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爆弾魔

第一章/使い

城の中が騒がしい。上の階からも下の階からも、絶え間なく足音が聞こえてくる。男の低い声、怒ったような唸りや、女のヒステリックな高い声も聞いた。
しばらくは白い天井を見つめて、それからゆっくりと部屋の中を見回した。誰もいないようだった。夏季たちはどこへ行ったのだろうか。看護士の姿すら見当たらなかった。体中が痛くて、だるい。しかし頭の中ははっきりしていて、思う存分昼寝をした後のような清々しさがあった。
「裏門」の任務……狐……カルーのナイフ……そして、夏季の泣き顔。
断片的に思い出される記憶は強烈で、少し頭が痛んだ。

恐る恐る目の前に手をかざしてみた。オミリアの龍から黒い水滴を浴びて、みるみるうちに体中に紫色のシミが広がっていったことははっきりと覚えている。すぐにでも消し去りたい記憶だが、そう思うときに限って簡単には消えないものだ。紫色の斑点が今も体中を這いずり回っているに違いないと覚悟していた。しかし予想ははずれ、手や腕に斑点は一つもなく、少し日焼けした健康的な肌色に哲は安堵した。
あの気持ちの悪いブツブツ、なんとかなったみたいだな。
腕から力が抜けて、手の平が布団の上にぽとりと落ちた。

少し身体を動かしてみると、腹に鈍い痛みがあった。気持ちの悪い呪われた印は嘘のように消えたが、カルーにえぐられた腹の傷だけは怨念のようにはっきりと残っていた。
これも長い間記憶に残りそうなことだが、カルーが力任せに刃物を突き刺したことを考えると、あまり激しく動くのがよくないことはわかった。しかし哲は身体を起こし、白い寝間着を引きずった。城の様子がいつもと違うのでいても立ってもいられないのだ。眠りから覚めた自分を呪いたくなった。
足元がおぼつかなくて思いのほかゆっくりと歩くことになった。ベッドの脇にあるカゴの中に赤茶のシミがついたシャツと土だらけの紺のスラックスが、丁寧に畳まれて入っているのを横目で確認した。ゆっくりと窓際まで歩いていき、窓枠に手をかけて城の外に目をやった。
セボの城下街。人出が多いのは常だが、人の流れがいつもと違った。土色の揃いの制服を着た兵士たちが50人程のグループでまとまり、それぞれ別の順路を辿っているが、結局は同じ方向へ向かっているのだ。彼らの向かう先には城下街の入り口となる門がある。
住宅もまばらになる郊外のところどころで、煙のようにもくもくと舞い上がっている。黄色いことからして細かい土ぼこりが舞い上がっているのだろうと、哲は思った。巨人が地団駄を踏んで暴れている様をイメージした。
自分が襲われたのは、ほんの始まりに過ぎない。
大規模な戦闘が始まったのを目の当たりにし、哲は呆気にとられた。

夏季たちもあそこへ向かったのだろうかと哲は推測した。哲はベッドに戻り、血付きのボロシャツと、汚らしいズボンを手に取った。

俺も街へ行って黒いやつらと戦わないと。この力はそのためにあるんだろ?

頭に巻かれた包帯がほつれてなびいたが、哲は構わず城の回廊を早足で進んだ。

腹を突かれた男は、側にいた者を二人巻き込みながら、野菜の山に突っ込んだ。重みでつぶれた赤い実が血のように飛び散った。
大きな槍はうなりを上げて空を切り、無精髭の男の肩の上に乗った。武器の大きさの割に男の身体は細身に映るが、彼は大槍を使いこなしているようだった。
「ラートンはまだか!?」
ハリルは誰にともなく、獣のようなうなり声でわめき散らした。声といっしょに飛び散る汗が、陽に光る。
「無理です! 相手はあのオミリアですよ。今頃戦闘の真っ最中……」
赤毛の二等兵が、右手で剣を持ち相手を斬りつけながら、左手に持った木の棒で別の頭を殴りつけて言った。
「こういうときこそ、あの野郎が必要なのに」
ハリルは重みのある槍を素早く振りかざし、黒いマントを纏う集団を牽制した。

