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夢を駆ける黒馬

第二章/はじまり

しばしご歓談を、と言わずとも、乾杯の後は途端にそれぞれが好き勝手に話し始めた。
シエ・ラートンは、喧噪の中に放り込まれた途端、ここへ来るまで胸の内にもやもやと絡まっていたものがこつ然と消えてしまうのを感じた。この場所では「今を楽しむ」こと以外はどうでもいいものになってしまうようだ。場の明るさに目がくらみそうになる。

夏季の目にはラートンが乾杯の席で少しぎこちないように映り、そんな彼の様子がおかしく思えてラートンに表情が見られないように顔を背けていた。
「何笑っているんだ?」隣の哲が夏季の肘をつついた。
「だって。隊長がここにいることがおもしろくて」
「確かに」哲もにやりと笑った。「イルタからラートンを誘ったって聞いたときは信じられなかったけど、本当に来るんだもんな」
「案外隊長もふつうの人なのかな」
「そいつはどうだろう。どう考えてもふつうじゃないところを俺たち何度も見てきているんだし」
「『隊長』としてはそうだけど、考えてみれば年もそんなに違わないんだよ?」
「やけに贔屓だな。ちょっと前まで憎たらしい相手だったのに。もう恨みは晴れたわけだ?」哲が眉を上げて言った。
「そんなことないよ。鞭で打たれたことは絶対に忘れないし許さない」
そう言ってラートンを見つめる瞳は優しい。傾けたグラスに口をつける夏季の横顔に、哲は少し苛立った。

「さっそく、シエ・ラートン隊長とイルタ・ニトルス二等兵に伺いたいんだが、君たち二人はどう生き延びた? そしてどうして膨大な時間をかけてセボの城に戻って来たんだ?」
アレモが口の周りにビールの泡をつけたまま、大きな声で言った。
「その話、まだ早いんじゃない?」アレモの頭上にウォローが拳を振り上げた。
「いや。酒が回る前に話してしまおうか。その方がいいだろう」ラートンが静かにグラスを置き、テーブルの上で両手の指を組んだ。
「そうねえ。隊長のろれつが回らないところも是非見てみたいけど」
倫が言うと、夏季とユニがくすくすと笑った。
ラートンは笑わなかったが、怒っている様子もなかった。穏やかな顔で皆の顔を見回す。
「今日この席に招待してもらえたことに、とても感謝している」
ラートンが語りかけると、それが合図となって自然と静かになった。
「自分の気持ちを顔に出すことがあまり得意ではないから伝わりにくいかもしれないが」
あのときは相当怒っていたんだろうな、と夏季は心の中でつぶやいた。
ラートンの書斎で怒りをぶつけられたことが懐かしい。
「それも、わたしと運命を共にしたイルタのおかげだな。わたしは彼とつながり、そして君たちとつながりを持った」

ラートンの語りは耳に心地よかった。誰かと視線を交わすこともなく伏し目がちに、物静かに、しかし端的にわかりやすく、滑らかだった。
リカ・ルカ派蜂起の日、荒野での闘い、瀕死の重傷を負い、イルタに庇われ、丸3日間傷の痛みに耐えたこと、ユエグ親子との出会い、秘密の武器庫、そしてパパス・ユエグの正体。
ラートンが15分ほどかけて語り終えたとき、皆がフォークを使うカチャカチャという音だけが、余韻のように残った。

