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風の子

第一章/使い

まだ暗さの残る早朝、哲は飛び起きた。
夢の中で、風に煽られながら気持ちよく空を飛んでいたのに、急に浮遊感が消え失せ、地面に向かって真っ逆さまに落ちてしまった。地面にぶつかる前に堅めのベッドの上で目覚めてもなお、落ちていく感覚を忘れられずにいた。
同じ夢が続くこと自体どうかしていると哲は思っていたが、毎晩続いて飽き始めていた幸せ心地の夢に、今朝になって恐ろしいオチがついた。何かを予見しているようなら洒落にならない。
不吉だった。

二度寝を試みたが、何度寝返りを打っても寝付けないので、まだ時間が早いと知りながら、支度を済ませ、こうして外に出てきたのだ。
真夏の鋭い日差しのおかげで、気温はぐんぐん上昇した。セボの気候は雨を知らないに違いないと、哲は思った。

空気が暖まるにつれて次第に兵士たちがぱらぱらと集まり始める。その中には引き締まった顔つきのラートン隊長もいた。誰とも話さずに腕を組み、じっと動かないでいる彼は、兵隊が集まるのを待っているというより、耐えているという風だった。
これまでの訓練のうちで哲は、訓練の度、荒れ地にラートン隊長が仁王立ちする光景が不自然であることに気づいた。隊長よりはるかに年上の部下たちは、同じ階級の若者たちとお喋りをしている。それなのに、十六歳の哲を勘定に入れなければ、兵隊の中で最年少といえるだろうラートンは、誰とも話さずに隊長の任を全うしようとしている。
人の上に立つために独り黙っているには、彼の容姿は若すぎた。訓練中は人を寄せ付けない威厳を持ち、一日の日程を終えて城に戻るときは、若い兵隊たちの中に混じりながらも誰とも言葉を交わさず黙々と歩く。

それに比べて副隊長のハリルは対照的で、そろそろいい年なのにも拘らず、無精ヒゲを撫でつつ帽子をもてあそびながら、平気で若者の間に入っていく。そんな気取らない性格が若い兵隊たちから慕われている。それに加え、時間に対するルーズさは一級品で、遅れて到着するハリルに向かって、ラートン隊長が睨みをきかせるのもお決まりだった。
シエ・ラートンならば、階級が下である副隊長にだって鞭を振るいそうなものだ。しかし哲はこれまでのところ、残念ながらそのような場面を見られないでいる。

実は、隊長が腕組みして孤独でいることや、副隊長が遅れて隊長に睨まれることなど、今の哲にとってはどうでもよかった。
気になるのは、何度グラウンドを探しても、夏季と俊の姿が見当たらないことである。

「すみません、俊はどこですか?」
哲はエラという名の、アレモの仲間の一人に声を掛けた。
「ああ、『使い』の兄ちゃんな。前の晩の酒気が抜けなくて、出られそうにないとか。アレモとイルタもそんな状態らしいけど、いいのかねえ、そんな理由で三人休んじまって。俺だったら、頭痛だろうが腹痛だろうが、何が何でも欠席したくないね。隊長の怒りを思うと……な、そうだろう、てっちゃん?」
「ええ、そのとおりです」すでに隊長の鞭を受けている哲は、迷うことなくエラの意見に同意できた。
「てっちゃん」という呼び方に少し寒気を覚えたが、相手が俊であったら露骨に嫌がるところを、相手はそれほど言葉を交わしたことがない兵隊なので、気付かないものとして聞き流した。

三人が静養日に飲みに行くという話をちらと聞いていたため、俊についてはエラの話で合点がいった。しかし、夏季は昨晩哲と夕食を取り、その後宿舎に戻ったはずだった。
いや、別れたのは食堂だったから、その後どこかへ行ったのかも? それにしても、日付が変わって姿が見えないというのはどういうことだろう。
夏季の行方について何か知らないか聞くために、女兵士に話しかけようかとも思った。が、もたもたして決心できないでいるうちに、副隊長が到着してしまった。
彼の到着で訓練が始まるという規則は無いはずだが、いつの間にかそんな目安が出来てしまったのである。

一人で訓練を受けるのは初めてのことだった。
訓練にはだいぶ慣れ、段取りも分かっているため怖じ気づくことはないが、やはり親しいと感じる者が一人もいないとなると、少々心細い。俊はいけ好かないやつだが、いなくなってみると、その存在は大きかった。自分よりも二十センチほど背の高い男たちに囲まれて、胸の内に少し早い鼓動を感じながら、哲は列に並び、ラートンとハリルの指示を聞いた。