城下街で万歳の大合唱が起きたとき、ハリルは7人の二等兵たちと共に城下街を巡回していた。何か起きるのではというラートンの予見を受け、念のため行動した結果だった。
呪文のように万歳を繰り返し叫ぶ黒装束の男たち。彼らがマントの下から刀剣を取り出した瞬間、ハリルはラートンの推測が当たったと判断し、迎え撃った。それが戦闘開始の合図となった。
最初はカルーの取り巻き連中が主なメンツと思われたが、次第にそれだけではないことがわかった。訓練中あまり目立たないが、まともに兵士として任務をこなしていた二等兵までもが黒いマントをまとい、砂色の制服を着た兵士たちに襲いかかった。
結果として、ハリルはそこで足止めを食うことになった。ラートンの予想では城こそが万全の体勢で守るべき場所なのに、ハリルは次から次へと湧き出てくる黒装束たちをなぎ倒すことに精一杯となってしまった。黒装束の技量はハリルに到底及ばず雑魚ばかりといった印象だが、数がものを言った。
黒いマントをまとった人間の数に、内心ショックを受けていた。戦闘に加わるセボの兵士と同じ数だけの黒装束が、後から後から集まってくるのだ。いったいどこから湧いて出るのかと、最初は疑問に思っていた。しかし答えは簡単だった。セボの住人として、セボの兵士として、始めからこの付近に潜んでいたのだ。
「ラートンがいれば、首尾よくやっていたんだろうがな」
ハリルはつい漏らしてから、首を横に振った。劣等感に溺れている場合ではなかった。今の状況をなんとか抜け出さなければ、城が危ない。黒装束たちが数にものを言わせてセボの正規の二等兵たちを足止めしている事実が、敵の本当の狙いが城にあることにますます確信を抱かせた。この騒ぎで二等兵は郊外に向かうだろう。そして城の警備が手薄になるのだ。

考えることを不得手とする頭でハリルは必死に考えたが、そうすると手が止まりがちになって隙が生まれた。
「副隊長、危ない!」
兵士の声にハリルは我に返った。向かってくる黒い固まりから離れようとしたが、避けきれずに二の腕に切り傷を負った。途端、槍を握る腕に力がみなぎり、筋が浮き出た。ハリルは恐ろしく鋭い目つきで相手を睨み、槍の尻で相手の頭を殴った。ごすっという鈍い音とともに、黒装束は倒れた。白目をむいて、口をひくひくさせている。
「くそ。考え事してるんだよ……」
ハリルは槍を地面にどすんと落とした。
「おい、お前」
ハリルは、傍らにいる赤毛の兵士に声を掛けた。
「アレモです」
赤毛が言った。
「ああ、知ってたぞ。アレモ。訓練にいつもいたからな」
いかにも「知っていた」風に何度も頷くハリルを見て、アレモは口をひくつかせた。
「その、俺は城に行かなくてはならん。ここを君に任せてもいいか?」
アレモが口を開いたが、彼が何か言うより先に別の誰かが喋った。
「そうはさせない」
ハリルとアレモが声のした方を向くと、戦闘で立ち上った土煙の中、黒装束のうちの1人が、静かに佇んでいた。フードは取り払っている。ハリルはその顔に見覚えがあったが、名前は思い出せなかった。

