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第一章/使い

「彼女を殺すことだ」
ラートンの黒い瞳がきらりと光った。

「殺す」。これは、目の前にいる黒尽くめの青年の本業を表す言葉なのかもしれない。彼は一切のためらいもなくそれを口にし、微かな笑顔さえも見せた。怪しい微笑は禍々しく、見る者をぞっとさせる。夏季、倫はその意味を噛み締めるのに精一杯で身動き一つできず、俊は怯えるように静かに鼻をすすった。アレモとユニも居心地が悪そうに椅子の上で身じろぎした。
「強制措置だな。相手に友好的な意志が見られないとなれば致し方ない」
ハリルが落ち着いた口調で言った。
「でも。殺す、なんて……」
夏季がぽつりとつぶやいた。
ラートンは少し冷ややかな目で、縮こまった夏季たちを見回す。
「何度でも言うが、遊びではない」
夏季は周りにいる者と視線を交わした。三人とも信じられないという顔をしている。
強制措置として、魔女みたいな化け物女を倒さなきゃならないらしい。仕方がないとしよう。でも、いったい、誰がやる?
……誰が殺すんだ?

「やめましょう」
ユニがかすれた声を出した。
彼女のうつろだった瞳は、すこしづつ光を取り戻している。
「ラートン、簡単に言わないで。そんな話、胸くそ悪いから。特に夏季たちの目の前ではやめてちょうだい」
ユニは椅子から勢いよく立ち上がった。
「彼らは選ばれた人間だ」
ラートンは堂々と仁王立ちしている。
「あなたがそう言うのは容易いでしょうとも。でもね、この子たちはここへ来て間もない上、これまでに多すぎることを見て、経験してきたのよ!」
ユニは感情の波を抑えられず、声を荒げ、涙を振りまいた。ハリルが思わず彼女の丸い肩を掴んだ。
「時間は待ってくれないんだ。彼ら……我らは先へ進まなければならない」
ラートンは柔かい口調で言った。
「つらい思いをするのはわたしだけでたくさんだわ!」
ユニが全身を激しく震わせて叫んだ。
夏季はこのようなユニの姿を見ていられなかった。彼女の心は既に疲れ果てているのだから。ラートンの刺を含む言葉はさらなる心労となるに違いない。
夏季はユニの側に歩み寄り、そのふくよかな手を取った。それから顔を見つめると、ユニはばつが悪そうに目を逸らしていた。相変わらず充血し、目の下の肌の色はくすんでいる。疲れが顔にも出始めていた。
この人は、心配することがたくさんあってすごく混乱しているんだ。きっと他人のことを気に掛けられる、とても優しい人なんだろう……。少しでも負担を減らしてあげたい。
「ユニさん、ありがとう」
夏季は優しく微笑んだ。喜びだけを表すのではない、大人が使う特別な笑顔だった。セボに来たばかりのときよりも僅かに頬の肉が落ち、日に焼けたその顔は、ほんの一時間前に比べると、少しばかり大人びて見えた。

ユニは顔を上げた。目の前にいる少女はかつて見た女性によく似ている。毛先が遊ぶこげ茶色の細い髪の毛。華奢な身体。そしてその目を見た途端、強い郷愁を感じた。
特に似ているのは涼しい目元。母親より少し大きめだけれど。不思議だわ。行ってしまった六季が帰ってきたみたい。心強い仲間。……友人。

