ウパニシャッド哲学的妄想2025年6月8日 | |
はじめにウパニシャッド哲学は、古代インドの思想で、起源は前15世紀ごろ (実際の経典の形としては前5世紀ごろ) まで遡れそうなものである。これは単一の思想というより、長い年数にわたって作られた多数の聖典 (ヴェーダ) からなる複合的な思想であり、それを正統として継承し発展させたもの (ヴェーダーンタ学派やサーンキヤ学派など) と、批判的に継承し離れていったもの (仏教やジャイナ教など) がある。 この文章は、ウパニシャッド哲学についての、いい加減な理解をもとにした、ただの妄想である。 行為の放擲哲学の根本問題は、いかに生きるべきかということである。人生が生きるに値するかということ、そういったことも含む。そこには苦しみがある。そうでなければ探究などしない。人は理由のある苦しみには耐えうる。だから理由を欲する。生の夢に酔いきれず、虻のごとき思想にたかられつつ、いっそその虻に覚めるような一刺しを期待する。 苦しみとはなにか。求めて得損ない、避けて避け損なうこと、そこからくる心の動揺である。それは求め、避けようというはからいと、それによる行為からくる。苦しみの原因はまず行為である。だが、この世界で生きて死ぬものとして、人は行為を避けられない。ならばはからいを捨てるしかない。それは期待からくる。その期待は好悪の感情からくる。好悪の別を捨て、期待を捨て、はからいを捨て、ただ行為に専心すること、これが苦しみを滅する道である。 『バガヴァッド・ギーター』において、神の化身であるクリシュナが、戦いに迷う王子アルジュナに「行為の放擲」を説く。ここでいう行為とは、神の望みたもうもの、この世界における義務の遂行である。戦士であるアルジュナの義務は、敵を殺すことである。行為の放擲とは、行為を捨てることではなく、はからいを捨てることである。クリシュナはいう、「結果は気にするな、ただお前の義務を果たせ、安心して敵を殺せ」と。 これには倫理的な問題がありそうに思われる。敵を殺すのが戦士の義務とはいっても、あまり無心に義務を遂行すると、うっかり身内同士で殺し合うようなことになりはしないか。アルジュナの迷いはまさにそれそのものであった。敵は身内である。敵とはいえ、戦士とはいえ、身内と殺し合ってよいものか。クリシュナはいう、「どうせ人は死ぬ、つまり彼らは前もって私に殺されているのだ、だから心配せずに殺せ」と。そこには、通常の倫理観を超えた、独特の世界観がある。 夢夢とは何か。我々は世界をあちこち動き回り、そこで得た印象でもって思考する。それが眠りによって弱まった意識によって勝手に生じたもの、それが夢と思われる。だが、夢の中でそれと気が付くことは滅多になく、思考の一種というよりは現実の経験そのものだと思っている。荘子は夢から覚めたあと、「私が蝶になった夢を見たのか、蝶が私になった夢を見ているのか」と問うた。現実とは、目覚めて見る夢ではないのか。 夢の中で、りんごを見て、触れ、嗅ぎ、かじり、味わう。まさにりんごを経験したと思う。だが、目覚めたあとでは、それは幻であって、対象としてのりんごそのものが存在していないことを理解して、ときに残念に思う。現実では、りんごという対象があって、それに触れ、感覚し、認識となり、りんごについての経験となる。しかし、夢においては、それを現実と思うのに対象は不要であった。触れ、感覚した認識があれば、りんごについての経験と思われたのであった。 テーブルの上にりんごがあったとして、外出して戻ってきたら、まだそこにりんごがあるだろうことを私は知っている。もちろん、誰かに移動されたり、食べられたりすればなくなるが、それは別の話であって、りんごに対してなにもなされないのであれば、それは目を離したからといって勝手に消えたりするものではない。りんごの「本質」が私の生きる空間のある一点を安定的に占めていて、それは勝手に消えも生じもしないことを私は「知っている」。だが、それは私が生きる上で経験した様々なことから学び構築した「世界」というモデルによる「存在」についての説明である。私が認識される対象としてのりんごの本質を把握するのに用いたものは、あくまで認識だけであり、認識と独立した方法で本質そのものを把握したわけではないし、それはできそうもない。 我々の素朴な世界モデルにおいては、認識対象と認識、そして認識主体があるように思われる。だが、認識対象は直接には知られないものであった。その反対側にある認識主体はどうか。デカルトは、たとえすべての存在を疑わしいと考えたとしても、考えているこの私自身は存在するはずだと「実感」した。カントが指摘したように、考えているからといってその主体が存在するとは必ずしも言えない、というか、これはこれで別で考えないといけない。いやしかし、行為だけがあってその主体がないなどということがありえるだろうか。 眼は見るものだが、眼それ自身を見ることはできない。眼が視覚の主体としてそれを見るのは、あくまで他人の眼であり、その対照から自身のそれもそうだと想定されるだけであって、眼がそれ自身を見ることは最後までできない。鏡の像としてのそれをそれと認識するのも、他人の眼をそのそれとして理解したあとの話である。