般若心経を読む

2025年6月22日
春日 悠

はじめに

般若心経は、宗教化した仏教であるいわゆる大乗仏教の重要な経典の一つである。この経典では大乗仏教の根本思想である空の思想が説かれている。お経としては短いので愛誦されたり写経されたりするが、にもかかわらずというか、それゆえにというか、内容を理解するのは簡単ではない。

この文章は、般若心経を妄想気味にほじくってみたものである。

般若心経とは

般若心経は、正式には般若波羅密多心経というものであり、唐の三蔵法師こと玄奘が天竺 (インド) から持ち帰って翻訳したものがもとになっている。日本では摩訶般若波羅密多心経と呼ばれている。摩訶はマハーの音をうつしたもので「大いなる」という意味である。般若波羅密多はパンニャー・パーラミターの音訳である。パンニャーは真の智慧、パーラミターはよくわからないらしいが、悟りとか、完成のことではないかと言われている。つまり、(大いなる) 智慧の悟りのココロを説くお経、ということになる。

観自在菩薩

場面は、観自在菩薩 (アヴァローキテーシュヴァラ) がパンニャー・パーラミターを行っているところである。観自在菩薩はいわゆる観音さまとされる。意味的には、自在に観る菩薩ということになる。菩薩は菩提薩埵の略で、これはボーディ・サットヴァの音訳である。ボーディ・サットヴァは「悟りを求める人」という意味である。もともとは悟りを得る前の (特にジャータカにおける前世の) ブッダを指したようだが、仏教徒はみな救いを求めている、つまり悟りを求めているのだから、その意味ではみな菩薩である。

ただ、一般的に菩薩というと、観音さまとかお地蔵さんとかの「スーパー菩薩」を指す。彼らが一般の菩薩と異なるのは、彼ら自身は解脱できるのだが、苦しむ人々 (衆生) をほっといて解脱などできるか、地獄にでもどこにでも行って彼らを残らず救い出すまでは解脱などしないぞと、強く誓って (誓願して) 活動しているところである。我々衆生にとってちょっと都合がよすぎるが、そういう宗教なのである。

また、これは他人を利すること (利他) を大事にするという思想の表現でもある。当初のブッダの思想は、あくまで自分が救われるための教えであった (もちろん、ブッダは他人を救おうとして教えを説き始めたが、苦しみ発生のメカニズム的には自力で救われる必要があった)。それを、他人を救うための教えに転換した (宗教化した) のが大乗仏教である。その背景として、同時代にバラモン教が大衆宗教化して (大衆を救うものとして) ヒンドゥー教が成立しつつあったこと (あるいはそれと共通の背景) が影響しているものと考えられる。

誤解してはいけないのは、観音さまは、自分のことは自分で救えるのである。自分のことも満足に救えないのに他人を救おうとするような愚か者とは違う。自分も救いつつ他人も救おうとすることを自利利他といい、これが大乗仏教の理想である。

観自在菩薩というのは、衆生を救うために自在に観ることのできる悟りを求める人、という意味になる。その人が行うという「パンニャー・パーラミター」が出し抜けに出てくるが、ここでブッダやその弟子ではなく、観自在菩薩であることに意味があるのだろう。

五蘊

観自在菩薩は、五蘊はみな空 (くう) である、と見通した。五蘊というのは、ブッダが心身を分析したものであり、心身は色受想行識の5つの要素で構成される、とする。色は物質的なもので、身体である。残りは心の機能で、受は感覚、想は表象、行は形成作用、識は意識や認識である。身体の感官が接触して感覚が生じ、そこから表象が生じて、そこから主観的世界が形成され、それによって意識や認識が生じるということである。

観自在菩薩は、その五蘊が空だ、からっぽだ、と気がついたということである。それはみな現象であり、関係性の中で生じる。つまり、それ自体では成り立たない、本質 (自性) がない。

