目次 HOME

闇の湖畔・後編

第一章/使い

「お前……」
オミリアの顔を覆っていた黒い鱗が少し薄くなったように、夏季は思った。
「久しぶりね。オミリア」
カイハは水の中に静かに足を踏み入れた。
「こうして顔を合わせるのは何年ぶりかしら」
ゆっくりと、オミリアに近づいていく。
「わたしがどんな目的でここへ来たのか……わかるわね?」
夏季の横まで来て、止まった。オミリアとの距離は10メートルほどである。
「何度も呼びかけ、わたしたちの側に歩み寄るよう説得してきたつもりだけれど」
オミリアの顔から、黒い鱗が剥がれ落ちた。鱗はぼちゃぼちゃと音を立てながら水の中に落ちた。
「今すぐ、その力を夏季に返しなさい」
カイハが語気を強めた。
「この力はわたしのものだ! お前がわたしに分け与えてくれたのだから!」
オミリアが手を振りながら言った。黒い剣が湖面に落ち、水に溶けた。目の色が、カイハと同じ灰色に戻っている。
「あなたにはもう必要ないはず。静かに暮らせる環境を手に入れたあなたには。わたしはそのためだけに貸し与えた。あなたもわたしに誓った。そのときが来たら必ず返すと」
「いいえ……。まだ、必要なのよ。リカ・ルカ様のために使うのよ!」

オミリアの声には尊敬と畏怖が込められていた。唯一信じられるものを見つけ、それ以外のものは閉め出してしまったような、熱っぽい口調だった。
オミリアの言葉は広間にわんわんと反響していた。こだまが完全に消えてしまうまで、カイハは口を開かなかった。

「そのような目的のためにある力ではない」
カイハの口調は平坦になっていた。カイハの言葉が冷ややかになると同時に、夏季は周囲の気温が下がっていくように感じた。カイハの周囲に白いもやがかかっている。
「この力、誰にも渡さないわ」
オミリアは髪を振り乱していた。おもちゃを取り上げられそうになった子供が、いやいやをしているようだった。
「神聖な力を破壊のために使うことは、わたしが許さない」
カイハが言葉に力を込めると、一層空気は冷たくなった。
「夏季、離れて。彼らのそばへ」
カイハは目線で、ラートンと倫がいる方を示した。
夏季は右足を引きずり、仲間の方へ歩いた。
「六季はセボで尊敬されている人間よ」
夏季が振り返ると、カイハが微笑んでいた。夏季も弱く微笑み返した。

そろそろ、セボの誰かにお母さんの話を聞かなければならない。本当の話を。
それでも、過去は過去。過ぎたことに囚われるほど、わたしは弱くない。
今は眼前のことに集中するべきだ。

倫とラートンが手を貸し、夏季を岸へと引き上げた。
「大丈夫?」
倫が夏季の肩を抱いた。
「なんとか」
そう言いながら、ずきずきと続く足の痛みに顔をしかめた。
「これを」
倫は腰に取り付けた袋から、一枚の大振りな葉を取り出した。
「哲くんに使ったのと同じ植物の葉よ。傷口に当ててみて」
「ありがとう」
夏季はそれをまじまじと見つめた。こうして見る限りでは特別変わったところはなく、紡錘形で照りのある、濃い緑色の葉だった。
「倫さんの力って、便利だよね。食べ物にもなるし、薬にもなるし」
「さあね。あんたの『水』だって十分使えると思うけど」
倫が笑う。夏季もフッと笑い返したが、それ以上会話を続ける気はなかった。身体に疲労がどっと押し寄せていた。
夏季は倫とラートンの間にどすんと腰を下ろし、大きな葉を太ももの傷口に当てた。
「隊長が呼んだんですか?」
夏季は腕組みして壁に寄りかかっているラートンに話し掛けた。
「ああ。しかし、来るか来ないかは、彼女次第だった」
つまりは、一か八かの賭けだったんだ。
夏季は股の傷みが引いていくのを感じながら、目を閉じた。壁に体重を預けると眠りに落ちそうになる。
もう二度とあの湖に入るつもりはなかった。カイハが頼みの綱だ。

