灯が戻るとき


これは……、神縛りとでも言うのだろうか。
私は体が強張って動けなくなった。

足元がガラガラと崩れて、進むべき道が見えなくなるような錯覚に襲われる。
右も左も分からなくなって、平衡感覚もなくなって、どっちが前方なのかも分からない。

今がまさに、それだ。
私は今、まるで真っ暗な深い井戸に落ちていくような底なしの恐怖の中にいた。

足を踏み出そうとしても、それが正しい道なのか分からない。
間違った道を歩んでいるのかもしれない。その判断もできなくなって、怖くなって、ついに足を踏み出すこともできなくなる。

視界は真っ暗になり、手を差し伸ばしてもその手には何も触れない。そうなってくると、もう腕はおろか指一本を動かすことさえ怖くてできな くなるのだ。
暗闇にたった一人残されたような恐怖。

……怖い。怖くて、何もできない。
こんなに自分は臆病だったのか。

「落ち着いて。大丈夫だよ、大丈夫だから……」

そんな闇の奥で、どこからか声だけが届いた。
目が効かなくても、耳だけはまだ生きているようだ。遠くから声から聞こえる。次第に耳元で囁かれているようで、それは近くも感じられた。

「ここにいるから」

ここにいる…? どこに? 誰が?

少し朦朧とした思考で考えも巡らせるが、何も分からない。
唇が震え、言葉が零れた。

「……どこ……?」

意外にも声が出せた。

「ここだよ、目の前にいるよ」

その瞬間、頬にあたたかなものが触れた。
誰かの指先か、手のひらか……そのぬくもりで、そこが自分の頬だとようやくわかる。俄かに顔が火照った気がする。
世界が少しずつ輪郭を取り戻していく。

「力を抜いて」
「な……に……?」

なんでもない言葉なのに、その意味さえ頭の中に入ってこない。「力を抜く」ということがどういう動作なのかも分からない。

「心配しないで。ゆっくり、息を吸って。……すーって。」

そう言われても、息を吸うってどうすればいいのか、口はどこにあるのかすら分からない。不安がまた胸を締めつけた。

そのときだった。

あたたかく、優しいものが、そっと唇に触れた。
それはとっても穏やかで、私の胸の奥まで届いた気がする。

ああ、ここが私の口だ。息ができる。

「できる? ゆっくりでいいよ。」

促されるままに、ゆっくりとすうっと息を吸ってみた。自然に息が吸えた。
すうっと空気が肺に入り込み、胸がふわりと動く。

それだけで、今度は少し体に重みが戻ってくるようだった。

「そう、上手だよ。
 次は目を開けられる? 涙がぽろぽろと溢れているよ。」

あの指先が、今度は目のふちをそっとなぞった。
目じりが濡れているんだなと感じられた。
少しずつ感覚を取り戻せてきた気がする。

触れられていた所が目だと分かった。
真っ暗闇だったのは、私が目をぎゅっとつぶっていたからだ。

ゆっくりとまぶたを開けると、眩しい光が飛び込んできた。

世界が戻ってくる。音も、空気も、匂いも。

「大丈夫?」

光の中に、カインの顔があった。

心配そうに覗き込み、私の手を握っている。その手のぬくもりが、世界への道しるべだった。

「カイン……」

彼の名を呼ぶと、カインは心底ほっとしたように微笑んだ。
私が横たわっているのは、見覚えのある寝台だった。

「あ、ありがとう……もう大丈夫。」

全ての感覚が戻ってきた気がする。

少しだけまだ気持ちが落ち着かないが、きっと心配をかけた。
無理をしてでも笑おうと口角をあげた瞬間……

「いい。無理して笑わないで」

カインは私の頬の触れて、首を振った。

「まだ顔色が真っ青だもの。呼吸もいつもより速いでしょう?」

その言葉で、はっと息をつく。

確かに肩に力が入り、はっはっと浅い呼吸を繰り返していた。

「私は……どうしたの……?……倒れてしまったのかしら?」
「うん。驚いたよ。僕らがきてからずっと顔色が悪かったでしょう?
 だから気になってたんだ。きっとマリア疲れていたんだよ。」
「いいえ、疲れてなんかいないわ」

