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指先の魔法

第二章/目覚める力

バルコニーの柵にもたれて夕日を眺めていた夏季は、人の気配を感じて振り返った。哲がモグモグと口を動かしている。
「食べるか?」
哲が夏季の方に丸いかたまりを投げた。夏季がパシッと受け取ると、それは小ぶりな揚げパンだった。
「ありがとう」夏季は微笑んでパンを口にくわえた。
哲が隣にやってきて、二人で夕日を観る。
「夏季に何があっても俺は……」
「わかってるよ」
大袈裟な、などと思いながらも、哲が夏季の耽り具合を感じ取って気を遣っていることは察しがついた。 夏季の肩に哲の手が伸びた。少しためらいを見せてから、ポンと肩に手を置く。
「ありがとう」
夏季はそう言って、哲の胸元にそっと頭を預けた。
哲は夏季の頭に手を添えて、遠慮がちに抱き寄せた。
「甘えてごめんなさい」夏季が目を閉じて言った。
「いいんだ。少しでも君の気分が晴れるなら」哲が静かに言った。「ところで、口の周りがパンのカスだらけだぞ」
夏季は飛びのいて、両手で口の周りを払った。哲がニヤニヤと笑っている。ふと、哲は一瞬無表情になってから、踵を返した。
「夜風に当たりすぎて風邪ひくなよ」肩越しに手を振りながら、歩き去った。
「わかった」夏季は哲の背中に声を掛け、口をモグモグと動かしながら、再び夕日を眺めた。

「無理やり押し倒してしまえばいいのに」
数日前から耳元で老婆が囁いていた。
哲は聞こえないフリを続けていた。
おそらくターゲットにされている。
返事をしたらおしまいだ。
俺は負けないぞ。
夏季のためにも。
夏季は負けなかったんだし。
俺だって負けるものか。

人の気配を感じて哲は肩をびくりと震わせて振り返った。
パパスが驚いたような顔をして立っていた。
哲はほっと息をついて、肩の力を抜いた。
「パパスさん」
「そんな怖い顔してると顔がしわくちゃになっちまうぞ。パソンのじいさんみたいにな」
哲はふふっと笑った。
「気をつけます」
「今度買い物に付き合ってくれんか? カウジの子守役だけどよ」
「いいですよ」
「それから、もうすぐ城を出るんだが、俺たちの新居に居候する気はないか?」
「なんですって?」哲が目を見開いて聞き返した。
「いやあな。畑仕事を始めようと思うんだが、ちょいと俺だけだと手が足りないもので」
「しかし俺は」
「もちろん君の立場はよくわかっているつもりだ。『風使い』としての力をつけるのにも力を貸せるぞ」パパスがにんまりと笑った。
「夏季を置いてはいけない」哲の顔はしかめ面に変わった。
「そう言うと思っていたよ。しかしだ。本当に彼女は君の手を必要としているのか? 君に守ってほしいと思っているのか?」
パパスは畳み掛けるように、言った。哲は身体の横で握りしめた拳を微かに震わせていた。
「気にかけていただけるのはありがたいですが、俺には俺の考えがありますので」哲が硬い口調で言った。
「隣にいることだけがその人のためになるとも限らんと俺は思うがね」パパスは構わずに続けた。「まあ、今の話は、頭の片隅にでも置いといてくれ。万が一にも気が向いたら声を掛けてくれれば喜んで迎え入れるさ」
パパスはヘソを曲げた哲を前にしても終始穏やかに語った。まるで哲がイエスと言うことを確信しているかのような、余裕が感じられた。

夏季は母とほとんど話をしなくなっていた。
もちろん悲しいが、仕方のないことだとも感じている。質問に対してきちんと返事を出来なかったのは母親の方だ。それに今やセボにとっては要注意人物だ。母は独りだった。周囲と敵対してまでセボに舞い戻って果たしたい目的とは?
それから、これも悩みの種だが、夏季の背中には何かがある。そのことを考えると吐き気が催すくらいに気が滅入るのだが、近頃はなんでも倫や哲に相談したり頼ったりしてきたのに、なんだか誰に話すこともはばかられて、口に出しそうになるのをぐっとこらえる日々が続いていた……。

