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バイトの女

第一章/ステッキの女

「ぁりがとうござぃましたぁ」

倫は出て行く客の背中に向かって気のない声を掛けた。どこのコンビニでも同じだろう。
しかしここの店長は、接客にやたらと厳しい。コンビニに来てそんなことを見てる客なんかいないだろう、と倫はいつも思っている。いつもと言っても、雇われたのは、ほんの2週間前だが……。

「ぃらっしゃぃませぇ」
何度注意されても倫の発する言葉に生気は宿らない。店長がにらむ。

男が手にマンガ雑誌を持って、レジに寄ってくる。
「220円になります」
手早くレジを打ち、雑誌を袋に入れる。

「あのう……」

男は釣りを貰っても動かないで、倫に話しかけた。大学生といったところか。

「なんでしょうか?」

男は小さなメモを差し出した。

「よかったら、メールください……」
「すみませんけど、受け取れません」

倫は即答した。

男は逃げるようにして、去って行く。


「咲田さん」
店長が寄ってきた。
「はい?」

「あなたね、ちょっと、お客を怖がらせすぎですよ」
「今のはあたしのせいではありません」
「そういう問題ではないでしょう!」
「どういう問題ですか?」
倫はまったく動じない。

「もう少しやんわりお断りすれば、また来て下さるかもしれないけれど。あんな態度では『もう二度とこんな店はごめんだ』と思われるでしょう!?」
「笑顔で断ったりなんかしたら、あの人が勘違いして、あたしをストーカーしますよ、きっと」
と、口に出しては言わなかった。
(まったく。こんなこと言われたらたまらないわよ。この人店のためなら、あたしがどうなろうと構わないんだわ)

結局さんざん言われた後に帰された。バイト終了予定の23時を過ぎていた。
前にもこんなことがあった。店のレジをしていたら、高校生の男の子に今日と同じような紙切れを渡されて、倫はやはり、その場で突き返した。
そういえばあそこの店長もうるさいおばさんだったなあ、と思い出に耽った。

真っ黒で張りのある髪質の前下がりボブは、頬のあたりで毛先が揺れている。同じく真っ黒な瞳は、見る者を引きつけるような、不思議な光を放つ。美人と言われたことはないが、細い顎の形は女らしい。

中学2年から学校に行かなくなった。いじめられたわけではない。ただ家に居て本を読みたくなった。
一日中部屋に閉じこもり、好きなだけ読み続けた。大学教授の父とは反対に、図書館司書の母は無理に学校へ行かせようとはしなかった。むしろ母は、あれを読め、これを読めといろいろな本を勧めてくれた。
16歳からバイトを始めフリーターとなり、いろいろな店を転々としている。愛想がないのが手伝ってトラブルが多く、なかなか職場が定まらない。愛想があったってなんの役にも立たないと、倫は思っている。

「ただいまー」

「倫」
真っ直ぐ自分の部屋に行こうとすると、父に呼び止められた。
「なに?」

倫はイライラしていた。店長のこともあるが、父が好きではない。

「バイトはどうだ?」
「ちゃんとやってる」
「そうか。今度こそ長続きさせろよ」
「うるさいな」
思わず刺のある言葉が出る。
「うるさいとはなんだ」
父はすぐに噛み付く。

倫は居間を出て、2階の自室に駆け上がって行った。

「お前、倫のあの態度はどうにかならないのか」
「あなた、そうかっかしないで」
母の優しい声が聞こえる。

倫はベッドの下から、荷造りの済んだボストンバッグを引っ張りだした。一月ほど前から、今夜、長年住んだ家を出て行く計画を立てていたのだ。
(父さんはあたしを憎んでる。大学教授の娘が不登校なんて、面目丸つぶれだものね。あんな目で見られるの、もうごめんだわ)

夜中の午前1時過ぎ、倫は静かに玄関を出た。
「さようなら」
誰に言うともなくつぶやく。
俊とは違い、彼女はこの日のために宿を手配していた。少なくともホテルまでは、道筋は真っ直ぐに定まっている。
しかしそこから先はまだわからない。確かな夢や野望を持たない彼女には、上京してどうとかいう考えはまるで持っていなかった。ただ、父の憎しみから逃れたかったのだ……。

深夜の住宅街は静かだ。
遠くのほうで、パトカーのサイレンと、暴走族が走らせるバイクの爆音が響いている。
コンビニでは店長をも恐れない威勢の良さを見せてくれた倫だが、暗闇は怖かった。

「すみません」
人気の無い路地で、誰かに肩を叩かれた。
反射的に振り返る。

相手は若い女だった。

「ここは、どこですか?」
「は?」
「そのう、なんという街でしょうか」

その女は手に古ぼけたステッキを持っている。足でも悪いのだろうか? しかしそんな様子はない。女はステッキで地面をつついてはいない。
相手が酔っぱらいではないのがわかる。この状況で、それが余計に怖かった。
「●●町ですけど。……あなた、どちらから?」
「どこって……、えーと。あ、山田県です!」

名字なら、これでもかというくらいに聞いたことがある。つい最近まで働いていた飲食店の店長も山田さんだったが、そんな県名は存在しない。
相手は目をしばたくばかりで、自分の間違いには全く気付いていない様子だ。

「お名前は?」
相手が聞いてきた。
「…咲田です。」
なぜか、本当の名前を言ってしまった。
「よかった!」

なにがよかったのかはわからない。
訊こうとする前に、女はステッキを振り、何も無い宙に文字を書いた。

倫は消えた。

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