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絡まる思惑

第二章/はじまり

長い楕円形のテーブルを囲んでいる文官の席は満員御礼で耳を塞ぎたくなるほどに騒がしい。誰も始まりを宣言していないにもかかわらず既にあちこちで議論が白熱している様子で、いきさつは不明だが、帽子の取り合いをする爺さんまでいる始末だった。そんな中で倫が分厚い書簡を眺めており、その向かい側ではネレー・ドゥーラが腕組みをして目をつむっている。比較的若い者たちは議論には目もくれずに瞑想したり読書に没頭したりして沈黙しているものだから、対照的な様が入り乱れて滑稽ですらある。そこへ扉が開き揃って入室してきた軍部の一行は大部屋の混沌に大して驚くこともなく、落ち着いた様子で席についた。会議室の席が埋まったにもかかわらず口を開いている者は皆お構いなし、喧騒が静まる気配はなかった。
「しーずーかーにー!」
軍部と共に入室したロイ・パソン議長がテーブルをバンバン叩くと一瞬部屋は静かになったが、やがてどこからともなく声が上がり、すぐに元どおりの騒がしさとなってしまった。
「静かになどしていられるものか。勝手に昔の『氷使い』を『呼び寄せ』るなど前代未聞だぞ!」ネレーの上司であるキノコ頭の文官が息巻いて言った。
「しかし今や軍部に臨時決定権があるものだし……」真白く垂れ下がってきた眉毛で目が隠れてしまっている老人がしょぼしょぼと言った。
「クーデターだ。セボはもうおしまいだぁ……」四角い帽子から白髪混じりの短髪がはみ出している初老の男は救いを求めるかのように天を仰ぎ、今にも泣き出しそうだった。
パソン議長の隣でラートン隊長は表情を変えずにただ座っている。その横で夏季は居心地が悪そうに部屋の様子を伺い、パソンの反対側の隣にいるハリル副隊長が目を細め奥歯をぎりぎりと擦り合わせている。
「なーにがクーデターだ……。それ以前に魔女が喧嘩ふっかけてきてるっつってんだろ……」声をひそめるでもなくハリルが言ったが、周囲の声の大きさの方が勝っており誰かの耳に入るわけがなかった。
「本日の議題。『六季呼び寄せの件』『ドクラエの実の獲得を目的とした遠征の件』それらが終わってから各担当からの報告」ロイ・パソンの朗々とした声がその場を圧倒した。「個別の悩みについては後半に。不用意な発言で場を荒らさないようご配慮願いたい。皆大人なのだから」
最後の一言はことさらに目を見開き、聴衆を見回して言った。
小声の会話がまださざなみのように残っていたが、パソンは構わずによく響く声で話し始めた。
「まずは最近行った『呼び寄せ』について、疑問の声が上がっておるな」さっそく手が上がったので、パソンが発言を促した。「財務部大臣兼政務部長のホロウ・ピルツ。どうぞ」
ピルツが膝の上の手をゆっくりとした動作でテーブルの上に出して両手の指を組み合わせた。
「軍部の勝手な判断で我が国の機密の道具をおもちゃのように使ったことが問題なのだ。せめて議会にかけてから行うべきだろう」
ピルツがパソンの目をじっとりと覗き込みながら言った。
「ようするに、誰を『呼び寄せ』したかは問題ではなく、手続き上の問題であると?」パソンは少し苛立った様子で言った。
「昔の『使い』を『呼び寄せ』ていったいどんな害があるのかね」目を隠すくらいにぼうぼうと眉毛の垂れ下がった文官が、手を上げずに言った。
軍部の席では何人かが隣席の者と顔を見合わせた。
「ならば簡単なことじゃ。次からは会議で議案を通してから実行するとしよう。申し訳なかった。この場を借りて謝罪申し上げる」パソンは少し頭を下げた。
数人の文官が頷いている。
夏季にはパソンやハリルが首を傾げている理由がわかっていた。議論が噛み合わないのだ。政務部の大半が、表面上の権力の勢力図にしか関心がない。無知とはなんと幸せなのだろうと、呆れているのだ。その行動の目的などに思い至る思慮深さを、最初から持っていないのか、どこかに忘れてきてしまったのかは、わからないが……。
「続いて、『ドクラエの実遠征の件』。今後の展開の予測から、新鮮なドクラエの実がこれから絶対に必要となると判断し、ラートン隊長を先頭にして数人で遠征を行う」