「大丈夫です。行ってきます。わたしがしなければいけないことなら、ちゃんとやらないと。ここで出会った新しい仲間のためにも。哲のためにも」
夏季は一息に言った。多くの目線を感じながら話すのは少し歯がゆくてふだんならしたくないが、今回は必要なことだった。
「そうよね」
ユニは静かに言った。
「あなたなら大丈夫」
ユニは夏季の顔を上から下まで眺めた。細部まで、顔の造りを改めて確かめるように。
「お母さんによく似ている……。顔だけでなく、ここの強さも」
ユニは右手で握りこぶしを作り、自分のふっくらとした胸をぽんぽんと叩いた。夏季は頷いて見せた。ユニの言葉にはあまり驚かなかった。
「今からする仕事が片付いてここに戻ってきたら、お母さんの話を聞かせてください」
いつかセボの誰かにこう言うだろうという、予感はしていた。そして夏季は、今度は大っぴらに笑って見せた。
「いいわ。ぜひ話しましょう。お母さんと、そしてお父さんのことを」
そしてユニは夏季を引き寄せて、ぎゅっと抱きしめた。
「黙っていてごめんなさい」
耳元でユニの声が聞こえた。
「はい」
ユニの温もりの中で夏季はささやくように返事をした。
「みんな、あなたのためにと思ったのよ」
ユニの声がかすれている。
お父さんとお母さんの話を聞くのは初めてで、うれしいことなのに、少し怖い。なぜだろう。聞くのが怖いのはどうして? ユニさんはなぜ、『わたしのために』黙っていたの? 知っている人はみんな、どうして今までわたしに何も言わなかったのだろう。
夏季はしばらくの間体をユニの胸に預けた。母親への想いを巡らせると、ユニのぬくもりを通してその存在を感じることができた。しかし目を開ければ母親は手の届かないところにいることは分かっている。心細かった。閉じたまぶたが熱い。にじみ出そうになる涙を一生懸命こらえた。
やだなあ、もう泣きたくないのに。こんなんじゃ、オミリアに勝てないよ……。

「がんばるのよ」
ユニの言葉が、母親の声となって聞こえた。

「話はまとまったか」
ラートンが大声を出した。彼は時間を取られたことが気に食わない様子で、目に見えて苛立っている。
「悪いが、続きは後でやってくれ」
言葉は丁寧だが、刺が見え隠れしていた。
デリカシーっていう言葉を知らないの?
夏季は不満が噴出しそうになった。ユニもラートンの顔を睨みつけた。先ほどはなかった強い光を目に宿している。
「ええ、まとまりましたとも!」
鼻息荒く、ユニが吐き捨てた。ラートンは夏季をちらりと見た。
いらないことを。噛み付く人間をわざわざ増やしてくれたな……。まあ、軍師の妻というだけあって元々が気の強い女だが。
ハリルはラートンの思考を読み取ったかのように、隣で小さく吹き出した。
「いいか、話を戻すぞ」
夏季が膨れっ面でユニとの抱擁を解き、向き直ったときには、これまでのことがなかったかのようにラートンが話しだしていた。
「誰かが息の根を止めなければならない。再三呼びかけて来たが、オミリアに『水使い』の力を返却する意志はない。今のままでは彼女の」夏季を顎で指す。「『水使い』としての力は不完全だ」
「あの龍を見てると、これまでだって十分強力だと思うけどな……」
アレモがぼそりとつぶやいた。夏季が彼をきっと見上げる。自分の力について何か言われるのは、あまり好きではなかった。
「褒めてるんだぜ」
アレモが赤毛の頭を掻きながら言った。
「どういたしまして」
夏季はぷいとそっぽを向いた。
「『使い』の力は流動的だ。『水使い』が二人いるとなると力は密接な関係にあるパイプを移動して綱引き状態になる。片方が六割の力を使えば、もう片方が使えるのは残った四割のみ」
「そのオミリアを生かしておくと、大事なときに『水使い』の力の綱を引っ張って、邪魔をしてくる可能性があるのね」
倫が考えながら言った。
「そうだ。いざというときにな」
ラートンが言うのを聞いて夏季は、いざというときなんて来なくていいと思った。

「もたもたしていると再び襲撃に遭う。近いうちに出立しよう」
ラートンが再び部屋の中を行ったり来たりし始めた。
「その方がいいな」ハリルは壁に寄りかかり、制帽の下から暗い瞳を覗かせていた。
「いつ?」
と夏季。
「二日以内にも」
ラートンが言った。夏季はごくりとつばを飲み込んだ。
明日か、その次の日には、化け物退治に……。
「俺か、隊長のどちらかが同行する。敵は大物だからな。君たちも旅に出るメンバーを相談しておけ」
ハリルが制帽をくいっと持ち上げて、夏季たちを見渡した。夏季、倫、俊は顔を見合わせる。
旅。
聞き慣れない響きの言葉だった。
「ユニ」
ハリルが寄りかかっていた壁から体を離し、ユニに声を掛けた。「オスロと例のモノについて少し話をしたいんだが」
その間にラートンが、影のように静かに病室を出るのを夏季は目で追っていた。
「ええ。分かりました。出来る限り協力するつもりです」
ユニがはきはきと言っている。
「尋問は少し長くなるぞ。今すぐ来るか?」
「もう少しここにいます。心の準備をしなくちゃ」 ユニは驚くほど、落ち着きを取り戻していた。
「じゃあ俺は看護員室で一服してるから、心が決まったら来てくれ」
「分かりました」
ハリルは右手を掲げながら病室を出て行った。その後ろ姿には少しばかり疲労が滲んでいる。これからのセボについて考えることが山ほどあるのだろうと、察しがついた。