旅をしていたときの方が、よっぽど体力の限界で体は疲れていただろうと思う。

じゃあ、なぜこんな前後不覚になって私は倒れてしまったのか?
何があったのか記憶を呼び戻す。

そう、あの時。私はこの部屋で……。










+++


瓦礫を積み上げて仮に整えられた広間に、粗末な長机が置かれていた。
壁の石にはまだ黒く焼け焦げた跡が残り、窓には風が吹き抜ける有様だ。

けれど、そこに集う人々のまなざしは真剣だった。

「それでは、今日からこの城を再び我がムーンブルク国の中心として、復興の歩みを始めたいと思います」

私の宣言は人々に届いたようだ。言葉を放つと、空気がわずかに震えた
ムーンブルクの復興を支えようと駆けつけてくれた人々の視線が一斉に私に注がれた。
その顔には、希望が宿っていた。

「では、まずは城の修復を急ぐべきですね…!」
「いや、農地を耕さねば人が住めません。食料が尽きれば人は去りましょう。」

人々が知恵を出し合ってくれているのが分かる。
賛否が入り乱れ、声は次第に熱を帯びていった。
私は頷きながら、その一つ一つを必死に胸の内で整理していった。

「ありがとう、皆。
 今は……そうね、まず、あらゆる問題を洗い出しましょう。」

全てを解決する術なんてない。
国の興し方も分からない。

だけど、私が「分からない」なんてことは口に出すことは許されなかった。
人々はただひとり残ったムーンブルクの王族を見つめている、私が道を示す存在を求めている。
どんな国づくりをするのか、その一挙一動をすべて人々が注目しているのだ。

私が道を示さなければ、ムーンブルクは再び立ち上がれない。

「女王陛下のお住まいがこんな瓦礫のままではいけません。建築物を整えることが肝要。国の威信にかかわります。」
「魔物が完全に消えたわけではない!城壁を立て直し、急務は兵を募ることです。」
「世界は平和になったのですよ。今や重要なのは交易です。各国への道を開き物資を取り寄せましょう」
「農地を拓かなければ未来はありません。自給の道を整えるのが先決です」
「女王様、まずは教会を整えましょう。祈りの場こそ人々の癒しです。墓地を整え、亡くなられた方々を弔うべきです。」

一人が口を開けば、次々に声が重なる。
耳を傾けるどの意見も間違ってはいない。どれも必要だと感じる。

――象徴としての城と人の暮らしを支える住まい。
――悲劇を繰り返さぬための防衛。
――他国とのつながり。
――人々の空腹を癒す農地。
――心を結ぶ祈りの場。

どれも欠けてはならない。だが自分には、どれを優先するかの判断基準がなく、それを押し通す力も、この細腕には備わっていない。

胸の奥で、重圧がひたひたと迫ってくるのを感じた。
喉は乾き、息を吸うたびに胸が重く沈む。
言葉を繰り出そうとするたび、声がかすれてしまいそうで怖かった。

それでも、私が口を開かなければ話は進まなかった。この声がもう届かなければ、国もまた沈む気がした。

「そうですね、皆の意見は、どれも正しいものです。
 ……無駄なものはありません。どれも重要です。」

当たり前のことしか言えない。
私の言葉の一つで人々はまた浮足立って、議論を始めようと身を乗り出す。
目の前で交わされる声が、遠い水底から聞くように遠く聞こえる。

「では、まずは……」

私の声に人々はまた注目をする。

まずは? まずはなんだ?
ひとつを選んで、他を犠牲にする決断で良いのだろうか?

頼れる父も母も、愛するムーンブルクの民も失って、果たして私は正しい道を導くことができるのだろうか?

