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闇の湖畔・中編

第一章/使い

洞窟の最深部の音が届くはずはないが、暗い穴の中から動物の悲鳴のようなものを聞いた気がして、身を構えた。胸の鼓動が突然速くなった。しかしそれはすぐに、鳥の鳴き声と風にざわめく木々の葉が立てる平和な音に呑み込まれた。肩の力を抜き、ふっとため息を漏らした。洞窟の近くの林で、俊は四頭の馬と共に、じっと仲間の帰りを待っていた。
俊は、洞窟から出てきた3人が安全に帰る事ができるよう穴蔵の外を見張る大事な役目を負った。しかし、たった一人で洞窟の外の敵は彼が排除しなければならない。役回りに不満はないが、とにかく心細かった。
鳥が飛び立つときに鳴る羽音や、風に揺られた葉が擦り合ってだすカサカサという音、三人が洞窟の中に消えてしばらくは、そんな些細な物音も気になってただ座っていることがつらかった。

俺の心臓にはドラマーが住んでる。それも、何度注意されてもリズムが速くなってしまうへたくそな野郎だ。 まあ、俺には案外お似合いかもしれないな。こうして一人置いてかれちまって、ヘマばっかりやってるから……。
本気でいじけているわけではなかった。ただ待つのはつらい。少しでも気を紛らわせられそうな冗談を考えながら、馬の毛を櫛で梳いた。

がさがさと茂みが音をたてた。何かが動いているようだった。

人か、動物か?
俊は胸の鼓動が早くなるのを感じたが、冷静に考えた。

茂みの向こう、林の中で、人影が浮かび上がった。影は上下している。馬に乗っているようだ。

どうする、俺。

俊は身を固くした。
白い手が伸びて、茂みを掻き分けた。見た事もないような長く白い爪が、日光を浴びている。

やってやる!

俊はためらわなかった。右手を影に向けて突き出した。火炎の渦が噴射し、人影を瞬時に飲み込んだ。オレンジ色の炎は木々の葉をちりちりと燃やした。
しかし、すぐに気持ちはしぼみ、後ろめたさが取って代わった。人影のようなものが炎の後ろに消えるのを見て、自分が何かとんでもないことをしでかしているような気がしてならなかった。城の「裏門」の鍵について過ちを認めたときとはまったく質の違う罪の意識が胸の内に忍びこんでくる。自分の手が直接、人を傷つけているのだ。
俺は今、何を燃やしている……。
「スンダ!」
そう叫ぶ声を聞いた。俊はその言葉が分からなかった。
人影があったあたりから吹雪が発生して、俊に冷たい風を吹き付けた。白い渦が炎の赤い渦を包み込み、かき消してしまった。

「待て。わたしはあまり熱いものが得意ではない」
声は女性のもののようだ。
林の中から現れたのは、毛並みのよい黒い馬にまたがり、白いマントとフードをまとった、背の高い人間だった。ただ者ではない出で立ちに気圧され、俊は突き出した手をゆっくりと下げた。

黒い龍の叫びは断続的に続いている。金属を爪で引っ掻くような耳障りな鳴き声だった。夏季の肌には粟が立った。
オミリアが立ち上がった。左肩からは黒い液体が滴っている。もっと大きな明かりがあれば、それが赤色であると判別できたかもしれない。しかし、ラートンが刺したはずの胸のあたりには血はおろか、傷を負った跡も残っていなかった。
「なぜだ……。同じ水の力なのに……」
彼女の顔は変貌を続けていた。黒い斑点がびっしりと現れ、肌が鱗のようにぼこぼことしている。夏季はそれを間近で見ていて気分が悪くなった。
「わたしが本物で、あなたが偽物。それがわたしたちの違い」
夏季が小さな声で、しかしはっきりと言い、武器をぴたりと構えた。すると白く光る水の短剣は細く伸び、ラートンの剣のようなすらりとした形に変化した。羽根のように軽かった。オミリアの剣と交えた途端に粉々にならないかと心配になるほどに。表面が波打っているが、それらが織りなす波紋はオミリアのものと比べ物にならないくらい繊細で美しい。対照的に、オミリアの太い長剣は次第に濁り、黒いもやをまとっている。彼女の邪悪な心がそのまま武器に流れ込んでいるかのようだ。
剣を両手で構えた夏季がにじり寄ると、オミリアはじりっと後退した。

