてきた。それと同様に、要素還元アプローチの社会学は、社会の働きを、個別の個人(粒子)に分割した上で、個人間の相互作用を見ることで、解明しようとする。

2005-2006 初出


「個人の見える社会学」と従来社会学との比較

2008.07 初出


以下では、世論調査結果の表示を例にして、個人の見える社会学と従来社会学との比較を行う。

以下に、2つの世論調査結果表示方法を示すこと。


従来の社会学で伝統的に行われている、世論の表示は、個人の意思が、円グラフで示される全体社会の中に溶解、埋没して、見えなくなってしまう。
重視されるのは、全体としての社会の意思であり、基盤となる個々人の存在は無視されてしまう。

これに対して、「個人の見える社会学」では、世論は、個々人(Aさん、Bさん、Cさん・・・)の意思の集積として表されることを明示すること。世論において、個々人の動きが見える、可視化される。社会を構成する個々人の存在を尊重する個人本位の社会学であるということができる。

なぜ、社会の把握において、個人を中心に据える必要があるか?

既存の、個人間の相互作用のみを扱う、社会学主義、従来の社会システム論の行き方では、個人の頭の中にあるコンテンツ(アイデアや行動様式のコレクション)を扱えないという問題があるからである。
行動様式、業務知識、ノウハウ、文化といったコンテンツ(内容、中身)は、個人の頭(心、神経系)の中にもともとあり(蓄積、コピーされており)、相互作用そのものの中にはないからである。社会の動きを分析する上で、個人の頭の中にある、社会の動きを決定するコンテンツを扱うには、個々人を分析の中心に据える必要がある。

業務を行う、社会を動かす、各種判断・決定を行う行為主体は個人であり、それゆえ、そうした個人の行動を分析の枠組みの中に捉えるには、個人の頭の中(神経系)を分析の中心に据える必要がある。
そういう点では、あくまでも個人の神経系あっての社会であり、社会だけでは、単なる個人間を結ぶブリッジの寄せ集めに過ぎない。

社会は、そのままでは、互いに行きたい方向、価値観がバラバラの複数個体の寄せ集めである。


社会を個人に還元できないとする、あるいは、個人間の相互作用のみを見て、個人そのものを見ない、従来の社会学的なやり方よりも、社会を個人に還元する、あるいは社会を、バラバラな個人の集合体と見る、粒子還元論的なやり方(要素還元アプローチ)の方が、文化、行動様式、環境適応ノウハウといった、個々人の頭の中にあるコンテンツの動態を扱える分、社会システムの動きをよりよく説明できるのではないか?


社会の捉え方にも2通りあって、従来のように、個人間の相互作用そのもののみを抜き出して捉える行き方と、個々人の頭の中のコンテンツをも社会の中に含める行き方とがある。筆者が望ましいと主張するのは、後者の、個々人の神経系を分析対象に含める行き方である。この行き方では、従来言われてきた、個人の心から心へと感染して広まる文化ウィルス(これは、人によってミームとか、イデオロギーとかいろいろ言い方がある)が扱えるという長所がある。

文化ウィルスは、講義、放送、口コミ等のコミュニケーションによって(社会素子の通路を通って)、ある個人から別の個々人の頭の中へと入り込み、個々人の神経回路の形を変える形で、頭の中に感染する。社会運動とか、ブームは、この文化ないし行動様式の心理感染が大規模に発生したものと捉えることができる。個々人は、感染すると、その新たに感染した行動様式を取らずにはいられなくなる。これが、文化ウィルスによる「病気」の発症である。

文化ウィルスの中身は、会社員であれば、業務ノウハウであったり、イベント情報だったりする。あるいは、人種差別イデオロギーであったり、高校の教室内であれば、微分積分の数学の知識だったりすること。

文化感染と社会のドライ・ウェットさとの関連でいけば、相互の一体・密集感を重んじるウェットな社会ほど、文化ウィルス感染が流行しやすい。同一の文化が、多人数に一斉に感染する、一斉感染が起きる。

2005-2006 初出


ドライ・ウェットな行動様式研究との適合性

例えば、筆者によるドライ・ウェットな行動様式の研究は、複数の粒子=人間の動きを同時に見ようとするものであり、社会を粒子の活動に還元する、要素還元アプローチに合致する。

