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河の向こう

第二章/ドクラエをめぐる冒険

鳥の鳴き声と顔に落ちる冷たい水滴で夏季は目を覚ました。黒い天井は水を含んでおり岩肌の輪郭がところどころ白く光を反射している。横で哲がいびきをかいているのを見てなんだかホッとした。雨音は聞こえない。明るさを感じて身体を起こした。薄曇りの優しい光が入ってくる方へ目をやった。洞窟の出入り口に人の形のシルエットが見える。
「まだ休んでいたほうがいいと思います」
夏季がとっさに言うと、ラートンが振り向いた、そんな気配があった。
「そうゆっくりもしていられない。馬を連れていればいいのだが、徒歩では手持ちの食料にも限りがある」
ラートンの言うことはもっともだった。荷物は食料を優先しているとはいえ最小限のものに絞り込んである。道程を増やすほどの余裕はない。調達するにしても心得があるのはラートンだけで、3人分を確保するとなればそれだけ手間と負担が増えるはずだった。
夏季の傍で哲がぴくりと肩を動かしたが、夏季は気づかなかった。
「水さえあればなんとかなりませんか?」夏季の声は洞窟の壁に反響して、少しくぐもって聞こえる。
「行きだけではなく帰りのことも考えなければ。君は俺のように倒れたりしないと言い切れるのか?」
夏季は即答できなかった。つまり、トラル国になんとかたどり着いたとして、無事にドクラエの苗を見つけたはいいが最悪の場合魔女リカ・ルカと邂逅しなければならない。宿場で話を聞いた限りではその可能性が高まっている。生き抜くことができるのか? 夏季は身体が震えだすのを感じて手元の毛布を握りしめた。しかし、ここは言っておかなければと、歯を食いしばった。
「わからないです。……でも。たしかにわたしは役立たずですが、それでもこの気持ちは変えられません。ラートン隊長のことが心配です。生きて帰ることを考えるならなおさらあなた無しでは実現できないから」
「生きて帰るさ」ラートンは横顔を見せた。口元が動いているのはわかるが、逆光で表情まではわからない。「闇の湖畔でオミリアと対峙したときに見せてくれた君の気概に期待している。それから、魔女の呪いに屈しなかった気持ちの強さにも。哲だって勇敢な奴だとわかっている。……君たちが役立たずだとは思っていない」
ラートンの言葉で夏季は胸がほわっと暖かくなるのを感じた。それから身体中を風が吹き抜けた。すべての見通しが明るくなるようなさわやかな空気だった。目を瞑り、じんわりと胸のあたりに染みわたる不思議な切なさに酔いしれて、ラートンから顔が見えないことをいいことに、微笑むのを止められなかった。
二人の話し声で哲も眠りから覚めていたが、このタイミングで起き上がることがはばかられて、眠ったふりを続けた。

哲が遠慮がちに起き出したところで、3人で鍋を囲み朝食をとった。それからラートンは再び横になり休息をとった。結局、出立は半日だけ遅らせることに決めた。夏季と哲は荷物を整理したり、昨日の雨で水分を含んだ衣服や荷物を可能な限り乾かそうと火を起こして干したりと忙しなく動き回った。
「ただの風邪だろうな。すまなかった」昼頃に目を覚ましたラートンが荷物を整理しながら、顔を上げずに言った。顔色はすっかり良くなっていた。
「俺らが頼りないばっかりに」哲がとっさに口を開いた。
ラートンは、あえてなのか、本当に言葉が見つからなかったのか、哲に言葉を返さない。哲は不安げにラートンの顔色を窺っている。
「十分がんばったよ。ザックが乾いてる」夏季が哲の肩に手をかけた。
「そうかな? がんばったかな?」哲がホッとした顔で夏季に弱々しく笑いかけた。
哲に隠れるようにして微笑を浮かべるラートンに気付き、夏季も顔をほころばせるのだった。

