思考の枠組みとしての仏教思想2026年5月2日 | |
仏教思想の概要人間の生の根本問題の土台は苦しみである。仏教において、苦しみとは思うままにならないもののことである。 仏教では思うままにならないもの(苦)の種類として、生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと(生老病死、しょうろうびょうし、四苦)に加え、愛する人と離れること(愛別離苦、あいべつりく)、嫌いな人と会うこと(怨憎会苦、おんぞうえく)、求めて得そこなうこと(求不得苦、ぐふとくく)、以上をひっくるめて人間の機能から生じる苦しみ(五蘊盛苦、ごうんじょうく、以上八苦で四苦八苦)を挙げる。より細かくいうと、生まれることによって、老いや死、嘆き(愁)、悲しみ(悲)、苦痛(苦)、心配(憂)、悩み(悩)が生じる。 これらは人間の機能(五蘊、ごうん)から生じるが、これは具体的には大きく分けて身体の機能(色)と心の機能(受想行識)に分けられ、心の機能は感覚(受)と表象(想)、形成作用(行)、意識(識)からなる。これらが働くのは行為によってであるが、行為は大きく分けると身体(身)、言葉(口)、心(意)に分けられる(身口意、しんくい、三業、さんごう)。 行為を生じさせるものは貪り(貪欲、とんよく)、怒り(瞋恚、しんに)、愚かさ(愚癡、ぐち、あるいは無明、むみょう)である(貪瞋癡、とんじんち、三毒)。愚かさというのは、真理を知らないということだが、その真理とは、すべては無常であり (諸行無常)、すべては思うままにならないものであり(一切皆苦)、すべては我ではなく我が物でもない(諸法非我、あるいは諸法無我)ということである。これらはのちに「空」(くう、emptiness)の概念としてまとめられた。 「空」というのは、物事は名辞と形態(名色、みょうしき)にすぎず、すべては関係性(相依性、そういせい)によって成り立ち、それそのものとして成り立つもの(自性、じしょう)はない(無我)ということである。すべては泡沫(うたかた)のごとし。とはいえ、虚無ということではない。この世界は実体がないというありかたで「ある」ということである。我々は我々の機能(五蘊)で世界を認識するが、それは厳密には感覚要素と概念でしかなく、そこにはものそのものは出てこない。我々が知っているのは「『もの』だと思っているもの」である。 店の客は店の外で会うなら客ではない。客として扱うのは、その場面での振る舞いが店に戻っても影響するときに限る。店員と客が家族になることもあるし、また家族が他人同士になることもある。人は場面ごとに役割を演じているだけである。それでも自分自身は自分自身のままであろうか。よく知っているつもりの友人が、自分以外の友人に対してこれまで見たこともない態度をとって驚くことがある。人の振る舞いは関係性によって変わる。「ほんとうの自分」と思っているものも、「ほんとうの関係性」だと思っている関係性のひとつに対する振る舞いのひとつにすぎないのではないか。 ものはすべて朽ち果てる。人の身体だって焼けば微細なものの集まりでしかないことがわかる。あらゆるものが微細なものがとるひとつの形態に名前をつけただけのものでしかない。人は演じるが、人に役割を押し付けもする。ものに対しても役割を押し付ける。心が世界のモデルをもち、それを世界の側に押し付ける。心が世界とは別に「世界」を生じさせる。我々は、自分自身の心の働きから生じさせた「世界」に欲望し、怒りを覚え、思うままにならぬと苦しむのである。 システム論的解釈なにも「空」という小難しいことを考える必要もない。この世界は多くの要素が関係しあう非線形の世界である。多くの要素といっても、非線形であるには、要素が3つあれば十分である。たいていは「ああすればこうなる」というような線形の世界ではない。それでは暮らしにくいので、人は局所的に事態を線形化して対応する。そうして考えられた線形モデルを世界と取り違えるから、また、線形モデル化を世界の正しいモデル化であると間違い続けるから、世界を適切に取り扱い損なうのである。 この世界は非線形システムである。それは制御できない。思うままにならない(苦である)。その都度のコンテキスト(その場がつくる「文脈」)と踊ることしかできない。人は世界と踊る代わりに、世界を引きずろうとする。そして逆に引きずられる。 我々の世界として現れるシステムはたいてい階層型システムであって、システムの要素自身もシステムである。自分自身は社会システムの要素でありつつ、それ自体システムでもある。だから、すべての断面はコンテキストであって(諸行無常)、自分自身も含め制御はできず(一切皆苦)、本質的に「私」というものもなければ私のものもないし、それ自身というものもない(諸法無我、無自性)ということになる。 世界と対峙するとき、「私が世界と対峙する」のではなく、まず「私と対峙する」ことになる。この場合、誰が対峙しているのか。そして、「私とものの対峙」は、ものが私を通してしか見えないのならば、そして、私と相対してしかものがものでないならば、私とものの区別はつくだろうか。そこにある靴下は、私というコンテキスト(五蘊)を通しての「靴下」でしかないのではないか。それは私を見ているだけではないのか(あるいはその逆か、物我一如)。そもそも、「『私』と『靴下』」という二元的状況と対峙しているのは「誰」なのか。世界なのか。世界が世界自身を見るだろうか。世界の生成源なのか。世界はそれが見る夢なのか。私はそれなのか(梵我一如)。 思考の枠組みとしての仏教思想まず、「私は『私』を演じている」と認識する必要がある。私は『私』ではない。私が『私』なら『私』自身を見ることはないはずである。その役に入り込んでいる時、私を『私』だと思うが、そうでないとき、ふと、私は『私』を見る。 人は行為するが、行為の前には思いが生じる。思いが生じたら、それが貪瞋癡のどれかの箱に入るか否かを考えよう。貪、瞋はよいとして、癡の箱に入るというのは、「思うままにならないものを思うままにしようとしている」ということである。エピクテトスが「自分のものとそうでないものを区別せよ」と言っているが、それに近い。貪瞋癡のどれかの箱に入ったら、それが身口意のどれかの行為として作用する可能性があるため、そこで抑えるのである。 もし抑えなかったらどうなるか。貪瞋癡の思いから身口意の行為が生じると、分別が生じ、そこから名称や形態、人間としての機能が生じ、感官と心が働きはじめ、それが対象に触れることで感覚が生じ、渇望そして執着が生じ、ものを「もの」として見ることになる。そうすると「再び生まれる」羽目になり、思うままにならぬ四苦八苦が生じることになる。この真理を理解した者(無明を克服した者)は、始まりの思いの時点でなんとかするのである。 ただ、これは常にメタ認知を働かせ続けることを意味し、すぐにくたびれてしまうことが予想される。これに対処するには、思いをスルーすることを習慣づけること、何か無心になれるタスクに打ち込むこと、とっとと寝ることなどが考えられる。 真理に生きるということは、出世間することになる。非線形思考でもそうである。これを知るものは、「わかった」という思いがない。「わかった」というのは静的・線形的状況であって、動的・非線形的状況にあっては、常に「わからない」になるからである。「わかっている」と思っているうちはわかっていないのである。 これはあまり常識的なものではない。謙虚というより弱気に見えて、文句を言ってくる人間もいるだろう。だが、ブッダが言ったように、文句を言うやつは何をしても文句を言うのである。仲間になりそうでないならば、放っておけばよい。もし人生において「成功」こそが重要だというのなら、我々の成功は自分自身に対する勝利がそれである。 参考文献
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