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荒野の家宝(中編)

第一章/安息の荒野

ラートンはテーブルの上に剣を置いた。柄に彫られた渦巻きに似た紋章は特に丹念に磨き上げられ、 ロウソクの明かりを鋭く反射している。心地よい疲労感に揺られながら、連想ゲームのようにして紡がれるままに、思考を漂わせた。

<セボが“水と風の国”ならば、“そこ”は“海と光の国”だ>

久しぶりに、父親の声を思い出した。その言葉を思い出すだけで、潮の香りを嗅ぎたくなる。もっとも彼はそれを嗅いだことがない。 いつの日か海から吹く風に香りがあるものかどうかを確かめたいというのがラートンにとって幼い頃からの長年の夢だった。 荒波のように過ぎ去った歳月の中でいつしか薄れていたその望みが、久々に頭をもたげた、といったところだ。

「パパス・ユエグ……『風使いのパパス』か!」
ラートンは目を見開きパパスの顔を見つめた。若かりし頃の彼の姿が意外なほど鮮明に思い出される。彼には見覚えがあった。
「『元・風使い』だ。もう現役じゃねえし」
パパスは笑みを浮かべたが、かつての大役を誇るような晴れやかさはない。
カウジは相変わらずぐっすりと眠り込み、イルタも、今度は夢にうなされることもなく深い眠りに落ちたようだった。
「なぜ街を出たんですか?」
「外の方が静かで暮らしやすいからだよ。魔法使いってのは、平和な世の中では煙たがられる。都合だよな。 おっかない時代は英雄扱いしといて、用が済んだら悪者にされちまうんだ」
パパスは大きなため息をついた。
「お前さんも、腕が立つようだが、だからこそ気をつけた方がいい。引き時ってもんを考えておけよ」

「きっかけは悪政の5年だ。お前さんはまだ幼かっただろうが、覚えているか?」
「ええ。よく覚えています。忘れようがない」
ラートンの声が低くなり、顔を影が覆った。
「……そうかい」
唐突で著しいラートンの表情の変化にパパスは眉をひそめたが、自らの話を続けた。
「知ってのとおり、王位継承を巡る一連の騒動だが、責任の押し付け合いの中で、矛先は俺らにも向けられた。 今になってみればまったくの巻き添えってことは誰にでもわかることだけどよ、当時はそんなこともわからんくらいにセボは混乱していたよな」
ラートンは黙ってうなずく。
「はじめのうちは王位に関する決め事がうまくいかなかっただけ。 だがボスが決まらなければ国のあらゆる決め事がぐらぐらと揺らぎ始める。 なんということか、城の中で殺し合いが始まるなんてな。暗殺と、責任の押し付け合いの応酬」
ラートンは顔を伏せて影を作ったまま、ときおり静かにうなずくだけだったが、しばらくして生気を取り戻したかのように顔を上げた。
「あなたには何が起きた?」
「顔色が悪いぞ。大丈夫か」
ろうそくの橙色の明かりに照らされているのに、ラートンの顔は真っ白で、血の気がないように見えた。
「気に掛けることはありません。先を続けてください」
ラートンは顔色はさておき落ち着いた口調で言った。
パパスはふっと息を吐き、再び話し始めた。
「余波は城下街にも広がっていたんだよ。王位継承に失敗したせいで、 国のてっぺんの機能がストップしたままだったから、街では犯罪が横行していた。 俺はかつての役目を終えた後、城には残らずに一市民として平和に暮らしていたはずだった。 俺にはもったいないくらいの嫁さんももらった。が、かつての役目のために持っていた能力が、 周囲の人間に疑いの心を生じさせた。何が言いたいのか、わかるか?」
パパスの眉間にはシワが寄って、言葉にも力がこもった。
「生贄のようなものでしょうね。原因を決めつければとりあえずは安心できるという浅はかな考え方だ」
ラートンは相変わらず落ち着いた調子で答えた。
「そうだ。そして原因を排除しようとする。人々は犯人が特別な力を持つ俺だと決めて排除することにしてしまったんだ。 特別な力っつっても、俺のは風を操るだけだし、用がなければ使わない決まりだ。 平和主義の俺が決まりを破ってまで使う理由はどこにもなかった。 魔女のように人の心にいたずらすることなんてでっきっこない。 しかし人間パニックに陥ればなんだって信じるんだな。 誰か口のうまい奴が、俺が魔術使いだと大勢に吹き込んだに違いない」
パパスは一気にまくし立てた。
「仲間の協力で、排除される前に逃げ出すことはできたよ。しかしその後は雲隠れ。 人の寄り付かない場所を点々として、今に至るわけだ」
「古傷も時が癒すはず。今なら街に戻っても問題ないのでは?」
ラートンが言った。
「へっ。自分と家族を殺そうとした奴らのいる場所になんか、戻るもんか。カカアが死んだのは医者のない土地に放りこまれたせいだ。 カウジを生んだすぐ後にチーフにかかって死んじまった。街のやつらが殺したのと同じだ……」
パパスは喉が詰まったように突然言葉を切り、手で口を覆い、鼻をすすった。
ラートンはひとしきり話し終えた様子のパパスが落ち着くのを待って、口を開いた。
「しかし今のセボは昔と違う。『悪政の5年』をきっかけに王族集権ではなくなり王が不在でも議会が機能するように仕組みが変わりました。 今やあなたにとって危険なのは、セボの街ではなく、監視の行き届かないこの地です。 我々を襲った輩がまたいつこの辺りにやってくるかわからない」
パパスは気持ちを切り替えるように頭を振ってから、口元に手を当てて唸った。
「お前さんの身体にある『黒』の印を見てから、ずっと気にはなっていたんだ。詳しい話を聞かせてくれまいか」
ラートンの目には、パパスの顔が少し若返ったように映った。
「魔女リカ・ルカが復活しました」
ラートンの黒い瞳が光る。
「確かなのか?」
パパスの表情は訝しげだ。
「ほぼ間違いなく。彼女の『声』を聞いた者も出ています」
「俺たちが、苦労して倒したと思っていたが」
「理由はわかっていません」
パパスは両手で顔を覆っている。
「クロの死は無駄だったのか……六季が知ったら……」
ラートンは一呼吸置いてから、言った。
「再び『使い』が呼び寄せされました。その中に六季の娘がいます」
パパスが顔を上げる。
「そんなことがあり得るのか?」
「そもそも呼び寄せは50年おきだと聞いていますから、前例はないかもしれません」
パパスが、ははあ、と頭を掻く。
「その意味するところは」
「我々には測りかねます。本当の意味を知る者がいるのかどうか……」