2005-2006 初出



社会学における2つの主人公

社会学においては、個人が、分析対象となる主人公か、コミュニケーション、相互作用自体が主人公か、という二つの見方が葛藤している。
コミュニケーション自体、ないし相互作用自体を分析対象の主人公と見なしてきたのが、従来の社会システム論であった。これは、個人不在、個人否定の非人間的な把握であり、個人は分析の対象外であった。これは、従来の経営学において、部課といった組織中心の把握が行われ、個々のプレーヤの姿が見えないのと根は同じである。
一方、個人を分析対象とするのは、人間、個体中心の、個体の見える、要素還元アプローチの社会論である。これは、経営で言うならば、個々人の業務行動、best behaviorの図式化、パターン化に当たる。組織を構成する個々の粒々の動きが常に見えるようにする行き方である。

2005-2006 初出



[社会心の問題]



社会心への反論

社会は、従来の見方では、単なる情報や物資のやりとりの通り道であり、コネクタに過ぎないので、文化や行動様式といったコンテンツをそれ自体持つことができない。コンテンツを持っているのは、個々人の心理、神経系である。この問題は、社会に個々人の心理を含めることにより解消する。

既存の、相互作用のみを見て、人間の個体を見ない社会システム論は、例えば、コンピュータシステムで、コンピュータ同士をつなぐLANケーブル(を通る情報)のみ監視していれば、システムが分かると言っているようなものである。
コンピュータシステムの正しい把握のためには、LANケーブル下を流れる情報だけでなく、個々のコンピュータ(サーバ、クライアント、P2Pローカルマシン・・・・)の保持している情報や、動作を決定するプログラム(さらにはコンピュータを操作する人々の動き)を分析の対象にすることが不可欠であり、その例えを、社会システムの把握に応用したとき、個々人の神経系ないし個々人の頭が保持しているコンテンツを分析の対象にすることが不可欠ということになる。

2005-2006 初出


社会の外在は本当か?

社会は、個々人を超えて、客観的に外在するという見方がある。一方、社会は、社会を構成する個々人の心の中、神経系の中のみにあり、外在しないとする見方もある。

社会が外在することの根拠として、例えば、会社や官庁の組織であれば、「組織図」というのがあり、それが個々人を外部から拘束しているという説明がされてきた。しかし、実際のところ、その組織図は、成員が組織図の内容を頭の中に十分たたき込んで学習すると共に、組織階層で下位の者は、上位者の指示に従う必要があるのだということを予め了解していることが前提となる。組織図の内容を頭の中によく記憶していなかったり、下位者は上位者に従うという組織の論理が頭の中に入っていない不勉強な成員は、組織図の指示系統の通りに動くことはあまりない。その場合、組織図は有効に機能しているとは言えず、組織図はその成員にとっては外在しないに等しい。

要は、組織図が機能するには、その内容が、個々の成員の頭の中にしっかりと学習されている必要がある。そういう意味で、社会の外在化、成員の外部からの拘束が有効になるには、まず成員による内面化が必須であり、その際、どこに内面化されるかと言えば、個々人の神経系、頭の中に刷り込まれるのであるから、結局、この問題を正しく理解するには、社会学が、個々人の心理を扱うことが必須となる。そういう意味では、一見客観的に存在するかに見える組織図も、実際には、個々の成員の神経系の中、頭の中にしか存在しないと言える。紙に書かれた組織図自体が効力を持つのではなく、成員が組織図を目視して、その内容を頭の中に叩き込む、神経系の中に内面化することで初めて効力を持つのである。組織図の最新の内容が、まだどの成員の頭の中にも十分に入っていない状態で、その組織図の紙がどこかの書類と一緒になって埋もれて閲覧不可能になってしまったら、その組織図は、確かに外在的に存在し続けてはいるものの、各成員にとっては無効である。


