ブッダの思想

2025年6月21日
春日 悠

はじめに

仏教は宗教だが、ブッダの思想は実践的な哲学であった。それは、聖典 (ヴェーダ) の哲学であるウパニシャッド哲学をもとにしたものである。

この文章は、ブッダの考えたであろうことについて、妄想してみたものである。

出家

シャカ族の王子シッダールタは、何不自由なく暮らしていたが、不足のないことに不足を感じたのだろう、ある日からヴェーダを学び始めた。伝説では、老、病、死の場面を目撃して、「すべてのものは苦しみだ」と気がついたとされるが、生が苦しみであることはすでにヴェーダの思想にあることで、実際はおそらく、身近な者の病や死を目の当たりにして、これはどうしたことかと、訝しく思ったのであろう。その後、本格的な修行のために、城を出ることになる。

修行

その少し前から、いわゆるバラモン教は、商業の発達や都市化の影響などで、民衆に対する説得力を失いつつあったとみられる。おそらくそれに危機感を抱いたバラモンたちにより、ウパニシャッド経典群としてウパニシャッド哲学が整備されていった。

ウパニシャッド哲学というのは、大まかには以下のような思想である。生は苦しみである。我々は輪廻転生し、苦しみの生を繰り返す。苦しみから逃れるには、輪廻から抜け出すこと、すなわち解脱する必要がある。すべてのものは感覚によって感覚としてのみ知られ、常ならぬものであり、私 (個我) もそうである。真に存在するものは認識されない認識主体としてのアートマン (真我) である。アートマンが輪廻の主体であり、それが欲望により物質に惹きつけられることで、再び生まれることになる。欲望を滅尽することが、解脱の条件の一つである。それを実現するのが苦行である。また、アートマンを把握し、それが宇宙の原理であるブラフマン (梵) と同一である (梵我一如) と知り、すべては一つであると見て平安を得ることが、もう一つの解脱の条件である。それを実現するのが瞑想である。

当時、バラモン・非バラモンに限らず、従来の思想に飽き足らない者たちによりさまざまな思想が唱えられていた。シッダールタは、そのような指導者のうちの幾人かに師事したが、あまり満足できなかったようで、結局は自らを頼むことになる。まず、苦行を行ったが、苦しみから逃れるためにあえて苦しむというのも変だし、それで欲望は紛れても消えるわけではないし、断食による空腹で考えもまとまらないしで、苦行は無意味だと思った。適度に食べることにして、瞑想に専心することにした。その後、悟りを得て、彼はブッダ (目覚めた者) と呼ばれることになった。

ブッダの思想の根幹

苦しみとは何か。生まれることは、苦しみつつ生まれるから、苦しみである。老いることは、何かとあちこち痛み出し不自由するから、苦しみである。病や死は言わずもがなである (生老病死、四苦)。また、愛する人と別れるのは苦しみである (愛別離苦)。嫌いな人と会わねばならないのも苦しみである (怨憎会苦)。求めて得損なうことも苦しみである (求不得苦)。まとめると、心身が苦しみを生む (五蘊盛苦、以上合わせて四苦八苦)。そこから苦痛、悲しみ、不安、悩み、怖れ、憎しみ、怒りが生じる。それらは欲望や執着を原因としている。

心身とは何か。それは身体についての形態 (色)、心についての感覚 (受)、表象 (想)、形成作用 (行)、意識や認識 (識) の機能からなる (五蘊)。身体が接触することで、感覚が生じ、それをもとにして表象が生じ、それをもとにして主観的世界が形成され、それによって意識や認識が生じることになる。

また、心身は意識により認識されることによって機能する。その意識は形成作用によって生じるが、それは具体的には身体、言葉、心 (身口意、三業) による行動 (業、カルマ) をもとにしている。それが悪い方に働くことによって、欲望や執着を生み、苦しみを生むのである。では、なぜ人は悪い方に身口意を働かさせるのか。それは苦しみの生じるメカニズムを知らないからである。つまり、無知だからである (無明)。