「お前、カルーにべったりの野郎だな」
ハリルは記憶を辿り、言った。カルーの取り巻きの中でも、いつもカルーに一番近い位置にいる男だということは分かっていた。
男はただにこりと笑い返すだけだった。
「キム」
赤毛の兵士、アレモが言った。するとキムは、見下すような目つきで見知った顔を見返した。
「……ああ。キムだキム。知ってるぞ」
ハリルが付け足したように言うのを聞いて、アレモは再度口元をひくつかせた。ハリルが人の名を覚える気がないことは明らかだった。
「城には行かせない」キムは柔かい口調で言った。
「なぜだ?」
ハリルは唸るような低い声で聞き返した。
「なぜって。邪魔されたら困るからさ」相手を諭すような言い方だった。
「やっぱりなあ。ありがとうよ。これではっきりしたぜ。俺はどうしても城へ行かなくちゃならんのだ」
ハリルは目を細めて笑った。口元と目尻に皺が寄り、その場には不似合いな、穏やかな顔になった。
「あんたのその間抜けな顔もこれで見納めだ」
キムは小馬鹿にするような微笑で言った。
「見納め、とな。手のうち見せてもらおうじゃねえか。ずいぶん自信があるようだし」
キムは懐に手を突っ込んだ。ハリルは飛び道具を予測して槍を振り上げた。

キムが取り出したのは鶏の卵より一回り大きな、黒いかたまりだった。ハリルとアレモは武器を構えたまま、一瞬それを見つめた。ハリルには馬の糞と映った。そんなものを持ち出すとはこいつは本当にいかれた野郎だ、と思った。アレモは酒場「ヒムラ」のテーブルに置かれている、調味料の入った瓶に似ていると思った。それはユニの気遣いで常に満タンにされているので、いつ見ても真っ黒なのだ。
「リカ・ルカ様の力を思い知るがいい!」
キムは声高に叫び、黒いかたまりをアレモとハリルに向かって力まかせに投げつけた。
キムの大げさなフォームから弾道を見切ったハリルは、素早く大槍を振り回して、俊がこの場にいたならば「ホームラン」と叫んだだろう、見事な当たりで速球を打ち返し、打球は民家の屋根を超えた。
黒い物体は屋根の上で弾けた。黒い粉が飛び散ったように見えた。粒が小さいのか、空中に繊細に浮かび、霧のようにささやかに漂った。
「なんだ、ありゃあ」
ハリルは次第に広がる黒い霞を見て口を開けていた。
「リカ・ルカ様の分身だ!」
キムは声高に叫び、口が裂けんばかりの笑みを見せた。
「まさか、哲がやられたあれが……」
アレモが一歩後じさった。「風に乗ったらやばい。セボ中に広がっちまう」
ハリルは槍をキムに突きつけた。
「今すぐやめろ。あれを元に戻せ」
ハリルが顎で黒い霞を示した。霞は薄くなる一方で面積を広げていた。
「あれを開いたのはあんただ。単純だから、考えることなしに来るものはなんでも迎え撃ってしまうんだよな」
「そのツラ叩き割るぞこの野郎!」
ハリルは唾をまき散らして怒鳴った。
「オスロとラートンがいなけりゃ、セボの軍部は馬鹿の集まり」
キムは肩を震わせクックと笑った。
ハリルは肩を震わせていた。こめかみには太い血管が浮き出て、眉間に深い皺が刻まれる。

「そんなこと言える口か?」

声変わりしかけた少年独特の、中性的な声が凛と響いた。
「こんなことしてるあんたらの方がよっぽどバカだろ。その笑いが俺には理解できない。他に楽しいことないのかよ」
アレモは、驚きとも喜びともつかない顔になった。目を見開き、口は今にも笑いそうに開いている。ハリルははてと眉を吊り上げた。キムは眼前に現れた者の姿が信じられないのか、ゆっくりと首を横に振って、うわ言のようにつぶやいた。
「生きているはずがない……カルーがとどめを刺したはず……」
「ところが生きていたんだな。驚くのも無理ない」
キムを哀れむように優しい口調で、ハリルが静かに言った。しかしその顔には、しめたとばかりの得意げなにやけ顔がはりついている。
哲は息を切らし、顔を歪め、腹を押さえながら、赤茶色のシミがついたシャツと、ほつれた頭の包帯をはためかせ、一歩、また一歩とキムに近づいた。
「大丈夫か?」
通りすがりにアレモが声を掛けた。
「なんとか」
哲はちらと笑顔を見せた。汗に濡れる顔は、数日前までの彼とはまったくの別物だった。疲労を滲ませた微笑は大人びて見えた。
哲はハリルの隣まで来ると立ち止まった。
「夏季たちは?」
「ここにはいない」
ハリルは無表情に答えた。それが戦場の顔なのだと、哲は感じた。若者に親しまれるふだんの陽気なハリルはどこにもいない。
「どこですか」
「君の仇を討ちにいったんだ」
哲は目をつむった。そして、痛みをこらえているかのように、息を長く吐いた。目を開くと、眼前でうろたえるキムを睨みつけた。
「俺は死ななかった。夏季もあの化け物に勝って、生きる。俺たちは負けない」