全体社会像は、人間としての心理的な情報処理能力の限界により、一人で見ることは不可能である。その点、内面化している社会像は、個人毎に異なっているのが実情である。同じ日本人だと言っても、、芸能ニュースばかりに興味がある人や、外交問題に主に興味があってその他はどうでもいいやと考えている人などいろいろな人がいて、それぞれ見えている外部社会像が異なる。各人にとって、同じ社会が共通に「外在」しているという訳ではないし、同じ社会像を共有できている訳でもない。例えば、右翼と左翼とでは、自分の外部に広がる社会についての認識のあり方に相当ギャップがあるだろう。あるいは、個々人は、全体社会は見ることができず、部分社会しか見えない。個々人は、各々、自分の専門分野のみしか見えないのである。

なので、社会が外在すると言っても、その外在の仕方は、個々人の専門分野や立場によって異なる。そのため、同一社会が成員全員に同じ外在的制約を加えているとはとても言えない。

この場合、同調指向の強さは、結局、個人の心理的傾向に帰するのであり、その際、なぜ皆が揃って同調指向が強かったかと言えば、人口の大半が稲作農耕に従事し、揃って村落共同体の中で、同じような、相互一体感を重んずる母性の影響力が強い生活をたまたましていたからに過ぎない。つまり、共通の文化ウィルスが、社会を構成する個々人の頭の中に、広範に行き渡った場合に、初めて、同一の社会像を、個々人は共有できることになる。その意味でも、ある統一された社会が、最初から個々人の外部に客観的に外在するとは言えず、一定の文化ウィルスが、個々人に共通に「内面化」されて初めて、おぼろげながら「共通の外在する社会像」が形成されるのである。

2005-2006 初出



社会的合意は、個人の心理を超えているか?

よく駅構内の禁煙コーナーとかは、社会的合意に基づいて設置されたものであり、その社会的合意は、個人に還元し得ない集団的なものだという言い方がよくなされる。

しかしこの伝統的な社会学的考え方では、駅ホームでの禁煙マナーは、駅を所有する鉄道会社の駅環境整備担当部署の社員たち個々人の「駅構内は禁煙にしよう」という意思決定などとは無関係に、より超越的な存在の「集団」「社会」がどこからともなく自ら生み出したものということになる。

これについては、そもそも、禁煙ルールでも、最初「喫煙は有害だ」と唱えた少数の医療関係者個々人の説得力のある主張があったから、その主張が有効なアイデアとして、人々の心理に感染して、大多数の人々の心理が受け入れてあまねく広まることで、ルールとして定着したと考えられる。

その点、「喫煙はいけない」というルールは、「社会」が作ったのではなくて、喫煙は有害だという説得力のあるデータを用意した医療関係者個々人がルーツだと言えるのではないか。

ルールは、個人から乖離した「社会」がどこからともなく作るものではなく、個々人の心理を変える、説得力ある主張(これは個人が発想したアイデア)が作るものである。

個々人の心理を説得できなくても、警察とかの強制力で従わせるというのもあるが、これも、警察官僚や巡査まで、警察職員個々人の意思決定へとバラせるはずである。

駅構内での禁煙への集団的合意についても、各個人が、「~して下さい」という鉄道会社側からの依頼内容を、鉄道会社の担当者が作った掲示物を見たり、人から教えてもらって、それに対して個別に了解、賛成、納得しないと合意にならない。

合意とは、個人的な物であり、個人の合意、賛成の合計が、社会的、集団的合意と言える。それが人々全員の何パーセント以上だと合意がなされているということになる。ほとんど、たいていの人が合意、賛成、納得している場合、それが社会的合意となる。

だから、禁煙にしても、人によって、合意していたり、合意していなかったりする。その点、個人の賛成、合意の合計を超えた、超越的な社会的合意があるわけではない。

80%の人が禁煙に合意していると、残り20%の喫煙派の人は、自分は合意していなくても、他の多数の人たちは、禁煙に賛成しているから、人数の面で負ける、不利だと考え、仕方なく従うというのが、この場合の「禁煙について社会的合意がもたらされた」ことの現実であろう。要は、賛成/反対する個別の人間の数の多少とそれがもたらす勝ち負けの問題へと帰着するのであり、各人による、その場での賛成/反対の人数の多さの確認と、それに対する個人レベルでの有利、不利判断へとバラすことができるのである。