全てをかなえるには私の手に残されているものがあまりにも少なくて。

「マリアさま?」

誰かが不安げに私の名を呼んだ。
ほら、不安にさせてしまっている。

ざわめきが広場に広がって行く。

急げ、答えなければ。
急いで言葉を伝えなければと思いながら、私はもう一度自分の胸に問いかけた。

……ある。

私に残されたものは、まだあったはずなのだ。
旅の道中に私は何度もそれを思い知らされたはずだ。

「……まず、皆に伝えたいことがあります。」

唇を震わせながら、私は静かに告げた。

「私の力は、あまりにも非力。私だけではこの国を…立て直すことはできません。
 ですが、私は一人ではない。
 同じロトの血を継ぎ、ともに戦った仲間が、私にはいます。」

ざわついていた広場に一瞬雷が落ちたかのような衝撃が走った。
そして人々は驚いたように顔を見合わせ、やがて期待に胸を膨らませたような表情を輝かせた。

「それは……つまり、ローレシアとサマルトリアが我らを助けてくださるという事ですね!」
「ロトの絆が再び結べるのか……!」
「あの若い英雄王のアレン様が剛力無双だと聞く」
「サマルトリアのカイン様も知識が豊富で不思議な魔法が使えるそうだ」

不安を帯びていた人々のさざめきが、一気に希望へと変わっていった。

だが、マリアの胸の内は、安堵すると同時に強い痛みも走っていた。
結局、これは自分ひとりでは成しえないと認めた結果となっているのだ。

それでも、泣きたくなるほどの重圧に押しつぶされる前に、一歩でも前に進む事こそが重要だと思った。

「さあ皆、彼らを迎える準備を整えましょう。
 私たちは決して、孤独ではない。」

その言葉に広間は歓声に包まれた。
だがマリアの心はまだ揺れていた。

……今の自分に、人々を導く力は、まだ足りてはいないのだ。


+++


すき間風が吹き抜け、旗がかすかに鳴った。
その音を断ち切るように、朗々とした声が響く。

「俺の声は聞こえるか。」

広間に響いたアレンの凛とした声に人々の視線は一斉に注がれた。
扉口に立っていたのは、青の外套を羽織った若き王、ローレシアのアレンだった。

背中に射す光を受けて、立っているだけでまるでひとつの旗印のようにまぶしい。

「ローレシアのアレン様だ……!」

どよめきが広がる。
広場にいた人々は希望と安堵が一気に噴き出すように、ざわめいた。

「俺はローレシア王アレン。マリア女王の求めに応えてやってきた。
 まずはー、……鎮まれ。」

その声で場の騒々しい熱がすっと引いていく。
喧々諤々の論争の声も嘘のように、皆が彼の言葉に耳を傾けた。

……相変わらず、人心掌握がアレンはうまい……。

ほら、皆アレンしか見ていない。

「おい、お前も出て来いよ。」

アレンに呼ばれて、背後にいたカインが姿を現した。
カインはアレンと違って遠慮がちにひらひらと両手を振って応えていた。

「あ、サマルトリアのカイン様だ!」

もう一人の英雄の名を聞いて、場の空気がさらに明るくなった。



アレンが場を仕切る。

「防衛線の復旧は俺のローレシアが援護する。
 必要な資材は我らが協力してすぐに船で調達しよう。
 農地の再整備も並行して進めよう。」

「あ、教会の再建なら僕らサマルトリアが力になれます。
 どうか、心配しないでくださいね。」

よどみのない連携だった。事前にアレンと打ち合わせていたのであろう。支援内容を人々に伝える。


アレンは兵士たちのもとへ向かい、的確に指示を飛ばしている。
カインは神官たちと話し込み、穏やかな声で言葉を交わしていた。

「教会の跡地を見てきました。
 幸いに基礎が残っている様子、大丈夫。再建すれば、きっと祈りの場は戻りますよ。」

その声を聞くだけで、人々の顔がほっと和らぐ。
……カインの言葉は、いつも不思議と心を落ち着かせる。

私はふたりの背中を見つめながら、重い息を吐いた。

……私も動かねば。

城の外に出ると、冷たい風が頬を撫でた。
焼け跡の残る石畳の向こうで、ひとりの子どもが人形を抱え、母親の影に隠れているのが見えた。

何気なくその子のもとに歩み寄ると、足元の石くずが転がる音にさえ怖がっている様子だった。

母親は慌てて頭を下げる。

「申し訳ありません。女王様。
 この子、怖がっているようで……」
「いいのよ。いい子ね、お顔をみせてくれるかしら。」

しゃがみ込み、子どもの目線まで降りると、恐る恐る子どもは顔を出してくれた。

未だ恐れが残るこの国では、集まってくれる人々が安心して暮らすこともできない。

一度灯りが消えてしまったこの国では、明日を迎えるという当たり前のことが、当たり前にはなっていないのだ。

小さい子どもの手を取った。

「今ね、とっても強い勇者様が来てくれたのよ。
 もう夜が来ても、灯りは消えない。
 だから……大丈夫よ。頑張りましょうね。」

震えていたその手が、ぎゅっと私の指を握り返してくる。
その力強さに、私の胸がぎゅっと締め付けられる思いがした。

守っていかねばならない。

人々がまた、夜を怖がらず安心して眠れるように。
明日を迎えられる国にするのだ。

「……必ず、この国を。」

そう呟いたとき、胸の奥にかすかな痛みが走った。
それでも足を止めることはできなかった。




それから、私は昼夜を問わず動き続けた。

瓦礫の撤去などの体力仕事も魔法を使って率先して行った。
記録の整理、人々への配給の計画。
あがってくる報告書を確認しながらの、新たな設計図の確認。それら全て自分の手で確認した。