そして、それによってすべての苦しみを超克した。というのも、五蘊から苦しみが生じるからである。五蘊がからっぽなら苦しみもからっぽである。

空

ここで、シャーリプトラ (舎利子) に呼びかける。そもそもその前に、シャーリプトラが観自在菩薩に問いかけてのこの流れらしい。色は空と異ならないし、空は色と異ならない。色はすなわち空であり、空はすなわち色である。受想行識も同様である。物質は物質的現象であり、実体がない。そこまではよい。その逆はどういうことか。ただの幻ではないと言いたいのだろう。幻だと、真なる存在がどこかにあることになる。そうではなく、実体がないことがこの世界の本性である。

『金剛般若経』によれば、「ものがある」と考えるのは間違いだが、「ものがない」と考えるのも間違いである。だって「もの」と言っちゃってるんだもの。すべては虚妄だが、虚無と言いたいわけではない。波のようなものである。水があるから波があり、波だけで存在することはできないが、だからといって波がないというわけではなく、波とはそういうものである。

空をそのまま「からっぽ」と見るとわかりにくいが、それは関係性の世界である。たとえば、俗っぽいことを言えば、会社の「偉そうな部長」は、その人自体が偉いわけではない。一歩でも会社の外に出れば、つまらない夫であったり、たちの悪い酔っ払いであったりするかもしれない。また、「有能な社員」も、たまたま会社の偉い人に寵愛を受けているからうまくいっているだけかもしれず、別の場所ではまったく役に立たないかもしれない。人は、関係性によってたまたま生じている効力を自分自身の絶対的性質と見誤り、驕りたかぶりがちである。この話に関するかぎり、偉いも偉くないもない、という言い方ができる。

生じているように見えるものは、ものどうしの関係性がつくるシステムの上で生じている。部下がいるから (誰かが部下を演じてくれるから) 上司であることに意味がある。生徒がいるから (誰かが生徒役を演じてくれるから) 教師になれる。店員がいるから (誰かが店員役をやってくれるから) 客となれる。下があるから上があり、左があるから右がある。空とはシステムの世界である。「お陰様」の世界である。極端なことを考えると、驕りたかぶった人間の周りの人々が、ことごとく自らの権能を使って「開いた扉から出る」(自殺する) ことを選んだら、残った者は、命令することも、教えることも、買うこともできない、独りの惨めな人間にすぎなくなる。

そういうわけで、シャーリプトラよ、この世界は空であり、すべてのものには実体がない。生じも滅しもしないし、汚れたものも清浄なものもなく、増えも減りもしない。それゆえに、空の中には色も受想行識もない。認識の種類である眼、耳、鼻、舌、身、意もない。また、感覚の種類である色、声、香、味、触、法もない。ここで、それぞれは識と対応しているので、色というのは眼の対象 (見た目) のことで、法というのは心の対象のことである。

眼識の世界もなく、(耳識、鼻識、舌識、身識の世界もなく) 意識の世界もない。(十二縁起の最初の) 無明もなければ、無明がなくなるというわけでもなく、(行も識も名色も...そして十二縁起の最後の) 老死もなければ、老死がなくなるというわけでもない。なんなら、四諦 (苦集滅道)、すなわち苦しみとはなにか、苦しみの原因とはなにか、苦しみの滅尽とはなにか、苦しみの滅尽に至る道とはなにか、とかそういうのもない。ブッダの説いた真理すらない! 知ることも得ることもない (だから悟りもない)。

マントラ

悟りを求める者 (菩薩) は、パンニャー・パーラミターによるがゆえに、心を覆うものがない。束縛がない。心を覆うものがないから、怖れがなく、顛倒した迷妄から遠く離れて、永遠の平安 (涅槃) に入る。

過去、現在、未来にましますすべての仏 (三世諸仏) も、パンニャー・パーラミターによることで、完全な悟りを得たのである。

それゆえに、知るがよい、パンニャー・パーラミターは、大いなるマントラである。大いなる悟りのマントラである。この上ない、比類なきマントラである。一切の苦しみを取り除くことができる。偽りなく真実だからである。