だから、社会を支配、コントロールするとされる政府が、上から法律を作っても、多数の人々が、個別に賛成、合意しないと、機能しないし、社会的合意とは言えない。「何かよく分からないが、余所の気に食わない奴らが、変な法律作ってきたぞ。皆で無視、反対しようこと。」みたいに捉えられてしまうこと。これは、企業組織でも同様であり、上部組織が作った規則は必ずしも守られないことが多いのである。

喫煙は体に有害であり、なくした方がいいという考え方が、各個人が絶えず賛成、共有していないと、いくら駅員とかが言っても、駅スペースでの禁煙は成り立たない。


2005-2006 初出



感情の自己管理との関連


例えば、感情発生といった遺伝的行動、人類共通な行動が、社会によって規定されているかのように見える。要は、周囲の他者の眼、監視によって、同士の態度を互いに揃えようとする、とされること。

この場合、「感情の自己管理」は、社会の産物か?これも、実際には、もともと、個々人の心理は、周囲の他の対象(物体等)と入出力のやりとりすることを前提とした構成物であり、物体相手でも感情は起こりうる(例えば、「大きな石がこっちに転がってくるゾ。うわー、このままでは潰される。怖い、逃げようこと。」など)。その入出力の対象、ないし感情のやりとりの対象がたまたま人間になったまでのことである。

だから結局、感情のあり方は、個々人の心理に帰着すると言える。

「ゴキブリが出てきて、本当は大声で叫んで逃げたいんだけど、周りに人がいるから、騒ぎにならないように平静を装おうとする」という場合、個人の心の中には、「ゴキブリが怖い」という人外の対象に対する心の他に、「下手に騒ぎを起こして、周囲に注目されたくない」「人にゴキブリが怖い小心者と思われたくない」といった他人に対する心がもともと存在している。これは、「変なことで注目されて、プライバシーを侵されないようにしよう」「小心者と思われて馬鹿にされないようにしよう」という、個人が持つより根本的な考え(プライバシーへの感覚、プライドへの感覚)へと帰着される。

こうした根本的な心理は、人類共通のものであり、人類以前から遺伝的、生体的に受け継いでいる考えとして捉えることが出来る。人間が後から作った社会によって外在的に規定されていると考えるのは無理があると言える。


2005-2006 初出



[社会素子・ユニット]



社会が存在するのは、神経系の中だけ。

社会は、各個人の頭(神経系)の中にある。頭の外には外在しない。

例えば、ある社会の成員が全員脳死状態に陥った時、社会は彼らの外に存在し続けるかと言えば、滅亡したということになるだろう。

遺された書籍とかが、他の社会の人間たちに再び内容を解読されて、内容が再び彼らの心の中、神経系の中に投入されない限り、復活しない。

2005-2012 初出


「社会素子・ユニット」の概念について

社会は、二者(1対1、1対多、多対多)間の相互作用、やりとりの流れ(パイプラインの流れ)の連鎖として捉えられる。
相互作用、パイプライン、コネクタは、「社会素子・ユニット」として捉えられること。
それらは、以下のように分類されること。
(1)一時的な関係か、継続的な関係か
(2)細い関係か、太い関係か
(3)双方向の関係か、一方向の関係か
(4)利害関係か、無償・ボランティアの関係か
(5)高くつく(高コスト)関係か、安上がり(低コスト)関係か



やり取りの流れの中身は、以下のようなものである。
文化→イベント情報、意見、ノウハウ
物資→贈り物等
それらは、最終的には、機能のやりとりへと帰着する。

社会素子は、個人間の相互作用やコミュニケーションを最小単位として捉えたもの(相互作用でやりとりされる情報などの通路、ブリッジ)である。
個人の頭の中(神経系)に存在するのが、行動様式の最小単位である文化素子(文化ウィルス)の群れであり、確立された社会素子の中を流通、経由して、社会素子で結ばれた一方の頭の中から他方の頭の中(神経系)へと感染する。

社会素子でつながった複数の役割(機能)を担う個人同士の相互作用、行動の連鎖のうち、一つのまとまり、一つの単位として扱えるものが、社会行動セル(細胞)ないし社会行動ブロックである。
複数の社会行動のブロックとブロックを連結して、たくさんつないで、絵巻物として、無限大の模造紙へ展開することができる。それが、社会の全体像である。

