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微かな狂気

第二章/ドクラエをめぐる冒険

宿場を出て峠に向かう道へ進んだ途端に人とすれ違うことがほとんどなくなった。トラル国跡地はもとよりそこへ向かう道中ですら人が寄り付かないということらしい。半日ほど歩いたところで、峠の入り口にたどり着いた。
今にも倒れそうな朽ち果てた看板の向こうに、どんよりと暗い登り道が上の方に続いている。先の方を見通そうとしても、途中からは曲がりくねっていてその先は藪の中だ。必要最低限の物資とはいっても背中の荷物は決して軽くない。それらを背負って登る急な斜面は楽ではなかった。山登りに精通している者であれば今回の道のりの全体像がつかめるのだろうが、あいにく夏季には経験が無かった。様子を見る限り哲も。あとは頼りにできるのはラートンだ。規則正しく30分に一度くらいの頻度で休憩を挟み、水分を取ってまた脚に力を入れる道程をひたすら続けた。とにかく先頭のラートンの言う通りに行動するのが精一杯だった。

峠の中腹で雨が降り始めた。定時の休息を除いて立ち止まることはなく、雨具をかぶり前進した。慌てて身につけた悪天候用のマントは完全に水を通さないわけではなく、きつく目の詰まった布地は時間が経つにつれてじっとりと水分を含んでいった。特に容赦なく雨粒を受ける足元は、冷たさにかじかんでくる。ぽつぽつと雨粒もまばらな降り始めから次第に土砂降りに変わっていき、顔に降りかかる冷たい雨、次第に下がっていく気温、のしかかる背中の荷物、ひたすら耐え忍ぶ上り坂が続いた。足場も悪くなり、岩場は特に滑りやすく危険だった。一歩一歩をきちんと確認しながら少しずつ努めて慎重に進んでいった。予定よりもかなり長い時間をかけなければならず、一日もかからずに下山できる予定でいたのが、夜は峠の上で過ごさなければならない見通しとなった。天候は良くなるどころかますますひどくなっていき、どうやってこの滝のような雨をしのぐかが課題だった。
夕刻には頂上付近に建物の影を見つけた。近づくにつれてそれが山小屋のようだということがわかった。それがただ一つの希望であるかのように近いようで遠いそこを目指して着実に足を進めた。しかし、目的地に着いたときにはその希望は落胆に変わっていた。人の手が行き届かないそこにあるのは今にも崩れ落ちそうな傾いたボロ小屋だった。屋根もひどい有様で、その小屋でこの大雨をしのぐのは難しそうだった。
「屋根がないよりはマシだが今日は日が悪いな。仕方がない。他に夜を過ごせる場所がないか少し見てくる」ラートンが颯爽と背中を向けて下り道に足を踏み出した。
「わたしたちも行きます!」夏季が慌ててラートンを呼び止めた。もう動ける気はしなかったが、それはラートンも同じはずだった。いくら頼りになる人間だからといって、彼だけを消耗させて良いものだろうか?
「君たちでは滑落の危険もある。ここで待っていろ」ラートンは強い口調で夏季にはっきりと言った。夏季はそれからは何も言わず、哲にポンと肩をたたかれ、すごすごと踏み出した足を元に戻した。そしてその場でラートンの帰りを待った。
ここに倫がいれば、大きな葉を持つ植物でも作り出して、屋根でも作ってくれそうなものなのだが……。わたしや哲になにか出来ることは無いだろうか?

