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光の壁

第二章/ドクラエをめぐる冒険

風呂もベッドもあるユエグの空き家は快適で、出て行くことが惜しまれるのが本音だったが、二日間滞在した後にラートン、哲、夏季は感謝の気持ちを込めて部屋を片付け、きっちりと戸締りをしてから、後ろ髪を引かれる想いをやっと振り切ると、再び荒野に踏み出した。
天候に恵まれ旅は順調に進み、いよいよ遠くの方にセボの城の尖塔を拝める距離になった。乾いた砂煙にむせながら、夏季はマントの中で喉元に巻いてある布を口元にきゅっと巻き直した。哲も顔をしかめて咳き込んでいる。ラートン隊長は、しっかりと口元に布地を巻きつけて、背筋を伸ばして前方を見据えている。
こまめに休憩をとっていた峠道とは異なり、平地は馬の背に乗って、可能な限り踏破を続けるのだった。むしろ馬のペースで休憩をはさむ。
「馬の方が大事だよな。そうだよな」
馬の背に揺られてうんざりした様子の哲がぶつぶつとつぶやいた。顎には少し、髭が伸びている。
「そうだよ。馬は大事。馬が体調を崩したり、ヘソを曲げてわたしたちを運ぶことを拒否したら、旅は2倍も3倍も時間がかかるに違いないわ」夏季は、わかっているでしょう、という調子で哲に語りかけた。
突然、哲の馬が後ろ足で立ち上がり、哲が体勢を崩し、腕を振り回しながら馬の背中から地面に転がり落ち、辺りに砂埃が立った。
今にも走り出しそうな馬の前を、とっさにラートンは自分の黒い馬をけしかけて回り込み、馬同士で向き合う形となった。ラートンの黒馬はまるで哲の馬に何かを語りかけるように、首を左右に振るとヒインと小さく鳴いた。ハッとしたような様子に見えなくもない相手の馬ははたと暴れるのをやめた。二頭の馬は頭を擦り合わせて、心細さを埋め合っているようだった。
馬から落ちた哲は打ち所がよかったのか身体は地面から起こしていたが、砂にまみれた顔はこわばっていて、全身の力を抜くのに何度か夏季が語りかけてやらなければいけなかった。
「落ち着いたわ。大丈夫よ」
「急にどうしたんだろう。俺、何かしたかな?」哲の手が微かに震えている。
「いや。君は悪くない。君より敏感で繊細な君の馬が何かを、正体はわからずとも察知したようだ」
ラートンはそう言って後方を振り向いた。
「今のは俺が鈍いっていう意味なのかな? 嫌味なのかな?」哲が地べたに座り込んだまま、眉を上げて、ボソボソと夏季に言った。
「気にしない、気にしない」夏季が引きつった笑みを浮かべて言った。
夏季と哲も、ラートンが見ている方を振り返った。
何か小さなものが集団で、上空を飛んでいるのが見えた。地面から1、2メートルくらいの高さだろうか。
「なんだろうあれ」
哲がお尻をさすりながら、目を細めて言った。
「蝶だ」
ラートンは黒い瞳で同じ方向を見つめていた。
「蝶?」哲がさらに目を細める。
夏季も何かが飛んでいるのはわかるのだが、それが何なのかまでは判別できず、まるでヤブ蚊の集まりのように見えるだけだった。そのひとつひとつが蚊ではなく蝶だというのなら、かなりの数が集まっているのだということがわかる。
「あんなにたくさんの蝶がまとまって飛ぶことは、セボではふつうなんですか?」
夏季が言った。
「数が尋常ではないうえにこちらへ向かってくるようだ」そう言って、ラートンが馬の手綱を握り直した。
「急げ」ラートンはそう言うやいなや馬の腹を蹴り走り出した。
「えっ」
「ちょっと」
夏季はあっけにとられながらラートンにつられてすぐに馬を走らせた。哲も慌てて、自分を振り落とした馬の背にまたがり、後を追った。
馬を全速力で走らせているため後方は確認できないが、微かな羽音が近づいてくるのがわかる。
「人を追ってくるなんてただの蝶じゃないな」哲が不安げに言った。落馬したショックもあいまって額に汗を光らせている。
「とにかくセボへ急ぐんだ」ラートンが前方を見据えたまま言った。
しかしそのすぐ後には蝶の群れが3人を囲んでいた。構わず馬を走らせたが蝶は馬のおしりの方にまとわりついてくる。 蝶の集団がドクラエの苗の一つに集団で襲い掛かり、黒い鱗粉を降り注いだ。瞬く間にドクラエの一株が枯れてしまった。
「ドクラエを狙っている!」夏季が叫んだ。
哲は手綱から片手を離し、蝶の集団に勢いよく手を振り払った。するどい風の刃が数匹の蝶に命中して粉々になった。哲は少し体勢を崩しながら、慌てて手綱を握りなおす。
「くっそ。馬に乗ったままだとうまく力を使えない」
「逃げ切るぞ」
ラートンがそう言って、自分の荷にあるドクラエの苗を手早く器用にほどいて夏季に手渡した。夏季は慎重にかつ、手早くそれらを受け止めた。するとラートンは馬の速度をゆるめて最後尾に移動した。
「先に行け」ラートンの声が後方から追いかけてくる。
「ここはわたしたち『使い』が」夏季が振り返りながら言った。
「足止めくらいならわたしで事足りる。君らはなによりもまずその苗を守り抜いて城に持ち帰るんだ」ラートンが早口で言った。
哲の攻撃で散り散りになった黒い蝶はそれでも追尾をやめたわけではなく一行についてくる。
もそもそと密集するその様には、ただの昆虫にしては強い意思のようなものを感じられた。
「やばいやつだよなあれ。なにか企んでるだろ」哲が引きつった笑みを浮かべた。
「やっぱりラートン隊長だけでは……」夏季が不安を口にした。
「……夏季だけでも城に帰れ」哲が険しい顔で、それでも勇ましく夏季に言った。
それは今回の遠征の最大の目的を達成するためには道理にかなっている事ではあるが、夏季は胸の内によどむ暗い影に思いを馳せた。
ドクラエがなければわたしはどのみち『黒』の呪いが治らずつらい思いをする。今ここですべてあきらめて、わたしも一緒に蝶たちの足止めをするべきでは?

