目次 HOME

烈火

第一章/使い

右目に青あざを作った俊はむすっとした顔で、行き交う人々の視線を浴びながら街をほっつき歩いていた。静養日の昼下がり、平和な午後である。午前中は新鮮な野菜や生肉を店頭に並べて賑わっていた朝市の屋台も、昼を過ぎると早々に引き上げる準備を始めている。変わって人足が向かうのはご夫人たちのお喋りの場になる小さくて狭い喫茶店や、兵隊たちが談笑するために集まる定食屋など。俊はそれら全てを素通りした。彼の心に、街の幸せな気分はさっぱり浸透してこない。
「おい、俊。こっち来いよ!」
酒場の店先で仲間の若者とだべっていたアレモが、まぶしい陽光に目を細めながら、俊の姿を認めて声をかけた。しかし、俊は振り返りもしないで足早に歩き去った。
「なんだあの野郎。こっちは気い使ってるのに」アレモは眉をつり上げて、俊の背中を見送った。
「ほっとけよ。彼も楽しい気分にはなれないだろうさ」イルタがため息まじりに言った。二人とも、俊と同じ位置に青あざを作っている。イルタの頬にはまだ、皮の鞘で張られたときの傷がうっすらと残っていた。
コンパの翌日に訓練を無断で欠席したことで、隊長は顔に怒りを表しもせず、ただ黙って俊たち三人を拳ではり倒した。夏季と哲が隊長に頬を張られたときに彼らをあざ笑ったことを、兵隊たちはよく知っていた。そして夏季や哲は明らかに、俊よりも兵士たちの間でかわいがられている。だからこそ、今回俊が鉄拳を浴びたとき、慰めの言葉をかけられるどころか、冷たい目線を浴びることになり、「ざまあみろ」と耳元でささやかれることも一度や二度では済まなかった。
ふだん椅子の上でふんぞり反っていても、根はただの寂しがりやだった。父親の後ろ盾がない今、どうすれば他人の気を引くことができるのか分からない。孤独な休日を嫌というほど味わっている最中である。