「カイハ、やめて! わたしの気持ちが理解できるはず。人間が憎いのよ! あなたも同じでしょう! わたしたちの生活をめちゃくちゃにしたのは誰!」
オミリアの必死の訴えも、相手にはもう届いていないようだった。カイハはゆっくりとした動作で腕を翼のように広げ、静かに目をつむった。すると、白いもやが濃く漂いはじめ、気温が急激に下がり始めた。
吐く息が白い。夏季は全身に水をかぶったせいでいっそう寒く感じた。同じようにずぶ濡れのラートンも、突然の冷気に小さく身震いしていた。
オミリアの胸の真ん中にうっすらと、白く小さな円が広がった。霜だ。オミリアは身体の変化に顔を歪め、水しぶきを上げながらカイハに近づいていった。
「カイハ! わたしとあなたは同じ種族なのよ! 最後の生き残り! なによりも美しい種族!」オミリアが手を伸ばした。しかし二人の間にはまだ5メートルほどの距離があり、届くはずはない。オミリアは前のめりになり、転びそうになりながら、水を掻き分けていった。

カイハは腕を震わせ、拳をぎゅっと握りしめた。
「ノラス!」
カイハの言葉が反響した。
夏季は耳元で微かなチリチリという音を聞いた。空気が凍る音だった。空気中の水分が凍り、結晶がきらきらと舞っている。
「ああ、カイハ! 助けて! リカ・ルカ様!」
静かで、冷たい星の瞬く幻想的な風景に不釣り合いな、悲痛な叫びが響いていた。さいしょ胸にあった小さな霜は、瞬く間に広がっていった。オミリアの身体を化粧するように、全身を、薄く白く覆っていく。
「リカ・ルカ様、お助けください! リカ・ルカ様! リカ……」
オミリアの顔が引きつった。霜は首筋にまで届いていた。長い長い悲鳴が響いた。ピキピキと音が鳴り、口元が固まり、まぶたの動きが止まり、頬の筋肉もぴたりと動かなくなった。恐怖をはりつけたままで、表情が固まった。霜はついに顔までも真っ白に覆っていった。
腕と足の動きがスローモーションになっていく。手で何かを捕まえようとしたが、その手はカイハに届く前に静止した。喉から絞り出される悲鳴は次第に小さくなる。そして、オミリアの足元の水面もバキバキと氷結していった。
カイハはゆっくりと腕を下ろし、静かに目を開けた。

夏季はガタガタ震えていた。ラートンも夏季と同じくらい震えていた。二人とも、同じように腕をきつく組んで厳しい寒さになんとか耐えようとしている。
「やったか?」
しかし、努力もむなしくラートンの声はカタカタ震えていた。夏季は自然と頬が緩むのを、懸命にこらえようとした。
「ええ。彼女の心の臓を凍結しました」
「感謝する。よく決断してくれた」
夏季は倫を見た。肩が震えている。夏季はそれが寒さのせいではないと思った。倫は顔を隠すようにして下を向いている。誰が見ても、ラートンが小刻みに震える姿は、他の誰が震えるよりも滑稽に映るようだった。
「黙って見ていられなくて。わたしが招いたことですから」
カイハは寒さをものともせずに、平然とした顔をしていた。「氷使い」だからだろうかと、夏季は思った。
「力を分けたのは君だが、その後はオミリア自身の問題だ」
「ええ。そうかもしれないわね」
カイハはふっとため息をついた。
「それでも、わたしが新たな『力』を手にする以上、彼女のような行動を放っておくわけにはいかなかった。これは、わたしと彼女の避けられない運命だったんだわ」
ラートンは顔を伏せた。カイハは穏やかに彼を見下ろしている。カイハはこの場にいる誰よりも背が高かった。

