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デスクワーク

第一章/使い

翌日、訓練の午前の部が終了すると同時に夏季は城へダッシュした。ラートン隊長は午前中は姿を見せていないので、書斎で夏季を待ち構えているはずである。鞭を使う口実を与えないためにも夏季は最速でラートンの書斎へ向かった。
幹部棟の四階へ到着したとき、夏季は体中から汗を吹き出していた。床にしずくが滴り落ちている。顔面を流れ落ちる汗を腕で出来る限り拭い、荒い息を整え、木の扉を二回ノックする。しばらくすると、部屋の中から足音が聞こえ、ドアノブが回った。

「入れ」
シエ・ラートンの無愛想な黒い瞳が、細く開いた扉の隙間から覗いていた。
「失礼します」
夏季は無礼のないよう、はっきりと言いながら、ラートンの書斎に足を踏み入れた。
部屋の大部分を占めている大きな机の上には、書類が何十センチメートルも積み上がってできた柱が五本ほど並び、あとは羽根やインクなど、筆記用具がごろごろと転がっている。机の後ろには、青空を囲う大窓を背景に華奢な回転椅子が置かれ、部屋の壁際には書棚が並ぶ。見回してもひたすら事務的なものばかりで、私生活についてはなにも触れられていない部屋だと、夏季は思った。ラートンは素早く机の後ろに回ると、机の上でがさごそとやり始めた。
「君にやってもらう仕事だが、これらの書類……」ラートンは書類の柱のうちの一つを、抱え上げた。「こいつにサインをしてほしい。赤い紙が挟んであるだろう。そこを境にサインが済んでいるものと、済んでいないものとに別れている。サインの書き方が分からなければ、済んでいるものを参考にすればいい」
「それだけですか?」
夏季はあっけに取られていた。もっと大変な仕事だと思っていらからだ。
「それだけだ。新入りの君に、難しい仕事が出来ないことは分かっている。他に聞きたいことは?」
「……いつまでに?」
恐る恐る聞くと、
「明日の正午までだ」
即答された。夏季は思わず息を吸い込んだ。
(二十四時間以内に、これだけの量を……)
目の前には、ラートン隊長が抱えた紙の山が迫っていた。

ラートンが書斎のドアを支えている。
「明日の正午、ここへ持って来い。いいな」
「わかりました……」
夏季が両腕に抱えた紙の山は、頭の上の高さに達している。書類は紙紐でまとめてあるとはいえ、床に落としたりしたらばらばらになってしまうことは目に見えた。夏季は慎重に、歩き出す。背後でラートンの書斎のドアがバタンと閉められる音を聞いた。
回廊ですれ違う人々は、よろよろと歩く夏季をじろじろと見たり、にやにや笑ったりしている。手首に針山のバンドを巻き付けた裁縫師の二人組は、紙を運ぶ人間というより、歩く紙の山のように見える夏季を指差し、くすくすと忍び笑いを漏らした。
(仕方ないじゃない! あの隊長の命令なんだから)
夏季は顔が火照るのを書類の山で隠したいが、顔を隠すと前方がまったく見えなくなるので、そうしたいところをぐっとこらえた。
きっと、今日のわたしの姿が噂として広まるに違いない。小さいわたしのリーダーとしての仕事ぶりを、おもしろおかしく人から人へ伝えるんだ。ああ、倫が喜ぶに違いない。噂話が好きみたいだから……。

