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夜明け

第一章/使い

消毒液の臭いがぷんぷんと漂っている。開きかけていた腹の傷は若い看護士が手早く処置を済ませ、ほっとした表情を見せた。
「もう大丈夫ですよ。ただし、今度こそ安静にしていること」
しかし笑ってはいなかったし、どことなく忙しない雰囲気を漂わせていた。哲には理由が分かっていた。城下街郊外の戦闘で大勢の負傷者が出たため、すぐに次の患者を看に行かなければならないのだ。病棟のベッドは重傷者のために空けてあり、その他の負傷者は朝礼で使う大広間に集められている。
案の定、その後すぐに彼女はポーチを抱えて病室を出た。こつこつという軽い足音が、あっという間に遠くなっていった。
「本当に大丈夫らしいな。放っておいても死にはしないみたいだぜ」
病室に付き添ったアレモが、戦闘で破れた制帽をいじりながら言った。「くそ。女子に頼もうかな。縫い物は死ぬほど嫌いなんだ。それともお前、できるか?」
哲はベッドに、アレモは丸椅子に腰掛けていた。街の戦闘はひとまず収拾がついたようなので、内野組の兵士たちは哲やアレモと同じようにどこかで一息ついているはずだった。
「別にできないこともないけど」
哲は正直に答えた。祖父との二人暮らしだったので、自分のことは大抵自分でやっていた。当然ほつれたズボンの裾や取れたボタンも自分で縫い付けていた。
「冗談だよ。ウォロー以外の器用な女に頼む予定だから安心しろ」
アレモがけたけたと笑った。哲は半分本気で答えたつもりだったが、わざわざ縫い物をしたいと主張することもないだろうと思い、裁縫に関してはもう何も言わなかった。
「イルタは大丈夫かな」
哲は何気なく言った。心の中で言ったつもりが、つい声に出していた。
「心配することはないさ。今に戻ってくるだろ」
アレモは軽く答えた。本当に、何も心配していないように聞こえたが、本心は分からなかった。
哲は城に帰る道すがら、内野組の交戦は歩兵同士の闘いだったが、荒野での戦闘は騎馬隊が相手だという話を聞いていた。哲たちが戦った相手よりは少し手強いかもしれない、ということだった。
「あいつあれでけっこうやれるから。隊長にも気に入られている方だし」
アレモは壁にもたれて上を向き、もはやぼろぼろの制帽を顔にかぶせていた。
「もっとも、年下のラートンに気に入られるってのも変なハナシだよな」
哲は確かに、と思い小さく笑った。

突然、先ほど遠のいたはずの足音が、今度はだんだん大きくなった。忙しく出て行ったはずの若い看護士が、血相を変えて病室に入ってきた。
「きみ。悪いんだけど、ベッドを空けてくれる?」
看護士は哲を見て言った。
「急患なの!」
哲とアレモはふと顔を見合わせた。哲は黙ってベッドから降りたが、アレモが耳元で「安静にしろって言ったよな」と囁いていた。
病室の戸口にハリル副隊長の姿があった。
「ハリルさん!」哲は少し顔をほころばせた。同じ戦場を経験したことで、特別なつながりができたような気がしていた。
「よう、哲。おつかれ」
ハリルも微笑み返した。しかし彼は郊外での戦闘のときよりはるかにくたびれた顔をしていた。影がさして、覇気がない。哲は笑顔を引っ込めた。
ハリルは目の前にやって来て、哲の両肩を優しく叩いた。左手には真っ白の包帯が巻かれている。街の戦闘でハリルが手の平を負傷した覚えはなかった。
「夏季ちゃんが帰ってきた」
「本当ですか?」引っ込めたはずの笑顔がまたもや顔を出すのを止められなかった。夏季の名を聞くことがこれほどうれしいとは思わなかった。
しかしハリルは、笑わない。くたびれて下がった口角は、ぴくりとも動かなかった。
「夏季はどこです」哲は顔を引きつらせた。
「今、来る」素っ気ない返事だった。

男の看護士が二人、担架を持って病室に入ってきた。その後から倫の肩を抱いた俊が続く。倫は両手で顔を覆い、1人では歩けないくらいに泣いているようだった。
哲はまさかと思った瞬間、足が固まってしまった。ただ目の前を通り過ぎる担架を見つめることしかできなかった。担架に乗せられているのは、生きているとは思えない肌の色をした夏季だった。自分の肌に浮かんだ色より、はるかにひどいと一目でわかった。

