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闇の湖畔・前編

第一章/使い

シエ・ラートンの手に握られた一本の松明が、洞穴の壁面の凹凸を浮き彫りにした。湿った黒い壁がてらてらと光り、ラートンの歩調に合わせて造形が変化していく。
洞窟の中は絶えず水滴が落下し、衣服はすぐに湿り気を帯び、肌に張りついた。その上生暖かい空気がまとわりつくようで、不快の度合いは高くなる一方だった。この場に俊がいたら「気持ちわりー」などの一言が発せられたかもしれないが、彼を見張りとしてこの洞穴の入り口に残してきた一行は必要がなければ口を開かなかった。ぴちょん、ぴちょんと水が落ちる音と、濡れて滑りやすくなった地面を注意深く踏みしめる足音だけが響いている。5分ほど歩いても洞窟は少しずつ狭くなるだけで、何しろ先が見渡せず、まだ先に続く気配が濃厚だった。
「隊長、洞窟の奥には何があるんですか?」
夏季が言った。
「オミリアの住処、『闇の湖畔』だ」
ラートンはぼそぼそと短く答えた。
「洞窟の中に湖が?」
「ああ。この辺り一帯の水源だ。オミリアが占領しているおかげで近辺の住民は苦労している」
なるほど、わたしが雨を降らせた村のことですね、と言おうとしたときだった。
「ぎゃっ」
倫の悲鳴と共に、金属がぎりっと何かを擦る音がして、夏季はびくっと肩を震わせた。小さな明かりの中でラートンの剣がきらりと光った。倫がすぐ目の前にいることが気配でわかる。倫はラートンが突き立てた刃物を前にして、文字通り固まっていた。金属音の正体はラートンが剣を抜くときの音だった。
「……水滴が、首に落ちたの。なんでもない。大丈夫」
倫がお手上げの仕草をしながら声を震わせた。
ラートンはふっと息を抜き、剣を鞘に戻した。
「不用意に大声を出すなよ」ラートンの口調には苛立ちが感じられた。
「そうするわ。危険なことがよおーっく分かったから」
倫はラートンの手元を見ながら言った。
「味方を斬りはしないさ」ラートンはフンと鼻を鳴らした。
「本当に、殺されるかと思った。殺気というものを初めて感じたわ……」
倫は夏季の腕に捕まった。
以後、夏季は気の立ったラートンに剣をつきつけられてはたまらないと思ったので、会話をすることは諦めた。いずれにせよ、ひたすら足を動かすことに集中した方が、緊迫感を紛らわせられるかもしれない。

地面がでこぼこする以外はさほど勾配のない平坦な細い道に沿ってさらに10分ほど進んだ。やがて一行が導かれた先には大広間のような空間が広がっていた。周囲の岩壁にぐるりと配置された松明が、遠くの方のものは豆粒のように点々と見える。黒々とした巨大な水面のところどころにオレンジ色の光の粒を落とし込んでいた。岸は狭く、波打ち際は広場の入り口から5メートルほど先に迫っていた。
「オミリアの住処だ」
ラートンが口を開き、夏季を振り返った。
夏季はこくりと頷いた。
「ここにやつがいるのね……」
倫が言った。
夏季は両肘を抱えていた。
なぜ、ここに着いた途端に喋りだすのか。静かにしないと、声を聞きつけたあいつが今にも襲ってきそう……。
「逃げられないぞ」
ラートンの声に、夏季は顔を上げた。橙色の明かりに照らされたラートンの顔はまだ夏季に向けられていた。
夏季は震える唇をきゅっと結んだ。
身体はじっとりと濡れている。洞窟の湿り気のせいでもあるが、それ以上に汗が噴き出していた。そしてひどく震えていた。ラートンの口から、慰めの言葉や、励ましの言葉が出てくることはない。彼はただ見つめるだけだった。

やらなきゃ、死ぬんだ。

自分に言い聞かせ、奮い立たせようとしたが、うまくいかずに気持ちはどんどん萎んでいった。「死ぬ」という言葉があまりにも重い。

「静かね」
倫が言った。左手で右手首を支えている。倫が「使い」としての力を発揮するときは、決まってそのような構えを取る。

哲のために?