ここに、パンニャー・パーラミターのマントラを説こう。そのマントラとは次のものである。

ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー

以上、パンニャー・パーラミターの要点が説かれた。

パンニャー・パーラミター

結局、パンニャー・パーラミターとはなんだったのか? それはマントラのようである。マントラは真言とも言われ、真言といえば呪文のイメージがあるが、ここでもその意味で使われている。その真言の部分「掲帝掲帝...」は gate gate... の音写であり、もとのサンスクリット語自体も呪文のようで、言語的な意味は重要ではなさそうである。呼びかけのようで、「悟りを求める者の願いが叶いますように」みたいな意味らしい。励ましの言葉だろうか。

そうだったとして、なぜ観自在菩薩がこのマントラを行じていて (唱えていたのか、念じていたのか)、空の思想がその心にひらめくことになったのか。マントラとは言葉のことである。ここでは真実の言葉である (真実不虚故と言ってる)。マントラ=言葉=呪文の構図は、特に真実の言葉が呪力をもつのは、言霊信仰である。観自在菩薩が是非とも叶えたい言葉とはなんだったか。それは誓願である。「衆生を残らず救い出すぞ」ということである。だとしたら、このマントラは「みなゆけ、それゆけ、彼岸にゆけ」という利他の言葉なのか。衆生を救いに追い立てる、熱い慈悲の言葉か。

慈悲の言葉で、空の思想に至ったり、三世諸仏が完全なる平安を得たりするのは、どういうことか。大乗仏教は、ヒンドゥー教成立と同時期に宗教化したのだった。ヒンドゥー教はバラモン教が土着の人格神と結びついて人格神論化したものといえる。『バガヴァット・ギーター』にあるようなクリシュナ=ヴィシュヌへの献身 (バクティ) 信仰など、他力の思想である。『ギーター』では行為の放擲が説かれている。結果にこだわらず、行為に専心することである。それは三昧 (サマーディ) に至る行為のヨーガである。大乗仏教もこの時代の潮流に影響されたのではないか。仏教的には人格神への帰依が最終目標にはなり得ないが (涅槃が目標なので)、三昧は仏教でも平安に近づく一つの手段である。上のマントラは、跡づけのない、放擲する行為として、衆生へと救いの祈りを無心に投げつけるということではないか。その専心により、空のひらめきに至ったということか。

そして、それが観自在菩薩などにおいて真実になったがゆえに、このマントラには効力があると言っているのである。ということは、パンニャー・パーラミター自体は智慧の悟りの誓いのことであり、その智慧とは空の思想のことである。

とはいえ、すべてが空であるならば、四諦すらそうならば、ブッダの悟りもなく、ブッダの教えもなく、ブッダもなく、菩薩も、誓願も、救われるべき衆生も、その苦しみも、何もない、「何もない」(平安) だけがある、ということになる。実際、本質的にはそういうことのようである。だから、虚無主義 (ニヒリズム) と言われてしまうことがあるが、既存の価値観が否定されているわけではない。既存の価値観の構成方法 (把握の方法) が否定されているのである。波は波として自存はしないから、水のないところで波の心配をするのは馬鹿げているが、だからといって水のある場所で波にさらわれないというわけではない。ただ、水があるから波がある、水がなければ波はない、と言っているのである。

救われる側としては、主観的には、この苦しみは差し迫ったものとして実質的に存在する。それはあくまで関係性の中で生じていていると言っているのである (水があるから波がある)。だから、諸法皆空かもしれないが、それはそれとして「スーパー菩薩」たちは、ありがたくも衆生の教化に専心するのである。そして我々衆生としても、利他の祈りを投げつけつつ、他力による救済を待つのである。

参考文献

  • 般若心経・金剛般若経, 岩波文庫 (1960).
  • 阿含経典, ちくま学芸文庫 (2012).