目次 HOME

水の龍・中編

第一章/使い

眠れなかった。頭を撫でる冷気と、考えずにはいられない不安のために。

夜の薄闇が残る早朝に目を覚ました夏季は、厚手の毛布の上でぶるっと身震いし、気持ちの悪い気だるさが残る体をゆっくりと起こした。
季節に関係なく、セボの夜は冷える。毛布にくるまってもひやり入り込んでくる冷気は防ぐことができない。焚き火の炎は完全に消えてしまい、わずかな煙が燻っているだけだった。
大きな欠伸を一つ。
眠気に揺れる体を、細くても筋肉質な両足で支え、朝食の準備に取りかかった。

さあ、どうすればいいのかな。

表面が乾いてしまったパンを眺めながら、考えた。
オスロ師士のお墨付きのおかげで、村長にはなんとか信用してもらっている。私だって偽物のレッテルを貼られることはご免だ。少しでも可能性があるのなら、自分の『使い』としての力を信じてみてもいいかもしれない。

その、可能性とは……?

夢。

セボに来て以来絶えることなく続いている不思議な夢。繰り返し見る余り、内容のほとんどを覚えてしまうほどだった。
が、昨夜だけは何かが違った。これまで一度も登場しなかった洞窟の暗い入り口とあの女の声が、奇妙な現実感を呼び覚ます、そのようなことを夢の中で感じたのだ。
壮大な水の龍は夢に違いないけれど、洞窟と女の声だけは、実在する。洞窟は、新たな世界への入り口。女の声は、好奇心への警告。

急におかしさがこみ上げ、夏季は短く笑い声を上げた。
いつか哲が、オスロ師士に向かって、声を荒げ、こう言ったではないか。

<そうやってあんたたちは、不確かなものを頼りにいろいろ決めているのか?>

たった今、その『不確かなもの』に踊らされようとしているのは誰か。
哲の言う通り、オスロたちの言うことは一つとして道理にかなっていない。それの言いなりになるというのはあまりにもくだらない。こんなことで悩まされている自分がバカに思え、行き着く結論は、いっそのことこのままクララの背に乗って城に帰ってしまうことだった……。

背の低い茂みが、かさかさと音を立てた。
考え事に没頭していた夏季は、反射的に顔を上げ、音がした方を見た。

十メートルと離れていない茂みの横に、一人の少年が立っていた。

夏季と少年は顔を見合わせ、しばらくの間、お互いにまばたきを繰り返した。
十歳くらいだろうか、真っ黒な髪を載せた小さな頭に、無邪気そうな丸い目が輝いている。小さくて上向きの鼻が子供らしい。
口を開けて夏季を見つめるその顔は、とんでもないものを発見したというような表情である。

「おはよう。今日もいい天気ね」
夏季は少年に声を掛けた。
「『いい天気だね』って、ここの人たちには言わない方がいいよ」
少年は、はきはきと喋った。
<ここの人たち>とは、村人たちのことに違いなかった。
「どうして?」と夏季。
「この日照りのおかげで、みんな苦労してるんだ。水が無いから」
「……ああ、そうだったね。ごめんね」
口では謝ったが、心から悪びれる、というわけではない。ころころと変わる村人の態度に、多少は傷ついているからだ。
「ねえ、ねえ」少年は好奇心を隠せないという様子で、三歩、前に出た。
「なあに?」
「お姉さんが、『水使い』なの?」

夏季はため息をついた。

「知らないよ。みんなが勝手に騒いでるだけ」
「お兄ちゃんが言ってたんだ、昨日、セボの城から『水使い』がやって来て、実はそれが偽物だと分かったんだって」
少年は顔を輝かせたまま、言った。
大人たちが否定しても、『手の平から噴水をひょいと出す』はずの魔法使いへの憧れを捨てきれないのだろうと、夏季は思った。
「そう、あたしは偽物。お兄ちゃんたちが正しいよ。これから荷物をまとめて帰ろうかと考えていたところ」
夏季は、背中まで伸びた長い後ろ髪を、高い位置で一つに結い上げた。
「見せてよ。噴水!」
少年が熱心に続けるので、夏季は困惑し、少年の顔をまじまじと見つめた。
「だから、あたし『水使い』じゃないから」
「ばあちゃんが言ってた。あれは本物に違いないって。隠しているんでしょ?」
「あなたのおばあちゃん、何歳?」
「今年で九十五歳」
少年は笑顔で答える。目の前にいる夏季とただ話すことが、うれしくてたまらないようだ。
「ふうん……」
「ばあちゃん、いろんなお話を聞かせてくれるんだ。『水使い』の話だってばあちゃんが教えてくれた」
少年はもはや、夏季の目の前にしゃがみ込んでいる。
そんな無我夢中で話す少年の姿を見て、夏季は思う。それがおとぎ話なら、なおさら信用できないのに。どうして子供のときってこう、現実離れした話ほど、信じてしまうのだろう。

火をおこそうとマッチを擦るが、木片の先が湿気を含んだのか、なかなか火を噴かない。
少年は構わず喋り続けている。
「昨日言ってたんだけど、ばあちゃんね、昔、お姉さんにそっくりな『使い』を見たことがあるんだって」

夏季は、マッチを擦る手を止めた。
そっくりな『使い』……?

