ストア派哲学2025年7月25日 | |
はじめにストア派哲学、特にエピクテトスの思想について、および、ブッダの思想との比較について。 ストア派哲学価値観は時代に合わせて変わる。民主主義や商業の発展が見られた古代ギリシャでは、弁論術を教えるソフィストたちが現れた。当初は真面目な意図を持っていたと思われるが、それはいわば当時のビジネススキルであり、絶対的な価値などない、ただ相手を言いくるめられれば勝ちといったような、(現代にもいるような) 軽薄な価値観を持つ者も現れたのだろう、それに不満を抱く者たちもあり、その一人がソクラテスであった。 彼は弁論より対話を重んじ、絶対的な価値というものは存在するとの考えだった。実際のソクラテスがどうだったかはわからないが、プラトンの著作上では、ソクラテスのやっていることはソフィストと大して変わらないように見える。自分は何も知らないのだとすっとぼけながら、対話を通して相手を答えに誘導し、言いくるめてしまう。彼の言い分としては、その答えを本人の同意を得ながら本人から引き出しているのだから、正当であるとのことである。それはそれとして、彼は人々の知識のよって立つところのあやふやさを指摘し、それによって地位や名誉などの外物的な価値よりも人の内面的な価値のほうに目を向けさせようとしたものとみえる。 その後、ギリシャの田舎から出てきたアレクサンドロス大王が大暴れして、ギリシャ世界が広がりつつ、従来のポリス的価値観が崩壊した。ヘレニズム文化 (ギリシャ風文化) とはいうものの、それは従来のギリシャ人の価値観をある程度は崩壊させているのであり、そういったものを背景として、ゼノンによってストア派哲学が起こった。ゼノンは自然本性に合致した生き方を理想とした。自然の法則に従うということである。ストア派の自然観とは、以下のようなものである。 我々は、表象とか心像と呼ばれる魂に刻印される印象を受け、それをもとに対象を認識する。表象には感覚器官を通して知られる感覚的なものと、思考を通して知られる非感覚的なものがある。表象には、我々の同意を伴いながら、存在そのままとして知られるものもあれば、そう見えるだけのものもある。我々が知るのは表象と、思考作用に基づいた想念、つまり考えである。 この世界は物質と原理からなる。物質は構成要素 (火、水、空気、土) からなり、生じては他へと変化し、滅び去る。原理は非物質的であり不生不滅のものである。原理こそが従うべき秩序 (神) である。それ以外はその時々に応じて生じては滅するものである。我々がどうにかできるのは、表象を扱う意志だけである。 我々は、見られただけのもの、考えられただけのものを、何か重大なるものと見て、それに執着し、その激しさに押し流され、ときに自分の意志を安売りしてしまう。幸福とは、この意志を統御して、自然本性に合わせて生きることによって得られる。言い換えると、それは自由であることである。ストア派の善悪とは、自由であるか否かということである。賢者は自由であり、それは知と徳をともに備えていることによる。それはソクラテスの「ただ生きるのではなく、よく生きる」という考え方を体現している。 エピクテトスの思想エピクテトスは後期ストア派の哲学者で、弟子により語録が残されている。その思想は以下の通りである。 我々にとって重要なことは、自由であることである。我々が自由にできるものは何か。それは表象をどう利用するかという意志だけである。意志的なことは我が権内にあり、それ以外は権外である。権内にあるものだけをどうこうすべきである。 我々は善を求め悪を避けるべきであるが、善とは自由であり、それはものに動じないこと、平静であるということである。平静さは、求めて得そこなわず、避けて避そこなわないということからくる。それは、欲しいものは絶対に手に入れ、嫌なものは絶対に避けるということだが、普通に考えたらそれは不可能なことなので、まず欲望はまったく避け、避けられないものは受け入れるということである。 われわれの中の誰一人として、必然が呼んでいる時に、楽な気持でそれに従おうとはしないのである、むしろわれわれはわれわれの受けることを泣いたり、嘆いたりして受け、そしてそれを逆境と呼ぶのだ。それはどんな逆境かね、君。もし周囲にあるものを逆境と呼ぶのであるならば、すべてが逆境であるわけだ。 得られないものはどうしたって得られないのだし、避けられないものはどうしたって避けられない。だから、平静さのためには、自由にできるもの、権内のものをそうでないものから見分け、それだけに関心を持ち、権外にあるものは無関心でいるべきである。行為するにしても、はからいを捨てて行うべきである。 君のものと、そうでないものとを分けるその差別だけは、記憶して置くがいい。何か他人のものは要求しないがいい。 物事に善悪はない。誰かが気に入らないことをしたとしても、それは彼がそうしたいからそうしただけのことである。彼は私ではないし、彼の意志は私のものではない。もし彼が私を侮辱したとしても、それを侮辱と解釈するのは私の意志であり、それは私がそうしたいからそうするのである。私がそうしないならそうはならない。彼が私を侮辱し、私の意志に対してそれを侮辱と受け取るように仕向けようとしても、それは原理的に不可能である。私の意志の主人は私だからである。それにもかかわらずそうしたとしたら、それは私が自主的にそうすることを選択しているのである。意志の選択は私に責任がある。選択しないことにも責任がある。 君のものは、あらゆる仕方で守るがいい、他人のものは望まぬがいい。誠実は君のものであり、つつしみは君のものだ。そうすると誰がそれらを君から奪うことができるか。君以外の誰が、それらを使用するのを妨げるだろうか。