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激闘

第一章/使い

「あんたが『水使い』?」
哲は自分の命の危機など忘れていた。
「そうさ。驚いたようね。『水使い』は二人いる。わたしと、夏季」
オミリアは満足げに、にたりと笑った、ように見えた。長い牙のせいで、笑顔もそうでない顔もあまり変わりがなくなっている。
同じ力を持つ「使い」が二人いることが、あっていいのだろうか。確かに、セボには「使い」と同じような力を持つ者がいてもおかしくはなさそうだけれど。この狐女の場合は「使い」を名乗っている。どういうことだ?
「どうして夏季の名前を知っているんだ?」
自分の名を呼ばれた記憶はなかった。夏季の名を知っているのなら、同じ「使い」なのだから、自分の名前も知られていてもおかしくないのに。
「六季の娘だからさ。彼女の母親はセボでは有名よ」
全く知らなかった。セボに来てからそのような話は聞いたこともない。夏季は知っているのだろうか。知っているとしたら、話してくれてもいいのに。俺は思い上がっていたのか? そんなことはない。出会って間もないけれど、互いに信頼できる友人だ。……昨日まではそう断言できた。
「まあ、それは別に重要なことではない。わたしの力が大きいことが、そちらに伝わればいいのだ」
オミリアが警棒を振った。黒い龍がしゅるんと空から下りて来て、彼女の周りを一回転して、左肩に頭を乗せた。肩口の白い布が、墨を落としたように黒く染まっていった。
「久々の餌だ。食え」
警棒を哲に突きつける。龍は大口を開き、のどの奥から痰を吐く時のような音を出した。
蛇のようなうねった動きで素早く、哲の顔に向かってくる。オミリアと同じような長い牙が、口の中にずらりと並んでいるのを見た。哲は反射的に警棒を構えて攻撃に応じようとした。
警棒を突き立て、喉に突っ込む。龍は天に昇ったときのような悲鳴を上げ、哲はその声に必死に耐えた。両手が使えず耳を塞ぐことはできない。
警棒で鋭い歯が並ぶ頭部を制したものの、尾はまったくの野放し。待っていたかのように哲の身体に巻き付き、締めつけだした。
警棒を持っていた手が緩み、龍の頭はその隙を見逃さずに棒を加えたまま離れていった。龍の尾はすかさず哲の二本の腕を彼の胴体に押し付けた。
手が使えない。このままじゃ、まずい。

「風!」

哲が叫ぶと、突風が吹いた。
龍はびくともしないで身体を締め上げてくる。
(外からはだめだ。まったく効いてない)
龍の攻撃の痛みに体中から上がる悲鳴を無視して、哲は唱え続けた。
(もっと、もっと強い風を!)
へその辺りで、木枯らしが吹くのを感じた。念じるほどに、勢いを増していく。小さいけれど回転の速い、強い竜巻。
へそを中心に腹から胸へ、胸から頭へ、渦は直径を大きくし、巻き付く龍を内側から少しずつ浮かせていった。
龍の顔が鼻先に迫った。大口を開けて、先ほどのような痰を吐くような音を出している。龍を形作る液体の匂いなのか、悪臭のする息を吹きかけてくる。刺激臭に哲は思わず顔を背けた。強烈すぎて鼻の奥にきんとした痛みが走り、息を浴びた目もまた、閉じたい衝動に駆られるほどにしみていた。
哲は負けまいと、必死にまぶたを押し上げた。
(まだだ。まだ、我慢)
哲は胸の前で腕を交差し、頭を垂れたままで限界まで念じ続けた。龍の体は確実に、締め付けが緩くなり始めていた。とぐろの内側から竜巻を起こすことで、無理矢理引きはがす。息を継ぐ間もなく必死で風を起こしていると、龍は肌から離れて行き、拳一個分ほどの隙間が空くまでになった。心地よい開放感に身を委ねる訳にはいかない。龍の動きは俊敏だ。完全に倒すまでは、油断出来ない。
そして、もうこれ以上は無理だと感じたとき、勢いよく腕を広げ、溜めた力を解放した。締め付けようとする力と、内側から外に押し広げようとする力が交錯した。風の槍が龍の胴体に切り込んでいく。黒い水の塊に穴ができ、穴はどんどん大きくなった。やがて塊は切れ切れになっていき、黒い水滴となって地面に落ち、土に染み込んだ。胴体をバラバラにされた龍の頭部は、悶え苦しむようにしてオミリアの肩へ戻っていく。哲の衣服に、黒い染みが広がっている。布地を染み通って液体が肌に触れると、氷のような冷たさを感じた。汗が吹き出るほど身体が熱いのに、そのひやりとした感覚は不快だった。
力が抜けて、仰向けに倒れ込んだ。頭がくらくらして方向も分からない。
(いけない。立ち上がらないと……。倒したのは龍だけで、狐女がまだ残ってる)
しかし、身体のどこにも力は残っていなかった。激しく吐いて吸ってを繰り返す息も、自分の意志ではなく、今にも死にそうな肺を救うため、勝手に横隔膜が動いているような感覚だ。