「好きにするがよい。城の警備がおろそかにならないのなら」しょぼくれたじいさんの一人がくたびれたような口調で言った。
夏季は何人かの文官が自分に向けて目配せするのを目にした。以前から協力的な者も中にはいたが、魔女リカ・ルカが画策した反乱がきっかけとなり軍部に対して友好的な態度に変わった人々だった。中には、夏季がオミリアから呪いを受けて苦悶したことについても心を痛め気にかけてくれた者もいる。夏季は返事の代わりにと、控えめに微笑み返した。
「ハリル副隊長はもちろん頼りになるだろう。ラートンに負けず劣らず兵士たちからの信頼は厚い。旧『使い』たちも城に集まってきておる。その顔ぶれだけでも、抑止力としては効果があるものと考えておる」
パソン議長が続けて話した。
「我々の最終目的は魔女リカ・ルカの討伐だ。今回の遠征先はセボと魔女の住処『ルゴシク山』の、ちょうど中間地点となる。荒野を超えた先……遥か彼方だ。その近辺にどこまで魔女の影響が及んでいるかが把握できていないためたいへん危険な旅となることが予想される。そしてそれが完遂されたときは偵察も併せて成功ということになり、今後のセボの行く末を左右すると言っても過言ではない非常に重要な旅となるであろう。応援の意味も込めて、ぜひ彼らを支援してもらいたい。皆で拍手を送ろうではないか」
形式的ではあるものの、少なくない拍手が大部屋で鳴り響いた。部屋を見渡せば誰が味方で誰が味方でないのかが嫌でもわかってしまう。先ほどから異議を唱えている者たちはもちろん、曇った表情であったり、首を横に振りながら数回手を叩いており、中には一人、二人と、一切手を叩いていない者もいた。ネレーの上司ピルツは、お行儀よく手を膝の上に置き、あまつさえ微笑んでいる。夏季はそれを見つけてしまい腕に粟が立つのを感じた。母親の言葉が思い出される。
【気をつけた方がいいわよ。胸糞悪い事柄を企むことが得意なやつだから】
「それでは各担当から、報告がある者はおるか」パソンが席全体を見渡した。
「財政大臣補佐のネレー・ドゥーラ。どうぞ」パソンは朗らかにネレーの名を呼んだ。
「軍部の補助役として、聴取は継続しておりますが、投獄している者たちの一部については相変わらず反省の弁は一切ありません。早急になんらかの刑に処してもなんの問題も無いかと、個人的には思います」
ネレーの上司、ピルツは信じられないというような見開いた目で隣の部下を凝視した。そして、挙手をすることもなく口を開いた。
「待て、ネレー。お前は正式な軍部の人間でもあるまい。人の生き死にに関して早急に答を出すのは文官としての冷静さや知性に欠けるぞ」ピルツが引きつった笑顔で席全体を見渡した。「失礼致した。今のはあくまで彼の個人的な意見で政務部全体の意見ではない」
「軍部としてはさっさと締め上げて知っていることは全部吐かせるつもりだ」ラートンも挙手をせずに言った。
「だから、さっき申し上げたようにだな」ピルツが食い下がる。微笑みはすっかり歪んでいる。
「なにをためらう必要がある。既に何人もの犠牲者を出しているのに打つ手を打たないまっとうな理由はあるか」ハリルがテーブルをこぶしで叩いた。何人かが驚いてびくっと飛び上がった。
「はいそこまで。ラートンとハリル、落ち着くのだ」パソン議長が片手を上げて制するようにして言った。「それからピルツ大臣。君の部下であるネレーの働きには大変感謝しているが、それも本人の希望があってのことだということを忘れてはいないだろうか? 今彼は文官としてだけではない立場になっているわけで、少し、彼の考えを尊重してやってはどうかね?」
何人かが、そうだ、そうだと、パソンに賛同する声を上げている。
「……別に、ネレーのすべてを否定しようとしているわけではないよ」ピルツは少し表情をやわらげて言った。「まあ、優秀な部下を取られてしまったような気分で、少しあなたに嫉妬しているのかもしれないな……」パソン議長に笑顔を向けた。文官が何人か、笑い声をあげ、パソンも笑っていた。ハリルとラートンはムスッと押し黙っていた。ネレーも目をつむり、腕を組んだままだ。

