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帰還

第二章/プロローグ

あご髭をこすると白いカスが風に浮いた。ユエグ親子から持てるだけの食料を譲り受けたものの食の事情はあまり芳しくない。加えて直射日光に空気の乾燥により皮膚が傷んでおり、手はひび割れ血が滲んでいる。頬を触れば痩せこけているのがわかるが、なにより隣を歩くラートンの姿を見れば、自分の風貌が想像できた。ラートンのあご髭は無精に伸び頬はやつれていた。しかし彼と自分、違うところがあるとすれば目つきだろうとイルタは思った。日が経って疲労が積み重なってもラートンの黒目はきらりと輝き、目標に向かって光がぶれることはなかった。
「隊長、もうすぐですね」
「ああ。あと少し。見ろ、セボの城だ」
ラートンが指差す先にいくつもの尖塔をたたえた白いシルエットを見た。今はまだ見えないがやがて風にはためく青い国旗を目にするだろう。痛む足を拳で叩き、喝を入れた。

二人は話し合った末に遠回りの旅を選んだ。人里離れた場所でひっそり暮らす人々がユエグ親子だけではないことに気づかないわけにはいかなかった。そうするべきだった理由は人それぞれだろうが、当初のユエグ親子のように城下町へ行くなどもってのほかという反応があったり、明らかに日々盗みを働いているような小悪党まで相手の様相は様々だった。したがって、説得は決して全てがうまくいったとは言えずそれも仕方がないと諦めるしかなかった。そうこうしているうちに当初長めに設定した日程がさらにオーバーしたため、水も食料もギリギリのラインで、ようやく城下町が目と鼻の先となり、ホッとしたところだった。
「ついに帰ってきたんだ……」
イルタの目には自然と涙が溢れてきた。
背中を切りつけられて地面に倒れたあの日から、200日近くが過ぎようとしていた。

「ラートン隊長が帰ってくるらしい……」
城の回廊を歩いていると哲は久しく聞かなかった名前を聞いた。思わず、立ち話中の兵士の腕を掴んだ。
「何だよ急に……、って、哲じゃねえか。びっくりさせるな」驚いた兵士が哲の顔を見て言った。
「ラートンが帰ってくる?」哲は構わず兵士の言葉を繰り返した。
「らしいぜ。さっき偵察兵が大慌てでパソンに報告しに行ったよ」
「間違いないか?」
「本当だって。城から荒野に向かう方向で、偵察兵がシエ・ラートン隊長とイルタ・ニトルスを発見したんだとさ……っておい!」
哲は相手が言い終わらないうちに駆け出していた。説明していた兵士はぐんぐん小さくなっていく背中を、ただ見送ることしかできなかった。

