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雨に混じる涙

第一章/ステッキの女

坊さんが何かぶつぶつ話している。
「念仏を唱えている」という表現よりも、こっちの方がしっくり来ると、哲は本気で考えていた。

祖父が死んだ。発見したのは、いっしょに暮らしていた哲だった。
何をどうすればいいのかわからず、とりあえず救急車を呼び、親戚に電話をかけ、母方の叔母夫婦が到着してからは成り行きを見守るだけだった。なにもかもが手早く済まされ、じいちゃんが死んだという実感が湧かない。

やっとのことで、永遠に続くかと思われた坊さんのぶつぶつが終わり、どこか宙を見ていた哲はハッとして立ち上がった。
これから昼食で、その後、出棺となる。

どこに座っていいかも分からず、かなり集まった親戚たちの合間にやっと席を見つけた。同年代の兄弟や従兄弟もいなければ、ここに集まった親戚とはほとんど会ったこともないので、哲は黙々と冷たい弁当を食べ始めた。

「まったく、急に死なれるとこっちの予定が狂うわよ」
息巻いて話しているのは、哲が病院の電話で呼んだ叔母である。
「それでもちゃんと来てるじゃないか」
初老の男性が言った。
「当たり前でしょう。いっしょに住んでるのが中学生の坊ちゃん一人じゃあ、こういうときどうすればいいかわからないじゃない」

(もう高一なんだけど)
と哲は思った。

「なあ、哲くんのことはどうするんだ?」
と、叔母の旦那が切り出す。本人がすぐそばにいることにはお構い無しだ。
「どうするってあんた、一番縁があるのはあなたたちでしょう?」
一度も会ったことが無い中年女性が言った。
「そうやって、責任を押し付ける。あー、やだやだ」
叔母が、大げさに首を振る。

「仮にうちに来るとしても、部屋もないし、お金の余裕もないし」
再び見知らぬ親戚。
「うちもちょっと……」
この男性も哲は初めて見る。

「そうやって言うけど、みんな分かってるじゃない、結局は我が家が引き取ることになるのよね。『仮にうちにに来るとしても』とか言って、悩むフリをするんじゃないよ!」
叔母が怒鳴った。『仮に』の部分だけ、いやらしいほどに強調していた。

我慢できなくなり、哲は席を立った。気付いているのか、いないのか、部屋を出て行く彼を誰も引き止めようとしない。

(せめて莫大な財産でも残されていたら、みんなで俺を取り合ってたかもな)
大して怒る風でもなく、ぼんやりと考えた。
実の両親はとっくの昔に亡くなっていて、気付いたときはじーちゃん、ばーちゃんと暮らしていた。そんな矢川家に対し、叔母夫婦は知らん顔。これまで会った回数は、指を折らない方がまだ分かり易い。
あんな人のところで暮らすなんてこっちから願い下げだよ、と内心では思っている。しかし夫婦の『好意』を断れるほどの余裕はない。まだ未成年だし、高校は卒業したい。お金がいる。誰かに養ってもらわないと生きて行けない立場なのだ。
それとも、思い切って高校を中退し、働くか?

そんなことを考えながら、じーちゃんとの思い出が詰まった家の、門を出た。
(出棺に付き合わなかったら、じーちゃん怒るかな。でも、あの人たちといっしょにいるのは、もう耐えられないよ)

外は小雨だった。夏季と同じ、焦げ茶色の髪の毛が、哲の頬にはりつく。
急に涙が出そうになって、空を見上げた。雨が放射状に降り注いでいる。しとしとと落ちてくる雨粒が、制服のYシャツをしめらせる。

ふと、雲の中に何かを見た気がした。
「なんだぁ?」

開いた傘が、くるくると回りながら舞い降りてくる。

真っ直ぐに向かってきたので、哲はその柄をはっしと掴んだ。

「濡れちゃうでしょ?」

傘の向こうに、先ほどまではいなかった、女の子が立っていた。年は哲とそう変わりそうもない。
哲は口を開けて突っ立っている。

「あなた、哲くん?」
「は……、はい。」

「これでよし! 仕事が終わったぞぉーー!」
少女はさもうれしそうに叫んだ。
そして、手に持ったステッキを振る、宙に文字を書くように。
哲は訳も分からないまま、傘だけを残して、こつ然と消えてしまった……。

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