幹部会議は解散し、部屋からばらばらと人が出て行く。パソンが謝罪したことで怒りや恐怖が収まったじいさん方は、すっかり落ち着きを取り戻したというよりは、興奮した反動かぐったりとくたびれた様子で立ち去って行く。何人かがラートンに激励の言葉を掛けたり、肩を叩いていった。夏季も、「がんばれ」や「気をつけて」などの簡単な励ましの一言を受けるたびに礼を言い、小さな感動が積もってほかほかと胸が熱くなった。ピルツや仲間の文官たちはラートンや夏季と目を合わせることもなくスタスタと歩き去った。夏季は水を差された気分になり、その背中に向かって舌ベロを出した。文官がネレーを除いて皆立ち去った後で、残った者がパソン議長を囲んでいた。
「今日はまあまあだったな」ハリルがうーんと唸って言った。
「何が?」倫が本を開いたままで言った。
「盛り上がり方」ハリルが答えた。
「書類仕事してれば魔女の存在なんか消えるって考えているんでしょうね」倫は顔を上げずに本の文字を追いながら話す。
「まあな。そこかよ、って言う間抜けなツッコミぶりだったな。的外れもいいとこだ」ハリルがウンウンと深く頷いた。
「冷静さに欠けるだとさ。やつらを捕まえてからもう200日以上。あっという間に一年が経ってしまう。そうこうしている間に牢屋の奴らだって何か企んでいるんじゃないのか」ネレーが眉間にしわを寄せて考え込んでいる。「あいつらの顔を見ていると聴取なんか余裕しゃくしゃくって感じでまったく腹立たしい。それに、こんな事態になった今、軍部と政務部に区分けなど必要ないはずなのに……」
「こだわるなあ、君も」ハリルがぽそっと言った。
「ありがとう、ネレー」パソン議長が穏やかに言った。くたびれて去っていった老齢の文官たちと同じくらいの年齢であるはずだが、疲れは見せず、若者の気概に感心してか、笑顔を浮かべていた。「君をはじめとした若手の文官たちの協力なくして、我々軍部はここまで元気にやっておられないからのう。そうじゃろう、ラートン?」
「わたしが戻るまでの間、穴埋めをさせてしまって申し訳ないと思っている」ラートンが涼しい顔で言った。
「そういう話ではないんだ、ラートン。君が戻ろうと、戻るまいと、わたしはセボのためになるように動いているだけなのだ」ネレーは踏ん反り返り拳で胸をドンと叩いた。それを見たラートンは僅かに首を傾げた。
「何がセボのためになるのか……。それを自らの頭で考えることのできる人間は貴重じゃよ、ネレー。目先のことにとらわれないことの難しさたるや」パソンはため息をついた。
「文官がすべて頭でっかちと思われては困るわ」倫が分厚い本を眺めながら言った。「それにしてもまったく、政務部の幹部たちのトロくささといったら……」倫の顔はしかめつらに変わった。
「なにかあったのかい?」ネレーが尋ねた。
「ありすぎて、軍部の株が上がる一方だわ。あなた方軍部はこれだけ自由にやらせてくださるんだからそのありがたみが身にしみているところなの」倫は顔は上げようとしない。会話は続けながらも本の内容からは離れられないようだった。
「言うこと聞かないし手に負えないだけだよ」ハリルが冷たい目つきで微笑んだ。「君は自由にやらせるしかない」
「会議なんて時間の無駄だからこうして勉強しているのにもう何回目かしら。いつも小言をネチネチと」倫が爪を噛んだ。しかし目線は本に向けたまま。
「注意を聞かないお前もすごいが小言を言い続ける彼らも見上げたもんだな。どっちも嫌いだ俺は」ハリルは笑顔で毒を吐いた。
「どういたしまして」倫はハリルの発言など物ともしないで喋り続ける。「ラートン隊長だって本音がにじみ出ているわよ。だいたいいつも最後の方は喧嘩腰だもの」
そして本のページをめくった。
「こちらが正しいと認めさせようと努力しているだけだ」ラートンが言った。
「水と油だな」ハリルが無精髭を撫でながら、肩をすくめた。「ところで最近は財務担当からの、王女の浪費癖へのグチが減ったような気がするが?」
「それどころじゃなくなった。そんな小さなことをつつき回っていた過去の自分を恥じている」ネレーが真面目くさって苦悶の表情を浮かべた。
「王家はほったらかし」倫が肩をすくめて言った。
「まあ、役に立たないんじゃ仕方がない。扱いが難しいな。なあ、ラートン隊長さんよ、王女さんは元気かい?」
「ん? ああ……」ラートンは途端に顔を曇らせた。
「元気すぎて困っていないかい」ハリルがニヤニヤとして言った。
「正直、どう接して良いのかがわからなくなってきてな……」ラートンがぼそぼそと言った。
つねにきっぱりと物を言う彼にはめずらしいことで、その場にいる全員が彼に注目した。
「身を固めればいいではないか」パソンが朗らかに言った一言で、今度はパソンに視線が集まったが、倫だけが顔を上げない。夏季はラートンを見ていた。
身を固める、それの意味することというのは、つまり……?
「それは出来ない。身分が違いすぎる」ラートンがきっぱりと言った。
「王女の命令があっても?」ハリルが念押しするようにして言った。
「たとえ命じられても実質的な効力はない」
「じゃあ断るのか」
「それもできない」ラートンが首を横に振った。
ハリルがため息をつく。
「気持ちはわかるぞ。拒んだときの王女の反応は目に見えているからな。しかしお前らしくないんじゃないか? 相手がかわいそうで遠慮するなど」
「遠慮……か」ラートンがぽつりとつぶやいた。「できれば、二人揃って幸せになりたい。それは幼い頃にお互いに寂しく悲しい想いを共有してきたから。しかしそれは彼女と結婚することがゴールではないと、思う」
「ふーん。いろいろ考えているんだ」倫が興味深そうに言った。「ねえ、夏季?」
「え?」夏季が突然話しかけられて驚き、顔が少し熱を帯びるのを感じた。
「結婚だなんて、まだまだ考えられないよね」倫がやれやれと、首を傾げている。それでもまだ本の文字を追っている。
「そうだね……」夏季がぼそっと答えた。
「まあ確かに。俺のように独り身で幸せなのもいるからな」ハリルが言った。「なんにしても、ラートン。いつかはっきりと言わないとだめだと思うぞ。ベラ王女は発狂するかもしれないが」
「わかってるさ」ラートンは暗い顔で答えた。

