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倫の旅立ち

第一章/城

「どうしたの?」

夏季は一人、食堂でオレンジ色のスープを飲んでいた。
倫から声を掛けられるのは、セボの国に来て初めてのこと。夏季は、覗き込む彼女の顔を、まじまじと見つめ返した。大きな黒目は少しも揺れずに、夏季の顔を見下ろしている。二人はしばらくの間相手の様子を窺っていたが、倫が再び口を開いた。
「そんな、物珍しそうな顔をしないでよ。あたしがここにいちゃいけないわけ?」
夏季は倫が放つかすかな怒りを感じ取り、首をぶんぶん横に振った。
倫に隊長、怒られてばかり、人の負の感情に敏感になってしまいそうで気が滅入る。今は一人にしてほしかった。
「まあ、無理もないか。ろくにあいさつもしないで、図書館に籠りきりだったし」倫が小さくため息をついた。「それよりその包帯、なんだかすごい傷を負ったみたいね」
夏季の頬には厚いガーゼが当てられ、頭のてっぺんからアゴにかけて包帯をぐるぐると、仰々しく巻かれている。
「……見た目ほど大した怪我じゃないんですけど、病棟に行ったらこんなことに。氷の変わりになる木の皮があるらしくて、このガーゼの下にはその屑が詰め込まれているんです。氷より長持ちするからこっちの方が絶対にいい、ガーゼを貼付けただけだと隙間からぼろぼろ落ちるって、この通り。がっちり固められちゃいました」
夏季は弱々しく笑った。
「訓練で受けた傷?」
「ええ、まあ」
「なら、出なくて正解のようね」
倫はにこりと笑った。
笑うと半月型になる目元、口は右端が上がり気味で、いたずらっぽい表情になる。隊長の冷徹な笑顔とは正反対の、温かみのあるそれは、初めて会った日に怒鳴られたことを思えば予想外のもの。
夏季はつられて笑顔を返したが、顔の筋肉が動き、頬がひりひりと痛んだ。この痛みを感じる度に、頬を打たれた瞬間がよみがえり、落ち込まなければならない。
「ねえ、あの子たちも同じところに包帯巻いてるけど、なんでなの?」
倫が指差す方向には、夏季と同じ位置に大袈裟な包帯を巻いた、哲とイルタがとぼとぼと歩いている。
「実は、」夏季は今日の出来事の一部始終を話して聞かせた。

「隊長、か。噂はちらほら聞いてた。どうも危ないのがいるってね」
倫が言った。
それは今日の出来事のおかげで、夏季は肌で感じられるほどによく分かったつもりだ。倫は考え込むように、口元に手を持っていった。
「危ないか……。でも、思ったんですけど、これが正しいのかもしれない。これまでの訓練があまりにも楽しかった。楽しすぎたんです」これが夏季のような飛び抜けた運動能力を持っている人間だけが言えることだとは、彼女はまったく思い当たらない。「軍隊って本当は、こんなものなのかな、って。規則が厳しくって、破る人には罰が待っている」
「ふーん、そう思うの。あたしはそんなのご免だけどね。無理強いされるのって大嫌い」
「そうですか……」
「なんにしても、話題の隊長さんみたいよ。けっこういろいろな噂があってね。美しい顔に隠された秘密、とか言って。大半は王女に関するくだらないものだけど、やっぱり人の噂聞くのって楽しいよね」
夏季自身、隊長と王女の噂には興味があった。何しろ最近の夏季の不快の原因は、その二人にあるのだから。
敵情視察、なんだかいい気分。
「噂って、そんなのどこで仕入れるんです、あなたずっと図書館にいたのに」
夏季はふと、思ったことを口にした。
「バカにしないでよ、これでもやることはやってるんだから」倫は片方の眉を吊り上げた。
「あ、本の虫さんだ」イルタは倫に、明るく声をかけた。
ウォローといい、倫といい、彼は強気な女性に惹かれるようだと、夏季は思った。
そんな彼とは反対に、哲は後ろの方で怖じ気づいているようだ。今日の訓練の後で人間不信になりそうだと言うのを夏季は聞いたが、彼女自身が自分のことで手一杯、哲を慰める余裕もなかった。
「誰よ、あたしにそんなあだ名をつけたのは」
倫は初対面であるはずのイルタをキッと睨んだ。
「誰だろ。俊だったかな?」イルタは倫の厳しい視線を、無邪気な笑顔でさらりとかわした。
「確かそうだったと思う」夏季が言った。
「やっぱり、あのバカ男」と倫。
「最近俊と何か話しました?」夏季。
「よかれと思ってあの人の間違っているところを指摘したら、勝手に怒ってあたしのことを『根暗女』と命名してくれたわよ。なんだか人のあだ名を考えるのが好きな人ね。お気の毒に、センスはないけど」
倫はそう言うと、おかしそうにクックッと笑った。
「うわー、やっぱり最悪だな、あいつ」後ろの方でもじもじしていた哲も、思わず声を出した。
「やっぱりそういう人なのかな。イルタさんたちも気をつけてよ、たぶんちょっとしたことで爆発しちゃうだろうから」夏季が言った。
「かわいいもんだよ。まだまだ若いみたいだから、大目に見るさ」イルタはそう言って陽気に笑った。イルタも俊も年は変わらないはずなのに、この心の広さの違いはなんなのだろうと、夏季は思った。

