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もう一人の水使い

第一章/使い

「お待ちしていました、オミリアさま」
哲の隣に立っている兵士がうやうやしく頭を下げた。
「お前だけ?」
オミリアと呼ばれた狐耳の女は門番を見下ろして、静かに言った。黒いマントの下からのぞく白い衣服を右手でたくし上げている。地面について汚れるのが嫌なのか。
「いえ、他の者たちが着きます。もうしばらくお待ち下さい」
「うむ、足音が近づいている」
オミリアの狐の耳がひくひくと動いた。毛並みが滑らかなそれが、作り物ではないことが分かる。
「こやつは」
オミリアは、大きな灰色の瞳で哲を見据えた。振り返りざまに灰色の頭髪が美しく流れ、日光にきらめく。哲は直立したまま、身じろぎ一つしない。何が起きているのかさっぱり分からず、背中を冷たい汗が流れた。
「そいつはたまたまここにいる間抜けな『風使い』です」
男が言った。
「強運だわね、今日この場に居合わせるなんて」
オミリアは手のひらで「裏門」の鍵を弄びながら、哲に微笑みかけた。肩幅の割に小さな顔、滑らかな白い肌、ミステリアスな灰色に曇った大きな目、真っすぐだがきゃしゃな鼻筋。作り物のように整った顔立ちは、微笑に崩れると目尻にしわが寄り、老けて見えた。
哲は、胸の鼓動を抑えたい一心で、遠くを見やった。目前の出来事から、目を逸らしたかった。
はるか前方、細く続く道の向こうから、人影が近づいている。ざっと見たところ、大きな人のシルエットが五、六人分歩いている。揃いも揃って黒い衣服を身につけているようで、はっきりとした人数は分かりにくい。
(仮装大会でもあるのか? こんなクソ熱い土地で、黒いマントなんかかぶりやがって)
声には出さずに悪態をつく。そうでもして感情を発散しなければ、自分を保つのが難しい。それほどまでに、頭の中はすでに軽いパニックが起きていて、気がおかしくなりそうだった。
「オミリアさま、彼らが来ます」
兵士が言っているのを、哲は聞いた。
集団が近づいてくるとそれが誰であるかが分かった。見間違えようもない、あの憎たらしい日焼けした顔。そして筋肉質の大きな身体。途端に哲はめまいを覚え、同時に、オミリアという女が招かれざる客だということを確信した。
(最悪だ。目が回るのは、暑さだけのせいじゃない……)

「ようこそ、セボの城下街へ」
カルーが言った。訓練のときには見られないような、丁寧な挨拶だった。彼とキム、そしてその仲間たち五人がオミリアにお辞儀をした。女も二人いる。一人は街を歩けば男たちが振り返りそうな金髪、もう一人はミルクティー色に日焼けした兵士。黒いマントは全員同じで、何かの宗教のようだ。
「度々の報告、ご苦労だった」
オミリアはカルーの首根っこに手を添えた。カルーが小さく身震いする。
「その労いの言葉、受け止めるにはわたしの器が足りません」
カルーが言うのを聞いて、哲は嫌悪した。腕には鳥肌が広がっている。
こんなやつが忠誠を示すなんて、ろくな女じゃないぞ。ますますよくない。
「しかし、そのような任務も今日まで。これからはこそこそ隠れるような真似はせず、堂々と対決すればいい。さあ、手筈通りにいこう」
オミリアとカルーは同時に、哲の方を見た。
哲はできる限り、カルーを見るようにした。明らかな強者と見えるオミリアを見ていると、暗い気持ちが膨らむのだ。カルーならば過去に二回ほど負かした経験があるから、安心できた。憎くてたまらないのに変な親近感が湧くものだと、哲は奇妙な心地がした。
「やあ、ボク。久しぶりじゃないか」
カルーは哲に、わざとらしく明るい口調で話しかけた。心からの仲間であるかのように。
「ちょこまかしやがって」
哲は声が震えそうになるのをかろうじて抑えた。
「おいおい。『ちょこまか』なんて言葉は、俺みたいな背のある人間じゃなくて、君みたいなチビに対して使うべきだろう?」
カルーはニヤニヤしながら言い返した。
「だから、遠慮なく使わせてもらうぜ。おい、チビ、ちょこまかするんじゃねえ。目障りだから今すぐ失せろよ」
「カルー、その減らず口をなんとかしろ」
真顔で二人のやりとりを見ていたオミリアが、低い声で言った。カルーはニヤリ顔をぴたりとやめ、強張った顔を声の主に向けた。
「さて」
オミリアが一歩、進み出た。目は哲を見ている。他の黒マントたちも自分を見ていることに気付き、哲は一歩後じさった。
「始めようか」