城に戻れば、いつ来ても机には詰みあがった書簡が山のようにあった。
手を止めることはできなかった。

「女王様……お休みになられては……」

侍従の声を背に私は首を振った。

「いいえ、まだ何も終わっていません。」

筆を走らせる手が震えた。
文字が見にくくなってるのを気づいて、ランプに灯りを灯した。
それで、ようやく夜になっていたことに気づく。

灯火が揺れている、その揺らぎを見ていると、視界が滲んできた。

私は首を振った。

眠るわけにはいかない。

アレンやカインが復興に手を貸してくれている。
忙しいはずなの彼らが不服の一つも言わずに手を貸してくれている。

ならば、私はもっと動かねばならない。
ムーンブルクの再建は私の責務なのだから。

「マリア、少し休もう。」

いつの間にかカインが近くに来て、静かに声をかけていた。
両手に抱えた書類や物資の束を持ちながら、私を見ている。

休めるわけがない。
あなたがまだ作業をしているのに私が休めるわけがない。

「休めないわ。まだ、終わってないの。」
「終わってなくてもいい。皆心配している。」

その優しい言葉に甘えてはいけないと、また胸の奥で何かが軋んだ。
カインが、机の上の書類を整えようと片づけ始めた。
そのカインの手を私は思わず払ってしまう。

「やめて、触らないで。」

窓から風が吹き込んでくる。
パタパタと風ではためく書類の音が、いつか聞いた人々の悲鳴のようにも聞こえる。その音が胸を刺し、呼吸が乱れる。

また暗闇が襲ってくる。
人々を助けねばならない。今度こそ、私が皆を守らなければならない。

「……マリア?」

足元が崩れていく感覚があった。
王宮の絨毯が裂け、深い深淵が口を開けたあの夜の光景が一瞬にして蘇る。

逃げなくては。
いや、逃げてはだめだ。今度こそ私は最後までここで戦うのだ。

「…マリア…!!」

カインが手を伸ばすのと同時に椅子が軋む音がした。
手元の紙が宙にバラバラと舞う。

おかしいな。先ほど灯りを足したのに目の前の光が、ゆっくりと滲み、暗く、遠くなっていく。

最後に見えたのは、こちらへ駆け寄るカインの影。
その腕が私に伸びてくる瞬間、世界は完全に闇に呑まれた。










+++



僕が差し伸ばした手に触れることなく、マリアは崩れ落ちるように倒れた。まるで時間が止まったように感じた。

「マリア!」

慌てて駆け寄って抱き起こすと、その身体は思いのほか軽かった。
頬も指先も冷え切っていて冷たい。
そして顔色はまるで色を失ったように青白い。

「しっかりして……、お願いだマリア、目を開けて!」

いくら呼び掛けても、マリアの睫毛がわずかに震えるだけで、その瞳は固く閉ざされていた。

その時、騒ぎを聞きつけてアレンも部屋に入ってきた。

「どうした、何の騒ぎだ……。
 って、おい。マリア、どうしたんだ!?顔が真っ青じゃねえか!」

慌ててアレンも駆け寄ってきてマリアの顔を覗き込む。

「ずっと根を詰めて仕事をしているようだから、マリアに休んでもらおうと思って声をかけたんだけど……。」

机の上は書類が散乱し、緊迫した空気が部屋に残っている。

マリアは僕の手を払い、手を借りることすら拒んでいた。それが余計に胸に刺さった。

「突然、座っていられなくなって、そのまま……。」

このムーンブルクに来てから、マリアの表情がずっと冴えず強張っていた様子だったのが気になっていた。久しぶりの再会でも喜ぶ余裕もない 様子だった。