倫がこの日、『地獄の訓練』の後で初めてほっとできる話し相手となったのが不思議だったが、そのおかげで少しだけ、親しくなれたのが夏季はうれしかった。きっと哲も同じことを思ったのではないだろうか。

夏季も哲もめげなかった。
ラートン隊長が『使い』をバカにしているのは明らかで、その目つきには不快なものを感じた。しかし、「不登校になったらヤツの思うツボだ」という意見で一致していたので、包帯を巻いた翌日も、その次の日も訓練に出席した。
そんな彼らを見て隊長が鼻で笑っていることを、二人は知らない。
前回の訓練より良くなったのは、グラウンドにオスロ師士の姿があることだった。彼がいるときはラートン隊長の直接の指示が飛ぶことがない。夏季と哲は、再びオスロ不在の訓練の日が訪れないことを願うばかりだった。

食堂で初めてまともな会話を交わして以来、倫の姿はどこにも見当たらなかった。また図書館に籠っているのだろうと夏季は考えていたが、それが間違いであると気付いたのは、数日後のことである。

以前より居心地が悪くなった訓練と頬の疼きに耐え、夏季は静養日を迎えた。
生活用品がまだ不十分だと思った矢先、週末に給料が配給されたので、城下街に買いに行くことにした。一人ということもあり順調に買い物を済ませ、城に帰ったのはちょうど、昼時のことだった。
夏季は城門の前で倫を見かけた。フードを被っているが、ちらちらとのぞくおかっぱの黒髪は見間違えようがない。 倫は、栗毛色の、大きな馬に跨がっている。
「倫さん?」
「あら、こんにちは」
この日も倫は笑顔だった。フードを取って、馬を夏季の横に寄せる。
「その馬は……」
夏季は、倫が乗る、毛並みがつやつやとした茶色の馬を見上げた。かんかん照りの太陽がまぶしくて、目がくらむ。
「ああ、これね。ちょっと散歩に出てくるわ」
倫の格好は、とてもただの散歩とは思えなかった。馬の両横腹には大きな荷物を吊るし、鞍の後ろには小さく丸めた毛布を積んでいる。夏季の心の内を察してか、倫が言った。
「ラートン隊長がね、あたしが兵士の訓練に出ないから、『1週間の入城を禁止する』んですって。荷造りの時間を考えてほしいわよ。急に言われたものだから、おかげでここのところ図書館に行けなくて、こっちはうんざり」
「禁止って、倫さん、城から追い出されたの?」
「1週間だけね。まあ、悪いことをした罰ってところかな」
「……大丈夫ですか?」
「馬のことを言っているなら、いらない心配よ。乗馬は小さい頃にやっていたから」
夏季は確かにそのことも気掛かりだが、他にもいろいろと、あらゆること心配だった。
「私のことよりね、自分たちの心配をしなさいよ」
馬の背にまたがった倫は、夏季をまっすぐ見下ろして言った。
「どういうこと?」思わぬ言葉に、夏季が訊き返す。
「城の中は居心地がいいけど、決して油断してはいけないと思うの」

