ブッダの存在論

2025年7月12日
春日 悠

はじめに

ブッダは形而上学的議論を避けたので、ブッダの存在論がどんなものだったかは不明であるが、それをあえて妄想してみる。

ある一日

朝、目覚めて、ぼんやりと重たい身体を持ち上げる。テレビを見ながら、あるいはスマホをいじりながら、パンなりご飯なりで腹を満たす。ニュースでは、事件や事故や誰かの死、国の政策、世界情勢などが雑然と流れる。そそくさと身支度し、学校なり、職場なりに向かう。行った先では、情報を入れたり出したり、物を移動したり加工したりする。うまく行って喜んだり、うまく行かなくて落ち込んだりする。好みの人といれば楽しいし、そうでなければうんざりする。ときにいらいらが募って、腹が重く今に穴でも開きそうな気持ちになる。長時間の作業で腰が痛んだり、目がかすんだり、頭がくらくらしたりする。歳をとればなおさらそうである。忙しいのに退屈で、早く時が過ぎればよいのにと思いつつ、終わってみれば、通りを駆け抜ける車を隙間から見るかのように、一瞬の出来事だったかと思える。帰宅して、晩飯を口に押し込みながら、成人ならときに酒の酔いに逃げ込みつつ、テレビなりスマホなりを眺めて、ぼんやり身にならない時間を過ごす。ドラマやアニメでも観るかもしれない。いつのまにか日付の変わりが近づいてきて、追い立てられるように布団に潜り込む。ぐっすりと眠られるならば本望で、たまに夢にうなされ目が覚める。また一日が始まる。

存在

存在とはなにか。それは我々の生活世界の構成要素である。目覚め、身体、食物、出来事、死、経済的状況や戦争、コミュニティ、情報、タスク、成功と失敗、評価、他人や人間関係、ストレス、苦痛や老い、負担、退屈、時間、酒や酔い、物語やその登場人物、眠り、夢。

いや、夢は存在するのだろうか。夢自体は存在するが、夢の内容は存在するとはいえない。夢の内容と対応するものが目覚めた世界には存在しないかもしれない (夢の中で食べた料理の感想は、料理の感想というよりは夢の感想である)。だが、目覚めても気にかかり続ける夢はどうだろう。昨日の出来事のように、それが今日の行動と相関するような夢は。昨日誰かのしぐさに感じたほのかな思いをもとに行動することと、夢の中で感じた親近感なり自身の中に生じた優しさの感情をもとに行動することと、どう違うのだろう。考えと、夢は、どう違うのか。考えは、現実ではあってもただの考えで、存在ではないだろうか。

むしろ、考えではない存在があるのだろうか。物語の登場人物は考えだが、人間関係や出来事もそうではないか。物以外は考えではないか。物にしても、それは感覚とそれを統合したものを物と認識しているので、それも考えではないか。食物も、よくよく反省すれば、それは見た目、音、匂い、味、感触、おいしいなどという感情の集まりではないか。もちろん、物は勝手に考えられたものではないが (ただの妄想とは違う)、本来我々が直接知りうるのは感覚だけなのだから、考えには違いない。

存在などない、と言いたいわけではない。存在が考えなら、夢も存在の一種と考えられる。そうした場合の存在とは何か。気にかからない考えは、考えにもならない。考えは、気がかりなものである。気がかりな夢は、現実と相関しうるのだった。存在が現実と関わるものであれば、存在とはつまり、気がかりなものではないか。心を煩わせるもの、それが存在である。

存在は否応なく心を煩わせるのか。そう感じられることも少なくないが、必ずしもそうではない。まず感覚が機能していないとものを知りようがないし (目を瞑れば見えないし、相手の言葉が聞こえないこともある)、受け取った感覚を統合できなければ何かわからない (見えていてもそれが何かわからないときもあるし、聞こえているが聞き取れないこともある)。そのあと、表象が関係性の中に置かれて意味付けされるかたちで認識され、それに応じて心や言葉、身体による行動が生じる。接触-感覚-身体-認識-行動というプロセスである。心の煩いとは、心の行動のことであるが、行動までに段階があり、隙間がある。存在が存在として否応なく認識されるのは、このプロセスを意識せずに高速に行っているからであって、存在がそのようなものであるからではない。存在は、心の煩いが生じさせているのである。

心の煩いが存在を生み、存在が心の煩いを生む。存在とは心の動きの原因であり結果でもある。卵が先か鶏が先か? 少なくとも、我が権内にあるのは心のほうである。だから、ブッタは心の御者になれと説いた。