「違うな。わたしには黒い光。そなたには白い光」
オミリアは低い声でぶつぶつとつぶやいた。
「二つはまったく別のもの。貴様も、わたしも、本物なのだ!」

オミリアは黒い剣を振り下ろし、湖に打ち付けた。すると黒龍の頭部は、乱暴な叫びを発したまま、夏季に向かって飛び出した。
夏季も白い長剣を湖面に振り下ろした。黒龍より一回り大きな透明の龍が勢いよく飛び出し、夏季に襲いかかる黒龍の頭部にぶつかった。
白龍。
夏季は思った。彼女の水の剣と同じように、それはやわらかな白い光を放っている。特に一枚ずつくっきりと象られた鱗は、長い体躯がうねる度に、きら、きらと瞬いた。
二頭の龍は互いの顎を噛み合わせ、相手を砕こうとした。力は拮抗し、黒龍が勝ちそうになると白龍が盛り返し、白龍が勝ったかと思われたところで黒龍は無理矢理に押し返した。
黒龍からは黒い水が飛び散り夏季の皮膚にかすり傷を負わせた。白龍からは澄んだ水が飛び散りオミリアの皮膚を焦がした。

黒龍はどぶ川の水を火にかけたような、むっとする匂いを放っていた。目にしみるほどの悪臭に、涙で目が滲んだ。腕と顔に感じるぴりぴりとした痛みに耐えた。剣を突き出し、白龍を前進させることに集中した。オミリアも、自身を傷つける水しぶきにはまったく関心を向けず、黒龍で対抗することに力を注いでいるように見えた。

「しかし、『水使い』は一人でいい。今ここで決着をつけるのだ……! 貴様もそのために来たのだろう?」

「後ろだ!」
ふいに響いたラートンの声で、夏季はとっさに水の剣で背後を斬りつけた。振り向きざまに切り落としたのは黒龍の尾の部分だった。黒龍の頭部に気を取られている間に背後に回っていたらしい。
夏季の集中が切れると同時に白龍の下あごは黒龍に噛み砕かれた。黒龍は白龍の残骸を体当たりで吹き飛ばした。白龍は飛び込むようにして湖の中に還った。夏季は間一髪で眼前に迫る黒龍を剣でなぎ払ったが、右腕に多くの毒のしぶきを浴びて切り傷を受けた。突然の深い傷にあっと声を上げ、腕をかばった。

黒龍は旋回し、再び夏季に襲いかかろうとする。
「来て!」
夏季が再び剣を振ると、噛み砕かれた顎を湖の水で補った白龍が再び水上に姿を表した。
夏季は剣を振るのが遅かったと感じた。心がざわつき、黒い龍にまるごと飲み込まれ、毒素に冒されるのではという雑念がよぎった。しかし白龍は命令されるより先に、恐怖に駆られるあるじをかばった。黒龍に噛み付かれた胴体から光る鱗がいくつも砕け散ったが、それより多くの黒い破片が、黒龍の口から飛んだ。黒龍の牙は白龍の鱗に勝てなかった。

夏季が龍を呼び出す度に、その姿が進化していることは、その場の誰が見ても明らかだった。流れるように揺れる、細長い見事な髭がある。鱗はよりくっきりと浮かび上がった。そして、生えかけの角。それが完全に生え揃ったときの、猛々しい容姿を見る者に想像させた。

ありがとう。

心の中でそう言えば、龍に伝わった。
龍は滑らかに空中を滑り、夏季の肩に頭を載せた。
予想に反して、龍の頭部からは温もりを感じた。まるで本物の生き物のように、それは体温を持っていた。

「ペットで遊ぶのはそろそろ終わりにしようじゃないか」 オミリアは息を荒くしていた。
「遊んでるわけじゃないけど」
それに、ペットではない、と夏季は思った。
夏季も息が上がっていた。龍の扱いにはとても力を消費する。龍はやはりふつうの生き物とは違い、夏季自身とどこかでつながっているようだった。