「カルーの野郎が」アレモが暗い顔で言った。
「悪政の5年……ね」ウォローが陰鬱な顔でつぶやいた。
「『風使いのパパス』? 俺の他にも『風使い』がいるのか?」哲がラートンの顔をまじまじと見つめる。
「だって『水使い』もつい最近まで2人いたじゃない。他の『使い』が2人いたっておかしくはないような」倫が言った
「倫の言う通り、夏季に起きた現象が他の『使い』にも起こり得る。前回の『使い』がまだ生きている場合、絶対に敵に渡してはだめなんだ」ラートンが顔を上げずに言った。両手は相変わらず、テーブルの上で指を組んでいる。「それから現在の『使い』が早急に強くならなければたちまち魔女に乗っ取られる危険がある」
「強くなるったってな。俺たちみたいな平凡な人間がそう簡単にレベルアップできるとは思えないけどな」俊が率直な意見を述べた。後頭部で手を組んで、天井を見上げている。夏季も倫も哲も同じ意見で何度も頷いてみせた。
「もちろん簡単ではないだろう。誰だって何もせずに力を手に入れられるわけがない。自身が特別ではなく平凡だというのならなおさら意識を高く持つべきだ」ラートンは少し顔を上げた。言葉には厳しさが伴うが、目つきは多少、やわらかい。
「だからって何をどうすれば……」俊は少し苛立っていた。背もたれをキイキイと鳴らしている。
「君たちへのアドバイスは、パパスをはじめとしたかつての『使い』に協力をお願いするつもりでいる。近いうちに合流して集中訓練を始める」ラートンが言った。
「使い」の4人は目線を交わした。「集中訓練」とは不穏な響きだった。兵士の「訓練」ですらなかなかのハードさだったところへいかほどの過酷さなのだろうか?
「アレモ、そのサラダとって」ウォローが小声で言った。
「使い」の4人が静まり返ってしまったため、イルタ、アレモ、ウォローは居心地が悪そうだった。
「ちょっとよろしいかしら」それまで調理と給仕に徹していた酒場の店主のユニと息子のスアンが、ビールジョッキと腰掛をひとつずつ持ち、ラートンの隣に座った。夏季たちはぎょっとしてユニとラートンへ目が釘付けになった。
「まずはお疲れ様。そしてお帰りなさい、シエ・ラートン隊長、イルタ・ニトルス二等兵」
ユニはにっこりと微笑み、ジョッキを掲げた。スアンもそれに倣い、イルタとラートンも同じようにグラスを掲げた。
「遅かれ早かれあなたはオスロがいたポジションに就くはずの人間よ」
「わかっています」ラートンは冷静に答えたが、グラスを握る手には少し力が入っていた。
夏季は固唾を飲んで見守った。ユニの口からオスロの名を聞くのは久々であったし、もう二度と、聞かれることはないと思っていたからだ。だって、あまりにも暗く繊細な話題だ……。今、ここで、何を言おうとしているのか、皆気がかりであるはずだった。ちらりと横を見れば、哲だって顔がこわばっている。
「どうこう言うつもりはないわ。安心して!」
ユニは笑って、ラートンの背中をドンと叩いた。ラートンは呆気にとられ、彼のグラスから飲み物がこぼれた。
「何やってんだよ、母さん!」スアンが思わず大きな声を上げた。
一瞬、静まりかえってから、皆の笑い声であふれた。ラートンですら、声は上げないものの、控えめに微笑んでいる。
「あら、ごめんなさいね」ユニがゴホンと咳払いした。
「あなたはとても自分に厳しい人。それは見方によってはとても素晴らしいこと。でもね。他人には少しだけ、優しくなってほしいと思っていたの」
夏季と倫はまだクスクスと笑っていたが、やっと顔を上げて、ラートンに語りかけるユニの言葉に耳を傾けた。
「自分への厳しさをそのまま他人にも向けている。皆が皆、あなたのように打たれ強くはないのですからね」
そうだ、そうだ、とアレモと俊がはやし立てる。ウォローがそれをたしなめて、イルタはニコニコと笑っている。
「でも、それも杞憂だったわ。今日、あなたの身に何かが起きたのかをあなた自身の口から聞いているうちに、要らぬ心配だったと、思いましたよ」
ええーっ、と、倫と俊が合いの手を入れるのを、夏季と哲が呆れ顔で眺めている。
「わかるでしょう! あなたが城下町への門をくぐったときのことを思い出してちょうだい。皆、あなたがいなくなってはじめてわかったのよ。セボにとってシエ・ラートンは宝のような存在。どうか皆の力になって。皆があなたを頼るわ。そしてあなたはそれに応え得る強さを持っている。あなたにはできるはず」
「長々とごめんなさいね」ユニがハッとした様子で言った。「簡単に言うと、重圧につぶされずにがんばってほしいっていうことよ。主人の後継者をはげましたいだけ」
「最初からそう言ってよぉー!」倫が掛け声をかける。
「いよ! セボの女番長!」アレモが叫んだ。口笛や歓声でたちまちにぎやかになった。
「やめてちょうだい」なぜかユニはひどく照れている。
「……気は済んだかな、母さん」スアンはため息をつき、首を横に振った。
「ありがとうございます。ムスタさん」ラートンはグラスを握る手の力をゆるめ、目を瞑った。何か祈っているようにも見えた。
「もう一つだけ、ちょっとバカみたいな話をしていいかしら」ユニは急に立ち上がり、皆をゆっくりと見渡した。「わたしね……。まだ信じているのよ。オスロは裏切り者なんかじゃないって」
ユニはビールジョッキを高々と掲げた。
いわくつきの死を遂げた故人について、ひどく前向きな未亡人への、惜しみない歓声と拍手、そして苦笑いが店の中を満たした。