「いつ、どこで?」夏季は少年への興味を取り戻した。
「知らない」話し相手が顔を上げたので、少年は大喜び。
「どれくらいそっくりなの?」
「うち二つ分だって言ってた!」
「それは、ウリ二つって言うんじゃないかな」
夏季は、間違いを指摘しながら考えた。
ウリ二つ。男だろうか、女だろうか。
少しずつ、パズルのピースがつながっていく……? 一度捨てたはずの考えは、夏季の中で再びその可能性を大きくしていった。

その昔セボにいたのは、お父さんか、お母さんか。

「ねえ、私、おばあちゃんと会ってもいいかなあ?」
「いいよ。うちにおいでよ!」
少年は、大歓迎とばかりに飛び上がった。

「どう思う?」
オスロ師士は、答えを求めた。

ハリル副隊長は、ヒゲを剃る手を止めて、目線だけ軍師の方に向けて言った。
「どう思うって……。でも、やるしかないんでしょう。夏季ちゃんが。正規の『水使い』は彼女でないといけないんだから」
宿舎の洗面所で、二人は洗顔の最中だった。
オスロは手に持った柔らかい布で、皺の深い顔から水分を拭き取っている。
「その通り。他の三人に比べて少々難があることは事実だ。しかし、彼女にこれを乗り越えてもらわないと、我々の駒も進めることができない」
「夢占いの話ですか?」
ハリルは目線を鏡に戻し、慎重にカミソリの刃を動かした。
「ああ。既に決まっていることの一つ」
オスロは噛み締めるように、ゆっくりと言った。
「夢が勝手に決めるなんて、当事者にしてみれば、参る話ですよ。ある日突然、『君はこの国を救う戦士だ』なんて言われちゃあね。大迷惑だ。俺は無関係で、本当によかったと思います」
ハリルの唸るような口調に、オスロは短く笑った。
「無関係なんてことはないだろう。セボにいる者は全員、魔法の支配下にあると言えるさ」
「ふーむ。まあ、否定はしませんよ」ハリルは上の空で言った。
「それに、君も戦うための力をしっかりと持っている。私はそれをよく知っているぞ」
オスロが熱意を込めて言ったが、ハリルは鼻で笑い、受け流した。
「しかし、どうしてこんなややこしいことになっちまったのか……俺にはさっぱり分からない」
「始まりを突き詰めれば、キリがないさ」
オスロは、分かりきったことじゃないかと言うように、肩をすくめた。

「ところで。次、隊長が戻るのはいつですかね?」
「あと二、三日は戻らないだろう。なぜだね」
「あいつがいるのといないのとで、タイムテーブルの組み方が変わるんですよ」
「女遊びもほどほどにしないと、身を滅ぼすぞ」
軍師が咎めるように言った。
「何言ってんですか」ハリルが笑ったが、次の言葉で急に声を落とした。「スパイ活動のことです」
「カルーと、その一味か?」オスロもハリルに合わせて、秘密めいた口調になった。
「ええ、ええ。そいつらです。七周期も前に、隊長にザコは放っておけと言われましたけどね、どうにも臭いんで続けているんですよ。逃亡兵もやつらの周りから出てますからね。怪しいものには目をつけておくべきでしょう」
「疑うべきは罰せず、という言葉もある。シエにも何か考えがあるのではないかね」
「シエとは考えが合わない。俺は俺のやり方でやります」
ハリルは顔を拭くと、大きく伸びをして背骨を鳴らしながら、洗面所を去った。

「やれやれ。チームワークは一生の課題だな」
オスロはハリルの広い背中を見やって、言った。

「ねえ。ちょっと思うんだけど、私なんかが勝手に家に入ったら、まずいんじゃない?」
「大丈夫だよ。みんな仕事しに行ってるから」

少年の熱い視線に見守られながらおいしくない朝食を済ませた後、夏季は少年の案内で、彼の家に向かった。
少年の家は村の中でも外れにあり、昨夜夏季が野営地とした場所に近かった。 真四角の小さな建物の中は四つの部屋に区切られ、それきりである。そのシンプルな作りには、少年の一家の、決して裕福ではない暮らしぶりが表れている。建物の土壁にはあちらこちらに継ぎがあてられ、玄関には村長宅と同じような簾が掛かっているが、大きな穴が三つ、四つ空いていた。
他の家族は皆出払っているようで、森に住む小鳥の鳴く声が聞こえるほどの静けさ。夏季、テラ少年、彼の祖母以外に、人の気配はなかった。