夏季が横たわるベッドの周りで医師が看護士に指示を飛ばし、数人が入れ替わり立ち替わりで動き回っていた。哲たちは少し離れた窓際に丸椅子を並べ、何もできず、ただ静かに腰掛けていた。
哲は口を開くが、声を出すことを忘れたように、言葉は何も出てこない。背中にハリルの大きな手の温もりがあることだけが、妙にくっきりと感じられた。セボに来てこれほど重い気分を味わったのは初めてだった。涙すら出てこない。何をしていいのかわからず、膝の上で握られた自分の拳を見つめていた。

こんこんと扉をノックする音が聞こえた。皆が振り向くと、扉が開き兵士が1人立っていた。
「副隊長」
兵士がきびきびと呼びかけた。
ハリルが手を上げる。
「少し外すぞ」
今、この病室にいるほかにもっと大事な用があるっていうのかよ。
哲の心には、病室を出て行こうとするハリルを、責める言葉がわき上がった。
哲は自分に驚いていた。夏季が危険な状態になったことについては自分に責任を感じていたはずだった。夏季がこうなったのは俺のせいだ。夏季は俺の仇を討つために、オミリアと戦ったのだから。
哲は自分でもなぜ先ほどハリルに敵意を向けたのかが不思議だった。このまま1人で考えていたら、おかしくなりそうだと感じた。
このようなとき、いつも顔を見合わせて訝しげな視線を交わす仲間は、1人は紫色の顔をしてベッドに横たわり、あとの2人は哲と同じように下を向いていた。不安を感じたときに、気持ちを分け合うことが出来ない。それは心細いことだった。
哲はたまらなくなり、ついに重い口を開いた。

「俺と同じなんだから、大丈夫だよな? 見ろよ、俺はもうこんなに動けるんだ」
哲はわざと大きな声を出した。俊と倫が自分の声に気付かないのではないかと不安だった。
倫と俊は驚いたように顔を上げた。アレモもはっとしてこちらを向いた。まさか自分がいちばん最初に口を開くとは思わなかったのだろう、と哲は感じた。皆、哲がどれだけ夏季に気持ちを傾けて、心配しているのかを知っているようだった。
倫が赤い目を哲に向けた。
「夏季が受けてしまった呪いは、哲くんのよりもだいぶ強力らしいわ。哲くんの呪いに効いたのは、わたしが育てた植物。ケナヒーっていうんだけど、それほど効力は強くなくて、患者自身が持っている体力と精神力に頼るところが大きいのよ。様子を見るしかないって……」
倫は鼻をすすった。
「もっと強い薬を作ればいいんじゃない?」
哲が希望を込めて言った。
「だめなの。わたしが育てられるものの中でもいちばん呪いに効くのがケナヒーの実。この世界で最も対魔性があると言われるドクラエの実は、残念ながら手に入れることはできない」
哲の愕然とする顔を見て、倫はのどをつまらせながら言った。
「わたしの力はね、実際に触れたことのある植物しか生み出すことはできないのよ。ごめんね」
倫はそこまで言って、しゃくりあげた。隣にいる俊が暗い顔のまま、倫の肩をぽんぽんと叩いた。どこかから、鼻をすする音が聞こえた。哲が振り向くと、3人から少し離れた場所にいるアレモが、天井を見上げていた。鼻が赤かった。
哲は力なく首を振った。
「倫さんが謝ることじゃない。ごめん」
自分だけではない。みんな同じ気持ちだと、哲には痛いほど分かった。俊や、アレモでさえも。確かな特効薬はなく、祈るしかないのだ。苦しむ人を前にして何もできない人間は、つらい思いをする。

隣の部屋からは、誰かが泣き叫ぶ声が聞こえてきた。哲にはそれが誰であるかがわかった。酒場の女主人であり、軍師の妻でもある、ユニの声だった。なぜそのように激しく嘆くのか理由はわからなかった。だからこそだろうか、背筋に冷たいものが走った。