スアンが皿を片付けに行ったのを見計らって、夏季はユニの隣の席に移動した。向かいの席では倫が頬杖をついている。
「ユニさん。オスロ師士がわたしに宛てた手紙には、お母さんと……お父さんのことが書いてあったんです」
「そう。そうだったの。教えてくれてありがとう」ユニは微笑んでいたが、少し哀しげだった。「本当に、大事なことはすべて、オスロが請け負ってしまったわね」
「わたしもセボに来たばかりの頃は、まさか2人がセボに関係があるだなんて思ってもみなかったので」何度か、ユニが夏季の両親について知っている素振りを見せていたのだが、けっきょくはオスロの手紙を読むまで聞けずじまいだったのだ。それにまさか手紙に両親のことが書いてあることなど予想していなかった。
「オスロ師士の手紙を読んだら急にお母さんに会いたくなってしまいました。会って、お父さんの話をしたい。お母さんは嫌がるかもしれないけれど……」
「きっと大丈夫。聞かせてくれるわ。大切な人を失った悲しみは重たいけれど、少しずつ、時が癒してくれるものよ。わたしも六季に会いたいわ」
ユニにとっての重たい悲しみを癒すための時間はまだ十分とは言えないはずだが、彼女なりの昇華の方法は、明るく振る舞うことなのだろうと、夏季は思った。
「会えるんじゃない? だってあなたのお母さん元『氷使い』なんでしょう」倫が夏季に言った。「さっき隊長が集中訓練のためにかつての『使い』を呼ぶって言っていたもの」
「そんなことできるのかな?」
「『やる』って言ったらやるんでしょ、ラートン隊長は。頑固で、わがままで、一度言ったらきかない感じ」
「倫、酔ってるの?」夏季はラートンに聞かれていないかと、ユニを挟んで向こう隣にいる彼をこっそり見やりながら、言った。幸いなのか、ラートンは、くだをまくアレモに冷静に対処しているところだった。
「残念ながら、シラフね」倫はニタリと笑った。
「残念もなにも、シラフであろうがなかろうが」ユニは呆れ顔で言った。
「さっすがー、ユニさん。女番長!」とつぜん倫が声高らかに言うと、ふたたび口笛や歓声でにぎやかになった。執拗に絡んでいたアレモの気が逸れた途端、ホッとした様子のラートンと目が合い、夏季は思わず笑ってしまった。ラートンは静かに、グラスに口をつけた。
「もう、やめてちょうだい!」悪ノリで盛り上がる男たちの歓声に、ユニが顔を赤くして、空になった大皿を持ち、カウンターの裏に逃げて行った。

