他人を救うことはできるか

2025年7月11日
春日 悠

はじめに

ブッダの思想において、他人を救うことは可能なのか否か。

我がもの

ブッダの思想は、生じたものはすべて滅すること、それゆえにすべては思うままにならないこと、それゆえにすべては我がものではないこと、である。思うままにならないことは、苦しみである。苦しみは、この事実を認識せずに、事物を誤って我がものと思い、むやみに心を動かすことから生じる。思うままにならないものを、思うままになるものと思いなしたら、当然、思うままにならない。苦しみを統御するには、この事実を見据え、心を統御する必要がある。

すべてが我がものでないのであれば、なにが我がものなのか。『カタ・ウパニシャッド』のたとえで言えば、馬車 (身体) を引く馬 (感覚器官) の手綱、思考器官がそれである。エピクテトス的な言い方をすれば、我が権内にあるもの、すなわち、心像の使用がそれである。

他人を救うことはできるか

我が意志と相関のある身体や自己すら我がものではない。他人ならなおさらである。そうであれば、他人を救うことは不可能である。なぜブッダは他人を救おうとしたのか。

伝説では、悟りを得たブッダは、自身の悟りの内容を説いたとて、理解できる者はなかろうと考えていたところ、梵天が光とともにやってきて、是非ともその教えを説いて衆生を救ってくれと願ったので、人々をあまねくながめわたして、有望な者もいることを知り、考え直したものとされる。とにかく考え直したのであろう。

なぜ考え直したのか。ついでだったのかもしれない。悟りは一度得てそれで終わりではない。それを維持しなければならない。修行は手段ではない。それ自体が目的である。どうせ修行を続けるなら、同好の士がいても別にかまわないではないか。

仏教の信者としては、慈悲によるものと言うだろう。苦しむ衆生をほうってはおけない。しかし、ブッダの思想から慈悲など出てくるだろうか。エピクテトスは「悪徳に対しては (必要なものが欠けているということだから) 憎むよりは憐れむがよい」と言った。思うままにならない万人に対する憐れみ。あるいは、そうかもしれない。

結局は、自分で自分を救わなければならない。救うということは、心の扱い方を変えるということである。心の主人は、その手綱を握るのは、その人自身である。思うままにならない他人の心の扱い方を変える、思うままにならないものを思うままにしようというのは、不可能であり、苦しみにつながるだけである。我々にできることは、権内のものだけにかかわり、自分自身を救いつつ、それを示して、他人を励ますことだけである。

他人を救おうとすることは、走り続ける自分の馬車を放っておいて、並走する他人の馬車に無理やり飛び乗ろうとするようなものである。私は、自分の馬車から離れたら御者ではないし、他人の馬車の御者になることはできない。原理的に不可能なことである。せいぜい、自分の手綱捌きを示してみせることしかできない。

それでは、ブッダの思想を理解できるエリートだけが救われればよいのか。大部分の憐れな衆生は救われぬままにおれというのか。そういうことで、他力の思想が出てきた。だが、他力も自力もさして変わらない。他にすがるにしても、自分自身ですがらなければならない。自分自身ですがることを決意しなければならない。他力を強制するわけにはいかない。

自分自身を救うといいつつ、救う対象としての自己などない。対象になる時点でそれは我がものではない。それは我が権能の外にある。(認識はすれど認識はされない超越的主体としての) 我が権内において苦しみを統御する。あるのはその一点だけである。救うべき他人もない。救われることを期待しつつも、自己にすがり、結局は救われることを拒否する者を救うことはできない。救うべきものは本来なく、それは救うべきものではないからである。

ブッダはいかに他人を救いえたか

ブッダは自分の教えをただ説いたわけではなかった。あの手この手と、手を替え品を替え、人を見て法を説いた。わかる者には素直に説き、そうでない者にはたとえ話などを用いて説いた。その思想は問題解決的なものであった。苦しみさえ統御できれば、理屈はどうでもよかった。医者のようなものである。根本的な解決には根本的な理解が必要である。ただ、それはその人に本当に必要なものまでであった。

毒矢のたとえというものがある。毒矢で射られたら、すぐに抜くだろう。それを射たのはどこの誰でどういう素性の者でどういう目的なのか、その矢や毒はどういう種類のものなのか、などとどうでもよいことにかかずらわって死ぬような愚か者になるな。

筏のたとえというものもある。欲望という激流を渡り終えても、まだ筏を持ち続けている者がいる。それを捨てよ。またもとの岸に戻ってしまっているではないか。

ブッダにしても、苦しみ救いを求める患者を救おうとはしたが、癒しに近づいた途端に不摂生を行うものや、病根を一向に手放さない者について、それ自体はどうすることもできなかった。本心では救われることを望んでいないような者を救うことはできない。救われると困るのだ。それは自己の消滅を意味する。狭い隙間に腕を入れてりんごを掴んだせいで、腕が抜けなくなっている猿のようなものだ。りんごを手放せと、適当なときに教え諭すことしかできない。

他人を救うことは自己の欲求による。その自己を他人において手放させようというのである。救われぬものが救うことなどできない。まず、自分自身の自己を手放さなければならない。そのあとに残るものは、執着のない、せいぜい憐れみくらいである。他人を救うことはできない。救うものなどない。諭すことくらいしかできない。むやみに諭しても意味はない。茶で満たされた茶碗に茶を注いでもこぼれるだけである。空になったときに注がなければならない。その機会はしばしば、本当に危機的な状況にならなければ訪れないかもしれない。自己はただの見せかけにすぎないと悟らざるを得ない瞬間。それは、死ぬまで訪れないかもしれない。

参考文献

  • ブッダの真理のことば・感興のことば, 岩波文庫 (1978).
  • ウパニシャッド, 日本ヴェーダーンタ協会 (2009).
  • エピクテートス: 人生談義, 岩波文庫 (1958).