土気色の表情は鬼気迫る様子で、旅の間にどれだけ魔物と激しい戦いをくり広げたときも、あんなに重苦しい表情をしてはいなかった。

「とりあえず、まず休ませてやろうぜ。マリアの部屋はどこだ?」
「あ、ああ。うん。」

アレンが落ち着いていて、助かった。

彼はマリアを寝台まで抱えて運び、僕はそばに仕えるマリアの侍従に水と布を頼んだ。

「回復魔法効くかな…」

あんまり意味がないかもしれないと思いつつ、ベホイミを唱えてみた。淡い緑の光がマリアの身体を包んだが、瞳は開かないし、その顔色も戻 らない。

「反応がねえ……、なんか普通の状態じゃねえな。
 おい、マリア!聞こえるか!?聞こえたら手を握り返せ。」

マリアの手を掴みながらアレンが声をかけるが、苦しそうなうめき声をあげるだけだった。

「きっと……マリア、僕らが思うよりずっと苦しんでたんだと思う。」

一人で祖国をもとに戻すのだと奔走する姿は、
希望に満ちた表情ではなく、あまりにも痛々しかった。

だから、僕らはここに来たんだけど……。

「きっととっくにマリアの精神は限界だったんだろう。」

そう口にした瞬間、自分でも胸が痛んだ。
マリアがどれだけ無理をしているのか、分かっていたはずなのに止められなかった。

マリアの呼吸が俄かに荒くなった。
浅く速く、苦し気な息遣い。
それはまるで、何かに怯えているようだった。

「何かと戦ってんのか?」

マリアはまだ国を覆う闇の恐怖と戦っているのかもしれない。

僕はマリアの額に触れた。
熱はない。けれど、身体は冷え切っていて全身が強張っている。
指先が震えて、手を握っても返す力はない。

「マリア、聞こえる? 僕だよ。」

返事がない。
だんだんマリアの唇が震え始めた。

「……は…、はっ、はあ……。」

目からはぽろぽろと涙もこぼれて、不自然な呼吸は焦ったように体に空気を求めようとしていて、呼吸が乱れている。

これは過呼吸だ。
このままでは、身体がもたない。

「おい、カイン。これ……やばいだろう。どうしたらいいんだ?医者を探してくるか!?」

アレンも焦ったように僕を見ている。
魔法も効かないのだ、普通は医者を呼んだ方がいい。

でもどうすれば呼吸が落ち着くかは、少しは知っている。

「ごめん、アレン。少しだけ外を見張っててくれる?」
「え? 外? なん……。分かったよ。」

僕の表情を見て何か伝わったようで、アレンは黙って部屋を出た。

ムーンブルクの女王にこんなことをするのは、許されないかもしれない…。でも、マリアを呼び戻すにはこうするしかないと思った。

アレンが部屋を出ていくのを確認して、僕はマリアの枕元に膝をついた。

「マリア……聞こえる?」

声をかけても、マリアは苦し気な呼吸をするだけだ。

「落ち着いて。大丈夫だよ、大丈夫だから……」

マリアは一人で苦しんでいる。
こんなに近くにいるのに、あまりにも遠い。マリアに届けたくて耳元で囁いた。

「ここにいるから。」

すると、掠れた消え入りそうな声が返ってきた。

「……どこ?」

届いた!
彼女も戻ってこようとしているんだ。少し希望を感じられた。

「ここだよ、目の前にいるよ」

僕はそっとマリアの頬を撫でた。
冷たい…。凍えた雪のように冷たい。

浅い呼吸で目をつぶっているマリアを呼び戻したかった。

「力を抜いて」
「な……に……?」

やっぱり声が返ってくる。マリアに僕の声が届き始めている。
でもまだマリアの身体は強張って、身をよじるようにして荒い呼吸で苦しそうにしていた。

