人格とは何か

2025年8月3日
春日 悠

はじめに

この文章は、ブッダの身口意によって人格を分析したらどうなるかを妄想したものである。

人格とは何か

人格とは何か。ここに一人の人間がいたとしたら、その人そのものはひとつの人格と言ってよいだろう。仮に、その人を身体および口・意識の2つの部分にわけたとすると、人格が属するのは後者であろう。口というのは他者に向かって言葉を発する器官だが、心の中で自分だけが言葉を聞けるとしても、主観的には人格が認められるだろうから、口の代わりに言葉・意識を考えてもよいだろう。言葉と意識を分離できるとしたら、どちらが人格の担い手といえるだろうか。

人格は考えるものである。考えないものは人格とはいえない。考えるという行為は言葉によって行われる。したがって、人格は言葉が支えている。言葉なしで考えうるだろうか。意識の材料は感覚である。五感のうち、言葉はデジタルな聴覚といえるが、それ以外の感覚だけを使って考えることはできるか。もちろん、想うことはできる。海辺で見た美しい夕日を想う。山頂で感じた爽やかな風を想う。だが、「美しさ」を想うことはできるか。美しいものを想うことならできるが、それは美しさそのものではない。「美しさそのもの」など非科学的・非物理的で馬鹿らしいというなら、物理学的概念である「力」はどうか。物が何かに押されて移動する場面を想うことならできるが、それは力そのものではない。想うことは考えることとは違う。考えることは言葉の領域である。

言葉

人格に言葉以外の要素はあるだろうか。ある人の痕跡だけがあったとしよう。その人の生活の跡を追って、この人はどういう人であったか調べるとする。それはつまり、その人がどういうことを考え、どういうものを好んだかを調べるということである。その人の住処の机の上にプラトンの『饗宴』の1冊でも置いてあれば、これはかなりその人の「人となり」の範囲が絞られる。手記なりあればもう確実である。そうではなしに、ただ小石が意図的なのか偶然なのか判断つかない様子で床に置かれているとか、文字の書かれたたぐいのものが一切ないとかだとどうだろう。落書きのひとつでもあれば何かしら想像はできようが、それはロールシャッハテストの域を出ないかもしれない。その人が生まれてから死ぬまで一切言葉を使用しなかったとしたらどうか。その人の考えの跡を追うことなどできるだろうか。実は「その人」がゴリラやチンパンジー、あるいはカラスとかだったとしたらどうか。その場合、その考えを追うのは擬人化でしかないのではないか。

擬人化とは人と仮定して考えを追うことである。それは人格を仮定することだろう。人格とはその人の「人となり」であり、それはその人の考えることの総体であり、その場合の考えることは言葉の領域である。そうすると、人格は言葉の領域にあることになる。

言葉は言葉だけで存在できるか。言葉はその部分の意味同士が作る論理的な空間である。その意味はどこからくるか。言葉の意味は、言葉の関係性により規定される。ただ、それだと、どこまで行っても意味が確定しないことになる。したがって、どこかに言葉によらずに意味の確定する言葉があるはずである。その意味は経験が、つまり意識が支える。言葉はそれ自体で構造を持つが、その端っこを意識が支えている。言葉と意識の関係は、そのようなものである。

人格と意識

人格は論理空間のサブセットである。それは言葉の中に埋め込まれている。言葉は自立しているが、意識という基盤の上に接地している。人格は意識と繋がってはいるが、あくまで言葉の構造の中にある。言葉があるときに人格があり、言葉がないときに人格はない。言葉がなくても意識はある。つまり、人格がなくても意識はありうる。言葉だけあれば意識がなくても人格はありうる。人格とはそういうものである。

唯物論的には意識は身体に支えられているとなるだろうが、意識が身体を認識するから身体はあると言えるのだから、私の端っこは意識である。人の行為の源である身体・言葉・意識のうち、私の根本は意識のほうにある。人格はそのうちの言葉の領域にある。人格とは「私」である。「私」は私自身とは違うのである。

我々は、人格は意識のほうにあると思いがちだが、実際には言葉のほうにある。それは作られたものである。だからウパニシャッド哲学やブッダは「それは我ではない」と言うのである。でなければ言語生成AIに人格があるかなどという話にはならない。その答えは単純である。それが論理空間の一部をなしているなら、その一部である人格を含んでいても不思議ではない。それは論理空間でしかないから意識はない。AIの人格問題の取り扱いにくさは、AIの複雑さにあるのではなく、我々が人格を過大評価するところにある。AIの人格が錯覚なのではなく、我々の固定化された人格のほうが錯覚なのである。