背後に人の気配を感じて振り返ると、哲が立っていた。
「なんだ。哲。どうかした?」つい先ほど別れの挨拶をしたばかりなのにと、怪訝に思った。
哲の額は汗ばんでいた。顔は不自然に強張っている。
「……俺の……意思じゃない……」
額と同じように汗ばんだ、震える両手を夏季の両肩に伸ばしている。夏季は顔を強張らせて哲の目の奥を見た。焦げ茶色のはずの哲の瞳は紫色に染まっている。肩を力一杯掴まれた。
「……痛い……」夏季が顔をしかめて、後ろによろめいた。肩への触れ方には優しさのかけらも感じられず、つい先ほどの哲と同じ人物とは思えなかった。バランスを崩し、床にしりもちをついた。そのまま哲が覆いかぶさるようにして夏季を床に組み敷いた。
「夏季……夏季……」哲の声は苦しげで絞り出すようだが、顔つきは次第に歪んだ微笑みに変わっていき、口の端から微かな笑い声が漏れ出していた。手首を床に押さえつけられ、両脚の間には哲の膝があり、身動きが取れない。何よりも、ふだんは温厚なはずの哲が急に別人に変わってしまったことへの恐怖で、身が竦んだ。
「誰か!」身の危険を感じた夏季は声を上げたが、途端に手で口元を塞がれた。そのおかげで片腕は自由になったはずなのだが、ひどく震えてうまく動かせない。
荒い息の哲の顔が近づいてくる。夏季は顔を背けたが、首筋に顔を埋められた。夏季は目を閉じた。
バシッと音がして、目を開くと、ラートンが二人を見下ろしていた。哲の頭を叩いたようで、手をさすっている。
「助けてください」涙目の夏季が、ラートンに訴えた。
「わかっている」涼しい顔でラートンが言うと、手をかざした。白い光が哲を包み込むと、夏季を床に押さえつけていた力が緩むのが感じられた。やがて哲の身体から力が抜けて夏季に馬乗りになったまま動かなくなった。
「重い……」ビクともしない哲の体を押し上げようとするが、夏季の腕にはなかなか力が入らなかった。
ラートンが少し乱暴に哲の身体を横にごろんと転がした。哲は目を閉じて、眠っているようだった。ラートンは哲の口元に手をやって、息をしていることを確認していた。それから夏季の方に向き直った。
「大丈夫か」ラートンは夏季に手を差し出した。
「ええ」夏季はラートンの手を取り立ち上がった。膝が震えた。そして細かい震えが全身に広がっていった。
「彼は悪くない、と言いたいところだが。先が思いやられるな。これで2回目だ」やれやれと言うように、ラートンがため息をもらした。
ラートンのあきれた表情を見て夏季は口を開かずにいられなかった。
「哲だって戦っているんだと思う」
「何を相手に?」ラートンが冷たい口調で言った。
「自分との戦いです」
「ならば彼は弱い人間だな。大切な人を自分の手で恐怖に陥れるとは」床に横たわる哲を見る目は蔑むように細められていた。
「あなたには、わからない!」夏季は食ってかかるように言った。「あなたは強いんだから!」
ラートンは驚いた顔をして、しばらく夏季の顔を見ていた。夏季の唇は震えていた。
「悪かった」ラートンは吊り上げていた眉を下げた。「たしかに、わたしにはわからないかもしれない。わたしは冷徹な人間だ」
ラートンの顔つきが変わったのを見て、夏季はハッとした。
「ああ。わたしこそごめんなさい……ラートン隊長」夏季はその場にぺたりと座り込んで、額に手を当てた。「助けてもらったのに……」
「いや。いいんだ。哲を介抱してやれ。魔女のくだらない呪いは消した」
立ち去ろうとしたラートンの衣服の裾を、とっさに夏季は掴んでいた。
「行かないで。まだ。ここにいて」懇願するように、すがるようにそう言っていた。
ラートンは再び、少し驚いた顔で、夏季の顔をじっと見た。それから静かに、夏季の横に腰を下ろした。
「怖いのか?」ラートンが口を開いた。
「そう。怖いんです」夏季が小さな声で言った。
「俺は力になれない」ラートンがあっさりと言った。
二人の間には沈黙が流れた。ラートンは事実を答えたまでという態度で、夏季の次の言葉をじっと待っているようだった。
「さっきの白い光を、わたしにも当ててもらえませんか?」しばらくして、夏季が言った。
「なぜそのようなことを? あれは『黒』を消し去る力だ」ラートンは怪訝な顔で言った。
「背中に黒い羽が生えかけているんです」夏季はラートンの顔を見ずに言った。
いったいなんのことだ?
ラートンはますます首を傾げた。
「それがもし『黒』に関係があるのなら、隊長の力で消えるんじゃないかと」
夏季はゆっくりと顔を上げて、怯えたような表情でラートンを見た。ラートンはしばらく考える様子を見せてから、口を開いた。
「わたしの部屋に行こう。彼もいっしょに」そう言ってラートンは、床に伸びたままの哲を背負った。

