無我について2025年10月13日 | |
はじめにこの文章は、仏教における無我についてのうわごとである。 諸法無我ブッダの思想の要諦は、「諸行無常」、「一切皆苦」、「諸法非我」である。生じたものはすべて滅び去る。すべてのものはみな苦しみである。すべてのものは私のものではなく私でもない。ブッダの思想の根っこは「諸行無常」であるが、そこから他の2つを導出する道には2通りが考えられる。すべては無常であるから、すべては虚しく、一切のものは皆苦しみであり、ままならないものであるから(でなければ苦しみを避けるだろう)、それらは私のものではなく私でもない。あるいは、すべては無常であるから、手ですくった砂が手からすべり落ちていくように、ままならないものであるから、それらは私のものではなく私でもないので、一切のものは皆苦しみである。どちらにしても結論は同じである。諸法無常=一切皆苦であるなら、苦も無常であり、苦も滅尽する。苦が苦としてあり続けるのは、現象に事物の本性を見て、それを私のものであると思ったり、私であると思ったりすることによる。 ここで問題にしたいのは、諸法非我から無我を導出するのは妥当か、ということである。ブッダは、「私はいない」とは直接言っていないように思われる。ただ、すべては私のものでも私でもない、と言っている。これはつまり、私のものであるものも、私であるもの(私自身)も、少なくともこの現象世界には存在しない、と言っていることになる。あるいは、私自身も私のものであると考えるなら、私のものであるものが存在しないなら、私自身も存在しないということになる。ここで私自身と言っているのは、いわゆる自我のことである。かくして、諸法非我から無我が出てくる。 すべてが私のものではなく(要するに誰のものでもなく)、そこに「私自体」(と思っているもの、自我)も含まれるのならば、すべての意識を持つものに「私自体」(それ自体)はないといえる。意識を持たなくても同様である。ここから「諸法無我」が出てくる。これは、事物には本質というものがない、という意味と解釈される。仮に、りんごに意識があり、りんごが「それ自体」(本質)を持つならば、そして「りんご」がその本質のものであるならば、りんごは変化したりしないだろう。意識がなくても、本質というものがあるならば、それをそのまま保つ「仕組み」が働き続けるだろう。実際は流れ尽くしてしまう。我々は、素朴には、事物を本質-現象として見るが、これは相関関係のまとまりに事物を見出しているのである。流れゆく雲に形を見るよりはまだ「堅い」ものだが、程度の差でしかない。いずれ流れていく。 認識主体ウパニシャッド哲学的には、自我は仏教同様に迷妄だが、「真我」は存在することになっている。すべてを夢のごとしと疑い、反省した末の結論として、我々が知るのは現象のみである。だから認識だけがある。認識には認識するものとされるものがあるはずなので、認識が存在するかぎり、認識するもの、すなわち認識主体が存在するはずである。それが真我(いわゆるアートマン)である。これは現象の中にはなく、認識の中にもなく(眼は眼自体を見ない)、否定的な形でしか近づけない形而上学的、あるいは半形而上学的なものである。 デカルトは「私は考える、私は存在する」と実感した。厳密に考えると、これは「私は考える」、「考えるものは存在する」、「私は存在する」という三段論法になっている。真ん中の「考えるものは存在する」は確実だろうか。行為には主体と対象があるだろう。ただ、これは認識を通じて得られた知識である。すべてが懐疑の俎上に載せられた認識しかないところの認識に主体というものがあるかどうかは、確実には言えない。 自己と自我認識しか確実なものがないというならば、さしあたり行為しかないということになる。実際のところ行為は、「私」という行為主体から出てくるのではなく、逆に行為から「私」という相関関係のまとまりの輪郭が表出するのである。それは何重にも重なっていて、伸び縮みし、大体はその中の最も狭小な部分を「私」と名付けている。だが、私は「私」が知っている以上のことを知っているし、私は「私」の知っている以上のものに影響され、行為する。様々なものが関係し合う関係性の世界(おそらく今ではブッダが考えていた以上に縦にも深い世界)では、どれがどれのどれで、どれのどこまでが行為主体なのか、などは一意には言えない。 ブッダは、因果律から苦しみの原因を自己の行為の原因としての無知(無明)に還元したが、ブッダの思想の帰結からすると、直線的な因果律そのものが疑われる。諸法無我である現象の世界では、本来はまっすぐに原因をこれと特定できない。とはいうものの、我々にはひとつの形(「雲の形」という意味での形)といえるある関係的な範囲がある。「私」、「あなた」と呼び合えるかたまりがある。それが行為と関係している。ただ、それの呼び方が(主体という考え方が)怪しいだけである。 ある種の遠近法によって、行為がやってくる先の「消失点」があるように見える。行為は突如現れるわけではなく、なにかしら原理的なもの、力やエネルギーのようなもの、目的のような方向性といったものから生じているように思える。それは意志、精神、自己、「それ」(es)、生命原理、などといった名で(それの各側面が)呼ばれる。ただ、それは自我(ego)ではない。自我は社会構成的な存在で、行為に関わる数ある要素のひとつにすぎず、ほとんど行為に随伴的なものでしかないかもしれない。 自我がないならば、「有言実行」もない。はからいを持たず、見返りを期待せず、ただ自己のために自己を展開し、拡大し、超越するために、ただ行為を投げる。これは『バガヴァッド・ギーター』でクリシュナが言う「行為の放擲」に通じる。社会性などにではなく(口やかましい自我にではなく)、自己の根源に従って行為する。我々は力の向きを変える者に閉じ込められている。これは複雑なものだ。彼ら自身ですら囚われている。自我はその手先である。「あれ」は力の行使だけを望んでいる。それによる優越だけを。自らを喜んで傷つける。一方、自己は自己を超えようとする。 なぜ「私」がいるのか、あるいはいるように見えるのか。それは本質主義的な理解が、呼び名としてのそれを望むからであるが、「あれ」自身が出しゃばることを望むからでもある。誰しもある部分的人格を複数持つものであるが、「あれ」はその一部である。劣等感や罪悪感の表出としての優越コンプレックスや劣等コンプレックスが、「あれ」を我が物顔にさせる。「あれ」は貪欲で、イライラしており、そのくせ愚かである。ブッダは「マーラ」だの「ナムチ」だのと呼んだ。「あれ」は迷妄を生むが、「あれ」自体がすでに迷妄である。 自我は「私」を騙る詐欺師であり、私よりもずっと広い思考の海の漂着物の一つである。 | |
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