存在の枠2025年10月4日 | |
はじめにこの文書は、存在の「フレーム」という考え方についての妄言である。 存在生きることは煩わしい。苦しみである。苦しみは存在からくる。存在とはなにか。存在は「それ」と名指しすることによって把握されるように思われるが、実際には人によってその存在に対する意見が異なる。存在は思ったほど一意のものでも固定化されたものでもない。それは名指しの定義の差とか、対象についての理解の差というだけではない。考え方自体が異なったりもする。考え方が異なるというのは、「それ」に対する経験の仕方が異なるということである。経験は感覚とその認識によって行われる。感覚は当てにならない。同じものに対して、人によって感じ方が変わるどころか、同じ人でも状況によって感じ方が変わる。さらにそこに他人の臆見が加わるから尚更信用ならない。その臆見も、他人の感覚か、そのまた他人の臆見によるのである。 我々は世界の意味を感覚要素というよりメタ感覚(意味自体を知覚する)で把握するが、それは一意ではない。それは意識を持つもの(人とは限らない)それぞれで異なりうる。世界は本来無味無臭であり境目もない。人は感覚によって世界を「色付け」し、「境目」を見いだし、「それ」を「それ」として把握する。それ自体は個人的な経験のもとに行われるが、言葉によってその範囲が名指しされることで、聴覚的、メタ聴覚的(言語的)に他人と「それ」が共有される。表示としては聴覚(言語)を使うが、その把握にはそれ以外の感覚とメタ感覚(意味を見、意味を嗅ぐ)も用いられる。そこに他人の臆見も追加される。言葉を含むメタ感覚は意味空間を形成する。我々はその意味空間の部分空間を用いる。それは多層構造をなすが、大抵は1つのレベルの特定の(場面に応じて切り替える複数の)部分空間を用いている。その空間における要素と要素間の操作のもとに、我々の立ち振る舞いが決まる。我々の立ち振る舞いはその操作のもとに閉じている。我々は意味の網に捕らわれている。 意味空間とその操作が作る構造は、文化を作る。それは我々の行動を決める規約(コード)、あるいは行動の範囲を決める枠(フレーム)である。フレームが存在を規定し、現実を作る。仏教によれば、現実は各人の認識の機能により条件に従って生じている。現代の社会学者だったら、現実は「社会的に構成されている(物語である)」と言うかもしれない。それは絶対的なものではない。その状況を指して仏教では空(くう)とか無とか言う。それは虚無主義ではないし、文化相対主義でもない。「『ある』ようで『ない』し、『ない』ようで『ある』」というありかたで「ある」、ということである。仏教の生き方は、本来無分節的である世界をそれとして把握しつつあえて分節的世界を生きる、というものである。 苦しみを苦しむフレームは人と人とのコミュニケーションを可能にし、その共同生活を概ね穏便なものにする。それは経験がどこまでも個人的であるに過ぎない人間同士が、対話によって共同で作り上げた物語の枠組みである。会社組織で偉そうな人間を、実際に偉い人間として扱ってやらねば混乱するわけだ。何も残さず明日消えゆく者同士に偉いも何もないのだけれど、そういう物語を信じて生きている人間たちの中では、話を合わせることでいちいち大騒ぎせずに済むのである(最善とは言わないが)。 だが、固定化されたフレームには問題がある。我々は日々何かしらの問題解決に励んでいるが、その問題空間はフレームより広いし、高次元である。我々は問題空間のある地点からある地点に移動しようとするが、そこに障害が立ちはだかる。問題解決とは障害を避けて行くことだとすると、たとえば、障害を「上」に避ければ済むところを、フレームが問題空間の断面を切っているに過ぎないために、(動きが2次元的に制限されて)その障害を避けられないといったことが起こる。また、フレームの外を遠回りすれば障害を避けられるのに、繋がれた犬のようにフレームに縛られることで障害を避けられなくなる。望ましい地点がそもそもフレームの外にある場合もある。障害が二つあって、一方を解決しようとするともう一方が立ちはだかるといった、にっちもさっちもいかない状況(ダブルバインド状態)だと、もはやフレームの第3軸方向に飛び上がるしかない。フレームの外に飛び上がるというのは、フレームを一つのフレームとして見るメタフレームに移行するということである。 本当の問題は、フレーム自体が障害を生じさせることである。出かける日の朝に雨が降ったら憂鬱な気分になるかもしれないが、干ばつ続きのところに雨が降ったら大喜びだろう。雨自体は良くも悪くもない。また、苦しみそのものについても、「なぜ私がこんな目に」などと考えていたら、苦しみを苦しむことになるが、それを成長に繋がるものだと理解していたら、苦しみを苦しむことはなくなる。苦しみ自体も実は良くも悪くもない。雨が苦しみとして、苦しみが苦しみとして立ち現れるフレームもあれば、そうでないフレームもある、ということである。 フレームが固定化されていなければ、柔軟に適切なフレームにスライドしていける。障害が障害でなくなる。固定的なフレームが苦しみを生む。苦しみは存在からくるが、存在はフレームからくるのであった。つまり、単純化すれば「苦しみあるところにフレームあり、フレームあるところに苦しみあり」ということである。 飛び上がること苦しみにフレームを見る。だが、フレームはそれに従った現実を見せる。自分の眼を見ることはできないように、フレーム自身を見ることはできない。フレームをどうやって特定するか。固定化されたフレームが問題なのである。我々を固定化するのは信念である。それは絶対的な考えである。「ねばならない」という考え(“musturbation”)である。何を「そうでなければならない」「そうしなければならない」と考えているか。なぜそう考えているのか。何を怖れているのか。それは考えおよび行為に染み付いている。それはしばしば苦境においてしか気づけないものかもしれない。 だから禅宗のある一派は、公案といってあえてダブルバインド的な矛盾を人に課すのである。そういう状況は現実では神経症を生む。フレームに留まろうとするからだ。狂いたくなければ、飛び上がるしかない! これが仏教的な問題解決法である。 | |
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