存在の客観性はどうなるのだろう。存在が心により生じるなら、どこまで行っても主観的であり、独我論的ではなかろうか。確かに、存在を存在として (ただの妄想とは違ったものとして) 認めるためのタネというか源泉は、心とは別にありそうである。ただ、我々が知るのはあくまで感覚要素であって、その大元はそれらから推測されるに過ぎない。行動には行動される対象と行動する人がいるはずである (投球は、ボールと投げる人からなる)。よって、認識には認識対象と認識主体があるはずである。その認識対象が我々には知られないが、もう一方の認識主体も知られない。なぜなら、行為の対象と主体はそれとは別の行為主体における認識によって把握されるのであって (投球する人が自身の投球を主観的に見る場合もそうである。認識主体自体がボールを投げるわけではない)、当の認識の主体がそれ自身を認識することはできない。認識については、認識しかないのである。存在は認識であった。結局、ただ認識しかないのである。

ブッダの存在論

ウパニシャッド哲学とその後継思想においては、基本的に認識しかないという考えだが、それは直接知られるものについてであって、超越論的主観としての認識主体は真なる存在として想定されている。物の本質の存在については、意見がわかれる。

ブッダの意見はどうだったか。はっきりとはわからない。というのも、ブッダはいわゆる形而上学的議論を拒否したからである (無記)。ただ、心は「胸の奥の洞窟にひそんでいる」とか、心身は「我 (アートマン) ではない」といった言い方からすると、わりと素直にウパニシャッド哲学の思想を踏襲しているように見える。後者は、一般的には「無我」の思想と表現されるが、ブッダは「アートマンはない」とは言っていない。それもあれもアートマンではない、と言っているのである。ブッダがそれもあれもアートマンではないと言うなら、それはどこにもないのだ、と後世の仏教徒は考えたものと思われるが、「それではない、あれではない」(neti, neti) というのは、直接認識できないアートマンに否定的に接近するためのウパニシャッド哲学における常套表現である。ブッダは語り得ないものについては語らなかったから、アートマンは認識できる範囲にはない、と言うしかなかったと思われるが (その限りで確かにどこにもないのだが)、もとのウパニシャッド哲学のアートマンからしてそうである。後世の無我説は、超越的にすら (あるいは超越論的にすら) アートマンは存在しないと断定しているのだから、これは形而上学の一種であり、ブッダの無記の態度に反する。

また、少なくとも輪廻転生についてははっきり語っている。だから、輪廻転生の主体が何かしらあるものと想定されている。いや、輪廻転生も信じていなかったのではないか。ほら、人を見て法を説いたというし、周りが信じているから、その人たちに話を合わせたのではないか。あいにく、輪廻転生がないなら解脱もないわけで、生が苦しみで世の中が不浄なるものなら、とっとと自殺すればよいことになる。エピクテトスは「戸は開いている」(嫌になったら出ていけばよい、自殺すればよい) と言っているが、ブッダはこの手のことは言っていない。彼らの生に対する態度には似たところがあるが、これは大きな違いの一つである。

ブッダは、見られたことは見られただけのものであるし、聞かれたことは聞かれただけのものであるし、考えられたことは考えらただけのものであるし、誰かが為したとか、為さなかったとかもないし、一切はひとつであるとか、多様であるとかもない、すべては関係性によってそうあるときはそうあると見えるし、そうでなときはそうでないと見えるのだ、と考えた。これは、ウパニシャッド哲学の思想をシステム論に転換したものといえるかもしれない。その意味では、ブッダの思想は存在論的には素朴実在論 (物の本質はふつうにある) であった可能性がある。実在論的に素朴といっているのであって、思想が素朴という意味ではない。素朴どころではない。ここから空の思想が出てくるのである。

存在とは考えであり、だから夢もその一種だといった。存在は夢であり、夢は存在である。存在は幻にすぎない、と言っているわけではない。我々の存在の把握の仕方を分析すると、たとえ形而上学的には素朴な考え方をとったとしても、存在とは我々が素朴に考えているようなものではない、ということである。公園の黒猫も不思議の国のアリスも同様に存在として捉えるなら、気にかかるものこそ存在であり、それは心が生じさせるのである。

参考文献

  • ブッダの真理のことば・感興のことば, 岩波文庫 (1978).
  • エピクテートス: 人生談義 岩波文庫 (1958).