どれくらいの時間が経っただろうか。そろそろ辺りが暗くなりはじめた頃、ラートンが戻ってきた。こころなしか先ほどよりも身体がふらふらと左右に揺れている。
「洞穴があるからそこを寝ぐらにしよう。見たところ人が使った気配もない」ラートンが言った。顔はほとんどフードに隠されている。
山頂の山小屋から少しだけ下山用の獣道を辿ったところに、藪に隠された洞窟の入り口があった。登頂してから休む間も無くラートン隊長は歩みを進め、再び登ってきたということだった。
「ラートン隊長、ゆっくり休んで」夏季が、ラートンの顔を覗き込んだ。
「ああ。少し疲れた……」
そう言って、ラートンが膝を折った。夏季が悲鳴をあげた。哲が駆け寄ってラートンの身体を支え、地面に倒れこむのを防いだ。
「そんな……」夏季はその場を動けず、口を手で覆った。
「夏季! 火を起こして! 隊長、熱があるよ……」
哲の青ざめた顔を見て、夏季はパチンとスイッチが入るのを感じた。ショックを受けている場合ではない。夏季の手は考えるより先に動いていた。ふと思い出されたのははじめてのひとり旅をした時のこと……さかのぼれば『水使い』の力を手に入れるためにラートンがけしかけた旅だった。火を起こすのも一苦労だったあの頃に比べればずいぶん手慣れたもので、洞窟の入り口近くで手持ちの小枝を積み上げて、マッチで火を付けた。すかさず哲が小さな風を起こして炎を大きくするのを助けた。
少し気が咎めたが、哲と二人でラートンの湿った衣服を脱がすのを手伝った。意識のあるラートンは抵抗する気力もないようで朦朧とした目つきで衣服をはがれてガタガタと震えていた。乾いた毛布で身体をくるみ、寝床を整えてやった。
「ああ。倫がいればなにか薬草でも……」夏季が両手で髪の毛をかきむしった。目線も定まらず、はたから見ればその姿は狂人に近い。
「倫だって医者じゃないんだ。今ここにいたとしてもできることは俺たちと大して違わないはずだよ」哲がたしなめるように、夏季に言い聞かせる。
「あの宿場町に戻るべきじゃない?」髪の毛をぼさぼさにした夏季が不安げに、哲に提案した。
「……慌てるな。ヘンな病気じゃなければ休むだけでも良くなるはずだよ」
「わたしが頼りないから無理をさせてしまった……」夏季はどこか落ち着きがなく早口で言った。
「君だけじゃないよ。むしろ俺が情けないから」哲が夏季の顔を覗き込んで、辛抱強く努めて明るい口調で言った。
「どうしよう」それでも夏季は不安な様子だった。
「まず、俺たちもちゃんと身体を乾かさないと。俺たちまで倒れたらそれこそ全滅だ」
夏季は頷いた。哲の言葉に心を動かされた。哲は冷静だった。夏季は、深く息を吸って、吐いた。激しく胸打つ鼓動を収めようと思い立ったのだ。ラートンが倒れこむ姿を見て軽いパニックになっていたのだと、哲の冷静な瞳に気付かされたのだった。
そうだ。しっかりしなければ。ひとつ、またひとつ。小さな山を越えていかないといけないんだから。
夏季は両手で顔をバチンと叩き、目を見開いた。
哲は夏季のその姿を見て、ふーっと長く息を吐いた。

夜半、ラートンはふと目を覚ました。身体を起こすとひどく頭がくらくらした。雨が落ちる音が聞こえるものの、雨粒の勢いは弱くなっているように感じられた。
峠の登り道で頂上の小屋が見えた頃から記憶があいまいだった。雨風を凌げないほどのオンボロ小屋を目の当たりにした哲と夏季の絶望した表情ときたら。なんとかしてやりたくなって、ガラにもなく無茶をしてしまった……。ラートンは急に恥じらいを覚えて衝動的に両手で顔を覆った。
しばらくして顔を上げると、枕元に供え物のようにお椀が置いてあるのに気付いた。そっと手に取り口に持っていった。やわらかく煮込んだ野菜のスープは冷え切っていたが、悪くなかった。病人のためにと夏季が用意したのだろうと、傍で転がっている夏季に目を向ける。毛布にくるまって寝たのだろうが、寝返りをうった拍子にはだけたとみえる。必要最小限にさらしは巻いてあるものの、濡れた衣服は脱ぎ捨てたらしく、年頃の女性としては恥ずかしい格好のはずだった。ラートンはあきれ顔で、半裸の夏季に毛布をかけてやる。反対側で哲がきちんと毛布にくるまって小さないびきをかいている。そんな二人の姿をぼやっと眺めていると、俺がいてやらなければという気分になる。それではダメなんだがな、と思いながら、明くる朝は元気な姿を見せてやるべきだろうかと、ふたたびラートンは眠った。

黒馬で天を駆けている。
またか。ラートンは容赦なくなびく風に顔をしかめた。
「峠」と呼ばれる小ぶりな山は、こうして頭上から眺めるとかなりの急勾配だ。ほら、彼らの表情を見ればその険しい道のりがわかるというもの。
……いいや、馬は置いてきたはずだ。それに峠は自分の足でこつこつと歩みを進めている。俺は傍観者ではない。旅は二人と共にしているはずではなかったか?
前触れなく天から落ちたイカズチに咄嗟に目を瞑った。

純白と漆黒。
二つの空間の境に立っていた。
考えなくてもわかる。
白が善で黒が悪だ。
少女も境界線上に立っている。
「わたしはどっち?」
問いかけの答えとして手を差し伸べると、少女は苦悶の表情を浮かべ、のどをかきむしりながら霞となり消え去ってしまった。
「俺にどうしろというのだ?」
そう口走りながら目を覚ました。
夢の中の少女の顔が、隣で寝息を立てている旅の仲間に重なったような気がした。

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