一番奥の部屋に、銅像のようにじっと動かず座っている老婆の姿があった。それを一目見たときに、夏季は彼女の年齢を聞いて心配になったことが、的中したものと確信した。

「おばあちゃん、おばあちゃん。『水使い』のお姉さんだよ!」
少年が叫ぶ。
「あぁ? なんだね」
老婆も負けじと叫び返す。
「み・ず・つ・か・い・の、お・ね・え・さ・ん・だ・よ」
少年の声は大きくなる一方。
「水使いなんぞぇ、いつの日か消えたまんまじゃ」
声がしゃがれるほどに叫び合う二人は、まるでケンカをしているようだ。
「昨日言ってたでしょ、このお姉さんが本物だって」
「聞こえんわぃ!」
「ほっ、んっ、もっ、のっ、の、み・ず・つ・か・い」

テラという名の少年の祖母は、大変な難聴で、その上、夏季が見た限りではボケがすすんでいる。二十分前から会話は進まず行ったり来たり、意思疎通が成立するまでには日が暮れてしまいそうだった。
その上、必要以上に騒々しい。夏季は、この問答を聞きつけて誰かが跳んで来やしないかと気が気でなかったが、テラの家ではこれが日常茶飯事で、ご近所もきっと慣れっこなのだということにやがて気付いた。

誰か惚けていない大人が民家に夏季の姿を見つければ、いい顔をしないだろうことは分かっていて不安は消えない。しかし、追いかけられるハメになっても、クララさえいれば逃げ出せばいいし、それが出来る自信があった。
既に村民からの信頼を失い、宿は奪われた。今このとき失うものは特にない。夏季は開き直り、たっぷり時間を掛けて老婆の話に耳を傾ける覚悟である。こうなったら、どうにでもなれだ。

「おや……。かわいい娘っこがおるやないの……」
いつ終わるか知れない支離滅裂な会話の最中、突然、開いているのか分からないほど細められていた老婆の目は、夏季を捉え、見開かれた。
「だから、ばあちゃん、この人が……」
「わしゃ、知っとる。知っとるぞ。この顔を」
老婆はうわ言のようにつぶやいた。
「ほ、ほらね。言ったでしょ、お姉ちゃん」
テラは勝ち誇ったように、胸を張って見せた。

夏季は正座していた一人用の敷物から立ち上がり、テラの祖母の隣りに立て膝をつくと、その耳に直接話しかけた。
「はじめまして、おばあちゃん。夏季といいます」
「なつき……」
よく聴き取れるらしく、老婆は頷きながら反復した。夏季は引き続き、耳元でゆっくりと囁いた。
「聞きたいことがあるんです」
夏季が囁く。
「なんぞ」
老婆はめいっぱいの大声で話す。
「私が『水使い』かどうかは分からないけれど、おばあちゃんは昔、私にそっくりな『使い』を見た事があると、テラ君から聞きました」
「うー……む」
「それは、いつのことですか?」
「わたしがな、まだ水馬を引いて歩いとったころじゃ」
夏季は助けを求めるように、テラ少年の方を見た。
「水馬ってなに?」
「水を運ぶ馬のこと。村の端っこにある井戸から、くみ上げた水を村に運ぶんだ。うちの人たちの仕事。今はやることがないから、いろいろな家の仕事の手伝いに行ってるけどね」少年の輝く笑顔は、だんだん苦笑いに変わっていった。「ばあちゃんも、僕が生まれるちょっと前まで、水馬引きをやってたんだよ」
夏季はテラに向かって一度頷くと、問答を再開した。

「その『使い』ですけど、女の子でしたか? それとも男の人でしたか?」
老婆は、うーんと唸って、考え込んだ。
「……おなごじゃった」
「女の子?」
「そう、おなごじゃ」

それは果たして、自分の母親だろうか。知りたいけれど、どうやって確かめればいいのだろう?

「待て、おとこじゃった」
老婆は再び口を開いた。
「男の子ですか?」
夏季は驚き、聞き返した。
「うむ!」
老婆の口調は、確信に満ちている。

私にそっくりな男の子。父親のことだろうか。

「やっぱり、おなごじゃ」と老婆。

……どっち?