個々人の頭の中に存在する文化とか環境適応に必要なノウハウといったものを扱うには、従来の社会素子(個人間の相互作用)だけを見る社会システム論ではダメで、相互作用を行う個々人の頭の中(神経系の中身)まで問題にするアプローチが必要である。

2005-2006 初出


「文化プール」[行動様式プール」との関連について

人間の頭の中には、自分自身が考え出したアイデアや、先祖や親から教えられたり、学校で習った、他者由来の様々な行動様式、文化が入り込んで、記憶されて、たまっている。そうした点、人間の頭の中、すなわち神経系は、文化素子(文化の最小単位)群の容器であり、文化素子群をためる「プール」としての役割を果たしていると言える。神経系のこうした側面は「文化プール」という言葉で呼び表すことが可能である。神経系にたまった文化素子群は、コミュニケーションを通じて、他者の神経系へと、そのコピーがどんどん流出していく。
今までの社会学では、神経系は、個人に閉じた心理を発現するものに過ぎない、社会的でないとして、分析対象から外されてきた。しかし、神経系のこうした、他者とやりとりする文化をためる「文化プール」としての働きを考えれば、神経系の働きは、社会学の対象と十分なりうると言える。
この場合、人間の行動様式は、遺伝的に決定された本能的なものと、後天的に獲得されたものがあり、両者が混じり合って、その人の行動様式を生成しているので、遺伝的行動様式も加味して、個人の脳神経系を「行動様式プール」と呼び習わすこともできる。
ある人にとっての遺伝的行動様式(ニューロン回路)が、別の人には、予め遺伝的にインプットされておらず、後天的学習によってコピーされる場合もあると考えられる。

2005-2006 初出(2014追補)


「文化ウィルス」との関連について

発明・発見者個人の頭の中で生まれ、人から人へと感染するのが、「文化ウィルス」(cultural virus)である。文化伝達や個人の社会化は、個人間の文化ウィルスの感染として捉えることができるという説が以前より存在する。これはインフルエンザの感染と同じであり、神経系への感染である。ニューロンの生体自体には影響を及ぼさず、ニューラルネットワークの形を変える形で作用する。文化ウィルスの広範な成員間での共有が、成員間に共通の認識を生み出し、社会の成立につながる。

2005-2006 初出


[結論]


宗教思想の一種のしての現行社会学

結局、既存の社会学は、個々人の頭、心の中のコンテンツを無視しているため、説得力がないのである。

例えば、会社は、個々の社員がより集まって動かしているのだというのが実感であり、仮に、会社は、個々の社員を超越した「組織」が動かしているのだと言ったら、実感が沸かないと言うか、聞いた人は、そんなの間違っていると思うだろう。ところが、なぜか、同じ個々人の寄せ集めから成る社会については、個々の成員を超越した「社会」自身が自律的に、成員にとって外在的に動いているのだといった言説がまかり通るのである。この場合の「社会」は、宗教の信仰対象となる超越者、神のような存在であり、その点、こうした言説を信じる社会学は、科学というよりは、宗教思想の一種と言える。

なぜ、このような言説がまかり通るかと言えば、それだけ、社会が各成員にとって、思い通りにならない存在であり、かつ、自らの情報処理能力の限界から、その全体像を掴みにくい存在だからだと言える。社会は、複数のバラバラな構成員からなり、互いに他の成員が、自分の意のままにならない存在である。かつ、その意のままにならない存在同士が、複数人で互いに協力して、変転する自然環境下で生き延びるため「団結する」「うまく動く」「機能する」ことが求められるのである。この困難な課題にぶち当たった成員たちは、いつのまにか、各自をうまくまとめてくれる超越者のような存在を想定したくなり、それが「外部社会」という蜃気楼のような実体のない存在だったという落ちが想定されるのである。

2005-2006 初出


[各論]


機能主義


詳しくは、筆者の機能主義に関する書籍を参照されたい。


社会湿度


詳しくは、筆者のドライ・ウェットな感覚、性格、社会に関する書籍を参照されたい。


神経系と社会


詳しくは、筆者の神経系と社会・文化に関する書籍を参照されたい。


心理システムとの関連

心理システムと社会システム


人間~生物の生命有機体システムは、大きく分けて、酸素や水分、栄養分などの摂取を行う、生理レベルのシステムと、外部環境の変動に対応した行動や記憶を司る、心理レベルのシステムとからなると考えられる。