「ちょっと、その本まだ見てないから置いといてよ」
まったくもう、と言われているのと同じだった。俊は舌打ちして、たった今持ち上げた、この世の終わりのように分厚い本を机の上に落とした。どん、という大きな音と共に、灰色のもやが立ち上がった。
「埃が立つからやめて。ほら、見ればわかるでしょう?」
倫は、立ちのぼる埃の粒を勢いよく指差している。そして俊をぎろりと見上げた。
「へいへい」
俊は本気で怒る倫にひるみ、頼まれた仕事を持ってさっさと退散することにした。うずたかく積まれた書類の山の一つをつかむと、また倫に睨まれた。
「そっちじゃなくて……こっち! 明日の朝までによろしくね」書類の束を掴み、俊の目の前に突き出した。
「了解」俊は素直に指示に従い、倫に示された書類の山を、よっこらせと抱え上げた。
「お前の字をそっくり真似してサインすりゃあいいんだよな」
「そういうこと。前に哲がやらかしたミスを、しないようにね。わたしは夏季と違うから容赦しないわよ」
倫はにこりとも笑わなかった。
俊は無表情で書斎を出たが、こめかみには筋が浮かんでいる。階段を二つ上がり、廊下を三つ渡ってようやく自分の部屋の前に着いたとき、両手がふさがり扉を開けられないことに気づいた。ここまでよく我慢したと自分を褒め称え、深呼吸すると口を開いた。
「……文官に格上げされたからって、俺をこき使いやがって! 本でも食ってろ! ブス!」
「なんか、懐かしい光景」
「おう、いい天気だな、お嬢ちゃん」突然の来訪者に、俊はムスッと挨拶した。
「今更お嬢ちゃんはないでしょ」
「悪い悪い、つい前の癖が」
夏季が扉を開けてやる。
「倫がね、俊がいちばん使いやすいって言ってたよ」
「使いやすい……」俊は言葉を反芻してふてくされた。
「わたしも前書類の山を抱えて立ち往生したことがあったっけ。だから今の俊には優しくできる」
「ああ、そうだな。忘れもしない憎たらしいラートンとの懐かしいエピソードがあったよな確か。……ところで聞きたいんだが、男子の聖なる領域に当然のように踏み込んでいるが、なんの用だ」
「これ、哲に返そうと思って。飲み物こぼしたときに貸してくれたんだ」
夏季はひらひらとハンカチを振って見せた。俊は哲の方がよっぽど女の子らしいと思った。
ふつう、ハンカチは女が男に貸すものだろう。
あら、今の時代、世界が違っても男女にこうするべきっていう決まりはないわよ。男だって律儀にハンカチを持つし、女だって男勝りにハンカチを忘れる。そして、女のわたしがあんたより格上の文官になっている……ほらね。
誰かが言いそうなセリフが一瞬にして頭に浮かんで来た。
「はいはい、そうですね」
「なによ」夏季が凄む。
「別に。こっちのことだ」俊は大きくため息をついた。それから急に思いついたように、夏季の顔をまじまじと見つめた。 「お前な、ここはそう気軽に来るもんじゃないぞ。男子寮の意味するところは、野獣の巣窟、ということだ」
「別に平気だよ。わたしが来るのは哲に用があるときだけだし」夏季がけろりと言う。
「哲も一応男だってことを忘れないでくれ」俊は哲を哀れに思った。
「それに襲われたりしたら水鉄砲でぶっ飛ばしてやるから」
「それもそうだな」と俊は納得した。
とつぜん、回廊の奥から足音が近づいていた。誰かが走ってこちらにやってくる。俊と夏季は近づいてくるシルエットに目をこらした。
「噂をすれば、だな」
「なんだろう。訓練だってあんなに速く走らないのに」
「腹でも壊したか」
二人は何気ない気持ちで哲を待った。

「あれ、ラートン隊長じゃない?」
「うそ」
「本当だ、ラートン隊長だ!」
城下街に入ると、次第に人々が騒ぎ始めた。裏門は閉鎖されていると荒野で遭遇した偵察兵から聞かされていたため、正面の門をくぐるしかなかった。必然的に城下街をつっきることとなり、騒ぎは免れない。人々はぼろぼろの身なりの二人を、半信半疑で遠巻きにしていた。寄らず、離れず、微妙な距離感に、イルタは気まずさを感じて思わず道を引き返したくなった。
俺が帰るべき場所はセボに存在するのだろうか。俺のことなんか忘れ去られているのでは……。
「イルタ!」
突然自分の名が呼ばれはっとしたが、声の主を見つけないうちに、大きなシルエットが飛びかかった。イルタは背中から地面に叩きつけられそうになるが、相手はイルタの首にしがみついて離さない。足が地面から浮きぶら下がっている状態だった。野次馬が口笛を吹く。
「おいおい、帰還したばかりの英雄を絞め殺すなよ」
「お前二日前に腕相撲で10人抜きしたばかりじゃないか」
それまでのざわめきから突然笑い声が起こり、明るい空気で溢れた。
ようやく女がイルタを解放したとき、彼女の目には涙が溢れていた。イルタは指先で優しく拭ってやる。
「まさか帰ってくるなんて……」
「思わなかった?」
「いいえ、信じていた。わたしも、アレモもだって……、みんなずっと待っていたのに! いつまで待てばいいのかと……」語尾は最後まで続かない。
「ただいま、ウォロー。待たせて悪かった」
イルタがウォローの肩を抱き、ウォローが再びしがみついた。野次馬の拍手、口笛、笑い声、光が二人を包みこんだように、辺りは明るかった。
「やっと帰ってきたな」
慣れ親しんだ男の声に、イルタははっとして抱擁を解いた。
「ああ、遅くなったけど、帰ってきた!」
アレモとイルタは力強く抱き合った。ウォローのときよりも大きな口笛が鳴り響いた。そして再び笑い声。しかし親友二人の言葉にならない雄叫びがそれらをかき消した。イルタの目にもアレモの目にも涙が溢れた。
「おい、どうしてなんの連絡も寄越さないんだ! どれだけ心配したと思ってる! 俺も、ウォローも、ユニ、街のみんな! 哲や俊、夏季! 倫! みんな、みんなお前が生きてるって証拠を毎日探していたんだぞ!」
アレモの声は怒声だが、顔は満面の笑みでなりふり構わず涙を流していた。
「ウォローが、あのウォローが毎日泣いてたんだぞ……俺、あいつがあんなに女々しいと、どうしたらいいか分からなくて……抱きしめてやりたくなったけど、そんなことしたらお前に怒られるだろう? ほんと毎日困っていたんだ」
イルタは吹き出した。アレモの言っていることがこの上なくおかしく思った。親友の恋人を抱きしめたくなったと、本人たちの前で打ち明けるなんて。

