なぜ「私」はいないか

2025年10月4日
春日 悠

はじめに

「私」とはそもそも何か、という妄想。

人の本質

一般的には、あるものからその部分と思われるものを取り除いても、それがそれのままであれば、その取り除いた部分は本質的ではなかったという。一方、ある部分を取り除いたらそれがそれとは言えなくなる場合、その取り除いた部分は本質を含むもの、あるいは本質そのものと考えられる。

ウパニシャッド哲学では、人の本質が追求された。一般的には、人は身体と心に分けられ、身体は心に従属的と見えるから、心の方が本質的と考えられる。だが、夢も見ないような熟睡をしているとき、身体も心も動いていないが、息はしているし心臓も動いている。一方、息もせず心臓も動かないで身体だけが横たわっていたら、それは人であるとは言えない。そうすると、人の本質というのは心ですらなく、息をさせ心臓を動かすもの、おそらく心臓の中にいるものがそれだということになる。それは生命原理としか言えないものである。

夢と現実の区別は明確にはつかない。覚醒時に考えれば、夢は本質を欠いているのはわかるが、では現実の側にその本質とやらがあるかというと、実はよくわからない。よくよく反省すると、現実は覚めない夢というか、目覚めて見る夢と考えても矛盾しないありかたをしている。我々は慣習として事物には事物たらしめる本質ありと見る「本質主義」をとるが、実際には感覚的なものしか知られず、「物自体」を直覚することはない。一切のものは夢のようなものと見ることができる。だが、それでも現実=夢を見ている主体は残ってしまう。事物はそれ自体は知られず、認識しか知られないが、その認識主体の存在は認識それ自体から結論(実感)される。それこそが人の本質である。

仮に本質が二つあったとしたら、一方を取り除いても本質が残ることになるので、取り除いたものは本質ではないことになり、矛盾する。本質が二つあるように見えるなら、それは一つの本質の二つの側面ということになる。心臓にあって生命を根底から支えているもの、そして認識を根底から支えているもの、それら二つの本質を一つのものとして見て、ウパニシャッド哲学ではこれを真の自己「アートマン」と呼んだ。ただし、「アートマン」はふつうに「私」とか「自我」という意味なので、真の自己のほうを「真我」と言ったりする。のちのサーンキヤ哲学ではふつうの自我のほうを「アハンカーラ」と呼んだ。

認識主体は特殊なありかたをしている。眼が眼自身を見ないように、認識主体は認識主体自身を見ない。認識主体が認識するものは「この世」のものだが、その中に認識主体はないのである。そういう意味では認識主体は神のような超越的な存在に見える。一方、認識主体が「この世」を見るものとして確かに存在することは実存的に知られるのである。だから、認識主体は「超越論的」存在と言われる。眼が眼自身を見るならそれは病気の兆候である。認識主体についても同様である。認識される「私」は真我ではない。

「私」とはなにか

「私」とは何か。何でないか。私はなぜテーブルではないのか。それは私がテーブルを見るから、テーブルはテーブル自身を見ないだろうから、というのもあるが、テーブルは私の意志と相関していない。テーブルの足を私の意志でバタバタしたりできない。私の身体を「私の身体」と考えているのは、それが私の意志と相関しているからである。指先でつまんだスプーンは、あくまで指先でつまんだスプーンだが、それがものをすくって口に運ぶという動作の中に埋没したとき、つまりそれをそれと意識しないほど私と相関したものであるとき、それは私の一部と化す。私とは私と相関するもののまとまりである。これを「相関者」と呼ぶなら、私の意志とは相関しないがまとまって見える別の相関者をこの世界のあちこちで見かける。それは他人であったりモノであったりするが、別の相関者の存在により自身の相関者としての輪郭がより明確になり、「この私」であると考えることになる。