結婚か。
ラートンがベラ王女との結婚について考えていると知って、夏季は気持ちがしぼんでしまった。
「すぐには結婚しない」とは言っているものの、「二人で幸せになりたい」とまで想っている相手なのだ。
二人にはとても強い絆があるのはわかってはいたが、いざ現実のものとして受け止めると、胸が締め付けられるのだった。
「大丈夫よ……」そんな気持ちを読み取ってか、倫が耳元で囁いてくる。「遠征で距離を縮めるのよ!」
夏季は倫の顔を見た。幹部会議のときとは対照的に目がギラギラと輝き、満面の笑みだった。政務部の上官たちからしつこく注意されても会議の間中ついに閉じることがなかった本を、ようやく閉じたようだった。夏季は心底呆れた。
「ねえ、倫」夏季が眉を上げて言った。
「何か問題でも?」倫はハツラツとしている。
「楽しいでしょう」夏季は真顔で聞いた。
「わかってきたじゃない、わたしのことを!」倫が夏季の背中をバンバン叩いた。

ようやく散会して戻ってきた書斎の前で、ベラ王女の召使いが待ち構えていた。
「シエ・ラートン様」ニッキが軽く、しかし丁寧にお辞儀をした。「お疲れのところ申し訳ございません。ベラ王女がお待ちでございます」
ラートンは陰鬱な顔で短く息を吐き出した。王女の付き人のニッキからはいつものとおり最大限の気遣いが感じ取れる上に彼には非がない。それでも先ほどハリルと話していた内容が思い出され、肩が少し重くなったように感じ、ため息を自分の中にとどめることはできなかった。
「わかった。今行く」
ニッキとラートンは連れ立って王室棟へ向かった。回廊を歩いているとニッキが口を開いた。
「ベラ王女がどこからか遠征の噂を聞きつけたご様子で」
「そうか」ラートンは短く答えた。
「あなたがお優しいので王女も頼り切っておられるのです。たまになら拒絶するのもアリなのではと……」
「わかっているよ」ラートンは弱々しく微笑んだ。「だが、それをした後の王女のことを思うとそうもいかなくてね」
「それもわかります。しかし王女自身にとっていちばん良いことであれば結果的に傷つけてしまったとしても致し方ないのでは?」ニッキがラートンの表情を気遣いながら言った。
「ニッキ。君は心底ベラのことを考えているんだな。わたしなんかよりもずっと」ラートンは微笑んだままで言った。
「それは違います。王女のためであると同時に、あなたのためでもあるように、近頃は特に考えているのです。もしもあなたが王女のことで様々なことを躊躇われたり、我慢されたりしておられるのであれば、回り回って王女もあなたも幸せにはなれないのではないかと」
ラートンがとつぜん声を上げて笑ったので、ニッキは面食らった。城の中でそのような彼の姿を見たことがある者はいないのではないかと思われた。ラートンはその場で腹を抱えてうつむいた。笑いが収まると顔を上げ、長めの前髪の隙間から潤んだ黒い瞳をのぞかせた。
「君はわたしの心が読めるのか? 確かに最近は少しだけそのような類のことが頭を巡っているよ。悩みはするが、最終的にけじめはつけるつもりでいる」笑いをこらえる様子で、ラートンが言った。
「いいえ。差し出がましいことを申し上げました。お許しください」ニッキが再び頭を下げた。
「ありがとう、ニッキ」ラートンは小さく深呼吸をしてから、再び微笑んで見せた。