それからしばらく、パパスは頭を抱えてテーブルに突っ伏していた。ラートンはろうそくの火を見つめて静かに待った。 パパスのもしゃもしゃの巻き毛の下から、ときおり唸り声が洩れる。やがて、ゆっくりと重たげに、パパスの顔がぬっと現れた。
「そうか。俺たちの次の『使い』がもういるのか。生きているうちは、もうないと思っていたよ。変な感じだな……」

「ということは、だ。リカ・ルカに関して俺に出来ることはなにもない」
パパスはこの件は終わりとでも言いたげだった。
「そうでしょうか」
ラートンは表情を変えない。
「あるっつうのか? あるなら言ってみろよ。どうせいいように使って邪魔になったら邪険に扱うんだろう……」
パパスは笑顔だったが、目に見えて苛立っていた。
「一刻も早くセボに向けて出立してください。魔女の餌食となる前に」
ラートンは淡々と答えた。
「餌食だって?」
「一つの力に対して二人の『使い』が存在する状況は危険です。わたしがここに来る前に、敵によって『水使い』の力が乗っ取られそうになりました」
「どういうことだ」
「『水使い』の力を扱えるものが複数人いるとき、力は分散しました。より強い者がより多くの力を手にする場面をわたし自身が目撃しました」
「その新しい『風使い』ってやつが俺より強くなればいいだけの話じゃねえか」
パパスは、ラートンの視線を避けながら言った。
「『風使いのパパス』は歴代の一、二を争う風の使い手だったと聞いています。新しい『風使い』があなたより弱ければ、 魔女があなたを操ることで、『風使い』の力を手に入れようとするかもしれない。早急にするべき対策を考えたら、 それはあなたの安全を確保することでしょう」
パパスは目をつむり、しばらく唸った後に言った。 「『使い』として見られることには、正直もう耐えられないんだが……」
ラートンの落ち着き払った視線に敵わない様子で
「仕方ない。魔女に加担するよりはマシだ」
しぶしぶ降参するパパスだった。
ラートンが静かにうなづく。
それ以外に選択肢などないのだとでも言いたげな自信に満ちたラートンを前に頭を掻くしかないパパスだった。
「それに。カウジにとってもその方がいいだろう。俺が狙われれば、カウジも危険に晒される」
それこそが決め手と言わんばかりにパパスは言葉に力を込めた。

