計画の罠2025年7月27日 | |
はじめに以前から、何度となく目標と計画を立てては、頓挫してきた。それでも、何かしらやっているわけだが、うまくいったものは計画がなかったものが多いと気がついて、訝しく思いはじめたものの、うまく分析できないでいた。今回、その計画の罠について、思い切り妄想してみた。 目標と計画人は何者かにならなければならない。何かを成し遂げなければならない。それで、自己啓発本を開くと、目標を持てと説かれる。目標は具体的でないといけない。それが達成されたらどんなによろこばしい気持ちになるか、眼前にありありと想像できるほどに具体的でないといけない。また、目標は達成されたかどうかを明確に判定できるものでなければならない。「スリムになる」ではなく「体重を 5 kg 減らす」といったものでなければならない。また、目標には期限がなければならない。期限のない目標はただの妄想である。そして、その期限から逆算して計画を立てなければならない。計画ができれば、あとは行動するだけである。 そういうわけで、年初などに目標と計画を立てるも、もって数ヶ月で頓挫することが多い。なぜだろうか。ひとつは、やってやれないことはないのだが、息切れしてしまう。日々の忙しさにいつのまにか押し流され、忘れ去ってしまう。それは、まず進捗管理ができていないからと考えられる。毎週など、定期的に進捗確認を行なっていれば、日々に押し流されつつあることが認識され、再調整することができるだろう。また、そもそもの計画に無理があるのかもしれない。計画は頭の中だけで考えてしまうので、実際にやってみたら結構しんどいということもある。その場合でも、定期的な進捗確認の中で計画に無理ありと認識されたら、計画を見直せばよい。当初の計画に固執する必要はない。 単純に飽きるということもある。興味を惹かれる別のものに気を取られて、計画を放置してしまう。その場合も進捗確認でなんとかできなくはなさそうだが、結局、興味を失ったものに個人的な時間と労力をかけたくはないものである。だから、進捗確認すら気乗りしないことになる。本当にやるべきことなら、当初の目標や目的に固執すべきであるが、そもそも最初に立てた目標自体がそれほど重要なものではなかった可能性がある。 一体、「人は何者かにならなければならない、何かを成し遂げなければならない、目標を持って計画的にやらなければならない」という前提は正しいのだろうか。正しいというのは、それは私にとってうまく機能するのだろうか、私にとって望ましい結果が得られるのだろうか。私がこれまで達成したもので、自分でも深い満足が得られたものは、ほとんど計画されたものではなかった。それはその時々の興味に従ったものであった。最初は目標と計画を立てて始めたものもあったが、次第に計画からずれ始め、興味に従ってどんどん深みにハマり、目標には達せず計画も頓挫したが、かなり満足のできる成果物が得られたことが度々ある。また、計画があった場合も、最初は無計画で進めた上で、ある程度うまくいった後で立てられたものであった。 興味と計画には妙な関係がある。強い興味を抱いており、その興味に引っ張られて仕事を進める場合、むしろ計画策定はいらない。その都度次の作業が自然と見えるし、計画もすんなり頭の中にできあがる。期限があってすらそうである。事前に計画を立てなければならないのは、それほどの興味がない場合、どちらかというと義務的なもの (試験勉強など) かもしれない。強い興味を持って、ワクワクしながら目標と計画を立てることもあるが、計画通りに行ったためしはない。それでも何かしらの興味深い成果が得られる。むしろ文書化された目標や計画、進捗管理がひどく重荷と感じられて鬱陶しくなり、それで頓挫してしまうことがある。これでは本末転倒である。 私は旅行をするとき綿密に計画を立てるが、実際の旅行においてはたいてい計画通りにいかない。計画するだけ無駄ということではない。計画があるからこそ、計画を外れてもよいか判断できるのである。旅行の目的は楽しむことであって、計画通りに移動することではない。プレゼンなどもそうである。台本はあれど、台本通りに話すことが目的ではなくて、理解してもらうことが目的である。計画しつつ、柔軟に対応する。 目標と計画は必要なものではある。