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オスロの手紙

第一章/エピローグ

照りつける太陽を避けるようにして木陰に駆け込んだ。木の幹に手をついて胸に手を当て、肩で激しく息をしながら額の汗を腕でぬぐう。体調を崩しているわけではないのに尋常ではない疲労だった。これまで大きな病気を経験したことがないだけに、自分が置かれている状況は信じ難い。汗で顔周りに張り付く髪の毛ですら鬱陶しく気分を害する。

「ふつうの治療では治らない。あの実がなければ完治は不可能なの」

倫の言葉は渇いた土が水を吸うような素直さで脳みそに浸透した。有効な薬が手元に無いというだけの話だ。そしてその薬が手に入る望みは薄い。材料となる植物が自生する場所は限られていて今すぐに入手することは難しいという。わかっているつもりでいたが、それでも、しばらく経つと倫の言葉を真っ向から否定していた。
そんなことあるわけがない。体中に出ていたおかしな痣が薄くなったんだから、もう普通に戻ったということじゃないの?

倫の言葉は真実だ。決まって気分が落ち込んだとき、倒れるのではと思うくらい頭痛がしたり、気分が悪くなる。気力で振り払おうと思えば克服できたが、そうするためにはバカみたいな元気が必要だった。つい先ほども兵士の一人が自分の陰口を叩いているのが聞こえただけで耳鳴りが始まったのだ。
悔しい。心が弱い。もっと強くなりたい。
夏季はすぐ訓練に戻るつもりでいた。

ラートンがいたら間違いなく怒られてる。

あの男の顔を思い出すと悔しさが倍増しになった。気概が沸き立ち、耳鳴りがやわらいだ。

それとも、呪いが原因のさぼりなら、大目に見てくれるのかな?

呪いなんていうおおよそ現実離れしたものについて真面目な発言をするラートンを思い出した。愉快な気分になり、耳鳴りはさらに小さくなった。

「大丈夫か?」
背後から低い声が聞こえた。哲だった。よく日に焼けた顔に短髪から汗が滴っている。
彼が常に自分のことを心配してくれていることを夏季はとてもよく知っていた。ホッとしたのと同時に足の力が抜けて少しよろめいてしまった。哲が慌てて駆け寄り夏季の肩を持ち支えた。
「無理するなって言ってるだろう!」
哲が声を荒げるところはほとんど見た事がない。温厚な彼を自分が怒らせてしまったことを考えると、夏季は哀しい気持ちになった。こめかみがどくどくと脈打ち頭痛が始まる。
「ラートンやオスロがいないからって手を抜くのはなんだか悔しいもの……」
「俺はただ、君がつらそうにしているところを見たくないだけなんだ。そんな、今いない奴らのことなんか……考えなくていい」
哲の苦々しい声が、頭の上の方から聞こえた。少し前までは同じくらいだった身長が、いまやぐんぐん離れだした。夏季は安心して哲に身体を預けられる。鼻先にある彼の肩から汗のにおいが鼻をかすめる。
「彼は帰ってくる」
絶対に、そう言いかねないような、強い気持ちを哲は夏季から感じた。それが悔しくて、今や哲にもたれるようにして立っている夏季の肩をぎゅっと抱きしめた。
本当は夏季がラートンのことを考えていることが許せない。夏季を誰にも渡したくなかった。

俺がもっと強くならないと。あの男が必要ないくらいに。

リカ・ルカ一派の蜂起。オミリアとの戦い。オスロが死んだ日。
あの日から100日が経とうとしていた。
ラートン隊長がいない。
イルタがいない。
他にも幾人か、荒野で行方不明となった兵士や、城下町での戦闘で命を落とした者がいた。蜂起に加わった者は多数が捕獲され仲間同士の談笑は戻っているものの、その日が来るまでは仲間だと思っていた人間があのような企てに参加した衝撃は今だに多くの者に暗い影を落としていた。魔女がどこかで見ているような不安を誰もが抱えていた。
次に狙われるのは自分かもしれない恐怖。
訓練はどこか以前ほどの活気がない。