「カイハさん」
夏季は重い身体をなんとか両足で支え、ふらりと立ち上がった。
「夏季。しばらくね」
「助けてくれてありがとう」
何度言っても言い足りないと思った。
「大急ぎで来たのよ。もっと早く出立していれば、あなたたちに大変な思いをさせずに済んだ」
夏季は首を振った。
「わたしには必要な闘いだったから、これでいいの」
「闘いに『必要』と言えるものがあるとすれば、それは貴重なことかもしれないわ。あなたは根っからの戦士ね」
カイハは柔らかく笑った。
夏季は自分の言葉をもう一度考え直して、少し照れくさくなった。
「オミリアとは知り合いだったんですか?」
「ええ。見ての通りね」カイハは天を向く三角の耳に手をやった。「いとこだったわ」
「そうなんですか……」
夏季は驚くと同時に、胸の奥が痛んだ。彼女は夏季たちを助けるために親族を殺した。事情が絡んでいるとはいえ、彼女の心中を察するのはつらいことだった。
「言っておくわね。今回のことには、複雑な事情があるのよ。とても長い間絡み合っていて、解けなくなってしまった事情がね」
夏季は静かに頷いた。
湖面で固まったオミリアを見た。驚いたような顔をしたままの、美しい顔は斜め上を見上げていた。ほんの少し前まで、カイハの顔があった場所を。
カイハの言う「事情」は確かに複雑なようだった。オミリアが持っていた「水使い」の力、それはカイハが与えたものだという。しかしカイハは「水使い」ではなく「氷使い」だ。どういう訳なのか。今ここでそれらのことを訪ねたいが、機会を改めて聞いてみる方がいいかもしれないと、夏季は思った。きっと長い話になる。

「君」
皆が振り返ると、ラートンは夏季を見ていた。
「君だ」ラートンが再び言った。
「夏季です」
夏季は呆れた口調で言った。この期に及んでこの人は、まだ旅の仲間の名前を覚えないのだろうか。
「まだ仕事が残っている。オミリアを壊せ」
夏季は驚き、倫、そしてカイハへと目線を泳がせた。
カイハが頷く。
「『必要な闘い』を締めくくるために」
「でも」
「オミリアの中にある『水使い』の力を解放するのよ。あなたにも分かっているはずよ」
カイハの言っていることは理解できた。「水使い」の力を分割していたオミリアの心臓は凍結されたが、夏季は自分の中で力の変化を感じていなかった。つまりオミリアはまだ完全に死んだわけではないのだ。
「わたし、嫌だな……」
「何言ってるの。ここまで来て。あんたがやらないと格好つかないでしょ」
倫がずけずけと言った。傷を負っていない彼女は元気が有り余っているようだ。
夏季はおそるおそる、ラートンの顔を伺った。
「嫌なら、その仕事、俺がやってやる」
ラートンはほくそ笑んでいた。俺がやるぞ、意気地なし、と言っているのが聞こえてきそうだった。
さっき。あのブルブル震える顔指差して、思いっきり笑ってやればよかった……!
夏季の中に溜まった悔しさが、はけ口を探して頭の中をぐるぐる駆け巡った。

「わかった! やればいいんでしょ! 仕事、仕事って、ラートン隊長の頭はスケジュール帳でできているんですか!?」
夏季はやけ気味に叫んだ。
「それにね、『君』って呼ばれたらみんな振り返るものなの。ちゃんと人の名前を覚えてよ!」
突然キレた夏季に面食らい、ラートンは言葉に詰まった。倫が夏季を指差し、腹を抱えて笑っている。カイハも声を立てて笑った。彼女がそのように笑うことなんて天と地がひっくり返ってもなさそうなことだった。夏季の顔は思わずにやけてしまった。そして今度こそ、隠すことなく、ラートンを笑った。
ラートンは口をへの字に曲げ、眉間に皺を寄せている。それを見てもなお、夏季は笑っていた。
やった! ついに言ってやった! 隊長相手に。ああ、幸せ……。
まだ言い足りないくらいだったが、夏季はラートンを黙らせたことにひとまず満足した。

まだクスクス笑っている倫、ムスッとして黙りこんだままのラートン、静かに微笑しているカイハを岸に残して、夏季はもう二度と入るまいと思っていた湖に、足を踏み入れた。再び入ると冷たく感じるプールの水のように、湖の水の冷たさは、先ほどよりもずっと厳しく感じられた。
オミリアに近づくほど、水が冷たくなった。身体の中にまでその冷たさが染み込んできた。オミリアの氷の彫像が動くはずはないが、夏季は慎重に、出来る限り音を立てないように近づいていった。
オミリアの目が斜め上を向いていることが救いだと思った。直接目を見るのには耐えられない。夏季は右手を一度握り、そして開いた。そこには美しく澄んだ透明の長剣が形作られ、表面を繊細に波打たせていた。