慎重を期したために、十分近く歩くことになった。兵士の宿舎に着く頃には、腕がふるふると頼りなく震え、今にも力が抜けそうになっていた。自室の扉の前に来ると、両腕が塞がっていて、部屋に入れないことに気付いた。仕方なく、書類を一度床に下ろすことにし、ゆっくりと、腰を曲げていく。少しかがんだだけで崩れてしまうだろう。
そのとき、背中を押され、足がつんのめった。
「あ」
紙の塔は斜めに傾き、どさどさと、黒い床に舞い落ちた。夏季は崩れる白いかたまりを見て愕然とし、床に手をついてしばらく呆然としていた。
目の前には、紙紐の隙間からこぼれ落ちた書類が散っている。紐があったおかげで、幸いにも紛失したものはなさそうだった。夏季はだんだんと冷静さを取り戻していった。 背後から男女の笑い声が聞こえる。夏季は木の床に座り込んだまま、反射的に振り返った。
大男のカルーとキム、そしてその取り巻き連中だった。五人の男女が夏季を見下ろしている。
「惜しかったなあ。あと少しで部屋に入れたのに。……そのへっぴり腰で」
カルーが、手を当てた腰を曲げ、老婆のような格好をした。咄嗟に上がる女兵士の甲高い笑い声は、あまりにも不快で夏季は吐き気がした。女兵士は自分の足下に落ちている書類を拾うと、くしゃくしゃに丸めて夏季の足下に投げた。
「こんな汗まみれの書類、隊長のところへ持っていったって怒られるだけじゃないの、小娘ちゃん」
夏季は何も言わずに、書類を拾い始めた。悪ふざけがエスカレートするのは避けたい。書類のことをいちばんに考えると、ここで反論しないことが得策のように思えた。下を向き、悔しさに歪んだ顔を見せないようにする。

「ちょっと、静かにしてよ」
突然、隣室の扉が勢いよく開いて、倫が顔を出した。
「ここ女子棟なんだけど。なんで男がいるわけ? 隊長に言いつけてやる!」
倫は言葉通り、牙を剥いていた。カルーたちは、面食らったように顔を見合わせた。
「あんた一度、隊長に勘当されてるだろ。そんないい仲じゃあないでしょ」
女兵士は薄ら笑いを浮かべて、見下すように言った。
「あらー、残念。言いつけるのはわたしじゃなくて、そっちの小娘ちゃんの方。その子は隊長とまともな会話ができるからね」
女兵士ははっとしたように、押し黙った。
「意地悪のネタにはするくせに、隊長が怖いんだ」
倫はにこーっと笑いかけた。
「黙らないと絞め殺すぞ」
カルーが指を曲げては伸ばし、骨をぽきぽきと鳴らした。
「とか言って、あんたも隊長が怖いクチでしょ。夏季は隊長と仲良しなんだから。だからこそ、今こうやって仕事の山を抱えているんじゃないの」
倫は座り込んだままの夏季に目配せした。夏季は目を大きく見開いて、見つめ返すばかりだった。
「夏季が今日あったことを隊長に話せば、あんたたちは終わるはずよ。これ以上何かしでかさない内に、ここから出て行った方がいいんじゃない?」
「余計なお世話だ」
カルーはツバを吐き捨てると、背を向けて歩き出した。 取り巻き連中も、慌ててカルーに付いて行った。女兵士だけが、倫と夏季をにらみつけている。
「そんなこと、もうすぐ関係なくなるけどね」
女兵士が唐突に言った言葉を聞いて、夏季と倫は怪訝な顔をした。
「おい、ベルナ。行くぞ!」
廊下の向こうで、キムが呼びかけた。女はくるりと背中を向け、集団の中へ戻って行った。

残された二人は彼らが行ってしまうのを見届けた後、見つめ合った。
「大丈夫?」
倫が言った。
「はい」
「手伝おうか?」
「大丈夫です」
夏季は、倫とのわだかまりがまだ消えてはいないと思っていた。二日前の夜、倫はこれまでとは違う怒りを見せた。たぶん、傷ついていた。夏季はそのことで生まれた溝が、簡単に修復されるとは思えなかったのだ。
「ふうん。まあいいけど」
倫は上方から、紙を拾う夏季を眺めている。夏季が顔を上げず、何も喋らないでいると、倫は部屋に戻る気配を見せた。
「あ、倫さん」
夏季ははっとして、倫を呼び止めた。倫は閉じかけた扉を再び開き、ひょっこりと顔を出した。夏季は、これだけは言わなければと思い、言った。
「ありがとうございました」
倫は表情を変えなかったが、グーにした右手を突き出し、親指を立てて見せた。夏季は思わず笑顔になった。倫は何も言わずに、そのまま部屋へ引っ込んだ。