「こんにちは」
聞き覚えのある女の声に、俊は反応した。振り返ると、そこには黒髪の女がにやりと笑っていた。
「取り巻きがいないなんて、めずらしいんじゃない?」
「倫」
久々に見る顔に、俊は自然とほっとしていた。実に六日ぶりのことであるが、ひょっこり現れた倫に目立った変化が見られないので、空白の一周期を忘れそうになる。髪のつやが少し減ったかもしれない。
「私の名前を覚えているとは意外だなあ」
倫は口の右端を少し上げて、意地悪く笑った。
「どこへ行ってたんだ?」俊は倫に対してめずらしく素直であった。
「私の気が向いたら教えてやってもいいけど」倫はいつもの通り、ひねくれた答えを返した。
「どうしてあんたはそんなに偉そうなんだ」
「人のこと言えるの? 評判になってるわよ、あなたのこと。『面倒くさいことになるよりは、たとえいい気分じゃなくても持ち上げておいた方がいい』って。知らないならとんだ間抜け。もし知っていてもそれでまだ威張ってられるならただのバカよね」
俊はゆっくりと時間をかけて、顔を赤く染めた。倫は構わず俊の様子を観察した。その間、俊は黙ったきりで何も言わなかった。いや、言えなかった。恥ずかしいやら、悔しいやら、沸き上がる強い感情を押さえつけるので、手一杯だったからだ。
「あら、本当に気付いていなかった? じゃあ、間抜けに決定。それにしても言い返して来ないなんてめずらしいわね。今までは私の前に現れる度、中傷してくれたじゃない。ふだんからそうやっておとなしくしていればまだマシな男に見えるのに」
倫の口からは次から次へとトゲのような言葉が飛び出した。
「黙らないと」
「何よ。黙らないとなに? もったいぶってないでさっさと続けて」
彼女の言葉は、もはや吹き矢の威力となりつつあった。
「黙らないと、はり倒すぞ!」俊は怒声をのどから絞り出した。
「けっきょく最後は力、男って……」
倫は言葉を切った。まばたきもせずにしっかりと俊の両目を見つめていたのだが、彼の瞳の奥に赤く細い輪を見つけた。なんだろうあれはと考えていると、俊は右足を一歩引き下げて飛びかかる姿勢を取った。彼の握られた拳がぶんと飛ぶ。拳の動き自体は決して俊敏ではなく、倫は余裕を持って避けることができた。ところが、拳を振った方向に橙色の炎が吹き出した。倫は反射的に飛び退いて、火の手から肌を守った。
倫は今見たものを疑うように、両目をしばたいた。俊の右手は堅く握り拳に固められた上、ゆらゆらと燃える炎をまとっている。それは熱を持っているのだろうか? ふわりとやわらかく包み込む橙色のオーロラからは想像することができない。歪んだ俊の顔も熱さのせいではなく、怒りのせいであることは明らかだ。俊は突如出現した炎に慌てていない。
「そう。やっぱりあんたも」
倫は真顔でそう言うと、自らも右手を目の前に突き出した。
「いい加減にしろよ、お前。もう我慢できない。一発殴らせろ!」
「わたしが『はい』と言うとでも? バカもいい加減にしないとこれからは無視するわよ」
「そうやって見下されるのが大嫌いなんだ。俺に歯向かうな……。お前だけじゃない、俺の側に寄るヤツ全員だっ!!」
人だかりが出来はじめていた。俊の言葉に、見物をする兵隊たちは顔をしかめた。 俊は炎に包まれた右腕をやみくもに振り回し、炎を飛び散らせた。ギャラリーが悲鳴や怒号を上げる。激しい飛び火だった。拳の炎は、腕が振られる方向へ、放射状に火の玉を吹き出した。周囲の建物の積み荷や屋根に、小さな火種がついた。
(自分のしていることを分かってない。このままじゃ、城下街が焼け落ちてしまう)
倫はもう一度右手を前に、今度は前より勢いを付けてばっと突き出した。手の平の真ん中から、根っこのようなものが生えた。それはどんどん成長の勢いを増し、早送りどころではない猛スピードで葉を茂らせ、茎を太くし、俊が暴れ回る方向へとにょきにょき伸びた。
俊は自分に向かってくる得体の知れない生き物を目にすると、一瞬動きを止めて獲物を確かめた。そして、植物に向かって拳を振り上げ、ぶんと振り下ろした。それまでとは比べ物にならない大きな炎が、倫の巨大植物に襲いかかった。二人の間に空いた十五メートルほどの空間で、植物と烈火がのたうち回った。
「火と草、わたしが不利に決まってるでしょ。本気で燃やすなんてバカじゃないの」 倫は敵わないことを見極めた。胸ポケットから短剣を取り、太い茎を手の平から断ち切った。ほとんどが焼け落ちた植物は、とてつもなく大きな生き物の死骸のように、地面に崩れ落ちた。舞い上がった黒い煤に、群衆はむせ上がった。
街はにわかに動揺で溢れた。空を飛ぶ火の粉が「戦地」から離れた人々まで不安にさせていった。

「買い物はこれで終わりだ」ハリルは両腕に一つずつ、紙袋を抱え上げた。
「あんたが決めることじゃない。ちょっと待って、忘れているものがないか確認するから」哲は大通りの人の往来に構わず、自分が抱えている大きな紙袋を地面に下ろし、中身を探り始めた。
「おいおい、せめて道の端に寄れよ。君にはこの人の波が見えないってのか」
哲が何も答えないでいると、ハリルは一人で文句をつらつらと並べ立てた。もともと無口な哲は、買い物を一人で済ませたかった。が、隊長か師士の命令だろう、ハリルが哲の監視に就いたので、哲の行く所どこでもお喋り好きな男がついて回ることになり、やむなく城下街を共に歩いている。
「夏季ちゃんはそろそろ帰ってきてもいいころだぞ」
出し抜けにハリルは夏季の名を出した。哲は袋の中を探る手を止めたが、顔を上げなかった。こめかみの辺りに、少し火照りを感じたからだ。
「急になんですか」
「心配だろう?」ハリルは満面の笑みでしゃがみ込む少年を見下ろしている。彼のために日陰を作ってやる形になった。
「それは、心配に決まってる。なんにも言わずにいなくなったんだから」
小さな声でもごもごと言ったが、ハリルはしっかりと聞き取った。
「急用だったんだよ。師士の命令だから、君に構っているヒマはなかったんだろう」
哲は顔の熱が引くまで紙袋の中を確かめ続けたが、もう頭の中は袋の中身以外のことでいっぱいになっていた。実際、夏季が何も言わずに城を出て行ったことは、日が経つにつれて哲に暗い気分を植え付けた。

たぶん、城の人間の中で、夏季がいちばん信用しているのは俺だった。いちばんはオスロ師士かもしれないけど、友達としては兵隊たちより、女のウォローより、俊なんてもってのほか、俺だったと思う。それなのに、なにも言わないで行ってしまうなんて。