「そうだ」ラートンが、周囲の喧騒をものともせずに、とつぜん背もたれにかけた外套のポケットを探りだした。「忘れないうちに渡しておこう」
夏季は、ラートンがふつうに物を探すという、めずらしく無防備な雰囲気が嫌いではなかったのでまじまじと見つめてしまったが、そんな彼が、あろうことか自分に向かって突然小さな皮袋を差し出したことに驚いた。
「これは偶然貰い受けたものだが、君が必要としているものだ」
夏季は困惑して、周囲を見回してから、「私に?」と自分を指差した。
「そう。君にだ」ラートンが表情を崩さずに言った。
夏季は訝しげな顔で、皮袋の紐を解いて中身をつまんだ。それは小さな粒で、黒光りするくらいに濃い、紫色の木の実のようだった。皺があり硬いので、保存用に乾燥したもののようだ。
「ドクラエの実……」倫が呟いた。
「本当に?」夏季が倫とラートンの顔を何度も交互に見て、説明を求めた。
「『風使い』のパパスから貰い受けた。彼が『使い』だった頃に手に入れたものだそうだ」
手の中にある実をしばらく見つめた後で、
「……嬉しい」と夏季は噛みしめるように言って、予期せず溢れた一粒の涙を手の甲で拭った。
「そうね。やっと治るのよね」倫が優しく微笑む。
「今日は本当にいろんなお祝いだな」イルタがぽつりと言った。
「この実ってどうすればいいの? 食べればいいの?」夏季が明るく言った。
その場が静まり返った。
「うそでしょ。誰も知らないの?」と倫。
「倫が知らなければ誰も知らないだろ」間髪入れずに俊が言った。
「ユニさんは?」夏季が藁にもすがる想いで、カウンターの方に声をかけた。皿を洗っていたユニが、ひょこっと顔を出す。
「それが、だいぶ前のことで、いろいろな薬草がいろいろな方法で使われていたから……」
ユニがモゴモゴと言った。
「例えばどのような?」ラートンが促す。
「食べる、すり潰して塗る、燃やして煙を吸う、ジャムにしてパンに塗る」ユニが考えながら言った。
「全部試してみればいいよ」ウォローがあっけらかんと言った。
「それもそうだな! じゃあ全部食べちまおうぜ!」アレモが元気よく言う。そして目の前の料理をガツガツと平らげる。
解決したことになるのだろうか? 確かに分からなければいろいろな方法を試してみれば良いのだろうが……。
「まあ、私も協力するからさ」不安な顔の夏季を思いやってか、倫がウインクを飛ばしてきた。
「お願いね……」夏季は弱々しく笑った。
「当座は夏季の呪いもパパスにもらった実で緩慢ではあるが良くなるはずだが、その実だけでは即効性がない。いずれにせよ近いうちに『海と光の国』までドクラエの植物を採りに行かなければならないと考えている。『黒』の脅威に備えなければならない」
「そこって遠いの?」倫が聞いた。
「荒野よりは遠いな」イルタはぷかぷかと煙草をふかしている。
「直接行きたいのは山々だけど……」倫がしぶい顔をする。
「ああ。文官としての仕事を優先してくれればいい。私が人選したメンバーで遠征するつもりだ」ラートンが言った。
遠征と聞いた夏季はすぐに、水の洞窟へ行き、激しい戦いを繰り広げたことが思い出された。そしてラートンが途中で行方不明になったことも。また危険な旅が始まるのか、と考えたところで、夏季はふと思った。
どうして私はすでに行くつもりになっているんだろう? さんざんな目に遭ったのになあ。それに、ラートンがさっき人選するって言っていたじゃない。わたしが選ばれるとは限らない。
仮に自分が選ばれなかったとして。たとえば、馬にまたがった哲や俊を見送る場面を想像すると、なんだかしっくりしないというか、不満とまではいかないけれど、城に残されるのは少しさびしいような、複雑な気持ちになるのだった……。

