恩寵とは何か

2025年7月21日
春日 悠

はじめに

この文書は、仏教における恩寵とは何かを妄想してみたものである。

神はなぜ必要か

動物は環境を利用して生きる。カラスのように道具を作るものもいれば、ビーバーのように環境を作り変えるものもいる。環境を利用するには、環境を理解する必要がある。動物は、比較的単純な因果の連なりであれば、直感的に理解する。人間はより複雑な出来事を理解する。そのために比喩を使う。我々は現象を理解するのに「メカニズム」を使うが、これは機械を用いた比喩である。機械が発明される以前は、複雑なものといえば動物や人間であった。複雑な現象は超自然的な動物や人間のような存在に見立てて理解された。それが神話である。

自然の豊かな場所では、個性豊かな精霊や神々が生じたであろう。砂漠や荒野といった寒々しく過酷な場所であれば、少数の精霊や神々が生じ、ときに厳格なリーダーのような唯一神が君臨したであろう。神とは、環境世界における不可解なものに対する説明原理であった。

使役される神と不条理の神

神といえば、人間よりも上位の存在で、その霊験を期待したり祟りを忌避したりして、崇められたり畏れられたりと、基本的には丁重に扱われるものである。だが実態としては、捧げ物 (品物や言葉) をしてその返礼を求めるという、言ってみれば使役が行われている場合がある。一方で、献身 (帰依) は求められるが、その結果は気まぐれで、理屈を超えているような、いわば不条理の神の場合もある。概ね前者は多神教的、後者は一神教的である。この違いはどこからくるのか。

過酷な場所では神は少数か唯一神になるだろうと言った。過酷な環境、因果関係が設定しにくい環境、要するに不条理な環境においては、それを超えるような不条理の神を想定せざるを得ないのだろう。理屈の通らない状況で、理屈の通らない神がたくさんいても説明手段にならない。数人とか、光の神と闇の神とか、唯一神とか、そういった単純な構成になる。「ああすればこうなる」式の使役は通じないから、せいぜい、ただただ献身して、人智を超えた理屈により、我々からみれば気まぐれに、お恵みを頂戴する、つまり恩寵をいただく。不条理の神は恩寵の神である。

ユダヤ教の聖書に、カインとアベルの話がある。農業を営む真面目な兄のカインと、羊飼いとして気ままに暮らす弟のアベルがいたが、神がアベルを依怙贔屓したのに怒ったカインがアベルを殺し、神に呪われてしまう。異教徒から見たら理不尽といか、不条理な話なのだが、そもそも不条理性こそがこの話のテーマなのである。なぜメソポタミアで農業をして暮らす異民族のほうが我々より豊かなのか。なぜ「善」である我々が虐げられ「悪」が栄えるのか。「なぜ」は人智を超えている。それはそれとして、神が注ぎたもう視線は我々のほうにあるのだ。そうやって自らを慰めたのであろう。

これは、のちのキリスト教における (教条主義的とされる) パリサイ人の話とか、大乗仏教の『維摩経』においてブッダの直弟子が (ご都合主義的に超有能化された) 在家者にコケにされる話とか、そういったものにも通じる。世間が不条理なら、それを超える不条理性で既存の価値を否定しかつ転倒してしまう。これは弱者のための宗教である。特にユダヤ人にとっては、なかなか安住の地は得られず、やっと国を建てたはよいが分裂したあげく滅ぼされ、異郷の地に連れていかれ、などと主観的には「善因善果」など期待できないような状況において、不条理性こそ世間の本質とみて、不条理の神への献身と恩寵の思想を強めざるを得なかったのであろう。古代ローマ帝国でキリスト教が広まったのも、のちに「宗教改革」運動が生じたのも、インドのヒンドゥー教や大乗仏教、日本仏教の末法思想や浄土信仰にしても、その時々のしんどい状況に対応してのことであった。不条理な状況にはそれを超える不条理な神話が必要なのである。

脱神話化

多神教であった古代ギリシャ人は、早くに脱神話化した。それは、自然現象の説明原理として「メカニズム」を手にしたためであろう。同時期のブッダの時代のインドでも、無神論的な思想が展開された。

一神教であるユダヤ教やキリスト教において脱神話化が起こったように見えないのは、神の領域が最初から不条理な部分 (説明不可能な部分) にあったからであろう。自然は神の被造物であるとはいっても、そのそれぞれの振る舞いまでいちいち神が司っているわけではない。実際、キリスト教において、「天体はそれぞれ天使が押し続けている」とか、そういう形での部分的神話化が行われていた時期もあったが、結局は (多分にアリストテレスの影響もあって) メカニズム的な説明へと移行していった。

そうして、条理の部分にはメカニズムが、不条理の部分には不条理の神が、それぞれ説明原理として置かれることになった。この「科学原理主義」とでもいえる時代に恩寵の神の信仰が生き残っているのは、そのためである。

自力と他力

ウパニシャッド哲学やブッダの思想は、自分で自分を救う思想、自力の思想であった。その前提として、善因善果や自業自得の考えがあった。要するに自己責任論である。その後のインドにおいて、イラン人やギリシャ人などが侵入してきて、既存の社会階層から外れた、インド人からしたら最下層に当たる異民族どもが我が物顔で振る舞うようになり、善因善果も自業自得も成り立たないような状況になった。確かにウパニシャッド哲学や仏教は、苦しみを根本的に統御する方法を教えていたし、それが無効になったわけではなかったが、前者は主にバラモンのためのものだし、後者もエリート主義化していた。一般民衆としては、その日その日を必死に生きなければならない状況で、のんきに修行だの理論研究だのに関わっている場合ではない。そこから、バラモン教においてはヴィシュヌ信仰やシヴァ信仰などのヒンドゥー教が、仏教においては弥勒信仰や阿弥陀信仰などの大乗仏教が生じた。これらは他力の思想、献身と恩寵の宗教であった。