俺はどうなる? こいつら絶対悪者だ。俺は……その悪者にとって何だろう。敵、それとも、おもちゃ、餌……?
走って逃げたい。だめだ。相手が多すぎて逃げられない。

「レグミン君によると、君は『風使い』なのね」 名前を呼ばれ、門番の兵士が軽くお辞儀をする。
オミリアの顔が再び微笑に崩れた。今度は、以前より目尻が上がり、先が尖った耳と相まって、ますます狐のように見える。
「わたしは昔から『使い』と縁があるの。どのような人間がそれになるかを知っている」
オミリアは何気なく、黒いマントを肩から払い落とした。白く薄い布地で出来た、飾りの無いシンプルなドレスのような衣服は、黒いマントよりも、彼女の幻想的な容姿によく似合っている。
「自らの意志を尊重すると言ったら聞こえはいいけれど、一言で言うと『頑固者』。こうと思ったら決してその考えを曲げようとしない。あなたもそんな『使い』の一人。選ばせてあげましょう。大人しく即座の『死』を選ぶか、それとも、闘ってから死ぬか」

ここで何を選べと? 女が俺に与える選択肢は『死』と『死』だ。ただ、死ぬまでの時間が長いか短いかの違いだけで。こんなこと、あっていいのか。俺は今ここで死ぬ事を決めなければならないのか……?

夏季はユニの手を引いて城への道を戻った。ユニは泣き止まないが、肩にかけていたストールを頭巾のようにかぶせて人に見られないようにしている。夏季は自分のストールをどこかに落としてきてしまったので人に顔を見られてしまうが、訓練をとんずらしたことなどいずれ隊長に分かってしまう。今はその後に受けるだろう懲罰のことなどどうでもよかった。それよりも、もっと大事なことがある。
オスロ師士の契約書を見て、ユニが取り乱している。それは魔女との契約だという。魔女がオスロ師士にとって、そしてセボにとって善いものであるか悪いものであるかは、この土地について無知な夏季にも判断できた。
ならば封筒を幹部の誰かに見せなければならない。文官が国防にほとんど無関心なのを幹部会議で見ていたので、今回は軍部の誰かにユニと封筒を渡すべきだろう。隊長と副隊長はきっと兵士の訓練に出ている。夏季は顔パスで城門を突破し、中庭を通ってまっすぐグラウンドへ向かった。
正面きって隊長のところへ行ったのでは大変な騒ぎになりかねない。まずは裏の林からこっそり訓練の様子を伺うことにした。

「もう大丈夫ですよ」
林に入ると夏季はユニのストールを取り払った。頭上でざわざわと葉っぱが鳴っている。木漏れ日というにはふさわしくない鋭い日差しが、木々の隙間から差し込み、そのまぶしさにユニと夏季は顔をしかめた。
「ごめんね、夏季ちゃん。わたし、こんなに、情けない顔で……」
ユニはこみ上げる動揺の波につっかえながら、言った。
「大丈夫ですよ。もうすぐ隊長か副隊長に会えますから。彼らに封筒を見せましょう」
ユニは何度も頷いて、さらに涙を溢れさせた。
大丈夫なんかじゃない。間違いなく、ユニさんはこれから尋問を受けるんだから。
夏季は、ユニの顔にしばらく笑顔を見られなくなることを憂えた。

そうだ、哲。哲を探そう。
夏季はふと思いついてグラウンドに目を向けた。運がよければ近くにいるかもしれない。
兵士たちはお喋りをしながら呑気に剣を打ち合っている。夏季が手にしている青い封筒とは、まったく無関係の兵士たち。だんだん、爆弾を持っているような心地になってくる。
遠くの方には人が和気あいあいと剣や槍の打ち合いをしていたが、林の近くには哲の姿はおろか、兵士の数がまばらだった。さらに目を凝らしてグラウンドをざっと見渡したところ、それでも哲を見つけることは出来なかった。夏季と同じく他の兵士よりも頭一個分背が低い彼を見分けるのは容易いはずである。
おかしいな。哲も訓練に出ていないの?

