教典的読解と文法書的読解――ロックやルソーの読み方について
英文法書とは、現実の英語を観察して、その構造を整理して記述したものにすぎない。
その英文法書の記述を根拠に、現実の英語を否定することは馬鹿げている。それは文法書を「教典的」に読む態度である。
また実際の英語について目隠しされた状態で、英文法書だけを読んで「英語なるものを構想」することも無意味である。
英語を体得した人にとっては、英文法書は、学習のためというよりも内容の妥当性を確認するために読むものであろう。「敢えて説明すれば、このような複雑な説明になるな」と確認したり、あるいは「ここはこのような説明にした方がよい」と提案したりするような態度で読むはずである。
自由に慣れた現代人であれば、ロックやルソーなどの著作は、教典的に読むのではなく、文法書を確認するようなつもりで読んだほうが理解しやすい。
なぜなら、彼らの時代でも、自由社会は完全な空想の産物だったわけではなく、村や組合の取り決めなどにおいて、議論や多数決が行われていたはずであり、彼らはそうした実際の部分社会の運営を観察しながら、「人間の自由を侵害しない条件」を考えていたと思われるからである。
(――たとえばロックもルソーも、多数決をはじめとする集団的意思決定の真正な成立には、まず「一体性」が必要だとしている(*1)。敗者が勝者に自発的に従う気になるには一体性が要件だと彼らは見たからである(→*1)。この洞察は、人間や社会の観察に基づくものとして理解できる)
このように、ロックやルソーは、自由社会の条件を彼らなりに「説明」しているのであって、自由社会なるものを抽象的に「構想」していたわけではない。
たとえばヒュームのテキストは人間の認知を「説明」したものとして読まれ、「定義」として読まれることはない。そこでは、現実をどれだけうまく説明できているかどうか、すなわち現実とテキストの整合性が常に問われる。
ロックやルソーもヒュームと同じく、人間の認知に注意を払っていた思想家である。その彼らが、人間と社会を観察し、自由社会の構造を言語化しようとしたのである。したがって彼らの社会論を読む際には、ヒューム同様、現実社会の「説明」と整合性の観点から、まずは読むべきなのである。そのほうが、むしろ彼らの言いたいことを理解しやすい。にもかかわらず、現代の大学教育ではしばしば「教典」(自由社会の定義)として読まれている。それは読解の方向性が間違っている。JSミルのテキストも同じである。
ロックやルソーは自由社会を発明しようとしたのではない。
どのような場合に人間の自由は侵害されないのか、彼らはその構造(条件)を記述しようとしたのである。*2
(終)
*1) ロック『市民政府論』§95-99、ルソー『社会契約論』§1.5、§3.16参照。――彼らはそこで、一体性への同意が、契約のすべてであると言っていることに注意してほしい。一体性こそが自由民主社会の必要条件であると彼らはいいたい。なぜ一体性が自由民主社会の必要条件なのか。それは一体性があるときにのみ、多数決を含む集団的意思決定が、少数者の自由を侵害しないからである。なぜ一体性が認められるときには、少数者の自由は侵害されないのか、それは少数者が多数者に自発的に従うからである。このことは、次のような事例を考えれば理解できよう。
一体性のある多数決の場合は、少数者は多数者の決定に自発的に従う。しかし、一体性が崩れた場合、たとえば部外者が数人参加して結果に影響が出た場合は、負けた側は結果に従う気にならないだろう。もしその状態で結論を強制すれば、少数者の自由を侵害することになる。よって一体性が少数者の自由を侵害しないための必要条件なのである。 ※この話を掘り下げて考えたい人は「関連拙稿」を参照のこと。
*2) 補足説明:西洋では一部の支配者が定めた恣意的な秩序を、法律や道徳律として一般人に強制(自由の侵害)していた。そうした恣意的な秩序を否定して「人間の自由」を保障する基準としてロックやルソーが提示したのがLaw of Natureや一般意志である。註釈*1では自由について「少数者の自由」を中心に説明したが、それだけがロックやルソーの主題ではないことに注意。
(関連拙稿)
- 社会契約論・再考(1): ヒュームとルソーのconvention概念について
- 「多数者の専制」を回避する方法――ルソー『社会契約論』§1.5 *少数者の自由を侵害しないためには一体性が必要である理由