「お見事」
オミリアが手を叩いている。
「でもね、この黒い龍はまだ子供なの。親龍はこの子の十倍くらいあるのよ」
哲は聞いてはいたが、心の中ですら、反応することが出来なかった。胸が苦しすぎて考える余裕がない。
「でも親は後にとっておかないといけないのよ。これから二、三の民家を破壊ければならないから」
少しずつ、呼吸が戻ってきた。これまでの人生で、これほど消耗したことはない。サッカーの部活でも、地面に寝転がることなどストレッチ以外ではほとんどなかった。
「それに、もうあなたに攻撃は必要ない。力尽きたようね」
「そんなことない」
哲は地面に手をついた。少しだけ上半身を持ち上げると、すぐにばたんと仰向けに逆戻りしてしまった。
「自分で思っている以上に傷ついているのよ、あなたの身体」
オミリアがくすくすと笑う。俺の無様な格好を見て笑ってるのか? そんなの許さねーぞ。
「笑うな。バカ狐」
オミリアはただ笑うだけで、哲の罵りを受け流している。ふつうに戻ってきたはずの呼吸が、再び苦しくなり始めた。
おかしい。身体に力が戻り始めているのに。どうしてまた苦しくなるんだ?

「なんだ、これ……」
左の手の平に、黒い斑点がうっすらと浮かび上がっている。一つではなく、いくつも、いくつも。
身体が震えた。本物の恐怖が、腹の底から這い上がってくる。
自分では見る事ができないが、顔にも同じモノが現れているかと思うと、震えが大きくなった。

地面がぐらぐらと揺れ、座っても居られなくない。背中からごろんと、地面に転がる。仰向けに寝ていても地面の揺れは少しも収まらない。哲は呻いた。
頼むから、みんな騒いでくれ、地面が大揺れしていると。俺だけがこんな揺れを感じているなんて、