この場合、生理レベルの動きは、ホメオスタシスによって、均衡を保っていると言え、従来の構造=機能分析型のシステム理論が当てはまる。生理レベルでも、体温など細かな変動がないわけではないが、その変動は、あくまでも、均衡を破壊しない程度の、一定範囲内の変動である(均衡内変動)。体温など、一定以上高くなったり低くなったりすると、人間~生物は死んでしまう。

しかし、心理レベルにおいては、周囲の環境の変動に適応していく形で、今までにない新しい行動様式を絶えず学習したり、発明・発見したりしていく。例えば、コペルニクスによる地動説の提唱は、従来の天動説で固められた、各人の心理レベルのシステムを、根本的に破壊し、大きく変動させる結果となった、という意味で、「コペルニクス的転回」と呼ばれる。

この根本的変動は、最初は、コペルニクス個人の心理システム内で起きた。コペルニクス個人の心理システムの根本的変動は、コペルニクスの出版物を読んだ各人の心理システムに伝播して、各人の心理システムのあり方を根底から揺るがした。こうした意味で、社会変動は、個々人の心理システムのあり方の変動の合計と捉えることができる。

社会は、心理システム同士の相互作用として捉えられる。

「コペルニクス的転回」のような根本的に価値観がひっくり返る現象は、既存のシステム均衡を廃する形の均衡外変動と言える。こうした意味で、心理レベルのシステムは、生理レベルと異なり、学習、発明・発見を行うことで、絶えず均衡を廃して、新しい水準の環境適応が行われるように、変動を指向している、と言える。したがって、従来の構造=機能分析型のシステム理論を当てはめることはできない。

心理レベルのシステムにとっての「機能」は、学習・発明によって絶えず変化する行動様式が持つところの、刻々と変化する環境に適応していく上で役に立つ働き、と捉えることができる。

現実の社会システムは、個々人の持つ心理システム同士の相互作用で成り立っている。したがって、社会システムの仕組みは、新たな学習・発明・発見などにより変動した心理システム同士の相互作用に伴い、絶え間なく従来の均衡状態を廃して、今までにない新しい段階へと変動している(均衡外変動)、と考えられる。こうした心理~社会システム変動への原動力が、人間~生物に内在するところの、環境適応の水準を向上させようという、圧力である。この圧力が、人間に、学習、発明・発見行動を起こさせるもととなる。

T.Parsonsらの、構造=機能分析がうまく行かなかった(理論的に下火になってしまった)のは、一定範囲内の変動(均衡内変動)しか許さない生理システムに、社会システムの模範を求めてしまったからだと言える。こうした従来の社会学における機能主義の停滞を脱するためには、従来の構造・枠組みを積極的に塗り替える形で、均衡外変動を許す、心理システムに、社会システムの模範を求めるべきである。

従来の社会学では、E.Durkheim以来の社会学主義の影響で、社会変動は、心理システムとは別に、社会システムレベルで独自に起こるものと考えられがちであったが、この見方は、改められなければならない。

例えば、携帯電話の普及は、コミュニケーションの取り方に関する社会の仕組みを確実に変化させた。この点、携帯電話は、社会変動を起こした、と言ってよい。この場合、社会変動は、個々の電話利用者の行動変化の積み重ねであり、個々の利用者の心理システム変動の反映である。個々の電話利用者の心理システムのあり方と無関係に、社会レベルで、独自に、変動が起きている訳ではない。

では、社会変動と同期して起こる、心理システムの変動は、具体的に、どの部分で起きているのであろうか?

個々人の学習や、発明・発見の結果が格納されるのは、可塑性(変動可能性)を持つ、心理システムにおける長期記憶部であろうと思われる。
個々人の心理システムの変動は、おそらく、長期記憶部で、ニューロン同士の配線が、大きく変化することで起きているのではないか?そして、この配線の変動が、社会レベルの変動につながっているのではあるまいか?

(c)1999-2000 初出