興味に従っている場合でも、頭の中にはあるのだから。興味に従っている場合でなくても同様の状況になることがある。それは、やることがはっきりしている仕事である。要件と期日は文書化され関係者で確認されており、やることが明確であとはやるだけなら、計画だの進捗管理だのというのは余計な介入 (要するに仕事の邪魔) になることがある。もちろん人による。ただ、人によらない管理ごっこをするよりは、人によって管理の度合いを調整するほうが理に叶っていると思う (それこそマネジメントである)。心理的な面を無視してはならない。ベテランなら信頼すればよいし、新人ならお互いの不安を取り除くべきである。 本当に目標と計画が必要な場合というのは、やることははっきりしているが、それほど単純ではないとか、関係者が複数いるとか、期間が長いといった場合である。引越し作業であれば、計画を立てるべきだろう。期限もあるし、やることも多く、抜けがあるとめんどくさいことになる。順番もあるし、関係者の調整もある。工事とかもそうだろう。いちいち次の行動に悩むことがある場合、事前の計画はその悩みを免れさせるという利点がある。 計画の罠では、どういうときに目標と計画が機能しなくなるのか。それは探索が必要な場合である。ダイエット情報は世に溢れているが、これはほとんどの人がダイエットに失敗してることを意味する。その情報の中でそれらしいものをつまみ上げて、「1 ヶ月に 1 kg ずつ痩せるぞ!」と目標と計画を立てたとしても、おそらくうまくいかない。というのも、まず痩せ方を探索する必要があるからである。目標と計画が立てられるようになるのは、ダイエットにある程度成功した後である。専門家に頼めば理屈に基づいた目標と計画を立ててはくれるだろうが、「クソ上司にイライラさせられて疲労困憊した日の夜にご褒美スイーツを食べずに済ます方法」までは教えてくれない。コツぐらいは教えてくれたとしても、実演するのは自分である。こればかりは試行錯誤するしかない。 また、基礎代謝を上げる方法でダイエットしようとした場合、筋肉がつくため、かえって体重が増える可能性がある。体重という指標をもとに目標と計画を立てていたら、状況が悪くなっていると誤って評価してしまい、やる気が続かず、計画が頓挫してしまいかねない。動物の知能を見るのに、透明の仕切りの向こうにある餌にたどり着けるかというテストがあるが、この場合、見えている目標から一旦離れなければ目標に辿り着けない。目標を見据え、目標と現在地の距離を指標として設定し、それが線形に小さくなっていくような計画をしっかり立てると、見えない壁に遮られて進めなくなってしまう。目標と計画を用いることによって、こういう事態に陥ることがある。これでは犬より劣る。まずは状況を調査して、見えない壁を越える「手がかり」なり「足がかり」なりを見つけなければならない。そのためには探索する必要がある。探索は計画できない。せいぜい方向性と希望が述べられる程度である。 地動説の話では、真理を発見したコペルニクスやガリレイが、迷信に凝り固まった坊さんたちに不当に弾圧された、というのが世間一般の認識と思われるが、実際には、天動説に基づいた当時のモデルの精度が結構よくて、コペルニクスのモデルはそれを超えられていなかった。精度という観点からすると、地動説のほうが「正しい」という論理的根拠は薄く、アリストテレス主義者たちの拒絶も不合理ではなかった (実際、コペルニクスのモデルは円軌道で、単純に間違っていた)。ただ、精度だけで評価してはいけなかったということである。また、ガリレイを支持したケプラーを、ガリレイは占星術師風情と見下していたが、天体の軌道が楕円であることに気がついて地動説の正しさを示してみせたのはケプラーであった。その占星術師ケプラーからの流れで、錬金術にもご執心だったニュートン御大が万有引力を発見したのである。ニュートンこそ近代科学の祖のように見られるが、星々が地上の物体に力を及ぼしているという考えは、実はオカルト的である。にもかかわらず、科学の根本にこれがある事実は今も変わらない。 もし、一般に信じられているように、科学の進歩を牽引したのが合理性だったとしたら、いわゆる科学革命は起こっていなかったであろう。コペルニクス、ガリレイ、ケプラー、ニュートンらを突き動かしていたのは、ある種の迷信であった。