なぜ「いま・ここ」なのか

2026年1月12日
春日 悠

はじめに

仏教、特に禅では「いま・ここ」に注目する。それはなぜなのか、その背景について妄想してみた。

幸せについて

人は何を求めているのか。幸せである。幸せとは何か。良いものである。良いものとは何か。好ましいものである。好ましいものとは、喜ばしいものである。人は良いものを得ると喜び、悪いものを得ると嫌がる。人は良いものを求め、悪いものを避けようとする。日々の生活を瞬間の体験としてではなく、何か間延びした空間として見たとき、要するに「人生」として見たとき、人はその人生が良いもので満たされていて欲しいと思う。それを「幸せ」と呼んでいる。

良いものを「快」、悪いものを「苦」と呼ぼう。人は快を求め、苦を避けようとする。人は人生が快で満たされていて欲しいと思う。それは可能だろうか。快を尽くそうとしたらどうなるか。美味しいものを食べることは快である。ただ、一口目は最高の美味しさでも、二口目、三口目となると、徐々にその快感の強度は弱まってくる。同じ料理を二度、三度と食べると、最初ほどの快感は感じなくなってくる。毎日食べたらどんな料理でも飽きる。味の強い料理なら特にそうである。たまに食べるからよいのである。だから、また別の美味しいものを求める。これにも慣れる。快を持続させようとすると、その強度を上げ続けるか、新奇なものを求め続ける必要がある。これには時間もお金もかかる。

我々は生活のために時間やお金を必要とするから、快ばかり求めてばかりではいられない。それに、快を与える体験は快感だけで済むとは限らない。食べ過ぎるとお腹を壊したりするし、飲み過ぎると二日酔いに苦しむことになる。また、美味しいものばかりを食べると栄養が偏りがちだが、栄養の偏りは身体に悪影響があるから、健康を失う可能性がある。健康もまた幸福の一要素であることは誰も否定しないだろうから、それは快の一種であると言え、このことから一方の快を得るともう一方の快を失うという状況がありうることになる。さらに、人は快の獲得とその期待との区別がつきにくいところがあるから、その期待に絡み取られて、依存症になり、生活を持ち崩すことにもなる。

結局、生活を維持するための苦を適度に引き受けながら、適度に快を求める均整の取れた生活が妥当ということになる。人生において快と苦のそれぞれの総量は同じであると主張する人もいる。強烈な快は、それ相応の強烈な苦で贖う必要があるというわけだ。仮にそうだとすると、幸せの条件を人生が快で満たされるのではなく、人生における快の総量が苦の総量を上回ることであるとしたとしても、この意味での幸せは不可能であるということになる。

なお、快でも苦でもない状態もある。苦でないことも快であることにすれば、この状態こそ幸せということになるが、あいにく人はこの状態に飽きる。病気ではない状態も健康のうちに含めるなら、健康がこれに当たることになるが、人はしばしば健康の大切さについてそれを失ってから気が付く。「当たり前」のものは、いくら大切なものでも視界に入らない。むしろその特段に差異を引き起こさない状態に退屈という形で苦痛を感じる。幸せは退屈なのである。つまり、幸せは苦なのである。これは矛盾である。

人生を快だけで満たすことはできない。快を苦より多くすることも難しい。快でも苦でもない状態に人は耐えられない。人生における平均的な快の状態を幸せと呼ぶなら、人生において幸せは不可能である。ただし、瞬間的な快は可能であるから、それを幸せと呼ぶなら、瞬間的な幸せは可能である。

快が苦により贖われるのなら、その逆も言える。あえて苦を受け入れることにより、快を得ることができる。多大な労苦の結果何かを成し遂げることにより、格別な快感を得られることがある。それを幸せと呼ぶことに違和感があるだろうか。職場でのプロジェクト、自宅の大掃除、本の執筆、楽器を弾くこと、プラモデルを作ることなど。しかし、企図を遂げることだけが快だろうか。その過程はどうか。何かをすることには常に一定の面倒さがあるから、それは苦である。それが順調に進んでいく様子を見ることには快がある。それが順調に進んでいなければ苦を感じる。これは苦なのか、快なのか。

