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六季の娘

第一章/ステッキの女

話ってなんだろう、と思うふりをしながらも、夏季には思い当たることがあった。
今更あたしに告白することなんて言ったら、一つしかないじゃない。

父さんのことだ。

今まで母さんはあたしがまだ小さいからと言って、頑なに父さんのことを話そうとしなかった。
名前、年、どこにいるのか、どんな人なのか、一言も話してくれないのだ。
あたしがそのようなことを質問すると、母さんはとても悲しそうな顔をする。父について少しでも触れると、時には何かに怯えているかのような素振りさえ、見せることがあった。
母がそんなだから、私は大きくなるにつれて父について訊けなくなってしまった。ここ5年くらいは一度も父についての質問をしていない。
そんな折に今朝の会話だ。どうしちゃったんだろう? もうこっちはとうに諦めているのに……。

でも、さっき思ったけど、やっぱり知りたい。だって自分のお父さんのことだ。
それにもちろん、異常なまでにその話題を避けたがる母の態度の裏に、いったいどんな事情があるのかに興味がある。

夏の日差しは分刻みで強くなっているようだ。今年の夏は暑い。今日はまだましなんじゃないかと夏季は思っていたが、この調子では、学校に着く頃には体中汗まみれになっていることだろう。

夏季はまっすぐ前を向き、住宅街を歩いている。小柄だが姿勢がいいおかげで実際より大きく見られがちだ。これも六季の教育のたまものだろう。勉強よりも姿勢にうるさかった。夏季にはなぜ母がそこまで姿勢にこだわるのか理解に苦しんだが、そのおかげで高校生になった今でも見た目で損することが無い。実際はそうでなくとも、優等生に見られる。
優等生どころではないのだ。

しかし、勉強ができなくてもまったく悲観的にならない。夏季には得意なことが2つある。
中学生のときは陸上部、県下ではぶっちぎりの速さでハードルを跳び超えていたが、強力な勧誘に遭い、高校ではバスケットボール部に入った。初心者にもかかわらずドリブルの上達は目覚ましく、1年生レギュラーを噂されるほどになっている。
毎日練習の後に家に帰り、遅くまでスーパーのレジでパートをしている母のために夕食の準備をする。この習慣は小学校に入学するときに始まったため、料理の腕前には自信があった。将来は自分のレストランを持ちたいと考えている。

茶色の真っ直ぐな髪は、肩に当たるところで毛先が内側に巻いている。頭の形に沿った自然なカーブから、それが作り物のストレートヘアではないことが分かる。みんなにうらやましがられるその髪は、夏季にとってもお気に入りだった。涼しげな目元は母親譲りだが、瞳が母より若干大きいのは父親に似たためだろうか。父を知らない夏季には、判断できない。

そんな夏季を背後から観察している人物がいる。帽子を目深にかぶり、気配を悟られないように、そして目立たないように、塀の影に佇んでいる。一見すると周りの風景に溶け込んでいるようだが、明らかにおかしいのは手に古ぼけたステッキを持っていることだ。見たところ老体ではないし、足が悪い様子もない。しかも、服装からすると若い女のようだ。

「あの子で間違いないよね」

女は自分に言い聞かせた。

「あれが、六季の娘!」

そして、ステッキを振る。何も無い宙に、文字を書くかのように。

夏季は消えた。

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