いや。むしろ、わたしだけがここに残るべきだ。その方が皆がよろこぶ。そうだ。その方がいいに決まっている!

今まで思いつきもしなかった考えがよぎって夏季はゾッとした。
なんだかわたしらしくない。
背筋の寒気の意味を察した。
魔女の気配。
また狙っているんだ。心の隙を。
夏季はぶんぶんと頭を振った。そして、ラートンと哲に続き馬の足を遅くした。
「おい、夏季! 先に行けって言ってるだろ!」哲が声を荒げた。
ラートンも顔をしかめている。命令に背くとはいい度胸をしているな、といった厳しい表情だ。
「魔女に狙われてる。独りになってはいけない気がして」夏季は助けを乞うように、怯えた目で言った。
ラートンと哲は夏季を品定めするように、無言で見つめた。
3人はすでに囲まれていた。黒い蝶の集団は木枯らしのように渦巻いて壁を作っていた。
「どうする?」哲がラートンに目配せした。
「もう一度、『風』を使え。しかし今度は有効な攻撃をしろ。その隙に全速力で城下街に逃げ切る。決して後ろを振り返るな」
「有効な攻撃? なんだそりゃ?」哲が興奮気味に、困惑の声をあげた。
「少しは頭を使え」ラートンも厳しい口調で言う。
「……哲。いっしょにやろう」夏季が哲のすぐ横まで馬を寄せた。「わたしの次にやって」
「大丈夫か?」哲が夏季に言った。額に汗が光っている。
「たぶん。どのみち今のわたしでは大したことはできない。それでも哲がいれば大丈夫だと思う」夏季は哲の目をしっかりと見て言った。哲は夏季の自信ありげな顔つきに苛立ちが和らぐのを感じた。
「頼むよ。俺はもうなにがなんだか……情けないけど虫にビビってうまく頭が働かないんだ」
夏季と哲はしばらく小声で話してから、二人揃ってラートンに向かって頷いた。ラートンも、小さく頷いた。
夏季が両手を蝶に向けたとたん、蝶の羽の動きが遅くなった。すかさず哲が小さな、しかし無数の風を起こした。決して強い風ではないが無数の黒い蝶は風に煽られて散り散りの方向に舞うと、それからほとんどが地面に落ちた。
ラートンは白く光り輝く剣で周囲の蝶をなぎ払った。
「行くぞ!」
ラートンの掛け声で3人は瞬時に馬をトップスピードで走らせた。夏季は自分の身体が馬のスピードに負けないように馬の首にしっかりと身体を沿わせるようにした。
「一体何をしたんだ?」哲が顔を向けずに、夏季に問いかけた。馬の足があまりにも速く、よそ見をする余裕がない様子だ。
「湿らせて、羽を重くした」夏季も余裕なく、簡潔に答えた。
「なるほど。力の使い方もいろいろだな」哲の横顔は少し明るくなった。
城下町の門は目前まで迫ってきている。
地面に落ちたはずの蝶たちは少しずつ、少しずつ、再び飛びはじめ、あっという間に追いついてきた。哲の馬にあるドクラエの苗を枯らしてしまう。
「ダメだ! このままじゃ全滅だ……」哲が震える声で言った。
せっかく苗を手に入れたのに。この長い旅路はすべて無駄に終わるのか?
それに、このままではこの大量の悪意ある蝶をセボに連れ込むことになってしまう。
夏季は悔しさで顔が歪んでいくのを感じた。それから暗闇の中から浮き出る青白い皺だらけの手が、夏季の心を掴もうと長い爪を伸ばしてくる。