ここまで来たら、人のことを考える余裕などないように思えた。哲は既に難を逃れた。今は自分の命の危険を乗り越えなければならない。

「不気味なくらいに静かだわ」
倫が再び口を開いた。
しっと、ラートンは口に人差し指を当て、夏季に目を向けた。何か感じないかとその目は言っている。
夏季は首を振った。極度の緊張で感覚を研ぎすますことが難しくなっていた。
夏季の反応を確認すると、ラートンは湖に向き直った。

湖面が盛り上がった。
倫が叫ぶ。夏季の足はその場に凍りついた。
ラートンは松明を投げ捨て剣を抜いた。銀色の刃がきらりと光る。一瞬辺りが暗くなったが、広間は壁面に取り付けられた明かりにうっすらと浮かび上がった。
人の形をした影がラートンに飛びかかった。水しぶきにざぶんと包まれてラートンの姿が消える。夏季は彼が水に飲み込まれたと思った。
ドン、と鈍い音が響く。
湖の浅瀬で、ラートンと敵が剣を交えている。相手は髪の長い女だった。狐のように尖った耳は天を向き、大きな灰色の瞳がラートンを凝視している。手に握られた細い剣は水でできているようだった。ラートンの剣と擦り合う度に表面が波打ち、波紋を織りなしている。

「よく来たな若造。特別な力もないくせに」
女が低い声で唸った。交わる刃がぶるぶる震えていることから、どちらもかなりの力があることがわかる。
「剣だけで倒してやる」
ラートンが、激しい剣とは対照的な静かな口調で言った。
「できるかな」
女の狐耳がひくひくと動いた。にやりと笑い、足で水面を蹴り上げた。宙を舞った水しぶきがすべてラートンに向かった。まるで彼が水のつぶてを吸い寄せているようだった。
続けざまに水鉄砲を受けたラートンはうっと声を上げ、よろめいた。女が剣を構え直し、振り上げる。

夏季の横で倫が一歩踏み出し、右手を女に向けて突き出した。倫の手から木の根っこがびゅんと飛び出し、先が鋭く尖った先端は真っすぐ女に向かった。
倫の矢は女の手前でしおれ、ぐずぐずと崩れていった。倫は眼前の光景に目を見開いた。
「お城で薬草作ってればいいのよ。役立たずの雑草使いは」
女は満面の笑みで言い捨てた。
倫はムッとした顔で、今度は両手を前に突き出した。
「ムダよ!」
逆上した倫の行動を見て、女は今度は声を立てて笑った。
倫の右手からはさきほどよりも細く頼りない根っこのようなものが笑う女に向かって伸びた。女が口を裂けるほど開きにんまり笑うと、それは先の植物と同じように、女の手前で黒い煤に変わり消し飛んだ。しかし左手から伸びた太い蔦は、まっすぐラートンへと伸びて彼の胴に絡みつき、瞬時に女から引き離した。半分引きずられながら、ラートンは倫の足元に帰ってきた。
倫の作戦に気付くと、女の顔から笑みが消えた。

「申し訳ない」
ラートンが立ち上がりながら言った。
「あんたの口からそんな言葉を聞くなんて」
倫は苦い顔で言った。
あれが、もう一人の「水使い」。そして、哲を傷つけた犯人。
夏季は一歩も動けないでいた。胸の内で、オミリアに対する憎しみと恐怖がせめぎあっていた。

落ち着け!