部屋に通されると、ベラ王女がソファに腰掛けて、こちらを睨みつけていた。彼女がまとう空気は挑戦的でさえあった。
「城にいてちょうだい」開口一番、王女が強い口調で言った。
「出来かねます」ラートンは静かに、短く答えた。
「ずっとずっと、いつも、いつまでも、わたしのそばにいてほしいの」ベラ王女は手元の布地をキュッとにぎりしめた。
「そうしたい気持ちはあるのですが、国の危機なのです。最大級に警戒して、敵に隙を見せてはいけない状況なのです」ラートンは手を胸に当て、王女の目を見て言い聞かせるように丁寧に話した。
「この国がどうなろうとも、あなたを失うことの方が恐ろしいわ」ベラが立ち上がった。
「国を背負う立場であるあなたのようなお方が、そのようなことを言ってはなりません」
ラートンが眉を上げて厳しく言うと、ベラ王女の両目には途端に涙が溢れ、激しく首を横に振った。
「誰もわたしをそのような人間として扱っていないのは知っているわ!」いっそう声が大きくなり、身振りも激しくなった。「ちょっとしたお食事会を開けば国の金の無駄遣いだと。新しいドレスを注文しても良い顔をされない。まるで着せ替え人形だと。顔が整っていて何もせずただ玉座に座っているお人形なのだと。わたしが何も知らないとでも思っているの!?」
最後はヒステリックで、叫ぶようだった。
「あなたが必要としてくれなければ……わたしの存在など……」
なにか慰めの言葉をかけるべきタイミングで、ラートンはどうしても言葉が見つけられなかった。敵との対峙でも、文官とのやり合いでも弁舌なめらかに言い返すことができるのに。ベラ王女に彼女が求めている優しい言葉をかけることが出来ないのは、そうするべきではないと思わせる、ちょっとした引っかかりのようなものを感じるからだった。「それが本当に彼女のためになるのなら」そうしているが、何かが違う……。答えを見出せないままで、ただ目を伏せて、何度も首を横に振り、静かに踵を返した。ソファに突っ伏してむせび泣くベラ王女から逃げるようにして、ラートンは部屋を後にした。
なにがけじめだ。
結局俺は何も出来やしない。うまくいかない……。
「ご自分を責めないことです。あなたは間違っていない」
すれ違いざまにニッキは小声でラートンに声を掛けた。
ラートンはニッキと目を合わせずに、少し頷くのがやっとだった。

そうなのだ。
ベラは俺に寄りかかっている。自分の足で立とうとしてくれない。これではいつまでも変わらない。
「二人で幸せになる」というのはそういう関係ではだめなのだ。俺も少し前まではたった一人で立っているような気持ちでいたが、気付いてしまったのだ。ひとりですべてを背負うことは不可能で、人と関わり合って補いあわなければならない。
しかしベラ王女に説いたところで今の状態ではわかろうともしてくれない。
ただただ自分がかわいそうで、ぶつける先は、俺か、ニッキか。
誰か彼女の心を溶かしてくれないものだろうか。
俺にはできない。
早く遠征に出かけてしまいたい。なにもない荒野で未知の輩と剣を交える方が、いくらか気が楽に違いない。
俺は逃げるのか。そうだ。逃げたいのだ。王女から。

「着せ替え人形でけっこうよ」
ベラ王女は、ニッキから受け取った真っ白なナプキンで涙を拭いている。不機嫌ではあるが、つい先ほどまでの取り乱し方とはまったく違い、驚くほど冷静な様子だった。
「シエと一緒にいられるならなんだってするわよ」
ニッキは何も答えず、表情も変えずに、お茶を入れている。王女が就寝前に飲む少し甘い飲み物。
「きっとわたしを少しかわいそうだと思ってくれている。あんなにつらそうな顔をしていたんだもの。帰ってきたら、きっとわたしに謝って、求婚を受け入れてくれるわ。そう思うでしょう、ニッキ?」
「わたしの口からは確かなことは申し上げられません」ニッキは淡々と答えた。
「そう。あなたはそう思っていないのね。見ていらっしゃい」ベラ王女が不敵な笑みを浮かべる。
「そろそろ就寝のお時間ですので。失礼致します」
「今日もご苦労だったわ。ごきげんよう」涙を拭いたベラ王女の顔は明るく自信に満ちていた。
ニッキは扉の前でしばし立ち止まり、祈るように目をつむってから、部屋を出て行った。

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