自室に戻った夏季はランプに火を灯した。
気分はいくらかましになってきたついでに汗まみれの衣服を床に脱ぎ捨ててシャワールームに直行した。とにかく少しでも気分がよくなることをしたかった。
オミリアとの戦いから数日間全身を覆っていた黒い斑点は徐々にうすくなり今はわずかに治りかけの青痰のようなものがところどころに残る程度になっていた。薄汚れたようなまだら模様のある自分の身体はもはや見慣れてしまって、なにも感じない。
しかし、うなじにある呪いのマークだけは少しも薄くならなかった。
今は消す手立てがないため出来る限り気にしないように努めていた。目に入りにくい場所にあるのが幸いだった。むしろ、右腕に幾つか残る小さな切り傷と、右脚の腿にある大きな傷跡の方があからさまで目障りだと感じていた。
木製のレバーを緩めると天井の無数にある小さな穴からぬるま湯がやわらかく注いだ。悪いものすべてが抜け落ちていくような心地よさに身を任せた。

『使い』のリーダーとして特別一等兵となった夏季は幹部棟の部屋を与えられた。以前は倫と隣室であったが棟が離れたため自室に戻ればひとりきりという寂しさがあった。部屋の広さは申し分ないし、共同だったシャワーが個別の部屋についていたりとさすがの待遇なのだが。
幹部と同等の扱いを受けながら、オミリアの呪いはじわじわと力を発揮するため体調が思わしくない日も多く、訓練もなかなか本気を出せない。となると余計に他の兵士のやっかみが増えて遠慮のない陰口が聞こえてくるのだった。
特別一等兵のくせに。力もない。頭も良くない。しかもケツの青いガキだ。
頭の中の声がもはや本当に誰かが言っている言葉なのか幻聴なのかも判別できないほどに症状がひどい時もあった。

夫を失ったユニも、恋人が行方不明となったウォローも、気丈に振る舞っていた。ウォローはイルタが絶対に帰ってくると信じて疑わない。そして時に夏季を気遣い励ますのだった。本人たちの方がよっぽど辛いはずなのに気にかけてくれる優しさに胸が熱くなる。
ウォローを見習って、私もラートン隊長の帰還を信じよう。
それにしても、ウォローはイルタの恋人だからわかるけど、私はなぜラートンを信じて待ち焦がれるのかしら?
しかし、ラートンを想うと不思議と呪いの効果が薄れるのに、夏季は気づいていた。
それに、彼が帰ってくれさえすれば城の様子は随分変わるはずなのだから。

大判の布で身体を拭き、乱雑に髪をまとめて服を着て部屋に戻る。
机にはオスロの手紙が置いたままにされている。
開けるタイミングがわからずそのままにしてあったのだ。オスロの死はあまりにも突然だったし彼が自害した事実はその手紙を放置する理由として十分だった。
ただ、だいぶ時間が経ったのと、シャワーで気分が良くなったことで、本当に何気なく今開ける気分になり、軽い気持ちで封筒を手に取った。オスロ本人から手渡されたハリルが握っていたために少し皺が入っているが、封を開けると丁寧に折りたたまれた数枚の便箋が入っていた。まるで招待状のような、生真面目なオスロ師士らしいきちんとした折り目だった。少し鼓動が早くなるのを感じながら、ゆっくりと、紙を広げた。

「君の父親は『闇使い』のクロ・アルドであると言える一方で、魔女リカ・ルカの縁者ジョン・ルカであるとも言える。」

夏季は手紙を床に落とし、立ち尽くした。
そして随分時間が経ってから、頬を一筋の涙が伝った。
震える脚でふらふらと部屋を出ると、懐かしい女子寮へ自然と足が向かい、ドアを叩き続けた。倫が「何なのよ」と不機嫌にドアを開けるまで。

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