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第一章/使い

この表札はもう二度と見たくないとも思った。実際、こうして改めて木の板に彫られた文字を見ていると、もやもやとした灰色の苛立が、腹の底から沸き上がってくる。しかし、哲と昨夜のようなことになった理由を探しているうちに、ただこうして怒っているだけではだめだということに気がついた。
そもそもの発端の一つを作った隊長にもう一度直談判しよう。言うべきことをちゃんと、はっきりと言わなければならない。小さく芽生えたその思いつきは、一晩のうちに固い決意へと成長した。
夏季は幹部棟の一角を訪れている。
表札には、

シエ・ラートン 一等兵 二等兵隊長

と書かれている。

扉を二回ノックすると、隊長が若い声で「入れ」と言うのが、扉の向こうからくぐもって聞こえた。夏季は木製のドアノブをしっかり握り、がちゃりと回し、中へ押し開いた。
ラートンは書類仕事をしている最中で、ペンを持つ手が机上を滑らかに滑っている。あの忌々しいサインをしているに違いない。
ラートンは訪問者の顔を一瞥しようと顔を上げたが、それが誰であるのかを確認すると、すぐに視線を手元に戻した。
「仕事がたまっているぞ。今日は一束でいい」
昨日のことが嘘のようだった。隊長は至って“普通”の受け答えをするよう、努めている。夏季はそうなることを予想済みだった。これから口にする言葉を喉元に準備して、大きく息を吸い込んだ。

「嫌です」

口を開く前に、ラートンは手を動かすことを止めて顔を上げ、夏季の顔を凝視した。聞こえる音は、遠くの方で上がる、何がおかしいのか男たちの笑い声だけである。しばらくの沈黙の後、やっと、ラートンが口を開いた。
「なんだと?」
隊長の返事を聞くやいなや夏季の心臓はばくばくと跳ねだした。負けてたまるかと心の中でつぶやき、両手のこぶしをぎゅっと握りしめる。今日は、相手にどんなことを言われようと、鞭で打たれようと、言いなりにはならないつもりだった。
「嫌ならなぜ、わたしの部屋へ来た?」
ラートンの真っ黒な瞳は微動だにしない。鋭く夏季を見据えている。
「わたしにはわたしのやることがあります」
少し声が震えたが、意外にもしっかりと声を出せたことで、気概が湧いた。「隊長の仕事は、わたしではなく、隊長自身がどうにかするべきだと思います」
「君のやることと言ったらたかが知れている。兵士の訓練くらいなものだろう。わたしには日々やることが山ほどある。忙しいから時間のある者に頼む、間違ってはいないと思うが」
ラートンは再び手を動かし始めた。
「頼み方に問題があると思います」
夏季が食い下がる。
「愛想が無いのは性分だ。仕方ない」
即座に返すラートン。
「それに、そんなに忙しいなら、できないと文官に言えばいいと思うんです。正直に」
夏季も負けじと、すぐに返した。
「あいにくわたしは君のように、身勝手にできる身分ではない。自分の都合で命令を放棄するなど子どものすることだ」
「手に余るものを判断するのが子どもですか? わたしは自分には出来ないと思ったからもうやらないと決めたんです。昨日のような間違いを、またしてしまうかもしれないし」
抑えていた感情が放たれて、思わず、声が大きくなった。
「たった一日で逃げ出したかと思えば今度は言い訳を並べ立てるのか」
ペンを動かす手の動きが速くなる。
「言い訳なんかしていません。わたしが思ったことを報告しているだけです」
「出て行け。君と話していると、時間が無駄になる。今日は特に大事な日なんだ」
「わたしに当たったのは隊長、あなたですよ。ネレーという文官に嫌味を言われたから!」
「失せろ!」
夏季だけではなく、ラートンの口調も荒れてきた。この辺りまでが限界だろうか。
何が何でも負けないつもりではあったが、やはり痛い目を見るのは出来る限り避けたかった。これで最後にしようと、再び息をたっぷり吸い込んでから、言った。
「わたしは今日、ここへ来てもう一度仕事を頼まれてもきっぱり断るつもりでした。あなたの命令に従うのは二度と嫌です。
……さようなら」
一晩かけて考えた、精一杯の、決別の挨拶だった。今までラートンに傷つけられた分を少しでも、張本人に返してやりたかった。書類に目を落として固まったラートンを残して、夏季は踵を返し、部屋を出て行った。