ふと、夏季は奇妙なものを目にした。城下町をぐるりと囲む背の高い壁、それらのもっと手前に、少し背の低い、柵のようなものが見えるのだ。遠征にでかける時には無かったように思えたが。
近づいていくとその奇妙な柵が、不規則な網のようなものでできていることがわかった。高さは胸のあたりくらいだろうか。
「あれはなに?」夏季はあまりにも速く走る馬の首につかまるのが精一杯だった。
「わからないが……馬で飛び越えられる高さだ」ラートンがそう言って、キラリと目を光らせた。
「飛ぶ? 飛ぶのか?」哲の声が上ずっている。
「行くぞ」それが合図とばかりに、ラートンが言った。
黒い蝶の集団を従えた3頭の馬はひるむことなく植物の柵に向かっていく。そう、柵は蔦のような植物で出来ていた。夏季と哲は目をつむり、馬の首にしがみついた。
夏季の馬と、哲の馬が、ほとんど同時に力強く後ろ足で地面を蹴り、ふわっと宙を飛んだ。腹が柵のてっぺんをかすかにこする。柵は優しくそよそよと揺れた。
その後を追ってラートンの愛馬がさらに高く柵を飛び越えた。馬の脚も腹も、柵をかすりもしない。ラートンは馬を優雅に乗りこなし、しっかりと前を見据えていた。ラートンの手に握られた白く光り輝く長剣の切っ先が、わずかに柵の葉に触れた。
蔦植物で繊細に複雑に編み込まれた優雅でもろい柵は、白い光を放ち、天までのぼり、壁を作った。
3頭の馬を追って柵を越えようとした黒い蝶々は白い壁に触れると消し飛んだ。

「なんだありゃあ」ハリルが口をあんぐりと開いた。咥えていたタバコがぽろりと地面に落ちた。
「大成功だわ」倫は満足げに、顎を前に突き出してほくそ笑んでいる。
「おもしろいこと考えるのね」六季が感心した様子で顎に手を当てている。
「大昔の先人の知恵。300年くらい前のね。『光の壁』の完成よ」倫が言った。
「上等、上等」ロイ・パソンがゆったりと言って微笑んだ。
「最高のタイミングよ。柵だけでも早めに完成させておいた甲斐があったわ」倫はますます得意げに胸を張った。
城下街の手前で、愛馬のクララから飛び降りた夏季は、門の前で待つ母親に向かって走っていった。六季の胸に飛び込むと、六季が力強く抱きしめた。
夏季は、母の顔を見たとたん、笑顔が崩れて目から涙がとめどなく溢れ出した。六季の胸に顔を埋めて、肩を震わせてすすり泣いた。
「よくがんばっているわ」六季は夏季の髪の毛に鼻先を埋めた。
「魔女が……怖い」夏季は声を震わせた。
「強くなるのよ、夏季」六季が落ち着いたかすれ声で語りかけた。「大切な人を失ってから強くなるのでは遅いの。どうかあなたはそうなる前に本気を出して」
夏季は顔を上げた。六季も目に涙を溜めていた。
「大丈夫。独りじゃないんだから」倫が夏季の肩を叩いた。「わたしたちも付いているじゃない」
夏季は赤い目で、しかし微笑んだ。そして六季の腕から抜け出すと、今度は倫に抱きついた。
倫は少し驚いてから、夏季の頭を両手でわしわしと掻き乱して髪の毛をくしゃくしゃにした。
哲も馬を下りて手綱を引き、安堵の表情を浮かべてとぼとぼと歩いてくる。取り残された夏季の馬の手綱を取ろうとしたが、馬に拒否された。
「わかってるよ。夏季がいいんだろ。とりあえずまあ、お疲れ」
馬をねぎらう哲の横を、背筋を伸ばしたラートンが馬に乗ったまま通り過ぎる。