クリシュナ=ヴィシュヌ信仰では、献身 (バクティ) が求められる。結果を期待せずに行為せよ、行為を超越せよ、行為を放擲せよ、といわれる。救済のために救済を望むなと言われているように聞こえる。これは使役される神ではなく、不条理の神である。世間的には、願望があるからはからいがあり、はからいがあるから行為があり、その結果として成功や失敗があり、勝者や敗者がいる。それに対して、欲望を捨て、願望なく、執着なく行動せよという。悪人さえも献身により許される。既存の価値が否定され、転倒される。

大乗仏教では、出家などせずとも、弥勒菩薩や阿弥陀如来にただ祈る (念仏) だけで救われるとされる。特に阿弥陀如来については、悪人も救われるというより、悪人 (要するにたいていの衆生) こそ救いの対象であるという思想が出た (悪人正機)。その根本の思想は空 (くう) の思想である。本来の仏教では、自力なので、自分の行いの結果を自分で受けるという考え方である。これを、他人の行いの結果を自分が受けるという、他力に変えなければならない。これは功徳の結果の方向を変えるという考え方であり、廻向 (えこう) といわれる。そのためには既存の価値が否定され、転倒されなければならない。その機能を担うのが空の思想である。

空の思想は、ブッダの思想にもとからあるもので、物事は関係性によって生じ、それそのものとしては存在しない、という考え方である。波は水があるから生じ、水がなければ生じない。だからといって波が存在しないわけではない。波とはそういうものとして存在する。一切がこの調子で存在する。ブッダの思想は虚無主義ではない。常識的な物事の把握の仕方が間違っている、と言っているだけである。ただ、これは虚無主義と紙一重でもある。結局、この調子でブッダの思想も、ブッダも、苦しみの統御も、苦しみ自体も、否定される。その価値否定と転倒によって、自力から他力へと、大乗仏教は華麗に飛び移って行ったのである。だから、仏教は虚無主義だと言われるとき、本来は違うのだが、違わないわけでもない。ただ、そこには救いのために救いの否定すらも含む不条理性がある。やはり不条理の神なのである。

自利と利他

廻向とは、たとえば弥勒菩薩の「衆生をなんとしてでも救ったるわい」という強い願い (誓願) の功徳の結果を、本来は弥勒菩薩自身に戻ってくるはずの果報を、弥勒菩薩について祈る者の方に捻じ曲げるということである。こう考えると、これは恩寵の神というより、使役される神ではないか。これは献身する側からすると他力ではあるが自利である。

廻向の思想的根拠は、おそらくブッダの慈悲である。ブッダは自業自得の世界で、他人を救おうとした。ブッダの思想からすると、本来は他人を救うことなどできない。それを可能にするのが廻向である。ブッダは自身の功徳の果報を他人に振り向けようとしたのだと考えるのである。

大乗仏典の一つである般若心経の般若波羅蜜 (パンニャー・パーラミター) の性質からすると、本来の他力や廻向は、他人の行いの結果を自分が受けるというより、自分の行いの結果を他人が受けるという意味合いであろう。観自在菩薩の (そして三世諸仏の) 般若波羅蜜 (マントラ) は、他人への励ましのようである。それをみなも唱えよというのである。それは利他の精神のすすめである。

私が誰かのために祈り、誰かが私のために祈る。仏教における恩寵とは、不条理の神による恩寵というより、神 (諸仏) も衆生も含めた利他のネットワークから生じるものであろう。

仏教における恩寵

まとめると、以下のようになる。ウパニシャッド哲学やブッダの思想は、因果を理解して苦しみを統御するもので、善因善果・自業自得・自己責任の思想である。それらによると自力で救われなければならないが、現実の不条理性が強い場合、自力では太刀打ちできなくなる。日々の糧を自ら得るのに忙しい在家者はなおさらである。それに対処するためには、不条理の神、恩寵の神を導入し、他力に頼る必要がある。

ウパニシャッド哲学の場合は、不条理の神との相性がよかった。一方、ブッダの本来の思想には神が入る余地がない。仏教にいるのは本来は修行者だけである。そこで、弥勒菩薩や阿弥陀如来のような救世主的な「スーパー修行者」が想定されたが、自業自得であることには変わりない。だから、ブッダの空の思想を発展させて価値否定・転倒させた上で、ブッダの慈悲を根拠に、自分を救う自利ではなく他人を救う利他こそが重要と考え、自己の功徳の果報を他人に振り向ける廻向というものを考えた。これにより、スーパー修行者への献身により、彼が誓願により自己の功徳の果報を他人に振り向けるという前提で、彼の果報を献身者が得るという理屈が考えられた。これだけだと「念じれば通じる」という、使役される神であり、その限りでは自利である。

親鸞は「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」と述懐したというが、もちろん、これは自己中心的な話をしているわけではない。ただ、他力だけに目を向けると、自制のための機制 (要するに道徳) がきちんと含まれていないように見える。本来、自力-他力-自利-利他-廻向は、慈悲によってつながっている。だから、クリシュナ信仰の献身と同様に、自力において、はからいなきをはからいとする (無義をもて義とす) ことにより、他力となす。これにより念仏の対象は不条理の神となる。とはいえ、念仏の相手は神ではなく、同じ修行者である。お互いの背中をお互いにあずけあう、お互いがお互いを果報で救い合う、その結果が仏教における恩寵である。

参考文献

  • 梶山雄一: 大乗仏教の誕生, 講談社学術文庫 (2021).
  • バガヴァット・ギーター, 岩波文庫 (1992).
  • 歎異抄, 岩波文庫 (1931).