「リ、リカ・ルカ様に勝つなんて考えるやつはいかれてる。てめえらの無力を思い知るがいい!」
キムは震える手で、黒いマントの胸の部分をつかみ、懐を開いて中にあるものを見せつけた。黒爆弾が胸を覆うようにして巻き付けられている。哲は、ハリウッド映画に出てくる爆弾魔を思い浮かべた。最後の手段として数十個の手榴弾を胴体に巻き付け、人質や捜査官に見せつけ恐怖感を与える場面。しかし、そういった物語の主人公の捜査官は、決して怯えたりせず、頭を使ったり、爆弾を恐れず大胆な行動を取ったりして無事解決するものなのだ。
「いかれているのはどっちだよ」
哲は自分も例に漏れずキムの姿を見て怯えたりしていないことを、うれしく思った。
「俺、そいつが大嫌いなんだ。昨日はそれのせいで酷い目にあったから」
「だからなんだ? 俺はこいつを今ここでバラまくぞ」
キムが哲に負けない高い声で息巻いた。
「やってみろよ」
哲は声を低くして凄んで見せた。
キムはぎりっと唇を噛み、胸から黒爆弾をはずし、両手に持った。
「やれよ。『リカ・ルカ様の力』とやらを見せてみろや」
ハリルが舌を出して言った。
アレモも歩み出て、剣を構えた。

黒装束たちは、黒い霧を見つけるやいなや、避難を始めた。突然逃げ出す黒い集団にセボの二等兵たちがうろたえていると、ハリルが一喝した。
「お前らもここから離れろ!」
ハリルの命令で二等兵たちも敵の後を追った。
「お前も行けよ」
ハリルはアレモに言った。
「友人を残して逃げられません」
アレモが剣を握り直して言った。ハリルはにやりと笑い、それ以上言わなかった。
4人を残して一帯は人気がなく、空っ風が吹き抜ける中で、1人対3人は睨み合った。
キムは喚きながら、黒爆弾を次々と投げた。ハリルとアレモが哲の前に出て、向かってくる爆弾を大槍と剣で弾き飛ばした。キムはなりふり構わず爆弾を四方八方に投げ続けた。どの爆弾も、槍や剣、壁や扉、地面、どこかに当たる度に弾けて、うっすらと黒い煙を立ち上らせた。
哲は後方で静かに待っていた。驚くほど研ぎすまされた感覚で、大気の流れを確かめていた。
そして探していたものを捉えると、哲は厚くなっていく黒雲を睨みつけたまま、キムの方へゆっくりと、しかし着実に踏み出した。

前触れもなく突然吹き荒れた暴風は激しく、アレモは思わず剣を握る手を顔の前にかざした。ハリルの「うおっ」という声が傍らから聞こえた。砂埃で視界は霞んでいる。哲のシルエットと、その向こうに一回り大きいキムのシルエットがゆらゆらと揺れている。 息をするのもままならず、アレモは赤毛を暴風になぶられながら、地面にうずくまった。

台風の目のように、哲とキムが対峙する空間はぽっかりと無風状態になっていた。
哲は顔から汗を噴き出し、シャツの腹の部分からは鮮やかな赤いシミが広がった。キムが腹を抱えて笑っている。
「風であおったら『黒』は広域に広がるぞ! これはお前が昨日浴びた液体とは違って細かい粒子なんだから」
哲は何も答えない。
「一度火の竜巻起こして、こっぴどく叱られただろうが。同じことをまたやるつもりかよ。お前も学習しないやつだな!」