「夏季ちゃんじゃないか。それに、ユニさんも」
しばらく時が経ち、背後から声をかけてきたのは、アレモだった。彼は手に何本も矢を持っている。肩には弓が掛けられていた。
「この辺り、たまに矢が飛んでくるぜ。内緒話もいいけど場所を選べよ」
彼の話し方に、以前のような抑揚がない。命に関わる真剣な話だからそうなのか、夏季を「使い」として見ているから素っ気ないのか。心の奥で小さな疑念が芽生えた。
「アレモさん、哲は?」
「今日はイルタに代わって門番勤務だとよ。初めての仕事だって緊張した顔つきが、初々しかったぜ、哲の野郎」
アレモはにやにやしながら額の汗を拭った。
「そうですか……」
アレモの自然な表情を見て、夏季は少し安心した。
「イルタが欠番した理由を教えてやろうか。今日はウォローの誕生日なんだ」
夏季は思わずにやりとした。あの真面目なイルタが彼女のために任務を放棄するなど、よっぽどウォローを大事にしているに違いない。
「さすが、アレモさんの友達」
「だろ。俺も頼まれたけど、つい、断っちまった。生まれてこの方彼女のいない俺に頼むなんてどうかしてるぜ。そんな俺に比べると、哲はいいやつだよなあ」
アレモはそう言って、こめかみを平手でぺちんと打った。夏季は、「哲はいいやつ」と聞いて少し胸が痛んだ。そんな彼と喧嘩したのは、つい昨日のことだった。
「いったいどうしたんだ。ユニさん連れてグラウンドに来るなんて……」
そう言って、ユニの顔を覗き込んだアレモが、はっと目を見開いた。
「泣いているのか?」
「アレモさん。隊長か、副隊長を呼んでくれませんか?」
「夏季ちゃん、また鞭で打たれるぜ。今日の午後、出てないだろう」
アレモは木の葉のついた夏季の頭を見ながら言った。
アレモさんが素っ気ないだなんて、わたしの思い過ごしだ。疑心暗鬼になってる。
「大丈夫。とにかく呼んできて下さい」
夏季は、ことある毎に「大丈夫」と口にする自分に腹が立って来た。
何が大丈夫なものか。隊長を怒らせてから数時間も経っていないのに。もちろん、できればハリル副隊長を呼んでほしいけど、今は私的な事情に構っている暇はない。これはきっと、出来る限り早く彼らに伝えなければならないことなんだ。
オスロ師士が、魔女と契約を……。

それが何を意味するのか夏季は知らなかったが、ユニの反応を見るだけで善くないことだと十二分にわかる。むしろ、非常に悪いことかもしれなかった。ユニにとっても、セボにとっても。ひょっとしたら、夏季たち「使い」にとっても。