快や苦にそれぞれ快感や苦痛を感じるだけでなく、快を感じている状況に快を感じたり、苦を感じている状況に苦を感じたりする。誰かを愛している状況を愛したり、病気で苦しんでいる状況に苦しんだりする。場合によっては、誰かを愛している状況に苦しんだり、病気での苦しみを愛したりするかもしれない。喜びに後ろめたさを感じたり、その後ろめたさに快感を感じたりする。これはどういうことか。

快や苦には、物のレベルの快や苦と、メタレベルでの快や苦があるということになる。快や苦を感じる状況と、その状況に対して快や苦を感じる状況があるということである。快に快を感じ、苦に苦を感じるだけでなく、快に苦を感じ、苦に快を感じたりもする。物のレベルとメタレベルそれぞれの快や苦には必然的なつながりがない。メタレベルの快や苦は、状況の解釈のための準拠枠(意味フレーム)で決まるが、それは考えではなく考え方を変えることで(意味フレームを変えることで)変更できる。したがって、幸せをメタレベルの意味で考えるなら、幸せは選択の問題、決意の問題ということになる。幸せになることを自分自身に許せるかどうかの問題である。

ここに幸せの秘密がある。苦を厭い、快でも苦でもない状況に快を感じる幸せもあれば、適度な苦と適度な快という状況に快を感じる幸せもある。強烈な快をあえて強烈な苦で贖うことに快を感じる幸せもある。いずれにせよ、幸せは、本人が納得ずくで生きているかどうかである。

人生の意味

ヴィクトール・フランクルは、人間の価値は三つあるとした。創造価値、体験価値、態度価値である。たとえ何かを成し遂げること、何かを味わうことが不可能になっても、人には最後まで自分自身の態度決定を行う自由が残る。人の命を奪うことはできても、人の意志をくじくことは本人がそれを認めない限りできない。大抵の人は思い込みにより自分で自分の意志をくじくのだけれども。

フランクルは、現代人の精神的な病の中に「意味の喪失」を見た。なぜ生きるのかという「意味」である。物レベルでは、昔に比べたら快を得られる可能性が高い環境でありながら、生きることに苦痛とは言わずとも虚しさを覚えている。幸せでいてもよい根拠を失っている。だから、病とまではいかない人でも生きる意味を探し、「自分を探す」といったことが行われる。フランクルは、人生に意味を問うべきではないと考えた。むしろ逆に我々は人生に意味を問われているのであって、人生をかけてその問いに回答しなければならないのである。志向される意味は自己の外にある。自己に根拠を見出すのではなくて、自己を超え出て意味を創出しなければならない。自己実現ではなく自己超越でなければならない。

人生の意味が見つけるものではなく創り出されるものだとしたら、それは無根拠であるということにならないか。フランクルは、フロイト派やアドラー派のように人間を心理学的機構の結果に過ぎないと考えることを「心理学主義」と呼んでニヒリズムであると批判した。それは力への意志に基づいて他者を貶めるために(翻って自己の価値を高めるために)要素還元主義的に他者の「意味」を解体し無意味とするものと見たのである。その際、幾何学的な比喩を用いた。三次元的には繋がっている形状でも、断面を切って二次元に落とし込んだら形状が二つに分断して見えることがある。心理学とは人間について次元を落として分析するもので、それはそれで有用だが、モデルと実際を混同してモデルがすべてと見てしまうと、肝心なものを見落とすことになる。それは地図と土地を取り違えるようなものである。

理論としての低次元への落とし込みがあるなら、我々の認識自体にも低次元への落とし込みがあるだろう。そうだとしたら、我々の次元を超えた「超越的な」次元もありうるし、そこに真の意味がありうる。それがもしないとするなら、そもそも我々は生まれてなど来ないはずである。超越的な次元を想定しても依然として生の謎は解明されないままであるが、我々の認識しているものが無根拠なだけで、生それ自体が無根拠とは言えない。この認識の無根拠性と超越的非・無根拠性が態度価値を正当化する。