「お帰り、イルタ」
聞き慣れない低い声だが、落ち着きのある話し方には心当たりがあった。振り向くと、ひょろりと背が伸びた、青年が立っていた。背丈はイルタより少し低いが、そう大して変わらない。
「哲か?」
青年は微笑んで、静かにうなづく。
「大きくなったなあ!」
イルタは思わずその頭をポンポンと叩いていた。
「そんなに変わってない……」
困惑した表情で言いかけた哲に、アレモが殴りかかった。
「おい。街の女独り占めにしているくせによく言うぜ。お前には夏季っていう決まった女がいるんだから大人しくしてろや!」
「俺はなにもしていない」
イルタの帰還でテンションの上がったアレモに羽交い締めにされている哲は、なんとか手を差し出してイルタと握手を交わした。
「夏季とはそんなにうまくいっているのか?」
イルタがにやにや顔で哲の耳に囁いた。
「う、うまくもなにも、別にこれといって何かあるわけでもないし」
哲がどぎまぎと答えるのを見て、イルタは少しホッとしていた。変わってないな、と。
「君の仲間、みんな元気か」イルタが哲からアレモを引きはがした。
「ああ、元気すぎるくらいだ。俊と倫も今に来るよ。本当に無事でよかった」
イルタはふと、哲の横に微笑んで立つ少女に目を留めた。
「夏季か?」
「そうですけど……。わたしの顔を忘れるほど長い時間が経ってしまったんですね」
イルタは差し出された華奢な手を取り、握手した。以前の夏季とはまったくの別人のように思え、哲の隣にずっといたはずなのだがそれが彼女だとは気づかなかった。哲には敵わないものの、それでも少し背丈が伸び、髪は耳が出るか隠れるかくらいのショートカットだった。何よりも頬の肉が落ちた顔つきが精悍で、以前の彼女とは似ても似つかない。彼女になにが起きたのだろう。
「ずいぶん変わったんじゃないか?」
イルタは心底驚いていた。
「髪型ですか? 邪魔だったんで倫に切ってもらいました」
夏季はにこりと笑う。笑顔は無邪気なままだった。
「まあ、髪型もそうなんだけど……」
「あれ、本当にいる!なんだよ、生きてるなら早く知らせろや」
遠くから、俊が叫ぶ声が聞こえてきた。
「え、あれがそう? ずいぶんワイルドになったものねえ」
隣で倫が手で庇をつくってこちらを眺めている。呑気な調子だった。
「来たよホラ。あいつら」哲が肩をすくめた。
「変わんねーよな」イルタのにやにやは止まらなかった。長旅で強張っていた表情がほぐれていくのが心地よい。
「確かに変わってねえな。少し仲良くなったくらいじゃねえか?」アレモがため息をついて、小声で言った。「だから余計に五月蝿くて参る」
イルタは笑った。