「俺は闘う」
哲は頭を上げて、はっきりと言った。
迷う必要なんてないんだ。
俺には「風」がある。特別な力を持っているのに、それを使わないであきらめて、虫けらのように殺されるなんて冗談じゃない。
「先人の『使い』たちに倣って、その意志は曲げないことだな。避けられない終わりに怯えながら、運命にあがいて死ぬがいい」
「運命なんて知るか」
「そう。それよ。わたしがかつて見た『使い』は。絶望が目の前に迫っても決して諦めようとはしない。どの『使い』に会っても、まるで同じ人物を見ているような錯覚に陥るのよね」
哲は腰の警棒を取り、飛び出した。オミリアは微笑したまま、隣にいる門番の警棒を素早く抜いて哲の攻撃に応じた。
二つの棒切れは交差してぶつかり、互いの手をしびれさせた。哲は、先手を打つことで自分を奮い立たせた。しかし、オミリアの剣打は予想以上に強力だった。女だと思って油断したからそう感じたのではない。この容姿、男か女か以前に人間なのかそうではない生き物なのかを考えるの方が先だ。
人間ではないから、強いのか……。こいつはいったい何者なんだ?
「焦ることはない」
オミリアは腕を震わせながら、穏やかに言った。
「お前が生きるあとわずかな時間。それをもう少し引き延ばしてやろう。しばしお喋りに付き合え」
オミリアが哲の警棒を弾いた。哲は後方によろよろと下がったが、腕でうまくバランスを取り、かろうじて尻餅を付かずに済んだ。
「お前は生け贄。今日このときここに居たことが運の尽きだ。いや、それとも、強運の持ち主か」
オミリアは手ぶらな左手を口元に持っていき、くすくすと笑った。
「この『裏門』に集い、最初に出会った『敵』を血祭りに上げるのが我らの計画。一つの死体と二、三の破壊した家屋をもって宣戦布告とする。我らの今日の行動が、始まりの合図なのだ。お前はこの戦いの最初の犠牲者になるだろう」
「なぜ、『裏門』の鍵を持っていたんだ?」
哲の頭には、鍵のことがずっと引っかかっていた。
「簡単なことさ。盗んだのだ。お前の仲間の『使い』に協力してもらってね」
哲は耳を疑った。
「使い」の誰かが。そんなこと、全然知らなかった。
「もっとも、鍵がなくとも侵入するのは容易かった。偶然にも彼が」オミリアが手の平で優雅に門番の兵士を示した。「『裏門』の任に就いたのだからね。しかしこの国のずぼらなところを親切に示してやることが、今回の目的だ。わたし自身が鍵を回し、壁をかいくぐることに意味がある。セボも終わりが近い。幹部内の関係はひどいものだと聞く。その証拠に、国の要である『使い』に情報が伝わっていないだろう? 軍部と文官の不仲は我々の勢力にまで噂となって届いているぞ」
オミリアは警棒でカルーたち黒尽くめの連中を指し示した。カルーたちは軽く一礼したが、顔を上げると薄ら笑いがそこに張り付いていた。
「醜い権力争いの最中に王を失い、国政の迷走が始まった。古代の呪いによって敵国も滅び去り、切磋琢磨する相手がいなくなってしまうと、人々は平穏な日々をのうのうと生きるようになった。今度の戦争で、セボの兵士たちが我々に敵うはずがない。とどめだ。そして、国は永久に滅びるだろう」
「お国の行く先になんて、俺は興味ない」
「そうは言ってられないさ。お前はまさに、セボの歯車に巻き込まれて命を落とすのだから」
「死ぬだの、命を落とすだの、まだ起きていないことを自信たっぷりに言われるのには腹が立つ」
「威勢がいいわね」
「あんたがそう仕向けているんだ」
「その通り。命乞いする者をただ痛めつけるだけではわたしの腕が泣くからね。自分より大きな力に精一杯抵抗して、楽しませておくれ」
「嫌だね。楽しませない。俺はあんたに勝つんだ」
口だけでも強気にならないと、足が竦んでしまいそうだった。
相手は容姿だけでも特異だ。そんな女がいったいどんな力を持っているのか見当もつかない。相手が「風使い」と分かっても自信たっぷりなところを見ると、「使い」の力に似たものを持っているのに違いない。
今はまだ、女は魔法の気配を見せずに警棒を構えている。
「今度はわたしから行くぞ」
オミリアが飛び出した。
哲はオミリアの警棒を受け止める。訓練のときならば心地よいと思う痺れが、冷気を伴って二の腕まで伝わってきた。
「ひどい顔ね」
オミリアは相変わらずにたりと笑っているが、間近で見るその顔は大きく様変わりしていた。口からは長い牙がのぞき、皮膚にはしみのような紫色の斑点が無数に広がっている。引き込まれそうな深い灰色だった瞳は赤に変わり、黒目が点のように小さくなっている。 「ひどい顔」? それはこっちの台詞だと哲は叫びたかった。しかし恐怖のあまり喉が閉まり、口から出てくるのはかすれたうなり声だけである。
警棒をばちんとはじき、哲は飛び退いた。
「どうした……『風使い』。貴様の本当の力を見せてみろ」
哲は土の上に尻餅をつき、後ろ手で後じさった。
「どうした、てっちゃん。怖いものでも見たか?」
背後で声がして見上げると、カルーが仁王立ちで見下ろしていた。
「俺にやったみたいに、オミリア様にも見せて差し上げろ」
カルーは哲の背中を蹴飛ばした。
「いってえ……」
哲は立て膝になって背中をさすった。前方に向き直ると、オミリアの顔はやはり恐ろしい形相だった。牙が生えたことで口の両端がぐいっと上がったが、もはや笑っているとは思えない。
勝てるのか。こんな怪物に? 今に口から火を噴くかもしれない。それでも、俺にだって風を起こすことはできる。ちょっと勇気を出しさえすれば。怖がっちゃだめだ。弱気でいるうちは、絶対に風は吹かないんだから。
哲は立て膝の姿勢のまま、そっと目を閉じた。そして、何も聞かないように努める。
「……そうだ……力を見せろ……」
聞かない。
「……てっちゃん、目を閉じちゃったよ……」
聞こえない。
「……アハハ……」
聞こえるのは、風の音だけ。そして風に吹かれる葉っぱが、ざわざわ鳴る音。