哲をひどく傷つけた女。実際に会うまでは憎くて仕方がなかった。でもこの人、最後は少しかわいそうな顔をしていた。すがるような目で……。

夏季はオミリアの像に近づき、胸のあたりに左耳を寄せた。 「水使い」の力なのかは分からなかったが、夏季の聴覚は水流を読み取るのと同じように、オミリアの心臓の鼓動を聞き取った。堅くひんやりとしたオミリアの胸の中から、かすかに、脈打つものを感じた。

生きている。

夏季の頭にはカイハに命乞いをするオミリアの顔が浮かんだ。それを振り払うように、固く目をつむり、開く。
オミリアに命令していた誰かが、わたしたちの本当の敵なのだろうと、夏季は思った。
オミリアの像から離れ、剣を両手で握り、頭上高く振り上げた。
リカ・ルカ。
彼女が最後に連呼したその名前が、耳について離れなかった。
夏季は目をしっかりと開け、氷の彫刻に剣を振り下ろした。
刃がこつんと当たると同時にオミリアの像ははじけるようにして粉々に砕け散り、破片は驚くほど軽やかにきらきらと空中に舞って、瞬く間に消えていった。

突然、夏季は自分の中に流れを感じた。胸の中心から全身に、力が流れ込んだ。冷えきった身体に、暖かなエネルギーがどっと押し寄せた。へその辺りから体中を巡り、指先からつま先まで、心地よい熱が伝わった。
大きな脈動を感じた。耳を澄ませなければ聞き取る事ができなかった水流が、視覚に、嗅覚に、触覚に、味覚にも触れていく。耳で聞くことしかできなかった水流を、全身で敏感に感じ取ることができた。夏季は、体中に溢れる新しい感覚にしばらく呆然とした。
手にしている長剣を見た。剣のつばには龍がかたどられている。水は絶えず流れているのに、龍の頭はしっかりと決まった位置に刻まれている。
夏季には次にすることがわかっていた。剣を水中に振り下ろし、そしてつばに刻まれた龍に思いを込めて、水しぶきをまき散らしながら、剣を振り上げた。

お前はわたしと共にある。

水が吹き上げた。水柱は天井にぶつかる前にうねり、輪を描いてするすると伸びていった。先端が尖って、龍の口を象る。鼻の穴を穿ち、眼下がくぼみ、雄鹿のような角が現れた。透明の龍はいなないた。甲高く、大きな声だが、黒い龍の耳障りな悲鳴よりもずっと柔らかく、包み込むような力強さがあった。

「なんて大きい」
倫がつぶやいた。目の前で泳ぐ龍の頭は、オミリアとの闘いで見た白龍の、3倍はあった。岸にいても、細かい水しぶきが霧雨のように降り注いだ。
「すごい。小さな夏季があんなものを扱えるなんて。わたし、やっと、夏季がリーダーって案に本気で納得できそう」
カイハも龍を見上げていた。
「ええ。本来の姿の白龍が誕生した」
納得したような口ぶりだった。
「水の龍と、そして『水使い』の誕生だ」
ラートンはだけは、龍ではなく夏季を見ていた。夏季は、自身が呼んだ巨大な生き物を、愛しそうに見上げていた。