「ところでよう」 パパスの顔つきがコロッと変わった。心底楽しそうな明るい笑顔だ。
ラートンは理由が全く分からずに、眉を上げた。この世に楽しいことなど一つもないとでも言いたげに見えるほど怪訝な 顔で。
「こっちは本名教えてるんでえ。そっちも本当の名前を言うのが筋ってもんじゃないかい?」
パパスがにやりと笑った。
「それは遠慮しておきます」
ラートンは即答した。
「はーん。お前さん、頭がいい上に頑固なのは認めてやるよ。しかし、ちょっと考えが甘かったんじゃないか」
太い指をラートンの顔に突きつける。パパスの不敵な笑いに、ラートンは眉をひそめた。
「俺は15年とちょっと前『風使い』だった。ということはだ。お前さんの親父を知ってるということだ」
ラートンは微笑んだ。
「では、最初から気づいていたんですか」
「そういうことだ」
パパスが何度もうなづいた。
「何が失敗かって、お前さんが偽名に有名人の名前を使ったことだ」
「瀕死の身でとっさに浮かぶ名前は限られていますから」
ラートンは少し恥じらっているようだった。
「あののっぽの兄ちゃん、ゲルの本名は?」
「イルタ・ニトルス。兵士の中では、腕の立つ方です」
「イルタの偽名を考えるので精一杯だったんだろう」
「ひどい名前ですが。彼には悪いことをした」
二人は同時に笑った。
「仲間想いだな。父親と同じで。なあ、シエ・ラートンさんよ」

「大きくなったなあ」
パパスは遠慮なく、ラートンの頭をわしわしと撫でた。
少年のような扱いにラートンは戸惑った。城の人間には決して見られたくない姿だった。
先ほどまで一切感情の起伏なくパパスを説き伏せたラートンのそんな反応に、大変満足したパパスだった。
「嫌なことを思い出させて悪かった」
「何のことです?」
「『悪政の5年』が原因でエンは命を落としたんだろ」
「ご存知でしたか」
「人づてにな。セボの大きな損失だ。剣の腕は当然のこと、人望もあって、何より優しいやつだった」
パパスが首を振って言った。
「ま、あんたも父親に負けないなかなかの人物だってことはこの家で目を覚ました時にすぐわかったけどな。 若いのに逞しいのはさすがにいろいろな経験を積んでのことだろう」
「私の人間性は決して褒められたものではないがそれはさておいて、父親の名を使ったことは、失敗ではありません。結局のところあなたはわたしたちの味方だったのですから」
パパスにくしゃくしゃにされた髪の毛を気にする様子はなく、ラートンは口を開いた。
「結果オーライってことじゃねえか。慎重だったエン・ラートン師士の息子でありながら、危ない賭けをするもんだな」
パパスは大きな声で笑った。
カウジが目を閉じたままうーんと唸ったので、パパスは口に手を当てて笑うのを止めた。
「朝になったら、敬語使うのはやめてこれまで通り接してくれ。カウジが不思議がるからな」
「見かけによらず繊細な子ですか」
「そんなことはねえ。あれこれ聞かれるのがめんどうくさいだけだ」
今度は、カウジを起こさないように気をつけて、二人で静かに笑った。
思いもよらず父親の話ができたことは幸運と思うべきか。セボの城で、エン・ラートンの話題を出す者はいない。 政治の犠牲となり命を落とした若い軍師。息子のシエの前でその話をすることはタブーだと考える者が多いからだ。 オスロ・ムスタは唯一そのタブーを破り、よく二人が若い頃の話を聞かせてくれたものだった。
当のオスロ師士はすでに牢獄に入れられたか、それとも……。
「そろそろ城へ戻ります」
いたってふつうにラートンの口をついて出た言葉だった。
「ああ。その方がいい」
パパスはカウジを見るときと同じような温かい微笑みを浮かべ、目尻にしわが寄っていた。

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