この状況を指して、ポール・ファイヤアーベントは「なんでもあり」と言った。「なんでもあり」は言い過ぎにしても、次の進歩への足かがりを探索すべきときに、目標だの計画だのといった合理性をもとにして進んでいたら、袋小路に入り込むだろう。 計画的偶発性計画性が問題になるのは、何かを成し遂げようとするときだけではない。何者かになろうとするときにも問題になる。それはキャリアパスの問題である。キャリアパスというのは、ある役職や立場になるために、どういう役職や立場を通り、そのためにどういうことを学んでいくべきか、という目標や計画である。ただ、問題は、実際に何かを成し遂げた人の話を聞くと、偶然そうなったという場合が少なくないことである。真っ直ぐエリートコースを進んだ人というのもいるにはいるが、稀である。そうだとすると、キャリアパスなどに意味はあるのか。 実際、そう考える人もいる。クランボルツは、人生やキャリアは偶然の出来事 (happenstance) によって運ばれていくと考えた。出来事はコントロールできないので、自分の反応のほうをコントロールせよ、オープンマインドでいよ、と説いた。クランボルツの考え方は、「計画的偶発性理論」(プランド・ハプンスタンス理論) と呼ばれ、以下のような行動指針としてまとめられている。
つまり、計画するなら態度とかマインドセットのほうにせよ、ということである。そもそも、キャリアは通ったあとの道筋なので、それを事前に計画しようというのは、おかしな話である。それはいいとしても、こういう経歴をもって、引退して、老後を過ごし、死ぬ。......で? という話にもなる。死を忘れないことはよいことだ! ときに馬鹿馬鹿しい気持ちになるということを除けば。 また、成功はコントロールできないが、それがたくさんの失敗の結果出てくることを考えると、計画すべきは失敗のほうかもしれない。そういう意味で、成功そのものをもとにして計画するというのは間違っているかもしれない。本来、それらは手がかりや足がかりでしかない。それに固執すると手段と目的が転倒する。よくある話である。 思考は現実化する自己啓発本には、成功法則だの成功哲学などといった、一連の著作群がある。「思考は現実化する」だの、「願いは書けば叶う」だの、「引き寄せの法則」だの、スピリチュアルというか、オカルトな感じのするものである。 ところで、私が計画は無意味なのではないかと、薄々感じ始めていたとき、奇妙なことに気がついた。それは、計画とは別に、こういうこともできたらいいなと、ただ書き記していただけのものが、あとから見ると、そこそこ達成されていたことである。もちろん、そこに書きつけたということは、気にかかっていたものではあるにしても、書きつけることで、改めてそれらが意識下にセットされたものと思われる。 車に興味を持つと、車がよく目につくようになる。車なんてそこらじゅうを走っていて、毎日のように目にしていたに違いないにもかかわらずである。意識に入力される情報にはフィルターがかかっている。気にかかるものを意識下にセットすることで、それに関連したチャンスに気がつくようになる。 何かを達成しようとするとき、なかなかうまくいかないことがある。それは、まだその時ではないということであり、まず足がかりが必要なのである。その足がかりは、全然別のことをしているときに知らずに見つけていることがある。準備ができた、ということに気がつくために、フィルターの設定が必要であろう。上のクランボルツの話は、意識のフィルターの制約を緩めよと言っているのである。「引き寄せの法則」などにしても、同様の話で説明がつけられるであろう。 仏教における目標は、悟りに至ることであるが、そのためにはからいを持つことは、悟りから離れることになる。目標のために計画することが、目標への接近を阻むわけである。いや、目標をもつことが、目標への接近を阻むのである。それがどういうことかはよいとして、これは探索が必要なときに計画の罠に陥る状況に似ている。目標に近づくとかえって、袋小路に捉われてしまう。仏教の場合はだから、目標も計画も持たない。方向性だけを見て、目標を諦めるのである。 参考文献
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