夏季、哲、俊が朝礼で王女と初めて謁見したあの日。
3人が王女の前まで歩いたあのとき、倫は広間の片隅で、人々の反応をこっそり観察していたのだという。
好奇心から、背伸びをして3人の新参者の姿をよく見ようとする者、深くうなづきながら『使い』がいかに偉大であるかに感じ入っている者、そして、明らかに、決して快く『使い』を迎え入れようとしない者。
この最後の連中が、決して少数ではないと倫は言う。
それを聞いたとき、夏季が真っ先に思い浮かべたのはラートン隊長の、美しくも無表情な顔だった。そして忘れてはならないのは、王女の、品定めをするような不快きわまりない目線である。
「食べ物がおいしいからってぐうたらしてると、今に痛い目を見るんじゃないかしら」
「でも、オスロはいい人よ」
「そうね。あの人は信用できるでしょう。この国を愛してる。国のために『使い』が必要ならば出来る限りのことはしなければ、ってね。でもね、あたしが見た限りでは油断大敵。城に住んでいるのはオスロ師士みたいな人間ばかりではないんだから。そうじゃない? どこから来たとも知れないあたしたちが国のためになるなんて、簡単に信じられる? 自分が『使い』を受け入れる立場だったらどう思うかしら。それにね、『使い』についてはいい噂と悪い噂、両方あるみたい。機会があったらあなたも図書館で『使い』に関する本を読んでみて。この国の歴史、なかなかおもしろいのよ。
行く前にあんたに会えてよかった。みんなによろしく伝えておいて。あと、別にあたしがみんなを嫌いなわけじゃないってことも。本当に、ただ本が好きなの。一度にあんな大量の本を見せつけられちゃ、たまらないでしょ」

倫が一方的に話すのを夏季は黙って聞いていたが、耐えきれなくなって口を開いた。
「ねえ、倫さん。あたしからオスロ師士にお願いするから、馬から降りて。たった一人で城の外に出るなんて危ないよ! 覚えてる? 森で出会ったときのこと。あたしがどんな目に遭ったかを」
倫は少し驚いた顔をした。
「あんた、名前なんだっけ」
「夏季です」
「いいね、いい名前。あのバカのネーミングセンスでは絶対に思いつかないだろうね。
夏季、気持ちはうれしいけど、残念ながらオスロ師士がラートンの考えを曲げることはできないと思う。それにあたしがあんたみたいに、崖から落ちちゃうってことはないだろうな」ここで倫は声を上げて短く笑った。「お調子者と少年に、あたしが言ったことを伝えてね。一週間後にまた会いましょ。あ、包帯取れてよかったわね。それくらいの傷なら、痕も残らないでしょ。顔しかいいところがない隊長なんかに負けないで、がんばるのよ」
夏季が何か言おうとすると、倫は力強く馬の腹を蹴り、勢いよく城門から出て行った……。

あの人はこれから、どこへ行くのだろう。
一週間も城の外に出て、いったい何をするのだろう。
隊長の人でなし。あんなろくでもない訓練、出たって出なくたって変わらないよ。そんなに走ったって、剣を振り回したって、どうせお城の掃除をやらされるんだから。
倫は一週間後、どんな姿で戻って来るだろうか。ちゃんと戻ってくるだろうか。荒野には性の悪い賊がいるという。きっとカルーみたいな、意地が悪く、ひねくれたやつらだ。
それに、夏季が心配なのは、倫が賊に襲われることや、崖から落ちることだけではなかった。あの日、森で、最後に起きたこと。夏季の背筋を凍り付かせた、黒い影……。あのことがあってから、セボの国には得体の知れない何かが存在するのではないかと思っていた。正体が分からないものほど怖いものがあるだろうか。黒い、それだけなのに、あたしの肌を粟立たせたあれはいったい何なのだろう。

倫とはまだ、ほんの少しの会話しか交わしていないのにも拘らず、悲しかった。夏季はたった四人の仲間、そのうちの一人の背中を見送って、涙ぐんだ。
こんなの、道理にかなってない。

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