偵察業務のため、オスロ師士はいないとのことだった。

隊長は、哲から見てかなり遠くにいるグループから剣の指導を開始した。
直接指導までにはかなりの時間がありそうだった。ふだんは夏季を相手に剣を振っているので、仕方なくペア作りに余った兵士が集まるグループに加わることにした。
余り物たちは二手に分かれ、地面に白線で描かれた円の外に並んで順番を待つ。一組目は小男と太鼓腹の大男のコンビとなった。当然のように体の小さな男が円の外に弾き出され、ほんの数秒で勝負がついた。小男は剣ではなく腹に弾かれたのだと主張したが、後ろに並ぶ金髪の若い兵士に急かされて、しぶしぶ列の最後尾に移動した。
二組目は金髪の兵士と逞しい女兵士で、十秒間ほど激しい打ち合いをした後に、礼をして円の外に出た。あまり勝負が長続きすると、隊長の直接指導までにバテてしまう。体力温存のため、力加減するのだ。
さらに三組が続いた後に、哲の順番が回って来た。
円を挟んで立っている対戦者は、縦にも横にも哲の1.5倍ありそうな大男である。

哲の気持ちは落ち込んだ。相手はカルーだった。

「おやおや、おちびのてっちゃん。ご機嫌いかが?」
カルーは肩に剣を担ぎ、不揃いな黄色い歯を見せて笑っていた。
「三秒前までは、そこそこよかったんだけどな」
哲は無表情で答えながら、右手の剣を握りしめた。
「今日はおともだちがいなくて寂しいんじゃないかと思ってね。相手をしに来てあげたわ」カルーは目をパチパチさせながら言った。夏季のことを言っているのだろうか。なんにしても悪趣味な女の真似だと、哲は思い、何も言い返さなかった。
「君はあのでかい方と違ってクールだな。やつはゆうべも犬みたいに飛びかかってきたぜ」
哲はここで初めて、カルーの目をまっすぐ見た。
「へへ、やっぱり気になるんだな、おともだちのことが」
カルーは哲の反応を楽しんでいる。
「別にそういうわけじゃあ……」哲はもごもごと言った。
「なら、もう1人の、チビはどうだ。今日、姿が見えなくて、心配なんだろう」

哲は、血の気が引いた。
今朝、夏季が現れなかったことは、こいつのせいだったのか? だとしたら、夏季に何があったのだろう?
不意打ちはカルーの十八番である。もしも昨夜、食堂で別れた後に夏季がカルーと遭遇していたら……。夏季の華奢な体を思い出し、哲は目の前にいる大男に捻り潰されてもおかしくないと思った。
「昨日の晩、夏季に会ったのか?」哲は出来る限り、動揺を隠そうと努めた。
「チビの『使い』はそんな名前だったのか。ああ、そんな名前だったかもしれない。昨日の晩、夏季に会ったかだって? 俺が誰と会おうが俺の勝手だ。そうだろう? 君がそれを知ってどうするというんだ……」
カルーの顔にはりついた笑みはどんどん広がり、奥歯まで見えた。それらも胸が悪くなるような汚い黄色をしていた。
「何か知っているなら、教えてくれ」
「教えて欲しかったら、勝負しろ。この間の決着をつけたいしな。……いや、剣のことだけじゃあない。ヘタレ軍師の女の店で食い物をぶつけられたお礼も、まだだった。それも併せて、たっぷりかわいがってやるよ」
カルーは憎しみを込めた目で、哲に眼光を放った。ヘラヘラしている彼からは想像もつかないような鋭さに、哲は参りそうになったが、努力して持ちこたえ、目を逸らさなかった。

カルーが咽の奥から絞り出すように、野太い雄叫びを上げ、剣を振り上げた。
その声に不意を突かれた哲は、剣を構えるのに一歩出遅れた。
しまった、と思った瞬間に、カルーが剣を振り下ろす。
猛スピードの剣は、哲の剣にぶち当たる直前で速度が落とされ、二本の剣は互角であるかのように歯を擦り合わせた。
剣が交わり、二人の顔は接近していく。
「てっちゃん。そんな、いきなりぶっつぶすワケないじゃないか。もっとゆっくり、勝負しような」
不気味なほど優しい声音で囁かれ、哲は全身の毛が全て逆立つのを感じ、円の外に飛び退いた。
「おやおや、逃げたって無駄だよ。これは訓練じゃあない。血を流して戦う決闘だ」
カルーはとぼけた顔をしているが、目には危険な光を宿している。
逃れられないのだ。周囲の兵隊たちは見物を始めている。誰か助けてくれればいいのにと、哲は思っただろうか。いや、彼はそう思わなかった。彼は分かっていた。
ここは平和なセボの国である。兵士たちは毎日退屈して、飢えているのだ。こんなに「おもしろいこと」は滅多に起こらない。仲間以外からは皆に疎まれているカルーと、つい最近“ここ”へ来たばかりの身元の知れない少年の勝負。これは恰好の見せ物だった。