高ぶる気持ちを持て余して早足で回廊を歩いていると、ものすごい音を立てて扉を閉める音が、背後から聞こえてきた。
「子どもみたいに短気なやつ。大人ぶってるくせに」
今更ながら、声が震えてどうしようもなくなっていた。しかし顔は抑えきれない笑いに歪んでいる。あのラートン隊長をわざと怒らせたことが、とても誇らしく思えた。
気力を使い果たした夏季は、午後の訓練をさぼってしまうという素晴らしい思いつきに飛びついた。一度顔を出した誘惑は、どんどん大きくなっていき、頭の中を侵略していく。
すっきりしたついでに、街を散歩してリフレッシュしよう。
早い決断だった。

ラートンは、殴るようにして扉を閉めた自分の両手を見つめている。深い呼吸を繰り返し、気持ちを沈めようと努力していた。さきほどまで怒りは夏季に向けられていたが、彼女が部屋から去った後は、自分に対する苛立がふつふつと沸き上がってくる。
モノや人に当たり散らすなど、子どもじみているじゃないか。
それは自分でも認めていた。しかし、今はそうして発散してなければやっていられない状況だと、わざと自分に甘くしていた。

今夜の会議が鍵だ。場合によってはセボの命運までもが決まってしまうかもしれない。どうか、敵が動く前に、手が打てるよう……願うしかない。

シエ・ラートンの頭からは、既に先ほどの口論のことは消え去っていた。もっと重要なことはたくさんあるという、もう何年も慣れ親しんだ自己暗示のせいだ。
年相応の感情を味わうには、ラートンは、他に考えることがありすぎた。
それが重荷であることを本人は認めている。

ああ、認めているとも。しかし、俺がどうこうできることじゃない。

黒い扉は城の正門の半分ほどの高さだが、ずっしりとした重量感は変わらなかった。ただ、よほど使用する頻度が少ないと見え、縁は細い蔦が絡まり、元は墨のように黒い木材が、みすぼらしく変色して赤茶色になっている。
「ヒマすぎる」
哲はその日一七回目の大欠伸を解放した。
「裏門」と呼ばれる通用門の、右側に立って、見張りの任務を遂行しているところだ。左側には、どこか見覚えがある、若い二等兵が立っている。兵隊の訓練にも長く出席していれば、どの兵隊とも必ず一度は顔を合わせているに違いない。見覚えがあるのは当然だと思った。
彼は欠伸ばかりか身じろぎ一つしないで突っ立ったままである。哲の朝の挨拶にも反応を示さず、ただただ直立不動の姿勢を保持していた。
「なあ、昼食ってどうするんだ?」
無駄を承知で、哲は男に話しかけた。
やはり、返事は無い。
「勝手にここを離れちゃいけないよな」
相手はまばたき一つしないで真正面を向いている。
「首を動かすくらいできるだろ」
文句を口に出しても、男は何も言わなかった。
(話し相手もいないなんて酷すぎる。あーあ、長い一日になるなあ、これは)
唯一救いなのは、高い防壁のおかげで日陰にいられることだ。長袖の制服が気に入らない哲は、そよと吹く生ぬるい風を感じようと必死になっている。少しでも風に当たる肌の面積を増やそうと、帽子を取った。
汗の染み渡った髪の毛に触れる空気が涼を呼んだ。吹き上げる仄かな風に誘われて見上げた空は、奇麗すぎるほどに見事な青だった。哲は見上げたままの姿勢で門扉にもたれ掛かり、胸中でつぶやいた。