「心配しないで。ゆっくり、息を吸って。……すーって。」

それでも彼女の呼吸は、息の仕方を忘れてしまったように荒く浅い。

落ち着いて。
息を合わせよう。

僕は彼女の頬を両手で包み、そっと唇を重ねた。

荒く熱を帯びた吐息だった。
彼女の浅い息を落ち着かせるように、ゆっくり息を吸った。
少しずつ長く、深く。
そのリズムを伝えるように、わずかな温もりを分け合う。

氷のように冷たい身体に、少しでもぬくもりを届けたかった。
凍えた命を呼び戻すように、静かに、何度も、呼吸を重ねた。

やがて、彼女の息が少しずつ落ち着きを取り戻しているのが分かった。

「できる? ゆっくりでいいよ。」

今度は、マリアは自分だけですーっとゆっくり息を吸った。
やがて深い呼吸が少しずつ戻ってきた。
その胸がようやく柔らかく上下し始めると、まるで氷が溶けていくように、次第にマリアの頬に色が戻って行った。

――そばにいるからね

僕は彼女の額に手をあて、静かに祈る。

「そう、上手だよ。
 次は目を開けられる? 涙がぽろぽろと溢れているよ。」

まるで祈るような気持ちで、彼女の手をそっと包んで声をかけた。

そのまぶたがゆっくりと震え、ついに、彼女の瞳が開いた。

「……カイン……」

少し朦朧とした様子だったが、徐々に焦点を結び、僕の名を呼んでくれた。

良かった。
ようやく、マリアを現実へ連れ戻せた。僕はほっと息を吐いた。

まだ顔色も戻ってないし、よっぽど苦しかったのだろう、額には脂汗が浮かび、呼吸も浅い。
それでも、マリアは少し周りを見渡すと何かを取り繕うように「もう大丈夫」と笑おうとした。

「いい。無理して笑わないで。
 まだ、顔色が真っ青だもの。呼吸もいつもより速いでしょう?」

僕が言うと、マリアはようやく自分の呼吸を意識したように、胸に手をあてて小さく息をついた。

マリアはずっと顔色が悪かった。
最近、体調が悪かったのかな。それなのに、一人で無理を重ねていたのかもしれない。

疲れているんじゃないかと聞いてみたが、「いいえ、疲れてなんかいないわ。」とマリアは首を横に振るばかり。

見ると手が震えている。
まだ寒いのかな、僕はその手をあたためようと包み込んだ。
だが、マリアは申し訳なさそうに手を引こうとした。

「マリア、どうしてこちらを見てくれないの?」

マリアが僕を避けようとしているように感じた。
どうして、一人で苦しんで、一人で泣いていたのだろう。

「心配しないで。あ、あの……明日…、明日にはきっとちゃんとやってみせるから。だから……。」
「一日くらい休んでも誰も何も言わないよ。アレンも来てるんだし、僕らに任せてよ。」

しかしマリアは首を横に振るばかりだった。

ここがムーンブルクだからだろうか。
旅の頃のように、僕やアレンと心を通わせることが、今はできていない気がした。

そしてぽろぽろとまた涙がこぼれ始めた。

「ど、どうしたの?」

「皆、優しいから言わないけれど…………、きっと失望しているわ」
「何を? マリアはいつも頑張っているじゃない。
 尊敬こそすれ失望するなんてありえないよ。」

やがてマリアは唇を震わせながら言葉を絞り出した。

「私は……本当に、駄目ね。
 人々がようやく集まってくれたのに……私は何もできなくて、どうしたらいいのかも分からなくて。
 ……真っ先にしたのが、アレンとあなたの名前をあげたこと。頼ってしまった。情け無い。
 皆の前で……私は自分の無力を晒したのよ。」