哲は身体に風がまとわりつくのを感じた。腕の産毛を優しく撫でる。髪の毛を柔らかく吹き上げる。

こいつらみんな、俺の風だ。

目を開けた。
後ろを振り向くと、カルーが腹を抱えて笑っていた。
手に持った警棒を見つめ、それを勢いよく突き出す。
一瞬でカルーの身体が宙に浮き、五メートルほど先まで吹っ飛ばされていた。
「懲りないな、あんた」
今度は哲が、カルーを見下ろす番だった。
誰も口を開かない。風の音だけがさやさや、びゅんびゅんと彼らを包んでいる。哲の焦げ茶色の髪はふさふさと、風になぶられ、乱れる髪の間から覗く瞳は、冷ややかだった。

「よい」
オミリアは哲を観察しながら、深く頷いた。牙が少し短くなっている。肌の色も心なしか染みが薄くなった。
「お前の力、しかと見た」
カルーは呆然として、地面に転がったままだ。
「では、わたしの番だ。貴様は『使い』としての経験が浅いな。風を呼ぶことは出来ても、まだまだ操ることは出来ていない」
オミリアが警棒を振り上げた。
「熟練された技を見よ」
オミリアが棒をびゅんと振り下ろす。重い地響きが起き、地面がぐらぐらと揺れだした。オミリアから遠ざかろうと足を動かすが、緊張のせいか体がうまく動かない。足の下から何かが上ってくるような音を聞いたとき、哲はつい最近も同じような音を聞いたような気がした。
哲とオミリアの間の地面を、黒いものが突き破って飛び出した。黒い雨粒を振りまきながら宙でうねる黒い龍が、刺すような甲高い叫び声を上げ、哲は思わず耳を塞いだ。
オミリアは赤い目で空を舞う黒い龍を見上げていた。白い衣服には黒い染みが無数に出来ている。黒い龍が跳ね上げた水しぶきのせいだ。
「わたしを黒く染め上げておくれ!」
両手を天に向かって広げ、オミリアが叫んでいる。
哲の目の前の地面には、直径1メートルほどの穴がぽっかりと空いている。先ほどまで彼が立っていた場所だ。自分を殺してしまうつもりだったことに恐怖を感じるべきだが、それよりも重要な事実に哲は気付き、恐さなど吹っ飛んでいた。

「水の龍……」
色こそ真っ黒だが、鱗がきらめく空飛ぶ龍は、夏季が地面から出したものとよく似ていた。
「水の龍を呼び出せるのは、水を操るものだけ」
オミリアが天に向かって言った。
「そんな」
哲も龍を見上げていた。夏季が時折見せる、輝く笑顔が脳裏に浮かんだ。
似ても似つかない禍々しい微笑を浮かべて、オミリアが言った。

「そうさ。わたしは『水使い』だ」

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