今夜夏季と話すんだ。
仲直り、できますように。

哲や俊が兵隊の訓練に出ていること、他の兵隊たちも同じように訓練に出たり任務についていることを思うと、のらりくらりと城下街を歩くのは、気分爽快だった。特に目的はなかったので、ショーウィンドウに惹かれて雑貨屋にふらりと立ち寄っては、陳列される商品を見るだけ見て楽しんだ。
途中、布地屋に立ち寄って小銭でストールを買った。不本意ながら、朝礼で王女から「リーダー」の辞令を受けたことで自分は特に目立つ身分となってしまったことだし、任務中の兵士に見つかるかもしれない。とやかく言われることは避けたかったので、ストールで頭をすっぽりと包み隠した。布地が大きいため、フードにして使ってもなお余った布地が腰の辺りまで垂れて、マントのようになってしまった。
真っ青な空には真っ白な雲が千切れた破片となって漂っている。このような晴天の元では望まない格好だが、仕方がなかった。幸い湿度は、死にそうに暑い日ほどは高くない。こめかみから首筋にかけて汗の筋を作りながら、我慢できる程度の暑さだと、夏季は自身に言い聞かせて歩を進めた。

大きなガラス張りの呉服屋を通りかかったとき、自分の姿がウィンドウに映るのを横目で見た。ぶかぶかと膨れ上がったおかしなシルエットは、足の生えたてるてる坊主のよう。このような服装をすることで逆に目立つのではと思い、ふと周囲を見回した。普段マントを被っているのは馬を引き連れた旅人くらいなもので、それも馬を走らせるときの風よけのためである。亜熱帯に近い気候のセボで、好んで暑苦しい格好をする人はあまり見られない。
しかし、街の様子を観察し始めてすぐに心配は安堵に変わった。意に反して彼女と同じ格好をしている者がまばらに見受けられたのだ。
それも決まって黒いマントなので、目につきやすい。彼らは馬を引かずに、必ず二・三人で固まって歩いている。
あまり見られない、少し奇妙な光景だと、夏季は思った。
(何か祭でもあるのかな? 誰もそんなことは言ってなかったと思うけど)
気付けば黒マントの人数を数えていた。見渡すところ、必ずどこかにいる。かといって多すぎるでもない。雑踏の中に紛れ込んでいる黒い影……。

「あれ、ユニさん」
黒いウォーリー探しに没頭していた夏季は、急に視界に飛び込んできた見知った人物に、咄嗟に声を掛けていた。足早に歩いていたユニは、はっとしたように振り返った。
「あら、夏季ちゃん……」
ユニは薄茶色のストールを肩に掛けている。黒いマント姿ではないことに、夏季はほっとした。なんとなく。
「訓練は?」
ユニはもっともな疑問を口にした。
「お休みをもらいました」
夏季がにやりとする。
ユニは一言、そう、とだけ言った。いつものように、他愛無く楽しいお喋りが始まるものと期待した夏季は、その返答に驚いた。
訓練の休みはそう簡単に取れるものではなく、体調不良や家族の不幸など理由は限られる。訓練を休んだのに夏季のように街をふらふらしているというのは、怪しむべきところだ。
それに、兵隊たちの最高指導者であるオスロ師士の妻なのだから、夏季の今の返事に鋭く切り返すのが当然である。特にユニは、裏を取る性格ではない。目の前にあるものに対して真っすぐ向かって行くタイプだ。絶好の突っ込みどころを、「そう」の一言で済ませるなど不自然なのだ。そして、心なしか、ユニの見せた笑顔は引きつっている。
何か、そわそわとして落ち着かない。右手がストールを直したり、頭に結わえたお団子を触ったりしている。
「どうしたんです?」
ユニの異変に気付いた夏季は、ユニの顔を覗き込んだ。よく見ると、ユニのふっくらとした顔は血の気を失い、青ざめている。赤みの差さない丸顔は、細身の青白い顔よりも一層、不健康な印象が強く出る。
「気分が悪いんですか……?」
「夏季ちゃん。わたし、どうすればいいのか……」
語尾は嗚咽に消えそうになった。ユニは両手で口元を覆い、今にも泣き出しそうなのを必死で抑えているようだ。いつも元気なユニばかり見てきた夏季は、見慣れないものを見て、足元から体温が下がって行くのを感じた。
「どうしたんですか。そういえば、お店は?」
ユニの酒場は年中無休である。客とのつながりを、家族のそれと同じくらい大事にする店だった。
「スアンに任せてあるの。わたしはこれを、誰かに見せなくてはと」
ユニは震える手でハンドバッグを探り、快晴の空のように青い封筒を取り出した。
「開けていいですか?」
夏季は封筒に手を出した。
ユニがこくりと頷き、手渡した。