哲の耳にキムの罵声は届いていなかった。

哲は、「裏門」でオミリアに襲われ、命を落とすのだと思われたとき、心のどこかでは死んだ祖父に会えると考えほっとしていた。身寄りのいない現世よりも親しい者の待つ世界を夢見た。16歳にもなってそんなことを考えるのは浅はかだろうかと罪悪感を感じながらも、憧れた。
しかし結局は命がつながれ、現実に戻さた。祖父に会う夢が奪われる代わりに、生きながらえた。

生きてよかったと思えることがこれからたくさん起こればいい。もう一度夏季に会う。夏季だけじゃない。倫さんにお礼を言わなければならない。俺は知ってる。多少は意識があったから、倫さんが「成長の手」で育てた薬草のおかげで助かったこと。それに、俊は一発殴らないと気が済まない。
そうしたら俊はどんな反応をするだろう。倫の口からはどんな言葉が飛び出すだろう。夏季はどんな顔をするだろうか。
なにか楽しいことが起きればいい。新しい仲間といっしょに笑えたらいい。死んだじいちゃんとあの世の縁側で将棋をするよりは、実現しやすいんじゃないかな。

だから俺は、俺の仲間と、俺の居場所を守るんだ。

アレモは周りの風が弱まるのを感じて、恐る恐る顔を上げた。相変わらず視界は悪いが、息はしやすくなった。
「まったく、『使い』の力ってのは、何度見ても慣れそうにないな」
アレモは愚痴をこぼすようにつぶやいた。
「ありゃあ、デジャブを見ているようだ」
ハリルも隣で顔を上げ、手をかざしていた。今や彼らの周りの風はほとんどなくなっている。代わりに、哲とキムの間の空間に、細長い竜巻が出来ていた。
「あの騒動。火の竜巻だよ。今度は、まあ……『黒』い竜巻ってやつだが」
ハリルの目線を追って見上げると、アレモもそこにあるものを確認した。黒い風がとぐろを巻くようにして渦巻いている。そして視線を下に落としていくと、それは哲とキムの間にある地面をえぐっていた。
アレモには、空気中に散った黒爆弾の粒子が、一つの竜巻の中に結集しているのだと映った。そのせいで竜巻の色は真っ黒になっている。
「哲っちゃんも、ちょっと考えたな。あの日の悪夢を再利用したってわけだ。風で『黒』の粉をかき集めて、それから巻き取ったんだな」

「なあ、アラモ」
ハリルが出し抜けに言った。
「アレモです」アレモは苛立ちを隠そうと努力した。
「その辺の柱にあいつを縛り上げとけ」
ハリルは腰を抜かして黒い竜巻を見上げているキムを指差した。
「了解」
「俺はこれから大急ぎで城へ戻らなけりゃならない」
哲の登場で、辺りに黒装束の姿は見当たらなかった。彼らが散っている今、城へ向かいやすいとハリルは踏んだ。 「黒装束はできる限り大勢生け捕りにするんだ。いいな」
「了解!」
アレモが大きな声で返事をするのを聞き、ハリルは早速駆け出した。
「ハリル副隊長」
アレモが思い出したように呼び止めた。ハリルが振り向く。
「今日皆が動くのは、あなただからです。俺たちはラートン隊長よりも、あなたを慕っているんだ」
アレモの言葉にハリルは目を丸くして、そして吹き出した。
「ラートン隊長には言うなよ。あいつはプライドが高いから。頼むぜ」
長年愛用しているのか、ぺたんこに潰れ、ひしゃげた帽子をかぶり直し、アレモに向き直った。
「ありがとう」
そしてハリルは背を向け、走った。3歩進んだときにはその顔は既に厳しさを取り戻していた。彼は文字を読むだとか、細かい計算をするといった、頭を故意に働かせることは苦手だったが、勘はよく働いた。これから城で出会う人物も、そして出会う場所も予感していた。
次第に近づくセボの城はいつになく巨大に感じられ、同時に不安が膨らんだ。走る早さとは関係なしに胸の鼓動が早くなった。そのようなことはもう何年もなかったから、心臓を酷使して体調を崩すのではないかといらぬ心配をした。