夏季は深呼吸し、胸の鼓動を沈めようとした。
女は少しずつ後ずさった。ほんの数秒の間に繰り広げられた攻防で、湖面が大きくゆらゆらと揺れていた。
「お前がオミリアだな」
片膝をついて喘ぎながら、ラートンが言った。前髪から水滴がぽたりと落ちた。
「そうよ。わたしは『水使い』のオミリア」
「お前は『使い』ではない」
ラートンは即座に否定した。
「貴様、先ほどわたしの水鉄砲を食らったばかりではないか。『使い』でなくてどうしてあのようなことができる」
「お前の技は紛い物に過ぎない。正式の『水使い』は我々の側にいる」
ラートンは後ろ手で夏季を指差した。夏季は身じろぎしないようにしようと足を踏ん張った。オミリアの目線が夏季に注がれる。
「そなたがセボの『水使い』か」
オミリアは一歩、前に進み出た。
夏季の心臓がどくどくと胸を打ちつける。
「ああ、そなたが……」
突然、オミリアは懐かしいものを見るような表情で夏季に笑いかけた。しかし、ずっと会っていない旧友に再会したかのような暖かさはない。その代わりに、見下しているような、軽蔑のようなものが感じられた。
「ここへ来るのを待ちこがれていた。ようこそ、我が家へ」
女は腕を下ろした。すると、水の剣は音を立てながら水面に落ち、消えた。
そしてさらに一歩、夏季の方へ歩み寄った。夏季は後じさりたいのをこらえ、オミリアを睨んだ。洞窟の湿り気と、自分の汗のせいで、どんどん体温が逃げていた。今、自分の唇は血の気を失っているだろうと夏季は思った。
「お前、この近くまできたことがあるだろう。あのときここへ立ち寄ればよかったのに。そうすれば、『水使い』が二人存在するという事態にはならなかった……」
夏季の背筋を汗が流れ、腕に粟が立った。
夏季は、水の洞窟の近くで初めて「水使い」の力を発揮したときのことを思い起こしていた。当時見た夢の中ではこの洞窟の入り口が現れ、中に入るよう誘いかけていた。ある女性の呼びかけによって、その誘いに乗らないよう踏みとどまることができたのだが……。
そのとき夏季をオミリアから助けた女性は氷の洞窟に住むカイハである。なぜ、カイハなのかは分からなかったが、今オミリアを前にして、少なくとも二人に通じる点は見つかった。オミリアにある狐の耳と同じものが、氷の洞窟のカイハにもあったのだ。
改めて、彼女に感謝しなければならなかった。あの時のオミリアの狙いは、「水使い」の力をまだ手に入れていない夏季を洞窟に誘い込み、始末することに違いなかった。

オミリアはゆったりと、水面を波打たせながら夏季に近づいてくる。

倫の助けを借りて岸まで戻ったシエは、岩につかまりながら自分の力で立ち上がった。
「今回のことはお前の仕業だな」ラートンが言った。
オミリアの歩みが止まる。
「“こと”とは」
「少年を1人、殺そうとしただろう」
「あの方のためにな」
「あの方とは?」
「言わぬ」
「いずれ知れ渡るぞ。ことは既に起きたのだから。その名を言え」
「貴様のような若造の言いなりになるものか。今ここであの方の名を言うつもりはない」
女はほくそ笑んだ。
「そう言われると、言わせたくなる。力づくでな」
ラートンは剣を握り直した。
「できるかな」
オミリアは歯を見せて笑った。

ラートンは息を大きく吸って、吐き出し、しっかりとした足取りで再び浅瀬に足を踏み入れた。
オミリアから距離をおいて立ち止まると、左手を挙げ、なにか複雑な文字のようなものを宙に書いた。すると、右手に握られた長い剣が、青い光にぼーっと包まれていく。
倫と夏季は顔を見合わせ、目で会話をした。

これって、一種の魔法かなにか?
そういう不思議な力を使えるのは、「使い」だけじゃないのかしら……。
二人は首を傾げてから、神秘的な青い光を帯びた剣を握るラートンに向き直り、その背中に見入った。

「貴様、多少は術の心得があるようだな。しかし、そんなまやかし程度のものではわたしの力に太刀打ちできまい」
「やってみるさ。ものは試しだ。行くぞ」
ラートンは力強く踏み出した。その勢いに、水しぶきが頭上高くまで派手に上がった。

ああ、わたしも自分の足を踏み出さなければ。わたしに必要なのはあの一歩なんだ!
夏季は自分の不甲斐なさに苛立ち、拳で膝をごつんと叩いた。まだ動くことができないでいた。足の震えは止まらない。今までセボでここぞというときに踏み出していた大切な一歩が、地面に張り付いて離れなくなってしまった。
戦わなければならないのはわたしなのに。どうして動かないの……。