封筒の中には二つのものが入っていた。一枚の厚手の紙と、薄い紙の包み。夏季は理科の授業で使った薬包紙を思い出した。夏季はゆっくりと、厚手の紙を広げて、中を見た。
「何、これ」
夏季はそこに書かれた草書体が読めなかった。セボでよく目にする文字とはまた別のものだったからだ。しかし、赤茶けた文字の色が、どのようなインクを使ったのかを想像させた。まず背筋を冷たい電流が走り、それから軽い吐き気をもよおした。
「拘束力のある契約書よ。しかもそれは、その中でも最悪のものだと思う」
ユニは咽から絞り出すような声で、その名を言った。
「魔女の契約書」
彼女の目から、一粒の涙がこぼれる。
「どこでこれを?」
夏季は、答えを聞きたくない質問を自らした。
「……オスロの書斎で」
泣き崩れそうになるユニを、夏季は抱き止める形となった。通り行く人々が、振り返っては重なる二人を珍しげに見て行くが、周りの人も物も、全て遮断しているユニと夏季は、少しも構わなかった。
「今度の遠征は長くなると言うから、気合いを入れて隅から隅までお掃除していたのよ。そしたら、普段は掃除しない本棚に、この封筒が挟まっていて……」
「開けちゃいけないですよ、人の物を」
夏季は囁くように言った。
「わたしへのラブレターかと思って。ときどき、そういうことをする人なのよ、オスロは……」
激しい泣き笑いが哀しかった。
「ユニさん、お城へ行こう。幹部の誰かに報告しなきゃ」
「夏季ちゃん、魔女は死んだのよ。あなたのお母さんが、六季が、ちゃんと倒したのよ。なのになぜ……ああ、オスロ……」

この青い封筒を城へ届けることを何よりも優先しなければならない。たとえ、ユニの口から母親の名が発せられるのを、聞いてしまっても。ユニの肩を抱いて、道を歩く。邪魔なフードは肩から落とした。

<あなたのお母さんが>
<六季が>

お母さんが……?

哲の耳は敏感に反応した。
足音が近づいている。
扉の左側に立つ兵士にちらりと目をやったが、明らかな物音にさえ、相変わらずの無反応だった。
「なあ、俺この仕事やるの初めてなんだよ。人が来たらどうするんだ?」
聞かずにはいられなかった。すると、驚いたことに、無言の兵士は哲の前で初めて口を開いた。
「今日、ここで君が何かする必要はないと思うよ」
口元が笑っている。哲は少しムッとした。
「バカにするなよ」
「別に。忠告しているだけ。大人しくしている方が身のためだ」
「何言ってんだよ、あんた」

こつこつ
と、背後の重い扉がノックされるのを、もたれる肩で感じた。午前中の勤務では人の気配すらなかったので、まさか通行人が訪れるとは思っていなかった。
続いて、
がちゃり。
鍵を回す音がする。
(鍵を持っているなら、門番付ける必要ないじゃんか)
哲は舌打ちして、もたれかかっていた扉から、ゆっくりと離れた。
(でも、どうして鍵を持っているんだろう? 幹部の誰かだろうか)
疑問に思ったときは既に門扉が開き始めていた。錆び付いた金具がぎいいと軋み、細い悲鳴を上げている。
もう一人の門番が、制帽を取り、訪問者に向けて深々とお辞儀した。
地面に細長い影が落ち、黒いマントを纏う背の高い人間がゆっくりと姿を現した。灰色の真っすぐな髪の毛は解き放たれ、腰の辺りで揺れている。
哲は目を疑った。「裏門」をくぐったのは、狐の耳を持つ女だった。

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