後世において、苦しみが発生するメカニズムは十二縁起として整理された。すなわち、老死のような苦しみが生じるのは生まれるからであって (生)、生まれるのは存在と結ばれるからで (有)、それは執着のためで (取)、それは喉が渇くような求め (渇愛) により生じ (愛)、それは感覚によって把握されるわけだが (受)、それは接触しなくてはならず (触)、接触するのは感官であり (六処、五感と心の作用)、それは心身によるのであるが (五蘊、名色)、心身は意識による認識によって機能し (識)、意識は形成作用により生じる (行)。その形成作用の開始は、無知による (無明)。

苦しみを滅尽するには、上記の連なりを逆に働かせばよい。その方法を八正道というが、身口意を正しく扱うというのが、その真意である。

ブッダは、物事には原因があるのであり、苦しみもそうだと理解した。彼は、苦しみとは何か (苦)、苦しみの原因とは何か (集)、苦しみの滅尽とは何か (滅)、苦しみの滅尽に至る道とは何か (道)、を説いた (四諦)。これがあるがゆえにこれがあり、これがなきがゆえにこれがない。すなわち、無明があるがゆえに苦しみがあり、それなきがゆえに苦しみはなく、それが滅すれば苦しみは滅する。苦しみの滅尽により心の平安 (涅槃、ニルヴァーナ) に至る。(厳密にいうと、身口意は統御するものだから、苦しみもそうである。)

身口意を正しく扱うための物事の見方というのは、ウパニシャッド哲学同様の見方であり、すなわち、すべてのものは感覚によって感覚としてのみ知られ、常ならぬものであり、「私」もそうである。ブッダの言い方では、すべては無常であり (諸行無常)、それゆえすべては苦しみであり (一切皆苦)、それゆえすべては我ではなく我が物でもない (諸法非我)。もし我であり我が物であれば、あえて苦しみとはしないし、滅びゆくままにしないというわけである。モノも、コトも、身体も、心も、私ではなく私のものでもない。

空と無我

ブッダは、ウパニシャッド哲学的な懐疑論から出発し、諸法非我に到達した。後世の宗教化した仏教においては、その懐疑論がさらに推し進められて、空 (くう) の思想が生じた。十二縁起で五蘊のことを名色 (名前と形態) といっているのも、物事は名辞と形態にすぎず、何かが存在するわけではない、からっぽである、ということである。モノも、コトも、身体も、心も、私ではなく私のものでもなく、私というものもない。物事に本質などなく、私の本質なども存在しない (無我)。つまり、真我など存在しないということである。理屈としては、すべては関係性 (相依性) により成り立つから、それそのもので成り立つもの (自性) などない、ということである。

ブッダは、非我とは言ったが、無我とまでは言っていないと思われる。もし我々に本質がないのならば、輪廻転生の主体は何かという問題が生じる。のちに永続性のない主体を想定した思想が出たが、その場合、輪廻転生にも永続性がないことになり、解脱の意味が薄れてしまう。それが (本質的ではないにしても) 実質的には関係性により永続的に成立しているということなら、それは真我と変わらないことになる。実は輪廻転生などないのだ、ということだとすると、苦しみから逃れるためには自殺すればよいことになり、修行の意味がなくなってしまう。

いや、実際に意味などないのかもしれない。生も死も、幸福も不幸も、好きも嫌いも、成功も失敗も、救う者も救われる者も、悲願も誓願も、何もない。ただ「何もない」だけが、平安だけが存在する。それでも衆生を救おうとするのが仏や菩薩であり、それは人智を超えている。我々にとっては実に都合のよい話だが、要するに宗教なのである。

それは、クリシュナ信仰にも通じる。意味などどうでもよい、悩まず、怖れず、すべきことをせよ。行為を放擲せよ! 空の思想とは、意地でも真我を認めないという一点を除けば、ウパニシャッド哲学の根本思想そのものなのである。