「テラ、何やってんだ」

突然の低い声に、夏季はハッとして、玄関の方を見た。
そこには、一人の青年が立っていた。がっしりとした胴体に、筋肉質な腕。頭には農作業用のものと思われる、土だらけの麦わら帽子をかぶっている。

「お帰り、兄ちゃん」
テラは、緊張した面持ちで言った。
「誰だ、そいつは?」青年はぶっきらぼうに言って、夏季を指差した。
「『水使い』の夏季さんだよ」
「お前バカか。昨日、偽物って教えてやっただろう。ばあちゃんのアホな妄想を信じているんだな。詐欺師を家に入れるなんてどうかしてるぞ」
「バカじゃない、アホじゃない! ばあちゃんが本物って言ってるんだから、間違いないよ」
「もう十一歳なのに、夢と現実の区別もつかないのか? 兄ちゃんとして恥ずかしい」青年は、みるみる赤くなるテラの顔を見て、あざ笑った。

「お邪魔しました」
面倒なことになりそうだと思い、夏季は部屋を出て行こうとした。

「待てよ。勝手に人の家に上がり込んでおいて、それはないだろう」
「夏季さんは『水使い』で、僕が招待したんだ」
「偽物ってことで、昨日決着が着いたんだ。まだ、セボの遣いかどうかも分からないんだぞ。詐欺師の可能性だってあるんだ。そんなやつを自分の家に入れて喜ぶやつは、この世でお前だけだろう」

少年の頬は不機嫌にぶうっと膨れ、目は年の離れた兄をしっかりと睨みつけている。
「もしもこの人が本物の『水使い』だったら、お兄ちゃんたちはお城の偉い人たちになんて言われるだろうね」
「はっ。そうかい。どうしても信じたいんだな、愚かな弟くん。三日以内に『水使い』の証拠が出なかったら、そいつには村を出て行ってもらう。これでどうだ? お前が気の済むまで、手品の手伝いをしてやればいい」
話が勝手に進められる間、夏季はひたすら逃げ出したい思いだった。

帰りたい、帰りたい、帰りたい。心地の良いベッドとおいしい食事……そして、会って間もないが、紛れもない仲間たち……。

老婆の目の前に置かれた木の椀には飲み水が入っていたが、その水面が急に震え出し、細かく波打った。
夏季が異変に気付くのは、テラの悲鳴を聞いてからである。
椀の水から勢い良く水鉄砲が飛び出し、少年の小さな顔に命中した。
「うわっ!」と叫んだテラは顔から水のしずくを滴らせ、目をぱちくりさせて兄の顔を見上げた。
「兄ちゃん、何するんだよお!」
「俺は何もやってない」テラの兄はびっくりして言った。動揺を隠せない様子で、水鉄砲の発射された椀を見つめている。

「兄ちゃん、どうしたの? 何なの?」
「さあ……こんなの、あるわけない。」

狼狽する兄弟には気も留めずに、夏季は椀の前に進み出て、水面をじっと見つめた。 老婆は穏やかな表情で夏季を見守っている。
水面にはそれを見下ろす夏季自身の顔が映し出され、なぜか立つ波に像はゆがみ、とても不細工に見える。室内には風もない。かといって、床の振動が原因で起こるにしては、その波はゆったりと大きすぎた。
まるで水が生きているよう。
最初からそうするように定められていたかのように、夏季は右手を椀の水に浸した。鋭い冷たさは一瞬で、しだいに肌に馴染んで同化しそうだった。

テラ、兄、老婆の目線は夏季と椀に集中していた。
夏季が感じた水との一体感は、見守る側にとってはわかりにくい変化であっただろう。この世の終わりを待っているような、息の詰まるような沈黙が続いたが、やがて、テラの兄が口を開いた。
「何をするかと思えば。思わせぶりな行動で、びっくりさせないでほしいもんだな」テラの兄は鼻で笑った。
「夏季さんは、水使いなんだよ」テラが静かに言う。
「……いい加減にしろ」兄はうんざりしたように、怒りすら感じさせる口調で唸った。「おい、あんた。いつまでそこでぼーっとしてるつもりだ。聞いたな? 三日以内に『水使い』つぅことを証明できなかったら、村から追放するように、今夜の寄り合いで話し合うからな。覚悟しとけ」

木の椀に手を入れたままじっとしていた夏季は、ゆっくりと顔を上げた。
額が微かに汗ばんでいるのが見て取れる。姿勢は前屈みのまま、目線はテラの兄に向けている。
しかし、その眼はどこか遠く、兄の頭の向こう側を見つめているようで、心ここにあらずといった様子である。

「わかりました」
夏季の口からこぼれた声は思った以上に大人びていて、夢うつつの奇妙な目線と相まって、見る者に不安な心地を与えた。

夏季はテラの家を後にしてから、一つの希望に胸を燃え上がらせていた。
父さんに、会えるかもしれない。
熱に浮かされたように、そのことだけが頭を巡った。

目次 HOME