同様に、認識主体があったとしても、それは認識すれど、それ自身は知られない。他人というものは (私自身とは関係なく、その言動から) 認識主体であろうとは思えるが、私自身の認識の認識主体は決して知られない。また、他人の認識-認識主体もあくまで私の認識の一部でしかない (はたして他人は存在するのだろうか?)。認識からそれ自身の主体を理解できると思うのは勘違いであって、それは否定的な形でしか知られない。それはそれではない。 認識対象は知られず、認識主体も知られない。つまり、それはただ認識であって、かつ認識のみである。 輪廻転生と解脱認識主体は知られないが、知られない形で知られる。その存在自体が否定されているわけではない。それを担うものは何か。我々の世界は、心-身-外界で構成されていると見られる。外界は私のあずかり知らぬところ、身体は心と外界の界面で、最初に出会う客体である。心こそが私の主体と見える。実際、夢とは身体が休止した状態での心の働きであろう。しかし、夢も見ない熟睡状態はどうか。心-身がともに休止していても、心臓は動き続け、呼吸し続ける。最後まで動いているこの心臓に秘密があるのだろう。ここにあるものが真の主体と考えられる。これを生命原理と呼ぼう。心も夢も、結局はこれの機能と考えられる。 生命原理はどのように生じるのか。それは永続的なものと考えられる。というのも、突然現れ突然消えるのだとしたら、生命が突然生まれ突然死ぬことになるが、そういった例を我々は見ない。無からは何も生じない。生命原理は、肉体が生じるときに入り込んできて、死ぬときに去っていくものと考えられる。 苦しみは行為にあると言ったが、そもそも、生まれ、生き、老い、病み、死ぬ、その生そのものが苦しみの原因である。生まれてこなければ苦しみようがない。なぜ生まれるのだろう。生命原理に永続性があり、増えも減りもしないのであれば、物質から去ったそれは、また別の物質に入るものと思われる。なぜ物質に入るのか。それは物質との結びつきが強いからであろう。我々の欲望について考えると、心は物質に誘惑され、それに引っ張られる。生命原理も物質に引っ張られていると考えられる。その要因は欲望である。 生命原理は輪廻転生する。それは生まれ死に、また生まれる。苦しみから逃れるには、そこから抜け出し、二度と生まれてこないこと、解脱することが必要である。欲望は、好悪にもとづいたはからいの原動力である。欲望は好悪をもとにして期待となり、好悪は我々の世界モデルから生じる。私が知るのは認識のみであった。認識自体に好悪の別はない。無知から好悪の別が生じ、好悪から欲望が、欲望から期待が、期待からはからいが、はからいから行為が、行為から一喜一憂が、怖れが、心の動揺が、苦しみが生じる。純粋な認識の境地には心の平安がある。真に存在するものは心の平安だけである。それ以外のものは幻想である。 梵我一如解脱した生命原理はどこに行くのか。これは夢を生じさせる能力をもつ。現実は目覚めて見る夢であった。現実の夢を生じさせるものは何か。これも何らかの原理であり、これを宇宙霊とでも呼ぼう。生命原理はおそらく、この宇宙霊から分かれたものである。物質のしがらみから抜け出た生命原理は、この宇宙霊へと帰って行く。 ウパニシャッド哲学では、生命原理のことをアートマン (我)、宇宙霊のことをブラフマン (梵) という。解脱をなすための究極の悟りは、アートマンとブラフマンが同一であることを知ることである。汝はそれである。これを漢語で梵我一如という。アートマンは「我」といっても「私」という意味ではない。アートマンは魂とでも呼べそうなものだが、アイデンティティを構成するものではなく、あくまで原理的なものである。「私」のほうを「個我」、アートマンのほうを「真我」ということもある。 アートマンは認識主体ではない。そうではあるが、そうではない。私には認識しかなく、それは認識を超えている。眼がそれ自身を見ないように、認識は認識主体を、アートマンを見ない。それは否定的にしか近づけない。わかったと思っているうちはわかっていない。それは私ではなく、私というものもない。それは私よりも私自身の近くにある。それをブラフマンであると見て、すべてを一つと見る。 多様性は、名辞と形態による見かけのものにすぎない。区別がなければ動揺もない。その境地の究極が熟睡状態であるが、ずっと寝ているわけにはいかない。それを実現するものが瞑想である。だが、瞑想ばかりしているわけにもいかない。人は宇宙を廻すための行為をそれぞれ課せられている。だから、行為せよ、区別なく、期待なく、はからいなく、ただ行為に専心せよ、行為を放擲せよ。 ここにきて、これが通常の倫理観を超えていることがわかる。それは幻想の一つにすぎない。あえて悪といえるものは、苦しみだけである。苦しみとは動揺であり、動揺から怖れが生じる。怖れから倫理的行為も生じる。勇気は怖れをもとにしている。真の勇者は勇気をもたない。ただ呼び声に応じて行為を投げるだけである。 参考文献
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