城下街の門まで来ると、ラートンは馬を下りた。
「敵が実体でなくて助かった」ラートンがため息混じりに言った。
「小手調べってか。やな感じだな、魔女の野郎は。お疲れ! 無事でなにより」ハリル副隊長がラートン隊長の背中をバンと叩いた。
ラートンは肩の傷が痛むようで顔をしかめた。
「悪い悪い。手負いだとは知らずに。肩はどうしたんだ?」ハリルが言った。
「彼が」ラートンは顎で哲を示した。「魔女に操られた。まさかわたしに敵意と抱く余地があるとは……」ラートンは心なしか悲しそうな顔をしている。ハリルが笑い出した。
「気にすんなよ! 魔女が盛大にいじってるだけだって。哲があんたを恨んでいたのだってきっと食べようと思って狙っていたデザートの最後の一個をあんたにとられたとかそんな程度のことだって!」
「わたしはデザートは食べない」ラートンが真面目くさって言った。
「ただの例えだよバーカ」ハリルがますます笑顔になった。
「バカと……言うな」ラートンが心底ムッとした様子で、ハリルを睨みつけた。
「日程は過ぎているから援軍を送ることも検討したんだが、待ったほうがいいってパソン議長と倫が言うんで」
ハリルが笑顔を引っ込めて話しだした。「何日か前にセボにも光の波が届いた。目撃情報をかき集めるとどうやらトラルの方角からだという話になってな。それに魔女リカ・ルカは白い光は出せないとも」
「もしかしたら『闇使い』が現れたのでは? という話をパソン議長としていたのよ」倫も会話に加わった。
「推測だけで危険を冒すとは」ラートンが不機嫌そうに、顔を曇らせた。
「推測といっても程度の問題でしょう。わたしだけならまだしもパソン議長も同じように考えていたわけだし」倫が即座に言った。「結果として良い実験ができたわ。わたしの『成長の手』の力の可能性もこれでだいぶ広がる……」倫の表情は恍惚ともとれるほどにとろけて、彼女はうっとりと天を見上げた。
「人のピンチを踏み台にするとは」ハリルが身震いする真似をした。
「何はともあれこれで揃うべき『使い』はすべて出揃ったようだのう」ロイ・パソンがほがらかに、ゆったりとした口調で言った。
「待ってください。まだわたしが『闇使い』と決まったわけでは」ラートンが慌てた様子で言った。
「夢は?」パソンは品定めするようにラートンの瞳を覗き込んだ。
「夢?」ラートンは困惑の表情で言った。
「そこまで言わなくとも君ならばわかるだろう」パソンがふっと微笑んだ。
「黒い馬で駆ける夢」ラートンは目を伏せたまま、思い出すように言った。
そして、遥か彼方、辿ってきた道の向こう側を見やった。
つられて皆が同じ方向を見た。
「まだ自覚はなくともいずれわかるだろう。他の『使い』たちだって一朝一夕で認めたわけではないだろうに」
パソンが倫、哲、夏季を順に見渡していった。ラートンも彼らの方をちらりと見る。
「こちら側へようこそ」倫が笑顔で言って、うやうやしく頭を下げた。
「ええっと……歓迎します」夏季が少し考えてから言った。
「俺は疲れた」哲がうんざりした顔を隠そうともしないで言った。
ラートンは返す言葉もなく困りきったような表情で、やがて視線を地面に落とした。
「君が何者であろうと、皆が見る目は変わんねえぞ」ハリルが突然大きな声でヤジを飛ばした。
「鬼畜だもんね。『使い』であろうが、なかろうが」倫が合いの手を入れた。
「そうですよ。今さら驚くことなんてないから大丈夫です」夏季も、気遣いのつもりで言った。事実、言葉に詰まるラートン隊長などめったにない姿を見て、いたたまれなくなったのだ。
「確かに」哲もボソッと言った。
「こいつらを散々な目に遭わせてきて面目ないだろう!」ハリルが畳み掛けるように、満面の笑みで言った。
ラートンはハリルをキッと睨みつけることしか出来ない様子だった。

「なかなか楽しい時間であった。初戦としてはそれなりに」
魔女はブツブツとつぶやきながら、背筋をピンと伸ばして壺の前をうろついてはその中身を覗き込んだ。夏季たちがトラルの地で目撃した姿よりもずいぶん若々しく、背も高く、はつらつとしている。老婆と呼ぶのは憚られるほどに。
「そう思わないか?」
独り話し続け、壺の中をうっとりと眺めた。表情はおだやかだ。水面には紫色の瞳ではなく、交差する2本の杖が映り込んでいた。
「欲しいものを手にいれる算段はついている。その過程を楽しむのさ。ジョン、見ていなさい。ママが世界を手にいれるところを」
薄暗い穴ぐらのいちばん奥を見やると、結晶のかたまりのようなものが安置されている。人間の背丈ほどはあろうかという大きさだ。松明の明かりをキラキラと反射している。
「解けない氷がついに解けるかな? 六季。はやくおいで……!」
魔女リカ・ルカが壺の中に向かって手招きした。そこには、大きな欠伸をする六季の間延びした顔が映し出されていた。リカ・ルカは大きな目をさらに見開いて、怪しげな紫色の瞳でいつまでも飽きずに見つめていた。

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