2人はぶつかり合った。オミリアが今回作り出した水の武器は、前のものよりも大きかった。
しかしラートンは野太い叫び声を発しながら、力一杯押していった。女の水の剣がぶるぶると震えた。青い光がオミリアの武器を包み始める。
女の顔から笑いが消えている。
ラートンの剣の刃がみるみる水の刃に食い込んでいく。
最初の打ち合いで両者の力は互角と思われたが、今度は明らかにラートンの方が優勢だった。夏季と倫は戦闘に釘付けになり、身を乗り出していた。
いけるかもしれない。このままだと、ラートンが勝つ! あの青い光はオミリアの悪意を包み込んでしまうに違いない……。
二人は確信した。そう思えるくらい、いまや青い光は剣を交える両者の周りを囲んでいたのだ。

「負けぬ、」
オミリアがつぶやくのをラートンは聞いた。
そして、倫と夏季も聞いた。オミリアの小声は膨張し、広間全体にこだました。一瞬、ラートンの青い光が弱まったように見えた。
「負けぬ、負けぬ、負けぬ、」
オミリアの顔に、再び笑顔が張り付いた。
ラートンは女の顔にみるみる黒い斑点が浮かぶのを目にして、叫ぶのをやめた。
なんだ、こいつは。
「負けぬぞ! あの方の名に懸けて!」
オミリアの背後で、翼を広げたように、黒いものが吹き出した。最初の交戦で浴びた水滴のようにラートンに襲いかかる。
夏季は悲鳴をあげた。ラートンは咄嗟に飛び退き剣を盾にしたが、全ての攻撃を避けることはできず、無数の黒い液体のつぶてを受け、苦痛のうなり声を上げた。それらに押されるようにして水面に背中から倒れ込んだ。

静かになった。優勢にはたらいていた青い光は、儚い泡の様に消え失せた。
ざざあという波の音に、ラートンのうめき声が紛れていた。
夏季は、彼がひどく弱っていると感じた。遠目で見ても、松明の明かりに照らされた彼の表情はぐったりとしている。彼がそのような顔を見せるのは、信じ難い光景だった。
ラートンの青白く苦しげな顔を見て、夏季は自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。まだ若すぎる青年が、目の前で痛めつけられ命の危機を迎えている。それを目の当たりにするのが、苦しくて、悔しかった。
夏季は焦った。
助けたい。助けたい。助けなきゃ。わたし、彼を助けないと。
急に、呪縛が解けるかのように地面から足が離れ、夏季は身体のバランスを崩し、膝をついた。
ラートンは、剣を身体の支えにして立ち上がろうとしている。

ラートンにも帰る場所があるんだ。ベラ王女という大切な人がいる……。
穏やかな笑顔で笑い合う、ベラ王女とラートン。ふだんは見せない彼の特別な笑顔は、夏季の心の中に強く焼き付いて消えなかった。

哲は助けられなかった。
今度こそ助けないと。
あんなに悔しい思いはもうしたくない。

倫が、両手を使いラートンに手綱を届けようとした。しかし一度使った作戦がうまくいくはずもなく、今回はオミリアに両方の蔦を煤にされてしまった。
「わたしと戦う気がないならば、これから先一歩も動かないのがそなたの身のためよ……。それとも、この若造のように自ら進んで我に楯つくか?」
倫はオミリアをただ見つめた。
「そなたは利口だ。その通り。そなたの雑草はわたしに触れることができないのだよ。黒いものが細胞の隙間に入り込み、命あるものを無にしてしまうのだ……。生きる者のなんと弱いことよ!」
オミリアはおかしそうにクスクスと笑った。
倫は無表情だが、ぎゅっと握られた拳は白くなり、小刻みに震えていた