龍を見上げる夏季の目の前で、黒い影が渦巻いていた。誰もが水の龍に見とれていて、それは夏季自身も同じだった。黒い影はうようよとこねるような動きをしながら、誰にも気付かれることなく、だんだんと槍の形に変わっていった。
水の龍だけが黒い影の悪意を感じ取った。急に鋭い鳴き声をあげ、天井から急降下をはじめ夏季の方へ突進した。
夏季は龍が猛烈な勢いで自分に向かってくるのを見て驚きたじろいだ。何が起きているのか咄嗟には理解できなかった。
龍は槍の前に立ちはだかり、夏季の前で激しく鳴いた。しかし黒い槍は、水の龍の鱗をものともしなかった。白銀の破片が宙に舞った。槍は龍の胴体を破り、夏季の首の真ん中を突き抜けた。
「あっ」
夏季は冷水の中に倒れ込んだ。
水の龍は一瞬で水となり、湖に溶けて消えた。
「夏季!」
倫が叫び、両手を前に突き出した。
右手からは緑の植物が伸び、黒い影を振り払った。左手からは太い根のような蔦が伸びて夏季の胴体を捕まえ勢いにまかせて引き寄せた。飛ぶようにして寄せられた夏季をラートンが受け止め、その勢いで岩場に尻をついた。臀部を強打したラートンは一瞬顔をしかめたが、すぐに湖へ目をやった。倫のケナヒーが、黒い影に絡み付き、もみ消しているところだった。
夏季を見下ろすと、首にはまだ黒く細長い影が確認できた。陽炎のように薄いが、粘るような動きで皮膚にまとわりついている。
「そいつを寄越せ!」
湖の影を片付けた倫に、ラートンが呼びかけた。
倫は岸に戻ると、腰の袋から濃い緑色をしたケナヒーの葉を取り出した。緑の葉を夏季の首に押し当てると、薄く残った影は分解するようにしてすぐに消え去った。
槍が突き抜けたにもかかわらず、夏季の首筋に傷はなかった。しかし、その代わりに硬貨のような大きさの黒い痣が、じんわりと広がっていた。
「おい、しっかりしろ」
「夏季、なつき」
揺さぶられても、名を呼ばれても、ラートンの腕の中で夏季は目は閉じていた。一見穏やかに寝ているように見えたが、胸は息苦しそうに上下している。
「くそ……」
ラートンが悔しげにつぶやいた。
「『黒いもの』がオミリアの体内にまだ残っていたのね」
カイハが静かに言った。
ラートンは、倫の手の中にある葉を見て、叫んだ。
「なぜそれでオミリアを攻撃しなかった!?」
「奥の手に決まってるでしょ。これ育てるの、大変なんだからね。最初からそんなフルパワーでやりあっていたらもたないのよ。こういうときのためにとっておいたの。攻撃に使うんじゃなくて、治療用のために」
倫は夏季の首筋に葉を当てた。
「……そうよね。こんなことになる前に使えばよかったのかもしれないけれど」
倫は喉を詰まらせた。「こういうときに思うのよ。考えるより前に行動した方がよかったって……」
「反省は後にしよう。今は彼女を助けることに力を注げ。……怒鳴って悪かった」
倫は黙って頷き、手の平で涙を拭った。ラートンが謝ったことについてはあえて触れなかった。彼は味方の命が関わればふだんの自尊心を捨てることができる人間だということは、哲の治療のときに分かっていた。
どちらが本当の彼なのだろう。ひょっとしたら、ふだんの冷徹さは本当の自分を隠すための仮面にすぎないのかもしれない。
倫はズボンの裾を破り包帯代わりにして、夏季の首にケナヒーの葉を巻き付けた。ラートンが夏季を背負った。彼らは湖畔に背を向けて、暗い洞窟へ踏み出した。
「ケナヒーは確かに有効よ。しかしオミリアの中にいた『黒』を倒すためには、ドクラエでなければ効かなかったと思うわ。だから、もしものために力を温存していたあなたの選択は間違っていなかった」
カイハが倫に優しく言った。
「ナイスフォロー。ありがとう」
倫は親指を突き出したが、気分は上向きにならなかった。すぐ隣で夏季が苦しそうに唸っている。
「治療に限って言えば、哲の毒に効いたんだから、夏季にも効くわよね? 攻撃したのはどちらもオミリアなんだし……」
「見ろ」
ラートンは目で、夏季を示した。
「彼女の首だ。そこに二つの点があるだろう。それは、高密度の『黒』を食らったという印なんだ」
倫がよく見ると、夏季の斑点だらけの首の横に、渦を描くように髭の生えた小さな黒丸が、点対称の位置で並んでいた。ただの痣ではなく、人が意図的に作った図形が、くっきりと刻印されている。
「通常の攻撃で浴びるものとは違う。オミリアの生命力が結集された、殺人的な呪いだ。そのような力に対抗するためにはドクラエのような強い治癒力のある薬草があった方がいい」
「あった方がいいってことは、ドクラエがなくてもケナヒーでなんとかなるってことよね?」
倫はすがるような目で、ラートンとカイハを交互に見た。
「患者による。彼女は先の闘いで体力が落ちている。とにかく早く城に連れて行き、適切な処置をしなければ、危うい。ケナヒーの抑制力に加えて、彼女の体力と精神力が問われるだろう」
「夏季は大丈夫よ」
カイハは独り言のようにつぶやいた。
「オミリア程度の力には負けない。彼女の娘なんだから」
倫はカイハの横顔を見た。