嗚咽交じりの声だった。
その涙は途切れず、ぼろぼろと頬を伝っていく。

僕はその言葉を聞いて、たまらない気持ちになって、マリアの細い肩をそっと抱き寄せた。
その身体は驚くほど軽く、壊れもののように頼りなかった。
いやいやとマリアは身じろぎをしてまた離れて行こうとしたが、今度は離さなかった。

「マリア、それを聞いて僕らがどう思うと思う?」

マリアはびくっと肩を震わせて何も答えられずにいた。

「僕たちを真っ先に思い浮かべてくれたんでしょう?
 それが、どれだけ嬉しいことか分かる?
 マリアが、僕らを信じてくれている証拠じゃないか。」

その言葉に、マリアは驚いたように目を見開いた。

「情けないことじゃないでしょう。むしろとっても誇らしいよ。」

言葉をかけながら、彼女の肩をそっと抱き寄せた。
今度は抵抗されなかった。
ただ、堰を切ったように、涙は止まらないままだった。

「だって……、アレンはあんなに、人々に安心を与えられる人だったわ。それに比べて私は迷ってばかり……。」

確かにアレンは一言の声をあげるだけで、人々の心を掴んでしまった。
その姿には迷いなく皆に指示を出す姿は、あまりにまぶしく太陽のようだった。

「アレンが? うん、そうだね。彼はかっこいいよ。」

僕は少しだけ笑ってみせた。

「だからね、僕は昔からアレンに劣等感の塊なんだ。
 どうせ、僕にはできないから、もう彼みたいにやろうとは思ってないんだ。」

「……え?」

思わぬ言葉に、マリアは顔を上げた。
僕がアレンのことをこんな風に思っているなんて意外だったようだ。

「そんなの気にしなくていいんだよ。だって、マリアのもとに多くの人が集まっているんだよ。
 これは間違いなくマリアの力じゃないか。」

マリアの震える肩を抱きしめながら言った。
小さく華奢な肩だ。こんな小さな体でどれだけのものを背負っているのだろうか。

僕の声は届いただろうか。
マリアのすすり泣く音が少しずつ弱まっていく。
やがて顔をあげたその瞳は涙に塗れていて、穏やか光を宿して揺れていた。

マリアの唇が震え、何かを言おうとして……でも言葉にはならなかった。
代わりに、ぽたりと涙が一粒僕の手の甲に落ちた。

その瞬間、体の奥に熱が宿った。
……守りたい。どんなことがあっても、この人を。

僕はそっと、彼の頬を両手で包み込んだ。
あれだけ冷たかった肌が、今は少し赤みを帯びていてぬくもりを取り戻しつつあった。

「……カイン…?」

少し不思議そうに無垢に見上げる表情が、あまりにも愛おしかった。

「うん……。」

距離がまた少しだけ近づいた。
吐息が触れ合うほどの距離だ。
僕は今再びその唇に触れた。

やわらかい唇の感触とその体温が伝わって、鼓動が早まる。
マリアの赤く染まった頬がわずかに揺れた。ぎゅっと目を閉じたその仕草が息をのむほどに愛おしかった。

……このぬくもりを守りたい。

冷え切って倒れていたマリアを思い出して、胸の奥がきゅっと締め付けられるような気がした。

そう思った矢先であった。


「なあマリア、目を覚ましたのか?」


突然扉の向こうからアレンの声が響いた。

僕は反射的にマリアから離れ、
マリアも驚いたように顔を上げた。

次の瞬間、扉が勢いよく開かれた。
顔を覗かせたアレンは、状況を見て一瞬だけ言葉を失ったように見えた。
だが、すぐに何かを察したようにわざと大げさに声をあげた。

「良かった〜!ちゃんと目を覚ましてるじゃん!
 まったく心配かけやがって、女王様!」

「もう、大丈夫。……心配かけたわ、アレン。」

マリアの言葉にアレンはうんと頷いた。

「俺の寿命三年は縮んだからな。今度飯おごってもらうぞ。」
「え、ええ。そうね。分かったわ。」

にやりと笑って見せるアレンのおかげで、張り詰めた空気は一気に溶けていく。一瞬すごく焦ったが、ああ、やっぱりアレンだなあと、思わず にはいられなかった。