「二人とも、かなり消耗しているみたい」
倫はラートンと共に、夏季とオミリアの闘いに見入っていた。
「あれだけの技を繰り出したんだ。無理もない」
ラートンは折れた剣を握ったままだった。
「あれが『技』?」
倫は自分の力で繰り出す「技」とはずいぶん違うものを見て、違和感を感じたのだった。
「ああ。『使い』の能力の一つ。特に『水使い』に多く見られる。疑似生物の呼び寄せ。造形物に己の体力を分け与えているようなものだ」
「でも不思議ね。あの龍は自分の意志を持っているみたい。本物の生き物のよう。あの龍を形作っている水が、生物の源だから、かしらね」

龍の打ち合いは次で最後だ。相殺させよう。
夏季は白龍の頭を撫でた。
許して。でも勝つためにはそれがいちばんいい方法だと思うの。

「水使い」がいる限り、わたしは死なない。
何度でも蘇る。
だから、安心してわたしを使え。

男とも女ともつかない深い声が頭に響いた。
夏季に気概が湧いた。
白龍は常に自分と共にある。それがとても心強かった。

黒龍が鳴いた。
白龍も鳴いた。
オミリアと夏季は、同時に剣を振った。
二匹の龍が膨張し、ぶつかり合う。
両者は光を放った。一方は暗黒の、一方は白銀の。
閃光が消えると同時に龍も消え、水に還った。

夏季とオミリアは走っていた。水しぶきが二人を包み込む。剣を振りかぶり、互いに渾身の力で飛び込んだ。

夏季の踏み出した足が、湖底の苔に捕えられ、微妙に体勢を崩した。
オミリアはそれを見逃さなかった。

二本の剣がぶつかり合った。
剣がぶつかる音がごうんと広間に響き渡った。
二本の剣は交錯し、滑り、二人はそのまま走り抜けた。
立ち止まる二人。
水しぶきが止んだ。

夏季がひざを折った。

倫が走り出す。ラートンがその腕を掴み引き止めた。倫はラートンを振り返り、睨みつけた。
ラートンは首を振り、手を離そうとしない。

夏季は倒れず、剣を杖にして立ち上がろうとした。右の太股のあたりに黒い煤が漂っている。
「痛いか」
オミリアが言った。
美貌は跡形もなく、黒い鱗に覆われた。剣を握る手も、同じように黒いもので覆われていた。
夏季は歯を食いしばり、痛みに耐えた。確かに、生まれて初めて負う深い傷だった。しかし、それにしても、ただの切り傷の痛みとは思えなかった。痛みは少しずつ、体の奥へと侵入してくる。黒い水しぶきから受けた、腕や肩の傷も同じだった。鼓動を打つようにどくんどくんと、重い痛みが体に響く。
「あの方の力を、じっくり味わうがいい。六季の娘よ……」

以外な名前を耳にして、夏季は目を見開いた。敵である女から母親の名前を聞くことなど思いもよらなかった。
「お前の顔を見ると、つい口にしたくなる名だ」
「なぜ、あなたが……お母さんの名前を知っているの?」
「なぜって……知らない者はいないさ。彼女ほど有名な痴話を残した者はないからな」
夏季は顔が熱くなるのを感じた。
お母さんが……まさか。

夏季が動揺するのを見て、ラートンが口を開きかけた。

「オミリア、もうやめよ」

突然の新参者に、誰もが驚いた。
オミリアは醜悪な顔を歪め、辺りを見回した。

広間の入り口に人影があった。背が高く、すらりとして、マントとフードに覆われている。その色は純白ではないだろうか。布地が、松明のオレンジ色の光を反射していた。
女はフードを取り払った。
腰まで伸びた髪は優雅に流れている。大きな瞳は雪空のような灰色だ。そして、最も目を引いたのは、オミリアと同じ狐の耳だった。
「夏季。そいつの言うことはでたらめだ。六季のことは城にいる人間に聞くのがいい。そうだな、ラートン?」
女はラートンに向かって頷いた。
「誰が話しても内容に大した違いはないだろうが……脚色の仕方に違いが出るといったところじゃないかな」
ラートンは興味がない様子で、しぶしぶと言った。
カイハはオミリアに向き直った。
「今すぐその力を捨てなければ、『氷使い』のわたしがお前を葬る」

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