「ニッキ、何が起きているの?」
「商人たちの小競り合いです」
「シエは何をしているの?」
「荒野へ向かっております」
執事のニッキは、絶え間なく溢れ出てくるベラ王女の質問に、当たり障りのない返答をしていた。特に、シエ・ラートン隊長に関する質問には慎重に言葉を選んで回答しているつもりだった。
「嘘をつかないで!」
急にベラは憤慨した。「シエは『使い』と共に『水の洞窟』へ向かったと、サンリが先ほど教えてくれたわ」
あのおしゃべりネズミめ、とニッキは心の内で悪態をつき、部屋の隅に立っている女中を睨みつけた。前歯が少し出ているその女中は、知らん顔をして上を向いている。
「今すぐ彼を連れ戻して」
ベラは目に鋭い光を宿し、低い声で言った。
ニッキはベラから目を逸らさなかった。
「わたしに何も言わず行くなんて……」
ベラが目を逸らした。
「わたくしも詳しいことは知りませんが、とても急いでいる様子でした。それほど差し迫った状況だったのでしょう」
ベラはぽろぽろと涙をこぼした。ニッキはふうとため息をつく。
「大切な人を心配しているのはあなただけではありません。城にいる人たちの家族の多くが城下街に住んでいる。もちろんわたしも家族が心配です」
ベラは顔を上げた。何かに気付いたように、目を丸くして執事の顔を見上げている。
「ニッキ……。今すぐ家族の元へ行きなさい」
「いいえ、お言葉はありがたいですが、わたくしはここにいます」
ニッキは思わず頬を緩めた。

城の内外でわがままが過ぎると評判のベラ王女だが、常に側にいて多くの言葉を交わしているニッキにとってはそれも誇張された噂のように思われた。もちろん、多少口の悪いときはあり、手を焼かされるが。しかしそれら全て、ベラ王女一人が悪いというわけではない。王室に出入りする人間以外の者と言葉を交わす機会の与えられないベラ王女は気の毒だと、ニッキは思っていた。
そして、そのことを分かっているのは、自分と、ラートンくらいなものだと知っていた。

ラートン、早く帰って来い。

彼が遠征に行く度に強く願うことだった。ベラ王女の愚痴に付き合うはめになるからだ。たかが三日程度の遠征を憂う若い娘の悩みなど、10代をとっくの昔に卒業しているニッキにとっては生ぬるい。ラートンの帰還を望むのは、それから解放されたい自分のためだった。しかし今回は王女のために、願うことにした。

夜も更けて、倫は夏季のベッドに突っ伏していた。その向かいで看護士が夏季の顔に幾筋も流れる細い汗を拭き取っている。俊とアレモは壁際に並んで腰掛け、腕を組み、うたた寝をしている。ハリルはなかなか戻って来なかったが、ユニと共に隣の部屋にいることがなんとなく察しがついた。
哲は窓際で桟に腕を乗せていた。
看護士の話によれば、ケナヒーの効果は倫の言うとおり芳しくなく、薬の投与が済んだ今は、本当に夏季次第ということだった。

窓から外を見渡した。
街はほとんどの明かりが消えて、昼間の騒動とは正反対の静寂に落ち着いている。城の中も、病棟は相変わらず人の動きが活発だったが、遠くの方から人の叫び声や怒鳴り声が聞こえてくることはなくなっていた。
空を見上げた。紺色の空に千切れ雲があいまいに浮いている。月の光が明るいせいか、砂粒のような星はちらほらとしか確認できない。
人の命のように儚い光だった。
それらを夏季の命に例えてずっと見つめ続けた。
夜が明けて空が明るくなってきた頃、夢中で夜空を観察していた哲は、薄くなっていく星の光を見て思わず涙を流しそうになった。星と共に夏季は終わっていくのではないかと思った。

やがて、地平線の向こうから金色の光が溢れ出した。新たな一日の始まりと共に、哲の後ろのベッドで、夏季が身じろぎした。
夏季のベッドに顔を埋めていた倫は、布団の下で何かが動くのを感じて目を覚ました。寝ぼけ眼をこすると、夏季がゆっくりと目を開いていた。

倫が狂喜して叫び声を上げた。哲が振り向く。俊とアレモが飛び起きた。
倫の声で、病棟にいる人間はすべて目を覚ました。

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