「旅……か」
俊がぽつりと言った。
「オミリアの洞窟はそれほど遠くないから、そんな大げさなものじゃあないわね、きっと」
倫が人差し指でこめかみをこんこん叩きながら言った。頭の中にあるセボの地図を探っているようだ。
「冒険みたいだな」
少し前まで泣きはらしていた俊の顔に活気が戻り始めている。話し方には浮き立つ調子すらあった。
「目的を忘れないでよ」
夏季が厳しい目線を向けた。俊への怒りはまだ完全には収まっていない。
「分かってるさ。『旅』って言葉に少し惹かれただけだ」
俊は夏季の苛立ちに噛み付かず、落ち着いて答えた。
「わたしはもちろん行くけど。どうする?」
夏季がそれとなく、切り出した。
「行くに決まってるでしょ」
倫があきれたように肩をすくめた。
「俺だって」
俊が胸を叩く。
ユニは微笑んでいる。
「なんか、俺まで着いて行きたくなるな」
アレモが苦笑いしながら言った。
「来たいなら来ればいいじゃない」
倫が軽く誘う。
「きっとついて行けないさ、君らには。格が違う」
アレモはわかるだろう、という風に肩をすくめて見せた。 「俺は城に残る。内野班でがんばるぜ」
その言い方には悔しさが滲んでいた。
「自分には大きすぎる力を持つのがどんな気分かっていうのは、きっと実際に手にしてみないと分からないのよね」
倫が呆れたように、首を振った。
「どんな気分なんだ?」
アレモが興味津々に聞いた。
「そうねえ。一遍に荒馬十頭を散歩に連れて行くような感じじゃない?」
「なるほどね……」
アレモが苦笑いした。俊は笑っている。倫も自分で言った後で笑った。夏季は椅子に腰掛け難しい顔をしていた。倫はそんな夏季の様子を見て笑うのをやめた。
「夏季?」
優しく声を掛ける。
「オミリアってやつを許せない」
夏季が床を睨んだまま言った。
「わたしは戦う。この手で痛めつけてやりたい。哲と同じくらい痛い目に遭わせてやりたい」
倫、俊、アレモ、ユニは、夏季の言葉に驚いて、彼女を見つめたまま固まった。
「それで、できれば……」
「だめよ」
ユニが厳しい顔で言った。
「そんなこと、軽々しく言っては、だめ。哲くんはもう大丈夫なんでしょう?」
夏季はこくりと頷いた。
「なら、それでいいじゃない」
「でも、許せない」
夏季はかたくなに首を振って聞き入れない。
立っているユニは少し腰を落とした。夏季がやっと顔を上げると、ちょうど目線がぶつかった。そして、先ほど夏季が使ったような、様々な想いが込められた笑顔があった。
「哲くんが元気になれば、そんな考え吹っ飛ぶわ。ああ、よかったなあって」
夏季の頭を撫でた。幼い子供を見守るように、優しい目だった。
「でも、ユニさん。わたしはとても大きな力を持っている。それは憎い敵をやっつけるためじゃないの?」
「持っているからといって使わなければならないということはないと思うわ。そうでしょう? 使うも使わないも、あなた次第」
ユニの瞳が揺れていた。
「選ぶ権利はあなたたちにある。そのことを心に留めておいてね。相手が敵であろうと生かすも殺すも決めるのは本人だもの」
倫が深く頷いた。
「人殺しなんてごめんだな」俊が言った。まだ少し鼻声だった。

ユニは窓に向き直り、外を眺めた。何か目標物があるのか、在らぬ方を見ているのかは、背後からでは分からない。
しばらくの沈黙の後、独り言のようにつぶやいた。
「夫は自分の思う道を突き進んだ。わたしは彼の選択を尊重するわ。決して恨んだりしない」
ユニは頭を高く掲げていたが、その力強い後ろ姿がかえって悲しげだった。

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