ようやく立ち上がった哲は、今度はしっかりした口調で言った。
「もう買う物はないです」
「当たり前だ。これ以上買ったって持てっこない」
ハリルがあきれ顔で言った。
そのとき、遠くの方で悲鳴と共に轟音が鳴り響いた。
それまでのほほんとしていた、ハリルの顔がひきしまる。鋭い目つきで音のした方向を見据えた。哲もつられて同じ方向に目を向けた。
はるか前方の建物の群れの上に、煙が立ちのぼっている。昼間の時間帯では分かり辛いが、ちらちらと見えるのは間違いなく炎だった。
「ボヤにしては大きい火だな。放火か……。哲、俺は一応役職的に、こういうときは現場に駆けつけないといけない。お前も来るか?」
「はい」
二人は、遠くの煙を見つけて立ち止まる人々の間を縫って、足を早めた。

一帯の建物には、すでに数えきれない数の焦げ跡がこびりついていた。煙を立ちのぼらせている屋根も、数軒ある。見物するには危険すぎると判断した見物人たちは引き上げ、今や戦う二人の周りにほとんど人は無く、遠くの方で騒がしい声が聞こえる。木材が焼ける拍手のようなパチパチ、そして二人の会話が、残された音だった。
「後で隊長とかに叱られたって知らないわよ」
「これだけの力を使えれば、怖いものなんてないさ」
俊は高笑いと共に炎をまき散らし、息を切らせた倫を追った。
「そんな荒技持っていたって、隊長を相手にするなら自滅するのがオチだわ」
時間稼ぎにと、倫は苦しい息を使って喋り続けた。倫の意図通りに、俊は足を止める。
「殴られる前に、あの男を焼き尽くしてやるさ」
倫はしばらく膝に手をついて息を整えてから、言った。
「自制の効かないその力は、本当に何もかも焼き尽くしてしまうわよ。もちろん、炎を扱うあなた自身もね」
俊は眉をぴくりと動かした。
「そんな間抜けな話があるか」
「あるんじゃない、今のままだと? 感情が高ぶると抑制がきかないんだから」
倫は近づく足音を聞き取り、内心ほっとしていた。
足音の正体は哲とハリル副隊長だった。
「なんだこれ!」
哲は惨状を見るなり、裏返った声を発した。熱気に思わず、腕で顔をかばった。俊は哲の姿を見つけて、嬉しそうににんまりと笑った。
「よう、チビ。どうやら俺にもちゃんと、スゲー力があったらしいぜ。おまえだけじゃなかったんだ」
「あたりめーだろ、『使い』なんだから。自慢する必要はない」
ハリルは関心がなさそうな言い方をした。俊が副隊長をきっとにらむ。
「余裕だな。でも、いくら『副隊長』のあんたでも、火には勝てないんじゃないの?」
「さあな。戦ったことないからわからんね。それより、ここが君の戦場なのか? 武器も持たない人に攻撃することが君の自慢の種か。君はもう少し紳士かと思っていたが、これじゃあとてもそうとは言えないね」
「俺が相手にしているのは、ここにいる凶暴な女だ!」
「女。……女だ! 君は女を本気で相手にしている。それは一人の立派な男の行動としてはどうなんだろうな」
ハリルはこらえきれずに吹き出した。
哲は思ったが、ハリルにはまったく相手をバカにする気などなかった。本当におかしいと思ったから笑ったのだ。しかし、それこそが、俊が腹を立てた原因なのかもしれない。無邪気な笑いが、彼の高ぶった神経を逆撫でしたのだ。
俊は苦しむような険しい顔をした。それから、咆哮をあげながら、狂ったように右腕を振り回した。
「隠れて!」
倫は叫ぶと同時に、すぐ横の家のドアの後ろに隠れた。
哲とハリルがあっけに取られている間に、俊の手から火の玉が飛び出し、無差別な攻撃を始めた。
「お前バカか!」ハリルは狂ったように暴れる俊に向けて言い捨てると、哲を抱えて民家に逃げ込んだ。扉の錠を下ろした瞬間、火の玉の一つが命中したのはまさにその扉だった。
「ああ、信じられない。『使い』にあんな野郎が選ばれるなんて……」
「どうするんですか」
「どうしろってんだ」
「だ、だって副隊長でしょう。どうにかしないと!」
「……ムリだ」
きっぱりとした答えだった。哲が呆れて物を言えず口をパクパクさせると、ハリルは腰に下げた剣をばしばしたたいて、訴えた。
「俺のこのほっせえ剣でやつのマグマに立ち向かえと? 生まれてこの方あんなものは相手にしたことがない。……隊長か師士が着くまで待つのがいちばん」
哲は反論しようとして口を開いたが、ハリルの額に汗の粒が吹き出しているのを見て、口を閉じてうつむいた。
「力だったら、俺だって……」
哲は床を見つめて、くやしそうにつぶやいた。
「お前もまだだめだ。コントロールできないから」
「わかってます」