冗談を言いながらアレンはマリアの枕元まで歩み寄ってきた。
軽口をたたいてはいるが、心底ほっとしたような安堵が滲んでいた。

「……ごめんなさい。」
「謝るなって。元気になって良かったよ。」

アレンはいつものように笑っているが、マリアは再度謝った。

「ごめんなさい、アレン、カイン。」
「何が。」
「二人はとても忙しいのに……。すぐにムーンブルクに来てくれた。感謝しているわ」

今度は僕とアレンが顔を見合わせた。
だから、それは……と僕が口を開けるより、アレンが先に口を開いた。

「お前、なんか変だな。
 世界を平和にしたいって一緒に戦っていた時、そんなこと言わなかっただろう? なんで、今になってそんなこと言ってんだ?」

「だって、世界の平和のために戦っていたあのときと、今は違うじゃない。世界はもう平和になったのよ。
 あなたは多忙を極めるローレシアの王様じゃない。カインもそう。それなのにムーンブルクまで来て『手伝って』くれて……」

マリアの言葉には僕は違和感があった。それをアレンは一言で断ち切るようにいった。

「まだ終わっちゃいないだろ。
 ムーンブルク復興をなしえてこその平和。だから俺の時間は、あのときと同じように……当然、ムーンブルクにも使うつもりだ。 誰にも文句は言わせない。」

そうだ。まだ何も終わっていないんだ。
だから、マリアは決して一人で戦わなくていいんだ。

「そうだよ、『手伝う』じゃないんだよ。復興が簡単なことじゃないって、僕ら皆分かってるよ。だから、また僕ら三人で皆でやろうよ。」

違和感の正体はそれだ。
マリアはムーンブルクのことは自分だけの責任だと思っているんだ。ハーゴンに滅ぼされたムーンブルクの復興は僕ら三人の使命だというの に。

マリアはぎゅっと口を噤んで、そしてまたぽろりと涙を流した。

「ありがとう…、ありがとう…本当に。」

アレンはマリアの頭をぐりぐりと撫でた。

「頑張りすぎだろ、一人で。」

その言葉に、マリアは静かに目を伏せた。
少し呆れたように笑っていたアレンが「あ、そうだ」と声を上げた。

「じゃあ、防衛担当としてマリア女王に報告だ。
 城の周りにまだ毒の沼地の臭気が残っている。魔物の姿も完全には消えてねえ。それが結構広い範囲でな、ちみちみ倒していたらキリがな い。
だから、これは俺ら三人で一掃しちまうのがいいんじゃないかと思うんだが、どう思う?」

マリアは一瞬考え、そしてまっすぐに頷いた。

「ええ、分かったわ。三人でやりましょう。人々が安心できる国を作るために。」

まだ、頬には赤みが残っていたが、瞳には静かな光が宿っていた。

ああ……やっぱり、アレンには敵わないなあ。

僕はそんな風に思いながら、二人の横顔を見つめた。
マリアの表情には、ようやくあの旅をしていたときのような力強さが戻っていた。
 

- 終わり-


2025/10/07

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【後書き】
クリア後結構すぐの、直後と言っていいくらいのムーンブルク復興の最初の頃の話。
マリアは最初大変だっただろうなあと思います。
頼もしい仲間にも少し思うところがあったかなあとか思ったり。

今回の話の直後の三人で魔物を一層したという話は「56. お洒落」です(これより随分明るい雰囲気ですが)

あんまり整合性とか深いところは考えてはいけないです。

口づけとか積極的に書かない人なんですが、今回はそういうのもやってみた。
長編のあとなので、両想いにはなってるので、これならありだよな!とか思いつつ

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