トルストイの小説『イワン・イリッチの死』の主人公は、小説の主人公には似つかわしくないほどの手堅く凡庸な人生を送り、ごくつまらないことが原因で死ぬ。死が接近する事態に直面して、家族が同情というよりは戸惑いむしろよそよそしくなるのを感じ、人生をかけてこだわった社会的成功などといったことが無意味に手から滑り落ちていく様を見て、彼は訝しく思うが、死の直前、慈しみを家族に対して示す自由が自分にはまだあることに気がつき、最後には聖人のように慈悲と歓喜の中で死んでいく。彼の人生は幸せと言えるだろうか。一定の社会的成功を得ているという意味ではそうだ。しかし、結局それがなんでもないことだったことを認識することは悲劇である。だが、最後には歓喜の中で死んだのである。絶望の中で死にゆくより、歓喜の中で死にゆくほうが幸せであろう。人生の最後の選択によって、人生全体を贖ったのである。人生を取り返したのである。

ならば、人生は終わってみなければわからないのか。そうとも言えるが、生きている人間にとって、最後の瞬間というのは未来ではなく、常に今この時である。

時間・空間・人間

人はどういう「空間」で物事を見ようとするか。人は何を気にするだろうか。昨日のことをモヤモヤ考え、明日を心配したりする。昨日いた場所、明日行く場所で起こることを心配する。また、誰かの言動で心を悩ませる。歴史を振り返ったり、将来を予想したりする。遠い国で起こっている出来事を考える。どこかの誰かの発言を真に受けたりする。

つまり、人は時間、空間、人間という「空間」で物事を見る。過去-未来、近縁-遠方、彼-我の広がりの中で物事を見る。それによる認識は妥当だろうか。過去はもう過ぎたことで、過去のあいまいな記憶の想起により再構築されたものである。未来はまだ来ていないので、推測をもとに勝手に想像されたものである。遠方の出来事は、伝聞をもとに適当に想像されたものである。他人の言動というのは、以上の時間-空間-人間という軸で構築された臆見に基づいて構築された臆見である。これらの総体としての自我の意見は、臆見につぐ臆見である。この臆見の泥団子を我々は「現実」だと思い込んでいる。

残るものは、今と、この場と、真の意味での自己である。真の意味での自己という意味は、ふつう考える自我というのは、臆見の世界で臆見を生み出す元であるのみならず、これ自体が臆見の世界で生み出された臆見であるからである。「マインドフルネス」では「いま・ここ」と言うが、その動機には自我を好ましい状態にすること、つまり幸せになることがある。「いま・ここ」に位置することで時空間的な臆見から逃れても、自我という世界の中核を窓として臆見の中にとどまり続けることになる。ただの自我ではなく、それよりも存在の根源(と言ってもその秘密は謎のままだが)に限りなく近い自己でなくてはならない。それは実質的にはほとんど無に近いかもしれない。

禅では「即今・当処・自己」という。「いま・ここ・自己」である。時間、空間、人間の軸で、それぞれ「現実」の根拠たる臆見を離れ、真実のありかたを見ようとする。その「ゼロ点」においては、常に「最後の瞬間」である。常に死につつある。死につつ瞬間は生成される。人生が死にあたって贖われなければならないならば、それは常にこの瞬間である。

「現実」は無根拠である。それは虚無ということではない。「現実」とは、どこかの頭の悪い連中(自分自身も含む)が勝手に妄想しているだけのものである。それは、現実は改変できるということでもある。現実を歪めるということではない。今の「現実」がすでに歪められたものである。

終わりゆく瞬間。明日はない。過去もない。ここもあそこもなく、彼我の思惑もない。彼我もない。結局、生とはなんだったのか。そしてそれは、各瞬間ごとにそうなのである。