どんどん。
戸を叩く音がした。

「出て来い。俺をバカにしたやつを順に焼く」
俊のドスの利いた声が、薄い板越しに聞こえた。
「はは。焼くだなんて、ぶっそうな。君は『いぶし銀建設』のいいぼっちゃんなんだろう?」
「『イーブス建設』だ!!」
俊の怒声と共に、戸板に再び炎がぶつけられた。戸板は錠といっしょに吹っ飛び、部屋の中に烈火がなだれ込んだ。
哲はもう、我慢がならなかった。ハリルと倫がいるんじゃ俊を怒らせるばかりだ。このままだと近いうちに丸焦げにされてしまう。……俺の力も制御が効かない。効かない同士、ぶつかりあえば、互角に戦えるんじゃないのか?
「ハリルさん」
戸の左側に隠れている哲が、右側にいるハリルに囁いた。
「やっぱり、俺が行くよ」
「哲、ちょっと待て!」
ハリルが哲の肩に手を伸ばすが、走り出した哲に届かなかった。隠れ家の窓から外の様子を窺っていた倫は、口元を手で覆った。小さなシルエットが、ホコリが舞う屋内から、陽光と炎の橙色に照らされた大通りへ駆け出した。
三メートルほどの高さがある竜巻が、まっすぐ俊に向かって行く。数は一ではなく、ハリルがざっと数えたところ四つもあった。
「ばかやろう! 炎を風で煽ってどうする!」
ハリルの悲鳴のような甲高い怒声は、暴風に掻き消された。 俊がまき散らした火種が、哲の風によって勢いづいた。竜巻は炎を育てて中空に巻き上げ、城下街中に運ぶ準備を整えた。倫も、ハリルも、遠くから見守る兵隊たちも、炎をブレンドした恐ろしい竜巻を、茫然と見上げていた。
周囲の民家に避難していた人々は、近場の騒ぎが収まったと思って外に出てきた。彼らは隣人同士で安堵の笑顔を交換するのも束の間、どちらかが震える指で上空を指差す。そして、二人して青ざめた顔を空に張りつけたままにしてしまうのだった。
「セボは終わりだ……」
誰かが低い震え声でがつぶやいたのを、ハリルはひとごとのように聞き取った。

「どいて!」
少女の声がした。
ハリルと倫が振り返ると、竜巻の進路とは逆の方向から小さな影が駆けてくる。
「水をかけないと!」
ハリルと倫は顔を見合わせた。
「そうだ。水だ」ハリルがつぶやいた。
「何をぼーっとしてたのかしら。水、水を集めなきゃ!」倫が張りのある声を出した。
「だから、水をかけるためにも、そこをどいて!」再び、さきほどの少女の声だった。倫は少女の顔を見た。
「あ」倫は少女の顔を指差し、何か言いたそうに口をぱくぱくさせた。
「夏季です。もう忘れたん……そんなこと言ってる場合じゃない。どいて下さい」
夏季は倫とハリルを押しのけて、ものすごい音を立てながら空を渡って行く竜巻を眺めた。俊と哲は自分たちが起こしたのに制御できない炎の竜巻を、惚けたように見上げ、突っ立っている。そんな二人を見て夏季は呆れ、憐れんだ。それからすぐに、目の前で起きている惨事を頭から追い出し、今からしようとしていることに集中しようとした。静かに目をつむり、力を抜く。森の泉を前にしたときのことを考えた。

どうか、ここに集まって。

今立っている地面の下に、細々として頼りない水脈を感じた。夏季の心臓がどくん、どくんとリズムを刻むと、水脈も波打つ。腕は両脇にだらりと垂れる。手の平は不安定に揺れていたが、だんだんと居場所を定め、しっかりと握られていった。やがてその小さな拳は込められる力にぶるぶると震え、こめかみにはうっすらと青筋が浮かんだ。小さな体が震えるのを見守る人々はごくりと唾を飲み込む。
夏季の前の乾いた地面は、何の前触れもなくばこっと大きな音を立てて開いた。その音を聞いた人々は短い悲鳴を上げたり、その場で飛び上がった。子どもが泣いている。続いて、深い地の底から低い音が響く。外に出たい何かが乱暴にもがく音。ごごごという野太い地鳴りと共に土を突き上げ、さわやかな空気の中に水しぶきをまき散らした。直径十メートルほどもある、水柱だ。