イルタはふと周囲を見回した。
「あれ、ラートン隊長は?」
「え、隊長もいっしょだったの?」ウォローが言った。
イルタは人混みの向こうに、カラフルな市場の真ん中の砂利道を、一人城へ向かい歩いていくラートンの姿を見つけた。
「ラートン隊長!」
嗄れた声を精一杯しぼってラートンの背中に呼びかけた。しかしラートンは振り向かず、手を高く掲げて振るだけだった。
イルタはウォローの肩をそっと叩き、握っていた手をほどくと走り出した。
息を切らし、早足のラートンに追いついた。
「隊長、お供します」
「仲間との再会を楽しめ」
ラートンは真っすぐ前を見据えたまま、微笑んでいる。
「俺はあなたと共に城へ帰ります」
やがて後ろから、ウォローを始め人々が追いついてきた。イルタの取り巻きだけではなかった。街の人々がだんだんと加わり、行列となりつつあった。みんな笑顔である。しかし静かに歩き続けるラートンに遠慮して、騒ぎ出せないでいるようだった。
「隊長、ほら、みんながあなたを歓迎しています。あなたの帰りを待ち望んでいたのです」
しかしラートンは、片手を上げてイルタを制するような仕草をするだけだった。歩き続けるラートンの前に、夏季が小走りで先回りして立ちはだかった。そこでやっとラートンの歩みが止まった。
「見てよラートン隊長。みんなあなたについてくる。ちゃんと『ただいま』の挨拶をしないと、ここにいる全員を城の中へ入れることになりますよ」
夏季が、取ってつけたような大きなため息を交えて、年下の男の子を諭すように話しかけた。
そうだ、そうだと街の住人から歓声と笑い声、それから拍手さえも起きた。皆、夏季の言葉に頷いている。イルタはまたも驚いた。それはまるでその場にいる全員が、夏季という人間を認めているように映った。
ラートンも同じく驚いたようで、しばらくその場に佇んだまま、目の前の少女を見つめていた。
「痩せたな」
「元からです」
夏季は手を差し出した。
ラートンはつられるようにして、夏季の手を握り返した。
一斉に拍手が轟いた。そして、我先にと行列を作り、ラートンに握手を求めた。
「俺がいない間に、彼女は少し変わったんだろうな」
イルタが、3人の仲間の元へ戻る夏季を見ながら、ふとつぶやく。
「ああ。わかるか。変わりたくて変わったのかはよくわからんけどな」アレモが言った。「いろいろと思うところもあっただろうよ」
「彼女、体調はいいのか?」
「知ってるのか、呪いのこと?」
「ラートンから聞いた」
「……まあ、見ての通り、最近はあんな感じでうまいことやってるよな。しんどい時もあるみたいだけど。あの髪型もな、首にまとわりつくわずらわしさでさえ彼女の体調を左右していた時期があったんだとよ。だから切ったらしい」
「そうか」イルタは倫と談笑する夏季を眺めて言った。「そういうことをはじめとして、いろいろな話を聞きたい。俺は何も知らないから」
「そりゃ仕方がないさ。そっちこそ、九死に一生の語るべきエピソードがあるだろう。酒場へ行こう! 飲むぞ!」
「おいアレモ。酒の席を設けるなら一つ提案がある」イルタが言った。
「なんだよ? 改まったかんじが気持ち悪いからさっさと言えよ」アレモが眉を吊り上げた。
「ラートン隊長を誘いたい」
「あー、いいんじゃねえの」アレモはさらりと返事をしたが、ふと首をかしげ、それから勢いよくイルタを二度見した。
「今なんて?」
「ラートンだよ。きっと来てくれると思う」
イルタは急にわくわくしてきた。

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