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氷の洞窟

第一章/森

右頬に水滴が落ちた。

(『お嬢ちゃん』は勘弁でしょ……)

もう一滴、水滴を左のまぶたに受け、夏季は目を開いた。

「寒い」

仰向けに寝ている夏季が見つめているのは鏡だった。天井にぽっかりと丸い穴が空き、そこに鏡がはめこまれていた。夏季自身の顔を映している。鏡が歪んだかと思うと、そこから水滴が落ち、鼻の頭にぶつかった。
よく見るとそれは鏡ではなく、水面のようだ。しかし水面を見上げることはできないはずである。考えていることがおかしいと自覚しながら、のっそりと体を起こした。顔に手を触れると、指先が痛むではないか。自分の手を確かめると、中指と薬指の爪がなかった。これではさすがに目が覚めるというものだ。

「うわ」
(こんなひどい怪我したの初めてだよ)
自分の身に起きたことをいっぺんに思い出した。俊の手に捕まることができず、崖から落ちたのだ。落ちている間に気を失ったらしく、どういうわけで今いる場所にいるのか、分からない。生きていることは確かだが、またしても未知の場所に来てしまったようだ。
傷ついた左手を右手で庇いながら周囲を見回した。そこは、辺り一面が氷でできているようだった。大きなトンネルのような空間が、視力が届く限り奥まで続いている。
氷の洞窟。
もう一度天井を見上げてみると、思い違いではなく、夏季はやはり水面を見上げていた。
(これは、どういうことだろう)

「だれかいるの?」

突然の声に、夏季は「うわ!」と叫んだ。広い洞窟に反響して、よく響いた。

「あなた……」

夏季の目の前に現れたのは、背の高い女の人だった。
いや、ほんとうに人だろうか? 本来なら耳があるはずの位置には、狐のような先の尖った、毛深い耳が生えている。肌は青白く、髪はもっと白くて、長さが腰のあたりまである。今までに見たことのないような種類の人間だが、とにかく美しいと思った。物腰、話し方から、悪意は全く感じられない。だから夏季は、この未知の人が怖くはなかった。

「あ、あの。わたし、崖から落ちて……」
「崖から?」
女はしばらく考えてから言った。
「そうね。こういうこともあるかもしれない。私が呼んでいたのはあなたではないのだけれど」
夏季にはさっぱり意味がわからなかったが、相手は特に怒っている様子ではないことだけは感じ取ることができた。どちらかというと、困っている。
「それにしてもあなた、よく助かったわね。どうしてかしら」
「え?」
思わず訊き返していた。
「崖から、あの高さから落ちたのでしょう?」
「あ……、はい。」
「ふつう、水面に叩き付けられて即死よ」

相手の話し方が穏やかすぎて、「即死」という言葉が頭に浸透してこない。
水面と聞いて、夏季はハッとした。
「これって、どういうことですか?」
天井、逆さまになった水面を指差し、訊いてみた。
「どういうことって、入り口があるなら出口もあるでしょう。」
「そうか……」
本当はよく分からないが、女があまりに普通の受け答えをするので、つられて調子を合わせてしまった。夏季の表情を察してか、女が付け足した。
「つまりね、川に落ちて、入り口である渦潮に巻かれて川底まで来ると、この出口につながっているのよ。」
水面は見下ろすだけのものではないということらしい
「その手はどうしたの?」
夏季の血まみれの手を見ても、冷静な口調である。
「崖につかまった拍子にやってしまいました……」
「こちらへいらっしゃい」
女は落ち着いた物腰で、氷の洞窟を歩きだした。
「わたしの名はカイハ」
「夏季です」
相手が名乗ってくれたことで、夏季はこの見知らぬ人に親しみを覚えた。
(カイハ、か。変わった名前。ハーフかな。てゆーか、あの耳はいったい……? 肌も必要以上に白いよね)

広間のような場所に着いた。中央には台が据えてある。それもやはり氷で出来ている。夏季は凍えそうだった。
「ここに手を出して。」
台の前で、カイハが言った。夏季は恐る恐る、手を差し出し、氷の台にそっと触れた。その上からカイハが手を重ねると、左手からすうっと痛みが引いていく。

「これはただの応急処置だから、城に帰ったらオスロに見せなさい」
「オスロって?」
「彼にまだ会ってないの?」
会っていないどころか、話がまったく分からない。「おすろ」とはどの「おすろ」だろうか。これもまた「かいは」に劣らず変わった名前だと、夏季は思った。
介抱を受けながら、夏季は考えた。どうも、学校に行く途中からすっぱりと居場所がすり替わっている。気付いたら森で寝ていた。哲に出会った。俊と倫とも合流した。4人とも同じようにいつの間にか森の中にいたということになっている。

ふと左手を見下ろすと、いつの間にか患部は白い何かに巻かれていた。その何かが半透明でちらちらと輝いていることから、包帯ではないことは明らかである。
「当然、外に出ると溶けるわ」
(へえ。当然なんだ)と思いながら、夏季は微かに輝く左手を眺めた。
「ここはどこですか?」出し抜けに夏季は聞いた。
「私の家。氷の洞窟」
「その、なんていうか……」
どう説明したらいいか分からず、言葉に詰まった。
「ええ、分かっている。あなたたちがここの、つまり『こちら』の住人ではないこと」
「『こちら』って?」
「私たちが住む『国』のことよ。あなたはなんとかいう異国の住人でしょう、夏季」
夏季の頭の中はこんがらがるばかりだ。

「さあ、どうしたものかしら。あなたがここに来るなんてことは聞いていないのよ」
そこへ、洞窟の奥から青い小鳥が舞ってきた。森で目覚めてから、初めて見る動物だった。青い小鳥はカイハの肩に止まり、ハトのような声で一声「ポー」と鳴いた。
「夏季、迎えが来るらしいわ」
「何の迎えですか?」
「……まあ、とにかく安全なところに行けるの」
「哲たちは……。あ、さっきまでいっしょにいた人たちなんですけど」
「たぶんもうすぐ合流できますよ」
「ほー、よかったあ」
夏季には、さっきの3人が唯一まともな会話ができる相手であるという予感がした。いや、それはもはや確信に近かった。
「この階段に沿って登っていけば、外に出られます」
「カイハさんは来ないの?」
「わたしはここまで」
カイハはそう言って微笑を見せた。優しく、美しい笑顔だった。彼女が外へ出られない理由が夏季には分かる気がした。その容姿も、話し方も、いかにもか弱そうである。太陽の光を浴びたら、たちまち倒れてしまいそうだ。
「その、ありがとうございました」
「どういたしまして。お元気で」

夏季は恐る恐る、カーブした石段を登って行った。やがて、壁に遮られて、カイハからは見えなくなった。

青い小鳥はまだカイハの肩に止まったままである。

「びっくりしたわ」
この真っ白な洞窟の住人である、青白く美しい女が小鳥に話かける。
鳥がまた、ポーと鳴いた。

「どうして驚いたかわかるでしょう。だってあの子、六季にそっくりなんだもの」

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