「しかし、そなたらにとって残念なことではあるが、こちら側につかない限りは、立ち向かう者も、ためらう者も、わたしの前に立つ人間の辿る運命は同じよ」
オミリアは、ラートンを見下ろした。剣で身体を支え、やっとのことで立ち上がろうとしている。彼の黒いシャツの胸ぐらを掴み上げた。ラートンの足がぷらぷらと宙に浮き、つま先から水がぽちゃぽちゃと滴った。
「我らに挑もうとした愚か者」
オミリアの顔がみるみる変わっていくのを見て、倫はひっと息を呑んだ。目尻はこめかみまで切れ込み、ビー玉のように飛び出した大きな瞳は真っ赤である。口は裂け、先の尖った大きな歯を剥き出した。
「わたしに楯つくのは、あの方を敵に回すことと同じ。命が欲しければ我らの側につくことだ」
オミリアの背後で、再び黒い影がうごめいた。細長い帯のようになり、オミリアと、宙づりになったラートンの周囲をゆらゆらと取り巻いて行く。
「ふん……」
ラートンは目を細く開け、相手を小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「貴様らは……ボスの名前も呼べないようなヤワだな」
倫がはっとした。ラートンは右手で剣を握り直していた。
「ラートン隊長 もうやめて!」
倫は叫んだ。ラートンが逆転する見込みはない。あがけばあがくだけ、後にはひどい仕打ちが待っている。
しかしラートンは勢い良く、オミリアの胸に真っすぐ剣を突き立てた。
どすっという衝撃に一瞬オミリアの身体がよろめく。ラートンは渾身の力で、刺した剣でオミリアの中をえぐるように動かした。
オミリアは悲痛の叫びを上げた。背後でうごめく黒い影もゆらりと揺れ、完成しかけた形が曖昧になった。
しかし倫は気付いた。血が出ない。

オミリアは笑った。高らかに、恐ろしく甲高い声で笑った。悲鳴と思われた声は、笑い声だった。その声に合わせるようにして黒い影は、今度ははっきりと角の形を表した。
ラートンは自分の剣を見た。深く突き刺したはずの刃は無くなり、それがあった辺りには黒い煤が舞っていた。
「夏季、あんたがやらなきゃ!」
倫が叫ぶ。「わたしじゃだめなのよ!」
「無礼なその口、我がこの手で永久に閉じてやる!」
ぎざぎざだらけの黒い龍は、オミリアの頭の5倍ほどの大きさの口を全開にし、ラートンに襲いかかる。それと同時に、黒い龍の尾はオミリアもろともラートンに巻き付き、一瞬で彼の背骨を折るかのように見えた……

ラートンは大きな水しぶきを立てて水面に落ちた。黒い龍が悲鳴をあげている。
ラートンは自分の背骨が無事であることが分かった。息は先ほどより苦しくなっている。しかし彼の思考はどんな状況にあっても常に冷静にはたらいた。

苦しいのは当たり前だ。ここは水の中だからな。
ところで、なぜ助かった?
ラートンは水中で吹き出し、完全に意識を取り戻した。
目を開くと、黒い水が目にぴりっとしみた。
馬鹿げた質問じゃないか。あの絶体絶命の状況で俺が助かるとしたら、頼みの綱はもう彼女しかいない……。
途端に力がみなぎった。がしっと拳を握る。浅瀬に足をしっかりとつけ、水中から勢い良く立ち上がった。

目の前には、浅瀬を踏みしめる少女の背中があった。彼女の手には水の短剣が握られていた。オミリアの水の武器よりも水が澄んでいるのがわかる。その透明感は、うっすらと白い光を放つほどだった。
彼女の向こうにいるオミリアは、うずくまって肩を抑えている。黒い龍は宙でのたうち、ぎゃあぎゃあわめいていた。頭がついた部分と、尾の部分が真っ二つに分断されて、別々に宙を泳いでいた。
「大丈夫ですか?」
夏季は前を向いたまま言った。
「君に心配されるほどではない」
ラートンはすねて見せた。夏季は彼を助けたことを、ほんの少し後悔した。
しかしすぐに、ラートンが言った。
「感謝している。君がその一歩を踏み出したことを」
夏季は、失った体温が両足に戻っていくのを感じた。
黒龍がひときわ大きな声でいななき、湖面に細かい波が立った。
「耳障りだな。あの巨大みみず、さっさと片付けてしまおう」
夏季が振り返ると、ラートンが頷いた。
「君の闘いだ。行け!」
これ以上ない激励だった。
足の震えは消え去った。

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