「隊長、今度はあんたも監督しているから、後で鞭打つこたあできないぜ」
「口実なんて、どうにでもなるさ」
「……容赦ねえな。あくまでも、お仕置きかい」
「冗談だ。今日はお手並み拝見といこう」
ラートンが無表情に言った。
ハリルはてっきり隊長がすぐにでも止めに入るものと思ったが、意に反して彼は見物を決め込んだ。
常は逆の立場である。ハリルは軽いケンカなどは見過ごし、野次馬に混じって見学するが、ラートンは少しでも列が乱れると「原因」を引っ張り出し、容赦なく罰を与えて見せしめる。
今回の場合、ハリルは対戦の組み合わせがあまりにも悪く、楽しい見物向きではないと思った。
「そんなこと言ったってな。カルーは豪剣を使うぞ。あんなガキ、すぐに吹っ飛ばしちまうよ」
ハリルが落ち着かなげに言った。
「私だって彼の剣は知っているし、あの少年に剣の実力を期待してはいない」
ラートンは大した抑揚も付けずに言った。
ハリルが顔をしかめる。
「じゃあ、なんだ。あんたは剣のほかに、何を見るっていうんだ」
「分かっているだろう。『使い』としての力だ」

ハリルは深刻な顔で、ラートンの横顔を見つめた。
「あんた、窮地に追い込んで、無理矢理引き出す気だな? 下手したらそうなる前に死ぬぞ」
「オスロ師士と相談した結果だ。二人は送り出した。残った二人はどうにかして舞台を作る」
ラートンはハリルに顔を向けないまま、言った。
「舞台、ねえ……。てっちゃんにしてみれば、余計なお世話だと思うがな。見ろよあの顔。恐怖で引きつってるぜ」

哲は四回目の攻撃をかろうじて受け止めた。
攻撃の数は少ない。が、その一回はとてつもなく重かった。カルーは体が大きい分、動きは遅くなるが、力は哲の何倍もあった。受け止めるのに精一杯で、手が出せない。

「あんな大振りの剣、避けちまえばいいのに」
ハリルが口を手で覆いながら言った。
「彼は剣を扱い始めたばかりで、経験がない。何もできなくて当然だよ。考えることさえ出来ないだろう……力が尽きるのも時間の問題だ」
ラートンは腕を組んだままの姿勢で、水槽の生物を観察するかのように、冷静に見物している。

哲はカルーの豪剣をさらに二回受け止め、手を痺れさせてうめいた。
再び重い一撃の後、カルーは間髪入れずにさらに一撃を繰り出し、哲に構える暇を与えなかった。

哲があっと叫んだ瞬間、手中にあったはずの剣が、プロペラのようにくるくる回りながら宙を舞った。

「正直者の相手は大変だ。なんでか分かるか」
カルーが額から汗を滴らせ、浅く息をしながら言った。
哲は乾いた地面に座り込み、肩で息をしながら、カルーの顔を見上げた。太陽の逆光に目がくらんだが、目を大きく見開き、黄色い歯をむき出して笑っているのが分かる。
「バカ正直に攻撃を受け止めるからだよ。背中を見せて逃げればいいのにな。そうしたら、ひと思いに背中を斬りつけてあの世に送ってやって、はい終了」
カルーは剣を持つこぶしで、額に流れる汗を払った。哲は目に流れ込む汗を瞬きで払おうとした。
「騙し合いを知らない素直なヤツだな。世間知らずのぼくちゃん」

哲が立ち上がり、顔を伏せたままで、言った。

「俺は、あんたが大嫌いだ」

「そんなにはっきり言わなくても、分かるよ」

カルーはくっくっと笑った。

「俊も嫌いだけど、あんたほどじゃない。今、俺がこの世の中で一番嫌いなのは、あんただ」

「それはそれは。ありがたいお言葉だねえ」

「反吐が出る」

哲は顔を上げた。

彼の足元に一つ、小さな木枯しが起きた。
夏の空気を飲み込んで、むわっとした空気を哲の頬に巻き上げる。
小さな木枯しはだんだんと哲の元を離れ、砂を巻き込みながら大きくなっていった。
カルーを含め、人々は目で追った。この夏場に木枯しである。乾燥したセボの気候でも、この季節では見られない。なぜ今、発生したのか、なぜここでそれが生まれなければならないのか。それを見つめる人々は皆一様に、はてと首を傾げた。