私たちは、ふつう、身体の大きさが自身の大きさだと思っている。しかし、内面にのめり込んでいるとき、たまに足や肩をなんでもないところでぶつけたりする。一方で、大きな荷物を運んでいるとき、荷物の末端が自身の末端であるかのようにうまく障害物を避けたりする。これは、自身の大きさが都度変化していることを意味している。デカルトは『情念論』でこう書いている。人を愛するとき、「このときわれわれは一つの全体を想像しており、自分はその全体の一部分にすぎず、愛せられるものがその全体のもう一つの部分であると考えているのである」。私は、身体よりも小さくなりうるし、身体を超えて他者にまでも広がりうる。

私の境界は二重になっているように見える。関心の輪とでも呼べるそれは、ただの関心の領域が外側にあり、差し迫った関心の領域が中心にある。いや、私たちは「世界」もそれぞれでもつから、関心の外の「世界」も含めて三重構造になっている。三重構造のそれぞれの大きさには程度がある。若い頃のある時期は、「世界」自体が狭く、関心のほぼすべてが差し迫ったもので覆われている。たいていはそのあと「世界」と関心の輪が広がり、差し迫った関心の領域が相対的に小さくなって、「大人になった」ということになる。

実際の世界は、私たちのもつ「世界」よりもずっと広く緻密である。世界は土地であり、「世界」は地図にすぎない。地図が悪いせいで行きたいところに行けない。それを世界のせいにする。地図が悪いとは思わない。迷いに迷っていよいよその地図にしがみつく。それが苦悩につながる。苦悩は差し迫った関心の領域で生じる。「世界」と関心の輪が狭すぎると、相関者は(正しくも誤っても)容易に差し迫った関心の領域に入りうる。差し迫った関心の領域を相対的に狭くするには、「世界」と関心の領域を広げる必要がある。

ストア哲学は、世界と関心の輪を広げつつ、差し迫った関心の領域を極限まで小さくとった。ウパニシャッド哲学は、それをさらに点にまで縮退させた。そして世界を開いた。世界には相関者のもやがうごめいている。古代の中国人はこれをもって渾沌と呼んだかもしれない。仏教徒は空(くう)だの無だのと呼んだ。

「私」はいかようにも大きさを変え、質をも変えうる。「本質主義」が「私」を私の本質として固定しようとするが、それは「ほんとうの私」ではない。ほんとうの「私」のありかたではない。私たちが普段「私」だと思っているものは、アハンカーラであり、生じては消えゆくもので、本質的なものではない。それは部分である。

なぜ「私」はいないのか

私が身体やスプーン、掃除機、ピアノなどと一体化した相関者となるとき、意志とモノとの介在者として確かに感覚があるので、そこが結節点であり分節点でもある。介在者を結節点としてその先の相関者と一体となった相関者たることが許されるのなら、その先もそうなりうる。寝転がりながら足を伸ばしてリモコンのボタンを足の指で押してテレビのチャンネルを変えるという(ちょっと行儀の悪い)事態であれ、私-感覚-身体-リモコン-テレビという連結の全体としての相関者が考えられる。

相関は相互的である。たとえ私の意志による影響が対象に対して見えなくとも、私がその対象から影響されることで相関しうる。心も、身体も、モノも、道具的であるが、それは支配関係というより、協働関係を取り結ぶ対等な相関者どうしであり、一体ものとしての相関者を形成する。相関とは程度の問題である。推移律によりその先も、その先の先も、要するにすべての相関者が結ばれる。ブッダは明けの明星を見たが、ブッダは明けの明星に見られたと言っても同じことである。

ウパニシャッド哲学では、現実という夢の世界の根源に宇宙原理としてのブラフマンを見て、これは生命原理としての真我(アートマン)と同一でなければならないと考えた(梵我一如)。つまり、個物に全てを見る。仏教にも(具体的な存在の措定は避けつつも)似たような考え方がある(物我一如)。

あらゆるものにあらゆるものを見る。「私」どころか、認識主体はどこにあると言えばよいのか。

参考文献

  • デカルト: 情念論, 中央公論新社 (2002).