哲を重たそうに背負うラートンの後を追って書斎に入り、書棚を素通りした。そして多くの書類が置かれている大きな仕事机の向こう側に、奥の部屋に続く扉があった。扉の向こうはラートンの居室だった。ラートンは、大きめのベッドに、気を失ったままの哲を転がして、ふうっと息を吐いた。哲の横に夏季が腰掛けた。
「ここでやるんですか?」夏季がラートンの顔を見上げた。
「脱衣所で背中がどうなったか確認できるだろう」
夏季はベッドの上に正座をして、ラートンに背中を向けた。ラートンが夏季の背中に手を当てた。
夏季は、背中に当てられた大きな手のひらの温もりをじんわりと感じた。
それから白い光に包まれるのがわかった。背中には手の温かさ意外は、特別な感触はない。
「見てくるといい」
ラートンは手を下ろし、夏季に脱衣所に行くように促した。
夏季は脱衣所に入って扉を閉めて、衣服を脱いで、胸から背中に巻いているさらしを解いた。そしておそるおそる鏡に自分の背中を映した。
見辛いが、なんとか見れないことはない。羽の本数は日に日に増えているようで、背中にはハの字状にうっすらと赤い線があるままだ。手を伸ばしてそこに触れると、自分のものとは到底思えない不気味な手触りがあった。何かが突き破ってきそうな皮膚の尖りには、あまり変化がないように感じられた。
夏季はため息をついて、元どおりにさらしを巻き、衣服を身につけた。脱衣所の扉を開ける。
「どうだった?」すぐさまラートンが言った。
「変わりないです」夏季が落ち込んだ表情で言った。
「見せてみろ」
「は?」夏季が顔を上げた。
「背中を出せ」ラートンが強い口調で言った。
「……いやです」夏季が訝しげにラートンを睨んだ。
「恥ずかしいならこれで隠せばいいだろう」
ラートンが、苛立ちもあらわにぶっきらぼうに言い放ち、身体拭き用の布を投げて寄越した。
「準備ができたら言え」
夏季は気が進まないながら、言われた通りに再び服を脱いでベッドの隅に置いた。ヤケクソ気味でくしゃくしゃのままだ。そして、おそるおそるさらしを解き、胸元を布で抑えつけるようにして隠した。
「いいですよ」夏季が不機嫌に言った。
ラートンの指が背中に触れた。皮膚の尖りをなぞっているようで、くすぐったさに夏季は顔をしかめた。ふたたび白い光が放たれたが、今度はもっと強い光だった。ラートンの手のひらが背中に当てられている。衣服越しではなく直接触れているので余計に温もりが感じられた。夏季はその感触が嫌いではなく、心地よさに目を閉じた。
さらっとしていて、大きい手だなあ。
「終わった」
声を掛けられて目を開くと、白い光がやんでいた。そっと背中に手を伸ばして異物の場所を探った。脱衣所と違って鏡に映せないので、触るべき場所がわからずにまごついた。すると、ラートンが夏季の手を捕まえて、誘導した。自ら触った場所よりもだいぶ上の方に導かれた。皮膚の尖りがあった部分が柔らかく感じられた。
「消えた」ラートンが簡潔に言った。
「ありがとう……ございます」夏季は息を吐きながら、自分の膝に突っ伏した。安堵の波が押し寄せて、じわりと目に涙がにじんだ。
「身体が冷える。服を着たほうがいい」感慨にふけっている夏季を、ラートンがつんと背中をつついた。
夏季は顔を上げると鼻をすすり、半裸で衣服を抱え、脱衣所に消えた。鏡で確認するとやはり背中の異物が消えていた。安心感と、ラートンの無骨な指が触れたなんともいえない感触に胸の奥からこみ上げる感情がごたまぜになり、終始下を向いて着替えを済ませた。それに、急に思い出されるのは、背中を探っているときに、力強く手を掴まれた感触で、急に恥ずかしさがこみ上げてきた。
脱衣所を出るとラートンが仁王立ちで待っていた。
「あれは一体なんだ?」ラートンがしかめつらで言った。
「わたしが知りたいくらいです……」夏季がラートンを睨め上げた。内心は、動揺を悟られまいと必死だった。
「痣は消したはずだろう」ラートンが夏季を見下ろして言った。やや高圧的にも感じられる。
「そうです」夏季がそっけなく答える。顔の火照りが頬に紅く表れてはいないかと、ヒヤヒヤしていた。
「母親に関係あるのか?」ラートンは夏季の目をまっすぐ見て言った。
「わかりません」夏季も、ラートンの瞳をしっかりと見た。
ラートンの初心者『闇使い』の力を浴びた後に卒倒して、目覚めた夜に黒い羽を見つけた。卒倒した直後に母親の六季は真っ青な顔で、怖がるような顔つきでわたしを見ていた……。
関係あるのか? わからない。断言はできない。