皆で残らず料理を平らげた。
いざ会計の時になると、上機嫌の俊がやたらと多い金額を出したがったので、皆遠慮せず彼に従った。あとはユニが少しばかりオマケをしてくれた。
会計をまとめるなり、ユニと倫が世間話を始めたりで、なんとなく酒場の前で突っ立っている時、イルタが夏季に聞いた。
「ねえ夏季。聞いてた話からすると、一時期より随分と呪いの影響が小さくなったようだけど、どうしてなんだ? ドクラエの実のお土産があんなにうれしいものだったってことは他に効く薬もなかったんだろう?」
夏季は、言葉を発する前に少し考えてから、答えた。
「元気が出ることを考える」
「それだけ?」
「それがなかなか難しいんだけどね」夏季が弱く笑った。「ある時コツを掴んでからは、同じことを考えると条件反射みたいに効果が出るようになった」
「へえー。何だろうね、その『同じこと』って?」ウォローが興味津々で聞く。
「ここで言っちゃうと、効果がなくなりそうだからやめておく」
「じゃあドクラエの実で完全に治ったら教えてよ」
「それは、どうしよう……」夏季は少し耳を赤くした。
「なんだっ。卑猥な内容なんだろっ」俊が大声でわめき散らした。夏季の顔に唾がかかる。
アレモとイルタが俊の腹に同時に拳を打ち込んだ。俊は道端にしゃがみこんで動かなくなった。
「あいつ調子に乗りすぎだろう」アレモが苛立ちも露わに言った。「今日は特にうざい」
「あー、でもあれだな。興奮して目から火が出るとかは無くなったんだな」イルタが思い出すように、言った。
「そうそう。よくわからんがあいつなりに成長はしているんじゃないかな。まあ何より楽しそうだからいいんじゃないの」
哲が差し出したハンカチで、夏季は顔を拭いていた。
誰ともなしに歩き始めた。皆、ふり返りふり返り、ユニとスアンに手を振った。
夏季は話題が逸れたことにホッとして、少し先を歩くラートンの背中を見つめていた。彼の怒った顔を思い出すと元気が出るなど、そんな話を聞いたらみんな引くに決まっている。
今、このときは、耐え難い頭痛に襲われる予感など一つもない。
幸せだった。

城に着くと、それぞれの寝床のある建物に別れた。二等兵の宿舎と、幹部棟へ。へべれけの俊は、イルタと哲に両肩を支えられている。その後をアレモが覚束ない足取りでついていく。彼らを見送り、ウォローは女子棟へ向かい、残った3人が幹部棟へ向かった。急に静かになり、3人それぞれがしばらく何も言わずに歩いていた。
「疲れたでしょう。ラートン隊長」倫が声を掛けた。
「ああ、疲れた」ラートンが回廊の天井を見上げて答えた。
倫と夏季は顔を見合わせてから、ラートンに気付かれないように声を押し殺して笑った。
ラートンと別れた後で、夏季と倫は吹き出した。
「ふつうバカ正直に『疲れた』なんて言わないでしょう」倫が言った。
「本気でめちゃくちゃ疲れたんだよ、きっと」と夏季。
「えー、かわいそー」を連呼し、クスクス笑いながら、倫と夏季も隣り合った自室の前で別れた。

ラートンは本当にめちゃくちゃ疲れていたため、部屋に帰るとそのままベッドに倒れこみ、眠ってしまった。

幼いラートンは、木馬に乗ってご機嫌だった。
軽い布地のカーテンが窓から入る風にそよそよと揺れ、部屋には絵本や玩具が散らばっている。
母親が微笑んでいる。見守られて、木馬を夢中で揺らしていた。
木馬はいつの間にか漆黒の毛並みの馬に、ラートンも青年の姿に変わっていた。
黒馬は一つの蹴りで一つの山を飛び越え、もう一つの蹴りで大河を渡った。
あまりにも軽々としたすばらしい跳躍をこなすその馬を完璧に乗りこなすラートンは、思わず笑みがこぼれた。気持ちの良い風が頬をなでていく。
そして最後に目に入ったのはこの世の水を全て集めたかと思われるような黒い水の塊だった。
あまりにも大きな水溜りは果てしなく続き、やがて現れるいちばん向こう側は水平な線となっている。
ざあざあ、ごうごうという波の音、それから鼻をくすぐる潮の香り。

早朝、目を覚ましてもまだかすかに香りが漂っていた。

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