悟り

修行の目標は、輪廻から解脱して涅槃による平安に至ることである。ブッダはこれを、欲望という激流を渡り彼岸に至れ、と表現した。涅槃は死後の話だが、その条件として生前の悟りによる平安がある。ブッダは彼岸を平安の状態として語っており、これは涅槃であり悟りでもある。此岸に戻ることは、転生であり悟りの無効化でもある。

ブッダは言う、激流を渡るのに使った筏を大事に持ち歩いている者がいる。河を渡ったあとにそんなことはふつうしないだろう。そのせいでまた戻ってきているではないか。彼岸に行ったきりになるために、その筏を捨てよ! 悟りを捨てろというのである。悟りの状態が重要なのであって、悟り自体が重要なのではない。悟りにより平安を得ても、悟りを得たという考えにより心が驕りたかぶっては台無しになる。それによって「再び生まれてしまう」。

これは、解脱の話と悟りの話が二重になっている。悟りの意味ではあくまで生前の話をしている。輪廻転生とは、悟りに近づいてはまた戻るさまの、比喩にも聞こえる。ブッダは、語れないものについては口を閉ざすという態度を取ったが (無記)、ここから不可知論者あるいは合理主義者としてのブッダ像が見て取れる。そんなブッダが輪廻転生など信じていただろうか。人を見て法を説く、嘘も方便の彼のことである。輪廻転生も相手に合わせて説いただけで、本人は信じていなかったのではないか。

そんなわけはない。二度と生まれないようにすることがその思想の目標なのであるから、輪廻転生はその前提になっている。ブッダが無記の態度を取ったのは、その議論が単純に無益だからであって、不可知論者だったからではない。だが結局、どちらでもよかったのかもしれない。どうせ二度と生まれる気はなかったのである。

悟りとは何か。それは知識であり技能である。スキーの滑り方を知っているだけでは意味がないし、一瞬だけ最高に滑れても意味はない。滑り続けなければならない。そうか、などと考えていたらずっこける。ただただ滑り続けなければならない。退屈と緊張のあいだで、ただ清浄に流れて行くような、苦悩も自我も時間も消失し、それだけのためにそれが、ただ認識だけが…。

日々の心がけ

平安をただ一つの目標とすることである。世の中を泡沫のごとしと、自身の心の形成物だと見て、苦しみの原因たる身口意 (身体、言葉、心の三業) を清浄にととのえること。貪りや怠惰を避け、暴言や妄言を避け、嫌悪や高慢を避け、暴れ馬の手綱を引き締めること。過去を追わず、未来を思わず、今をよく見ること。他人ではなく自分を見ること。清浄でないのは「私」のせいである。悲しみを、怒りを、怖れを手放せ。こだわるな。はからいをもつな。無知に沈むな。非難も賞賛もとりあうな。どうせみな死ぬのだ。真の友とだけ歩め。さもなくば、ただ独り歩め。

特に気をつけるべきこととして、貪瞋痴 (貪欲、瞋恚、愚痴の三毒) が挙げられる。執着と怒りと無明である。だから、以上を簡単に言うと、三毒に気をつけて三業を統御せよ、ということになる。

同じく三がつくもので、三宝がある。ブッダ (仏) とその教え (法、ダルマ) とその集い (僧、サンガ) である。三宝と四諦 (苦しみの真理) と八正道 (正しい道) が、修行者のよりどころである。たとえ独り心折れそうなときでも、「少なくとも私が味方としていると思え」と、ブッダが励ましているのである。

参考文献

  • ブッダの真理のことば・感興のことば, 岩波文庫 (1978).
  • ブッダのことば, 岩波文庫 (1984).
  • 神々との対話, 岩波文庫 (1986).
  • 悪魔との対話, 岩波文庫 (1986).
  • 阿含経典, ちくま学芸文庫 (2012).
  • 原始仏典, ちくま学芸文庫 (2017).