哲がううんと唸り声をあげて、身体を起こした。
「……ぁあ。夏季」哲が目をこすりながら、言った。「夏季! 悪かった……ごめん……」
「哲は悪くないよ」夏季が無気力に言った。記憶はあるんだな、と、少し複雑な気分だった。
夏季に馬乗りになりたい欲望が少なからずあって、そういう下心を魔女が助長させたということか? あまり考えたくはない話だ……。
「あれ? ここはどこだ?」哲がきょろきょろと室内を見回している。
「ラートン隊長の部屋だよ。休ませてくれたの」
夏季は自分の衣服の裾を握りしめていた。ラートンの指先が背中に触れた出来事にほんのりと感じる後ろめたさに戸惑い、少し目を泳がせた。
「ふうん? ああ、そうか」哲はがっくりとうな垂れた。「助けてもらったのか……またか……」
哲は自分の目に涙がにじみそうになるのをこらえていた。歯を食いしばり、俯いたまま顔を上げない。哲の背中に添えられる夏季の手の感触が余計に情けない気分を盛り立てた。
かっこわりいな、俺。自分の意思ではないとはいえ夏季を襲っているところを、止められるとは、情けない……。
「感傷に浸っているところ悪いんだが、元気になったなら出て行ってもらえるか」
ラートンの容赦ない冷たい声が、二人の頭上から降ってきた。
途端に哲の目から涙が引いた。夏季は頬を膨らませた。
「申し訳ありませんでした」
夏季と哲は声を揃えて、少しムッとした顔で返事をした。そして二人はスッと立ち上がってスタスタと出口に向かった。
「おやすみなさいませ」二人は一応、という感じでラートンに声を掛けた。表情は硬い。
「ご苦労だったな」ラートンは気持ちのこもっていない挨拶を返して、すぐに部屋のドアを閉じた。

二人は無言で歩いていた。気まずさもあるが、それぞれが、深く考え込んでいた。
やがて、兵士の宿舎へ続く渡り廊下にやってきた。
「なあ。俺、城を出た方がいいかもしれない」
「え?」夏季は、哲の突然の言葉に顔を上げた。
「味方を危険にさらすなんて最低だろ。なんとかしないとな……」
「だからって城を出る必要がある?」夏季は急に心細くなるのを感じた。
「これで2回目だ。最初はラートン。次は夏季。どちらにしても夏季のそばにいるから起きたことなんだ」
哲はいやにすっきりとした顔で、落ち着いた調子で話していた。まるで憑き物が取れたような、諦めているような。そんな哲の表情に、夏季は彼の決意を読み取った。
「泣くなよ」哲が悲しげに微笑んだ。
「泣かないよ」夏季は少し歯を食いしばった。
「すぐにってわけじゃないし。とりあえずまあ、ちょっと考えてみるだけ、だよ」哲が優しく、明るく言った。
「ごめんね。哲」夏季がボソッと言った。
「謝らないでくれ。俺の不甲斐なさが増すだけだから」哲が微笑んだままで、首を横に振った。
「その。わたしも甘えてばっかりで……」夏季は視線を外した。
「そんなことはないさ。俺はそれがうれしかったんだから」哲も、窓の外に目をやった。「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
月明かりの下で、二人はそっと手を握り、そして名残惜しそうに手を離した。
そして別々の廊下を歩き、去っていった。

中途半端に残っていた書類を処理してから、ラートンは仕事を切り上げてシャワーを浴びた。寝巻きを着て、ベッドに横たわると、ふうっと息を吐いた。
パパスの気付きは本物だったな。
彼の意見を信じて張っていたのが幸いだったか……。
ラートンは寝床で天井を見つめて考えていた。
俺の片手に収まりそうな、白くて細い背中。
手のひらに吸い付くようなすべっとした繊細な肌触り。
その滑らかな皮膚に突然現れた、頑固な発疹のように尖った突起物は、異物でしかない。
彼女に何が起きている?
夏季の背中に現れた怪しげな発疹のことを考えるのだが、想像以上に心地よかった触り心地のことで気が散っていた。指先が触れたふわっと柔らかい皮膚の感触がまだ手に残っていることにとまどう。
それから、急に思い出したのは、夏季に掴まれた服の裾のことだった。
以前にも似たような場面があったことに、思い至る。
そう、オミリアを倒した後で、馬に乗っていたとき。荒野に旅立つ直前のことだ。重症の夏季が別れ際に俺の服を掴んだんだ。ほとんど意識もなかっただろうに。彼女は覚えていないだろう。
あの時もやはり、行かないで、と言っていたな。
さほど遠くない思い出にやがてまどろみ、眠りに落ちた。

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