夏季の母親はいったい何者なのだろう。オミリアもその名前を口にしたし、ラートンも知っている風だった。
なぜ?

倫は、眉根を寄せて呪いに耐える夏季をしばらく見つめたが、首を横に振って前に向き直った。夏季の苦しむ顔を見るのは耐えられなかった。哲の肌に出ていたのと同じような黒っぽい紫色の痣が、出始めていた。

倫、カイハ、そして夏季を背負ったラートン。3人はほとんど走るような早歩きで進んでいた。ラートンは軽傷とはいってもオミリアのつぶてにより全身に負傷しているはずだが、足取りはしっかりして消耗を感じさせなかった。
ラートンは短く呼吸しながら、まっすぐ前を見つめていた。夏季の息遣いは、一人を背負い走っているラートンよりも苦しそうだった。ときおり風のようなか細い音が夏季の口から漏れるのを聞きながら、彼はひたすら走った。

俊は洞窟から、狐耳の白い女を先頭に、ラートンと倫が出てくるのを見て思わず顔をほころばせた。しかし夏季がラートンに背負われぐったりしているのを見て、振りかけた手を下ろした。
「夏季は大丈夫か?」
「早く城に帰るのよ」
倫が俊の腕に手を置いた。彼女は無傷なようで、衣服もそれほど汚れていない。ラートンは全身ずぶぬれといった態で、黒い衣服はところどころほころびていた。しかし動きは敏捷で身体がひどく傷つくことはなかったようだ。
「出発の準備を」
ラートンが誰にともなく言った。俊は木に巻き付けてある馬の手綱を解きにかかった。倫も彼を手伝おうと隣の木の綱を解き始めた。
「みんな無事でよかった」
俊が言った。
「あんたもね」
倫が言った。
俊はラートンの方を見やった。夏季を地面に下ろし、額に手を当てている。白い装束の女と話し、今度は女がかがみ込んで夏季の額に手を添えた。
夏季は果たして無事なのか?
ラートンは相変わらず冷静で落ち着いているが、ふだんの観察者のような態度とは違う。それほど夏季は危険な状態なのだと俊は感じた。
俊は焦り、手間取った。綱を一本解くのは倫の方が早かった。
「しっかりして! 早く城に帰らないと」
「わかってる」
俊は倫に急かされてなんとか綱を解いた。

「では、わたしはここで道を別にする」
カイハは自分の黒馬の手綱を俊から受け取り、言った。
「ああ。遠くまでご苦労だったな。来るべきときが来たら、再び合流しよう」
早口で、しかし相手の顔をしっかり見て言った。馬上から右手を差し出す。
「ラートン。最後に少し話が」
カイハがラートンの手を握りながら言った。
ラートンは馬をカイハの横に寄せた。
「わたしの力は、まだ完全ではない」
カイハは声を潜めた。
「確かか?」
ラートンが口元を隠して言ったが、離れたところにいる倫や俊にも、彼の驚く様子がよく分かった。
「ええ。先ほどオミリアに力を使ったときに感じた。まるでどこかにタガが引っ掛かっているような」
カイハも口元を白い手で覆った。
「考えられるのは、彼女がまだ……」
ラートンはカイハが力を発揮したときに、それでもオミリアを仕留められなかったことに思い当たった。
「彼女というのはつまり」
二人は、ラートンの腕の中で眠る夏季を見つめた。

目次 HOME