また君はどのようにして妨げるか。それは君のでないものに一所懸命になり、君のものを失った時である。 嫌なことをするにしても、嫌なことを我慢するにしても、それは私が自分自身で同意してそうするのである。社会的責任などない。もしそれがあると思うのなら、それがあるということに私が同意しているのである。生じたものはすべて滅び去る。時代は流れ、社会は変化する。生じたものに絶対的なものなどない。どうしようもないから嫌々やる、というのは混乱である。それでよいと私が同意しているからそうするのである。同意しつつ同意しないと考えるのは矛盾である。嫌ならやめてもよいのだ。私がやらなかったら困るんでしょう、なんてことはない。どうせ人はみな死ぬのだ。真面目に受け取るべきものなどない。嫌なら出て行ってしまえばよい。極端な話、この世から出ていけばよい。扉は開いている。そうでなければ好んで居残っているのだ、不満などいわぬがよい。 ただ何事も、重荷を負わされてるような気持ではやらぬがいい、また圧迫されているような気持でも、悪い状態にあるように思ってもやらぬがいい。というのは、誰も君にそう強制はしないからである。家の中が煙っているって? もしほどよくであるならば、私はとどまろう。余りひどかったら、出て行こう。というのは、戸が開いていることを記憶もしているはずだし、また自制もできているはずだからである。 要するに、一切を納得ずくで生きよ、ということである。我が権内にあるものとそうでないものを正しく区別する。変えられるものは変え、変えられぬものは受け入れる。行動と心情を一致させる。やるにせよ、やらないにせよ、自分でそう決めているのである。意志外のことについて、心理的に抵抗したところで無意味である。怒り、悲しみ、嫉妬、後悔など、ただの混乱である。愚かさを捨て、自然本性を知り、それに合わせて行動し、自由に、平静でいることが理想である。 そのための訓練として、エピクテトスは以下のように言っている。 知徳兼備の人になろうとする者が修行せねばならない三つの領域がある、つまり欲望した時に、得そこなうことのないように、また回避した時に陥ることのないようにするための、欲望と回避とに関する領域、秩序正しく、合理的に行動し、不注意に行動することのないようにするための、意欲と拒否とに関する領域、総じていえば、義務についての領域、第三はだまされぬことや慎重について、つまり一般的に承認についての領域である。 私は諸君に哲学者の神経をお目にかけよう。それはどのような神経か。それは得そこなわぬ欲望、避けそこなわぬ忌避、正しき意欲、熟慮した計画、また軽率ならぬ承認である。 正しく求めあるいは避け、正しく意欲し、正しく計画し、正しく承認、拒否あるいは保留の判断をせよ、ということである。 ブッダの思想との比較ストア派哲学、特にエピクテトスの思想と、ブッダの思想は、態度としてよく似ているように思う。平静さが重要であり、心が問題であり、心の統御が問題であるということ。生じたものはいずれ滅び去ること、それゆえに価値はその場限りと見るべきということ。原理こそが重要であること。人はいずれ死ぬし、物事や他人どころか私の身体すら私のものではないということ。苦しみは執着によって生じるということ、それゆえにはからいを捨てるべきであるということ。私の主人は私であること、それゆえに自分自身をよく見張り、正しい思いを抱き、正しく行動すべきこと。 ストア派哲学は汎神論的なところがある。これはブッダの (表向きの) 思想よりはウパニシャッド哲学に近い。ただ、 エピクテトス自身は、構成要素が何であるかといったことにこだわっても (知り得ようが知り得まいが) 無益であると考えていたようで、ブッダの無記の態度に似ている。 エピクテトスの思想とブッダの思想とで大きく違うところは、自殺についてである。ブッダは自殺を否定してはいないが、勧めてもいない。輪廻転生を前提にするなら、戻ってきてしまう可能性があるので、気楽に「出ていく」という感覚にはならない。エピクテトスは、どちらかというと唯物論的な考え方だったのかもしれない。 また、エピクテトスの思想には意外と積極的な面がある。それは、サイコロの目は選べないが、出てきた目をせいぜい利用せよといった態度である。これはプラトンから来ているかもしれない。ブッダの思想や仏教では、因果としての必然性の議論はあるが、偶然性や運命の議論は明確にはないかもしれない。そこはギリシャとインドの文化の違いかもしれない。 数とり石も善悪無差別なものであるし、またさいころも善悪無差別なものである。投げて何が出るかを、私はどこから知るか。だが投げ出されたものを注意深く、うまく利用することは、それはもう私の仕事である。かくてそのように人生の場合でも、主なる仕事は、事柄を区別し、分類して、そして「外物は私の権内にないが、意志は私の権内にある。私は善や悪をどこにさがそうか。それは私の内部にである」ということである。だが他人のものにおいては決して善であるとも、悪であるとも、有用であるとも、有害であるとも、この種の何か他のものであるとも名づけてはならない。 キリスト教哲学者のヒルティは、エピクテトスの思想は自力の思想、つまり難行であると見ている。それはその通りだが、エピクテトスは自力でだめなものは諦めるという態度であり、部分的には他力に近いところがある。ただ、神に委ねはしても恩寵はまったく期待しない。仏教は、恩寵の信仰としての大乗仏教に発展したが、ストア派哲学の場合は、それこそキリスト教に発展したと見ることができるかもしれない。 参考文献
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