前方が見通せないほどの大雨がなくなっただけで、登りよりも楽に動けるようになった。しかし、ぬかるみや湿った岩場など、滑りやすい足元が厄介で、期待したほど歩みは早まらない。
しんがりの夏季が足を滑らせて、とっさに哲が彼女の腕を掴んだ。
「ほんとうにありがとう、哲」危うく転げ落ちるところを助けられ、動悸は収まらないが夏季はとっさに礼を述べた。
「……あのときみたいな思いをするのは嫌だから」哲が厳しい顔つきで言うと、夏季の腕をつかむ手に力を込めた。
「もしかして、初めて会ったときのことを言っているの?」
夏季はセボに来てからの最も古い記憶、夏季にしか聞こえない「声」に惑わされてさまよった森での出来事を思い出していた。宙ぶらりんの崖で、掴もうとした哲の手があと少しのところで届かずにそのまま落下していった恐ろしい記憶は、嫌でも忘れられない。
「そうだよ。もう二度とあんな風に君の手を逃したりはしない」
そう言って哲は夏季の腕を放し、進行方向に向き直った。
力強く掴まれた夏季の腕には哲の手の感触が残った。言葉以上のものを感じ取って、目線を足元に落とした。ラートンを意識してのことなのか、今回の遠征に出てからというもの、哲が自分に傾ける想いは日に日に大きくなっていくように感じられるのだった。夏季としては、哲のことは人間として好きと言える相手ではあったが、それでも彼の告白をその場ではっきりと断った。冷静になって考えれば考えるほど、彼と共に何気ない日々を過ごせば過ごすほどに、その気持ちに応えられない理由が浮き彫りになっていく。

「夏季を守りたい」

哲がはっきりとそう言っていたことは記憶に新しい。それが彼が夏季に対する愛情の形だ。
しかし夏季は誰かに守ってもらいたいとは願っていない。
できるかぎり自分の足で力強く立っていたい。
ちょっとした違和感にすぎないのだが、その僅かな噛み合わせの狂いが、決定的なのかもしれなかった。

「やはり君がいると安心だな」先頭のラートンが、哲の方をちらりと振り向いて言った。
「どうも」哲がブスッとして、ぶっきらぼうに返事をした。
夏季は男性二人よりも時間をかけて下りてくる。少し差がついたため、ラートンと哲は彼女が追いつくのを待っていた。
「俺はともかく、夏季をわざわざ同行させる必要はあるのか?」哲が強い口調で、ラートンの横顔を睨みつけて言った。
「彼女をそばに置いておきたかった」
哲が「えっ」と声をもらした。
「それは君も同じ思いなのでは? もちろん君が彼女に対する気持ちと俺の思惑はまったくの別物だが。夏季が君を好きなように、君は夏季を好いている。俺のは単に戦略的な意味合いだ」哲の戸惑いを察してか、ラートンが付け加えた。「色濃く呪いを受けた彼女はあの痣を消さない限りは彼女自身にとってはもちろん、これは可能性の話ではあるがオスロの一件を考慮すれば周囲の人間にとっても常に危険な状況なのかもしれない。監視が必要だ」ラートンが哲の顔を見ずに、とつとつと話した。
「いろいろ理由はあるにしても、とにかく早いとこドクラエを入手して夏季の痣を消した方がいいのは間違いない」哲がホッとしたように、気を取り直して言った。
「もちろんそのつもりだ」今更なにを言うのか、と言いたげにラートンが言った。「なにかあったのか?」
「昨日。あんたが倒れたときの夏季の様子は明らかにおかしかった」
「ああ……。あの痣は彼女の負の感情を増幅させる作用があるようだから。しかしおかしなこともあるものだな、わたしのことなど憎んでいるはず。これまでさんざんな目に遭わせてきたのだから、無様に倒れる姿を見て喜んでくれてもよかったのに」ラートンが自嘲するように、苦笑いを浮かべて言った。
「違う。そうじゃない」哲はラートンの方を見ずに、ぽつりと言った。
ラートンは哲の方を見て、首を傾げた。
「いや。なんでもないんだ。なんでもない。とにかく夏季を不安にさせないのが第一だ」哲が自分に言い聞かせるように、首を横に振りながら言った。
哲とラートンは、木の幹にしがみつきながら、一心不乱に足元を踏みしめている夏季の方を見遣った。

