心の構造2025年8月12日 | |
はじめにこの文書は、心にも構造があるということを、酔いにまかせて書いたものである。 言葉の構造ブッダは、苦しみの発生は人の無知に発する形成作用、身体・言葉・心の動きにあると分析した。一般的には人の作用を心-身と分けるが、ブッダは言葉を独立したものと見た。バガヴァット・ギーターにもこの分け方が出てくるので、古代インド人には(少なくとも思想家には)一般的な分け方だったのかもしれない。とにかく、言葉にはそれ独自の構造があると見たということである。 身体には独自の構造がある。言葉にも構造があり、それが考えや人格を生む。構造があるということは、なんでもありというわけではない。あれはよいがこれはだめ、というのがある。構造は関係性である。言葉の構造は、言葉と言葉の関係性である。言葉とそれが指差す概念には、因果や相関があり、それが文法や文脈や論理を構成する。身体と言葉が独自の構造を持つということは、心にも独自の構造があるということである。 心の構造ブッダは人間を五蘊、すなわち色受想行識、身体、感覚、表象、形成作用、認識からなると見た。身体というのは物質であり、すべては心において主観的に把握されるので、五蘊ですべて尽くされているのであって、一切は五蘊であると見たといってもよい。それはそうと、認識にやってくるものの流れの源泉を遡ると、それは感覚である。心の材料は感覚要素である。それが心の「言葉」であり、それらの関係性が「文法」や「文脈」を作り、構造を作る。 心の乱雑さを思うと、感覚要素(色声香味触法)とそれらの随伴物の嵐が構造を持っていると考えるのは難しい。それでもなんらかの構造を持っている。身体のように、物理的制約によって構造が決まるのではない。言葉は人格の根本的な構造である。それは他者とのやりとりの中で、構造が決まっていく。心の構造は、個人的で偶然的な経験により制約付けされているように見える。明日をどんより曇り空のようなものとして想像することは、他人にそうしろと言われてやるものではない。真っ暗闇のように想像することも、雲ひとつない青空の下のひまわり畑のように想像することも、そう強いられているわけではない。そう言われて初めて、自分がそのように(その人のやり方でそれぞれ)想像していることに気が付く。そういう「戦略」を採用していることに、言われて気が付くのだ。 人は比喩によって把握する。あるものは直接的経験により把握する。それ以外は、知っているものから構造を(関係性を)借りるかたちで把握する。人格には「素顔」も「横顔」も「裏の顔」もある。心にも素の面や側面や裏の面があるわけだ。そういう理解のしかたである。心の素の経験というものはどれだけあるだろうか。心は言葉の大伽藍と無縁であるわけではない。言葉の構造からの借り物と、ある経験の構造からの借り物と、そういうものが混交して、「重荷を背負ったような気分」だの「過去を引きずっている」だのと、そういった気持ちが生じる(「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」)。いや、生じるといってよいのか。それは混乱して見えるが(あるいは聞こえる、あるいは感じるが)、ほんとうに混乱しているわけではない。確かになにがしかの構造がある。それを意識していないだけである。 文法には時制やアスペクト、モダリティなどの微妙な意味合いを表す機能がある。言葉の構造を支える心にも、それらを支える構造があると考えられる。それらは暗黙的につながっている。「猫のかわいさは見た目にあるか、性格にあるか」という問いかけに素直に答えようとすると、「猫はかわいい」ということを暗黙的に認めることになる。ぼんやりしていると、そういう間接催眠的な罠にはまることになる。「あたしってこういう性格じゃない?」みたいな感じである(「知らんがな」と思うのか「そうだったんだ」と思うのか)。部分的に提示された言葉の構造の欠けたピースを、下部構造が非意識的に埋めようとして、思ってもみない思いを思いがけずに引き出されることになりうる。それは、心にも構造があるからこそである。その構造を作っているものはなにか。 心の言葉感覚要素は感覚要素でしかない。それが「憂鬱な明日」や「暗い過去」「輝かしい未来」などになるのか。存在とはなにか。心を煩わせるものである。気に掛かるものである。気に掛からなければなんでもない。それは存在として認識されない。コーヒーのあるブランド豆の酸味の度合いが意味合いとして問題になるのは、それがその彼あるいは彼女の身体-言葉-心の構造の一部を構成し、動かし難い大伽藍の無視できぬ一穴になりうるためである。経験が穴を穿つ。素人にはそんなことはない。下手をすれば「酸味って?」などとなる。ほら、あるだろ、すっぱいというか、そういう感じのやつが。あー、あー?これか?となったとしても、酸味はただの酸味である。穴などあけない。だが、それは酸味になってしまったのだ。名付けられた。呪われたのだ。あとはそれは酸味にしかならない。追求していくと、そのうちある構造の一部として取り込まれる。それは余程のことだ。存在を形成しているからである。感覚要素をただの感覚要素として感覚することは、存在をなさず、意味を解体する。構造をなすのは、心の作用である。執着である。いや、構造=存在=執着である。 構造=存在の解体はだから、執着の解放である。「ねばならない」というなにかがある。思い込まされている。ある時期に、内在化されているなにか。なぜだろう。人は死ぬ。過去のどんな偉大な人物も(ブッダだろうがアウグストゥスだろうが)、塵になって今頃どの虫ケラの一部になっているか知られない。名が残ったとしても。ましてや名すら残りようもない人間がほぼすべてなのだ。構造をつっぱるものがなんだというのか。構造など始めからありはしないのに(言葉だってただのしるしだ)。つまり、心の構造を作っているものは、心なのである。あるいは、身体-言葉-心の構造を作っているのは、心なのである。存在を作っているのは、心なのである。それを不用意に扱う無知な心なのである。 心にも「言葉」がある。それを紡いでいるのは心である。それが構造を作る。そしてそれはなくもがなのものである。すべては流れていく。心が竿さす。誰が大河の流れを止められよう。 人格はあるか人格は言葉が作る。人格は考えからなり、考えは言葉からなる。猫に人格はない。性格はあるし、机に飛び乗り損ねてなんでもなかったかのように誤魔化したりするが、「にゃん格」はあっても人格はない。考えがあるわけではない。人格はささやく。それは私といえるか。ブッダはマーラと呼んだ。ソクラテスはダイモーンと呼んだかもしれない。それは意外と素材だ。私の声で私のフリをしている。ヘリウムガスを吸ったような甲高い声に編集してみたらどうなるか。それは「私」か? | |
| PENGUINITIS | |