昼休み中書類をかき集めていた夏季は昼食の時間が取れず、腹を空にしたまま午後の訓練に臨んだ。二時頃、ふらふらとし始めた夏季を見てたまらずイルタが声をかけたが、夏季は手で払う仕草をして取り合わなかった。けっきょくこの日は昼食抜きで訓練をやり遂げ、逃げ帰るようにして宿舎へ戻った。午後の訓練中、カルーが昼休みの出来事をネタにして笑いを取っていた気がしないでもない、が、そんなことに構っている暇はなかった。
食堂からくすねてきたパンを口にくわえながら、夏季はさっそく宿題に取りかかった。サインを写せばいいとはいえ、書き慣れない文字は真似るだけでも難しい。ペン書きは修正が効かない。慎重にペンを動かした結果、最初の一枚を書き終えるのに、五分を要した。
「これじゃあ、全部やるのにどれくらいかかるんだろう」
夏季は思わず漏らしていた。
(でも、文句を言っても仕方が無い。やらないと、時間はどんどん過ぎて行くんだ。考えるのは無駄!)
夏季は覚悟を決め、次の書類に取りかかった。誰のサインであるのかも分からずに(シエ・ラートンだろうか?)、夏季は無心で写しを進めた。

壁に掛けられた時計を見ると、仕事を始めてから二時間が経過していた。書類の山は三分の一ほどが片付いている。 (十二時までには寝たいのに、この分だと終われないかもしれない。もう少しペースを上げよう……)
こんこんと、扉をノックする音がした。夏季はイライラしながら、扉を開けに向かった。ふだん誰も来ないくせに、こういうときばっかり訪ねてくるの?
「だれ?」
夏季は扉を開けながら言った。
「おれ」
部屋の外には、哲が立っていた。
「手伝うことあるだろ?」
哲は、こういうときだからこそ、訪ねてきたのだった。
夏季はドアの前に哲を残して部屋へ引き返すと、迷わず、残った書類の半分を持った。手本のサイン入りの書類も付けて。玄関に引き返し、今夜中にやらなければならないことを哲に説明した。
「案外簡単なんだな」
「やってくれる?」
「オッケー。終わったら持ってくるよ」哲はにこりと笑った。
紙束を片手に抱えて廊下を歩いて行く哲を見送りながら、女子寮に警備員を置くべきではないかと考える夏季だった。今日だけで、女子寮に入ってきた男は、夏季が確認しただけで五人に上っているのだ。
「男女で分けてる意味ないじゃない。バカみたい」
夏季は何にでも、当たりたい気分だった。部屋へ戻り、椅子に座ると、再びサインを書き始めた。さすがに手は筆跡に慣れて、動きが滑らかになっている。
意地でも十二時までに、終わらせてやる。

夜は更けていく。

倫は夜が怖かった。昨夜のしわがれ声を恐れているのだ。 部屋の明かりをつけたまま、ベッドに転がっている。しばらく、暗闇の中では快適な眠りにつけそうになかった。

「わしに従えば、リーダーになれる」

あの言葉は、リーダーに選ばれなかった「使い」をターゲットに絞ったものだ。そう考えると、自分が何者かに狙われている気がして背筋に寒気が走るのである。
セボに呼び寄せられたわたしたちは本当に、大きな事に巻き込まれつつある。四人それぞれが力を手に入れた時点でそれは確定していたのかもしれないけれど……。
倫ははっとして、飛び跳ねるように起き上がった。わたしに誘いの声がかかったのなら、哲と俊にもあいつは声を掛けるのかもしれない。警戒心の強い哲はともかくとして、俊。彼は「リーダー」に固執するだろう。
今すぐにでも忠告に行くべきだけど、だめ、暗闇は怖い。今から城を歩くなんてとても無理だわ。どうか彼が、誘いに乗りませんように。

倫は、俊がそこまで愚かではないと信じたかった。

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