峠を降りた。麓での小休止ののち、ふかふかとやわらかい草原を進んだ。昨晩の雨でまだ露を含んでおり、地面もゆるんでいるようで一歩踏み出す毎に少し足が沈む。
河原に出ると今度は大小の石に足を取られながら歩いた。大河の向こうには山のような巨大な影が見えるが、輪郭がぼろぼろとしておぼつかない。辺りには薄く霧がかかっており、シルエットをあいまいにしている。
「あれがトラル国の城か」
息をつくのもつかの間で、哲が棒立ちで景色を眺めている。
「その前に河を渡らなければ……」
ラートンは祖先の故郷の姿に感慨にふける様子もなく、さっそく周辺を見渡している。
夏季はどこか落ち着かない気持ちでいた。静かにならない胸の鼓動とざわつきは、自分では制御ができない。
もやがかかる川沿いを歩いていくと、朽ちた看板を確認した後で船着場がぼんやりと視界に入ってきた。そこには数艇の小舟があり、そのうちの一つに人が乗っていた。
「俺たちはバトルスの客だ。待たせて済まなかった」ラートンは船頭に声を掛けた。
頭に古ぼけた笠をかぶった男は、笠の下に視線を隠したままでこくりと頷き、無言で三人を手招きした。

河の流れはゆるやかで、船頭が華奢な櫂(かい)で漕ぐ小舟はすいすいと進んだ。岸が近づくにつれて、トラルの城はますます大きく見えてくる。
「ずいぶんと静かだ……やっぱり人はいないみたいだな……」哲が周囲を見渡して、言った。
「セボのお城よりも大きい」夏季がぽつりと言った。
「城が岬にあるから余計にそう見えるのだろう」ラートンも城のシルエットを見据えていた。
岸に着くと一行は船を下りて、海岸線へ向かい歩みを進めて行った。船頭は終始無言だが、船に残り歩き去ろうとする三人を紫色の瞳でじっとりと見つめていた。
「海沿いが城壁となっているはず……ああ、見えてきた」
巨大なアーチはかつて城門としての役割を果たしていたと思われた。それをくぐった途端、夏季は首筋のあたりにチクリと刺すような痛みを感じ、小さな悲鳴をあげた。
「どうした?」
哲が言うのと同時にラートンも夏季の方を見ていた。
「……なんだろう。首が……痣がうずく」
「喰われた」
とつぜん、背後で叫び声が響いた。
「喰われた。喰われた」
「どうしたんだ?」ビクッと肩を震わせた哲が、恐る恐る、背後を振り返った。
「先ほどの船頭だろう」ラートンがすぐそばで、目を光らせている。
「喰われちまった」
嗚咽に混ざった叫び。霧がかかり、はっきりとした姿は見えないが、ラートンの言う通り恐らくは小舟を操縦した船頭と思われた。
「仲間が喰われたのか?」哲は自然と霧の向こうに語りかけていた。
しかし「喰われた」と繰り返すばかりの船頭は、正常であるはずもなく問いかけへの返事をしなかった。
「……いや、違うな」
怯える哲と夏季をよそに、ラートンは落ち着きはらって言った。
「ごきげんよう」
頭上からしわがれた声が降ってきた。
くぐったアーチの上に、ボロ雑巾のような布をまとった何かがしがみついていた。
夏季と哲は「うわっ」と声を上げた。ラートンがすでに剣を抜いていた。
「あいつが喰ったのは、彼の中身……。心だ」
ラートンが、アーチを見上げて言い捨てた。
「ようこそ」
巨大な蜘蛛のように見えたそれは老婆だった。紫色の大きな瞳に鷲鼻。口元は裂けそうなほどに笑っていた。

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