嫌だ。
一人なんて、嫌だ……。

「よく出来ました」
カルーがにやにやしながら近寄って来た。逆光で顔が影となり、喜びに歪んだ目だけが見分けられた。
なんだこいつは。自分は何もしていない癖に、得意げな顔しやがって。そんな風に見下ろすな。
「ようやく、借りを返すときが来たぜ」
「お前なんか死んじまえ」
「ボロボロのくせに、言ってくれるじゃないか」
「何とでも言ってやる。バカ、間抜け、意気地なし、卑怯者……」
哲は怒りにまかせて並べ立てたが、途中で激しく咳き込んだ。カルーはそんな彼を見てひとしきり笑った後、しゃがみ込んで、口を哲の耳元に近づけた。カルーの息がかかり、身震いした。恐怖ではなく、嫌悪の身震いだった。
「オミリア様の力は特別なんだ。そんじょそこらの『使い』なんかじゃとても敵わない。あの、寝小便垂れてるような小娘では、とても無理だ」
哲の目が見開かれた。
切るような鋭い風が一吹きし、カルーの顔をかすめていった。
カルーがぴりっとした痛みを感じて左頬に手を当てると、離した左手にべっとりと赤い血がついていた。カルーの仲間たちはカルーの頬に人差し指の長さくらいの切り傷が開き、血が顎まで伝っているのを目にした。
「やりやがったな!」
カルーの目が大きく開き、歯をぎりぎりとこすり合わせる。
「当たり前だ……今までどんな理由で、俺があんたに、腹を立ててきたと思う」
ふだんなら何気なく言える言葉は、息をつがなければ、言い切ることが出来なかった。
(仲間を侮辱するのは許せない。夏季はいいやつだ)
「狐に負けても……お前には負けない……」
哲がふっと笑った。浮き上がった黒い斑点のせいで目も当てられないようなひどい顔だが、体力が失われていき、死へ向かう絶望の中で見せるには、あまりにも安らかな笑顔だった。カルーにはそれが許せなかった。飄々として、掴もうとしても掴めない憎たらしい魂。酒場で食べ物を顔面に投げつけられたときから痛めつけてやりたいと願っていた。
今日こそそれができる最高のチャンスだったのに。
こいつはこれだけ痛い目を見ても勝ち誇ったように笑っている。
許せない。
納得できない。
こうなったら、残された手は……。

「カルー、何をしてる?」
足元を探っているカルーを見て、キムが思わず声を掛けた。カルーのズボンの右足に、ナイフが隠されていることをキムは知っている。
カルーはナイフを手にして、空に掲げた。強い日差しにきらめいた銀色の刃は、丹念に手入れをされ、研ぎすまされ、鋭い光を放った。キムも、他の者たちもそのまぶしさに手をかざした。オミリアはじっと、成り行きを見守っている。
「それを、どうするんだ? ……この弱虫」
哲は疲れきった顔で、しかし目はしっかりと頭上の刃物を見つめながら、言った。
「何を根拠に俺を弱虫呼ばわりするんだ、この死に損ない」
「お前ら、やめろ!」 キムが叫んでいる。
(この期に及んで、なにを言ってるんだ、あいつ?)
哲はふと疑問に思った。
(こんなになってもまだ、俺の頭は働いてる。大したもんだろ)
「振り上げたそいつを……どうするかによって、呼び方が、変わるかもな」
哲は力をふりしぼり、右手を上げ、刃物を指差した。人差し指は震えている。
「もう二度と、その口をきけないようにしてやるよ」
カルーが両手でナイフを握った。

じいちゃん、今行くよ。
父さんと母さんにも会えるといいな。
失うものは特にない。家族はもういなくなったし。
俺の人生大した事なかったな。
そうだ、一つだけやり残したことがあったっけ。
夏季。

夏季、ごめんな。今日どこかで会ったら、謝るつもりだったんだ。

哲はナイフが振り下ろされるのをしっかりと見た。
胸にどすっという振動が伝わると同時に、黒い何かが身体を蝕む絶えることないちくちくとした痛みに代わって、大きく重たい激痛に襲われた。
カルーのナイフは柄しか見えない。刃の部分は深く突き立てられている。

哲の右手がびくっと跳ね上がり、そして地面に落ち、動かなくなった。

オミリアは門番に警棒を渡した。門番が震える手でそれを受け取る。誰も喋らない。
「せっかくわたしが、もがき苦しみながら死へ向かう見せ物を用意したのに」
オミリアの顔は、美しさを取り戻していた。真白い肌の上で、大きな灰色の瞳がぱちぱちとまばたきをした。長いまつげが上下する様に、カルーは見とれてしまった。
キムは二人のやり取りを、少し青白い顔で黙って見ている。
「仕方ないな」
一瞬、キムの方をちらと見た。
「手間が省けた、ということにしてやろう」
オミリアは青白い手で、カルーの頭をぽんとたたいた。

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