直径五十センチほどになったところで、木枯しが爆発した。
強烈な突風に兵士たちが悲鳴を上げる。巨体の持ち主であるカルーがよろめくほどの勢いである。

「おま……何……した」

カルーのくぐもった叫び声で初めて、哲は周囲の荒廃を確認した。強風が吹きすさび、大勢の兵隊たちがもみくちゃになっている。
数秒間、哲の頭の中は無風状態でからっぽだった。それが、気付いてみれば暴風の大音響で誰の声も聞こえない。兵隊たちが何事か叫んでいるのは、音声がなくても分かった。誰も彼も、よろよろ、転んだり、捕まりあったりしている。
哲だけが暴風を感じず、しっかりと地面に足をつけていた。哲は、ひとり傍観者の役を負ってしまったような、奇妙な心地がした。

この嵐の中、カルー・ネベロは意地でも立ち向かおうとしていた。
剣を握りしめ、しっかりと構え、哲ににじり寄っていく。
次第に近づいてくるカルーを発見した哲は、手元に剣がないことに気付いた。万事休す。急激な嵐に救われたものの、これではやられてしまう。
哲は降参の合図に、カルーに向かって両手を上げた。それも、勢いよく。

哲のこの動作と同時に、カルーに向かって突風のかたまりのようなものが突進し、彼の腹に当たった。カルーはうっと呻き、その巨体を後方に吹っ飛ばされた。
願ってもいない攻撃を見て、哲は気付いた。

俺は今、風を起こしている。

この結集された風の反撃の間だけ、一瞬嵐が止んだが、カルーが地面に叩き付けられた直後、また暴風が吹き荒れた。
哲は人々が感じる風の抵抗をものともせず、倒れたカルーに近づき、彼に覆い被さるようにして立った。

「夏季はどこだ? 言えよ」
哲は、風の音に負けじと声を張り上げた。
「知らねえ」
カルーは虚ろな目で答えた。
「約束は守んないとな。言う約束だろう」
「知らねえ……」

「てっちゃん、落ち着け!」
嵐が吹きすさぶごうごうという音の中で、ハリルの声が耳に届いた。
(てっちゃんて誰だ?)
三回ほど呼ばれてから、それが自分であることに気付いた。
「てっちゃん、もういいから、落ち着くんだ。深呼吸しろ!」
哲は言われるままに、息を深く吸って、長々と吐き出した。
すると、速まっていた動悸がおさまり、自分がかなり興奮していたことに気付いた。 哲の気分の高まりが静まると同時に、強風もそよ風に変わっていく。

「……風の子だ」
群衆のどこかで、年配と思われる誰かが囁き声で言った。
「また、風の子が現れた。パパス以来の『風使い』だ……」
「彼は『使い』なんだ」
「『風使い』!」

哲は、そよ風に煽られて、空を飛んでいる気分だった。
いや、哲だけではない。強風に必死で抵抗した後、人々は足元がふらふらとして、まるで宙に浮いているような気分にとらわれた。
まるで、夢心地だった……。

「おい、起きろ」
ハリルがカルーの制服の襟を掴んで、上半身を起こした。カルーはのどの奥で、カエルの鳴き声のような音を出した。
「自分の名前を言ってみろ」
意識の完全な回復を待たずに、ハリルが言った。
「カルー、ネベロ」
目がうつろな男は、回らない舌で答えた。
「俺の名前が言えるか?」
「ひねくれ者の、ハリル副隊長であります……」
「フン。ひねくれ者は隊長の方だろうが。ましな頭になったかと期待したけど、残念なこった。グラウンド二十五周。三十週と言いたいところだが、『風使い』を目覚めさせた褒美として、五周は免除してやるよ」
ハリルは掴んでいた襟を放した。カルーの上半身が安定せずにゆらゆらと揺れる。

「君は罰則反対派じゃなかったのか?」
すぐ側に立っている、ラートンが言った。
「こいつは前から気に入らないんだ」
「君は私よりタチが悪い。私はひいき目を使わないからな」
ラートンは微かな笑みを見せた。
「どうだか」ハリルは肩をすくめた。

ラートン隊長はふらつくカルーの目の前にひざまずいて、彼の目をまっすぐ見つめた。カルーの目はぼんやりとしていたが、敵に噛みつきたいオオカミのような、憎しみの色を宿していた。
ラートンが言った。
「『正直者の相手は大変だ』と抜かしたな。私もまったく同意するが、そう思う理由はお前と違う。その理由が、分かるか」
カルーはゆっくりと首を横に振った。
「お前みたいにくよくよと考えず、真っ直ぐに立ち向うからだ。ハリルが止めに入ってよかったな。あのままだったら今頃、お前の腹には風穴が空いていただろうよ。あの小さい『使い』はこれから感情をコントロールできるように成長するから、お前が今日のような危ない目に遭うことはもうないだろう。純朴な者ほど、その怒りは恐ろしい。よく覚えておけ」

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