「龍だ!」

群衆の中の、誰かが叫ぶ。あまりの大きさに見とれる倫にも、それは確かに龍と映った。長さ百メートルはあるだろうか、地面の穴から推測すると直径は約五メートル、鱗に覆われた体はまさに龍である。しかし、頭部と思われる部分はただ先に向かって細まっているだけで、龍というにはあまりにも凹凸がなく、つるりとしていた。うなぎのようなぬるぬるした細長い魚のよう。きっと成長途中なのだろうと、倫は思った。
青空を背景にしてもがき苦しむようにくねくねとうねる。細長い体がしゅるんしゅるんと竜巻に巻き付き、龍は大きく口を開けると、炎に噛みついて粉々にした。豪快な攻撃に、街の住人たちから歓声と悲鳴が半々で上がる。龍の口の中からシューッと蒸気が上がり、もうもうと湯気が上がっている。
水の龍は、一つの獲物を完全にとらえて消滅させた。後に残るのは大気に漂う水蒸気だけである。しかし、残りの三つの渦巻く炎は成長を続けながら街を進んでいる。夏季はすでにへとへとになっていた。旅の疲労も重なっている。体に力が残っていない。膝が揺れ始めた夏季を見て、ハリルが叫んだ。
「夏季、ふんばってくれ! あと三匹……三匹もいるのかよ!……まあとにかく、残りを殺れば、君はセボの救世主だ!」
「か、かんたんに言いやがって……」
あまりの仕打ちに男言葉になった。母親の癖でもあり、しばしば周囲の人間をぎょっとさせる。正直なところ、夏季には救世主などどうでもいい。セボへ帰る旅の間中、一刻も早く自分の部屋に帰って深い眠りにつくことで頭がいっぱいだったからだ。

(雨でも降ってくれればちょうどいいのに……)

そうだ、と、夏季は村の大雨を思い出した。

(後になって、一週間太陽が出ないとか文句言うヤツがいたら、この力で溺れさせてやる)

夏季はヤケ気味で、素早く決心した。もう体力の限界だ。最後に一度、力を絞り出すことにして、震える膝で無理矢理地面を踏みしめた。目をぎゅっとつむり、両手は頭を抱えるような恰好、やや前屈みになった。その方が気持ちに活を入れやすかったし、集中できると思った。

「昇れ!!」

頭で強く念じる願いが、言葉となって夏季の口から発せられた。それはまるで拡声器を使ったかのように、広範囲の人々の耳に入った。

水の龍はうねることを止め、雲の間で静止した。それを見た者は、動きを止めたのが、この龍だけではないような気がした。全ての物が時を止めたのかのように静まり返った。龍はゆっくりと大きな口を閉じ、天を見上げた。もっとも、それに目があれば間違いなくそういうポーズになるだろうと、仮定してのことだ。しかし、誰が見ても、未熟な龍は天を見上げていた。
そして鳴いた。甲高く。
「昇って」
夏季は汗まみれの顔を龍に向けてつぶやいた。水の龍が空の水色に飲み込まれていく。空は逆さにした湖となった。藍色の水面に頭から長い胴体、そして尻尾が吸われると、次々と波紋が織られる。誰も喋らない。何もかもが、恐ろしい竜巻さえも、とても静かだった。

奇跡のように美しい空はすぐに厚い雲で覆われ、雷鳴を伴って大雨が降り注いだ。 夏季たちは雨粒を避けるため、一軒の酒場に避難した。哲はハリルの合図にならって何度も何度も、深い呼吸を繰り返している。建物の外では、大粒の雨が炎を掻き消す間に、哲が起こした竜巻も少しずつ小さくなっていった。
俊はカウンター席で水の入ったグラスを前に、椅子の上で膝を抱えている。片隅の薄暗いテーブルでは、倫が頬杖をついて、真剣な表情で何かを考えている様子だ。
夏季は、ソファの上で毛布にくるまり、寝息を立てていた。夢のない深い眠りで、ハリルに背負われて城に向かうときも、一度も目を覚まさなかった。

目次 HOME