哲の竜巻はどんどん細くなって、ドリルのように、地面に穴を穿ち始めた。その間アレモは民家の中を通ってキムに近づき、剣の柄でその頭を殴りつけた。彼の目が黒いとぐろを巻く風のかたまりに釘付けとなり呆然としていたことから、わざわざ迂回する必要はなかったかもしれないと思ったが、腰に結わえてある小さな頭陀袋から縄を取り出し、手近な民家の柱に失神しているキムを縛り上げた。
「やっかいなのは、爆弾だけだったな」
そして哲の竜巻は地面を掘りながら、『黒』い粒子もろとも地中に潜り始めた。
「アレモ、腹の傷を抑えてくれないか。血が噴き出しそうだ」
哲が静かに言った。目線は竜巻から逸らされることがない。アレモは頭陀袋から今度はガーゼを取り出し、哲の腹に当てた。
「なんとかがんばってくれ」
アレモが声を掛ける。
「俺、この後休んでいいかな」
「当たり前だろう。きっと一生休暇がもらえるぞ」
その後は二人とも黙り、黒い粉が沈んでいくのをじっと見つめていた。
アレモはありったけのガーゼを哲の腹に押し付けた。哲の汗ばんだ身体が発する熱が移り、汗が噴き出す。自分よりも身体が一回り小さいはずの哲が大きく見えた。見上げる背中が広く感じられ、不思議と安心できた。

竜巻が地中に埋まってしまうまで、ずいぶん時間がかかった気がした。その間、黒装束が現れて邪魔をするということは一切なかった。セボの二等兵が勢いを盛り返していると考えていいのだろう。
アレモは大きくえぐれた地面の側に腰を下ろし、哲は隣で寝転がり、深い呼吸を繰り返していた。

「城になにがあるんだろう? 副隊長はどうしてあんなに城、城って言っていたんだ」
アレモが首を傾げて言った。
「さあ……」
哲は腹の傷を確かめながら言った。血に染まったガーゼの下のを見ると顔を真っ青にして、すぐに傷口をしまった。
「あの人のすることはいつもふざけ半分だから、急に真面目な顔をされてもちょっとわからないな」
哲は空を見上げた。腹の傷から気を逸らしたいのだろうと、アレモは思った。
「そのギャップがいいんだよ。だから隠れファンがいるんだけどな。俺みたいな」
アレモは肩をすくめて、哲と同じように空を見上げた。
「それは分かる」
哲が言い、アレモが笑った。哲も笑ったが、傷が痛むのだろう、控えめな小さな声だった。
「そういえば、イルタは?」
哲が、身体を重たそうに起こしながら言った。
「あいつは外野部隊なんだ。実戦となると好きなもん同士ってわけにもいかないらしい。他の仲間はみんな内野部隊だけど、班はバラバラ」
アレモは荒野へ向かった友人の顔つきや手つきの細かい部分まで、仔細に思い出すことができる。それほど長い時間を近くで過ごしてきた証拠だった。
ウォローには悪いが、俺の方がイルタとの付き合いは長いんだぜ。
アレモは胸の内で得意げにつぶやいた。
そして、無事で戻って来ることを願う分だけ、心が苦しくなった。万が一のこともあり得るのだ。今日は訓練じゃない、本当の戦闘なのだから。
「おいところで。哲、お前かっこよかったぜ」
不安を拭うつもりでアレモは話題を変えた。
背を叩かれた哲は驚いたのか、目を丸くし、それからはにかんだ。

昨夜まで瀕死の状態だったのに、今はぴんぴんしている彼はやはり特別かもしれないが、ある部分で少し変わっている人間だと思えばそれ以外は普通の少年と同じだった。
二人は青い空の中にそびえる白い城を遠目に眺めた。太陽はとうに頂点を過ぎている。郊外の騒動とは無縁で静かな景観だった。いつもと変わった様子はないようにアレモの目には映ったし、きっと隣で哲も同じように感じているだろうと思った。

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